最終回 過去と未来


 この世に生まれ生きていくにつれ、私たちは「ただ生きる」だけではうまく生きていけないと知る。時間や経済、人間関係をやりくりする良識、社会制度といった概念を身につけなければ、社会を生き抜くことができないからだ。

 様々な概念と馴染み深くなるにしたがい、世間で繰り広げられているゲームのルールを理解し、それぞれの場にふさわしい振る舞い方を学んでいく。
 私たちが初めて出会う社会のモデルである家族においてもそうだ。おどけてみせて親の機嫌をとったり、兄弟姉妹の顔色をうかがってパワーバランスをはかったりと、選びようのない環境を生き抜くために何らかの役割を演じる。持って生まれた気質の上にそれぞれの演じ方で人格を築き上げた挙句、長じてそれが生来のものであったかのように自身にも思えてしまう。

 良くも悪くも私たちは何事も「習い性」にしてしまう柔軟さを備えている。それがかえってストーリーをなぞる生き方を自身に選ばせてもいる。
 だからと言って、ストーリーそれ自体が悪いわけではない。誰しもこれまでの歩みを振り返ると独自の足取りが見えてくるはずだ。平坦でもなければまっすぐでもない。道程は人それぞれだ。

 生きてきた経緯がストーリーを紡いでいる。それは「同じ川に二度入ることはできない」ように、本来は繰り返しが効かない。しかしながら人間は記憶の再現として可能にするようになった。
 どれほど臍【ほぞ】を噛み、地団駄踏むようなことがあったとしても、過去を取り返すことは叶わない。そのことは頭ではわかっていても自責と後悔を覚えるまでに至った筋書きを延々と思い返しては、同じような体験を繰り返し、責めを負う状態でい続けようとする。
 覚めない悪夢を見続けるような呪いをかけたのは他ならない自身であるのだが、その自覚を持たないまま己の境涯を嘆き、悔恨しつつ死んでいくことすら人間はしでかしてしまう。日々、常に新たな出来事が起きているはずの生がなぜ同じストーリーをなぞるドラマにすり替わるのか。

 おそらく人間は快を繰り返すことのみならず、苦の反復すら生きる上でのスパイスにしてしまうのだろう。強烈な痛みと快楽との弁別がつかないのは、刺激の強さにおいて両者が等しいからだ。それがために回帰のサイクルから離れられないのだろう。なんであれ人は同じパターンを繰り返す中に安定を見出す。たとえそれが安心をもたらすことはなかったとしてもだ。

 「こんなはずではない」と思って日々を過ごしている人は多いだろう。変わりたいが変わりたくない。アクセルとブレーキを同時に踏み込むという葛藤から離れられない。そのストーリーを生きる以外に選択肢がないようにどうしても感じてしまい、恐怖から新しい道を選ぶことを止めてしまう。
 この苦しみの原因は何なのか。いったい自分は何者で何がしたいのか。新しい自分として変わらなければいけない。そう意を決した途端、私たちは「自分と向き合わなければいけない」と、道理のわかったような顔つきをして、自分に言い聞かせるようになる。
 しかし、この「向き合う」という言葉が何を指すのかがわかっていないのだ。自分と向き合おうとすればするほど、己の前に壁として立ちはだかる。自分の中の認めたくない、いなくなって欲しい「私」が強固になり、行く手を遮る。
 当たり前だが敵対する見知った顔は私と同じ力量の持ち主であり、しかもこちらの手の内をよく知っている。これまでの自分を捨て去ろうという克己心によって打ち砕こうとするたびに、かえって相手を勢いづかせ、その都度こちらは手痛く敗北する。
 敗因は明らかだ。そもそも己に克ちたいという欲望が自分の弱さから目を背け、強くなろうとするさもしい魂胆から生まれているのだ。自分の中に偽りと嘘があるとわかりつつ変貌を誓っても成果は望めない。そういうやり方で自分と向き合い、問題を克服しようとすれば、かえって私は行き場のなさを感じる。果てはいったい何と向き合っていいのかわからなくなってくる。解決策を試みることですら、いっこうに希望の見えない同じことの繰り返しでしかなくなる。

 自分を責めることに慣れていれば、こうしたなんら展望を描けない状況にいたっても「向き合い方の努力が足りない」と、きまじめにも思ってしまうだろう。だが、よく考えてみれば、いつまで経っても努力が実を結ばないのは、発端の認識が歪んでいるせいかもしれない。自分を対象化し、分析し、客観的に捉えて「誤ったことを際限なく繰り返すどうしようもない私」を入念にこしらえるところに根本的な過ちがあるのではないか。

 「向き合う」とは相対することだ。自分の面前に他者がいれば、否応なくコミュニケーションが生まれる。いなかったことにはできない。仮に黙殺したとしても目の端にチラとでも映ったのであれば、すでに関係性は生じてしまっている。ましてそれが積年の懸案の解決を目指す相手であれば対話を行うほかない。
 たいていの場合、「克服」はそのように向き合おうとはしない。私にとって都合の良い「解決」をもう一人の私に押し付けることはあっても、相手の言い分を聞くことにはまるでならない。

 なぜか私たちは「相手の言い分を聞く」という、とても単純でいつでも始められることを怠ってしまう。見たくもなければ聞きたくもないことから目を背けさえすれば、いつか問題は解決するのだと思い込んでいる。
 自分が苦しみ、手放せないと思っているストーリーは、他ならない自分が生み出している。苦の原因をもう一人の自分に負わせ、痛みが消え去るのを願うのはフェアではない。
 私が切り離したがるもうひとりの私。それは自らが生きてきた年数とともに育ててきた、私という名の他者である。それと私とは異なる相貌をしてはいても、不可分の人格である。その「他者性」は、私が周囲との関係の中で育んできたものだ。
 つまり、他者性とは、私の中に存在する「私として表現されている他者」である。それは父であり母であり兄の面影を宿している。

 <私の中に存在する「私として表現されている他者」>とは、どういう姿形をしているのか。それを知りたくて3年前、父に2時間あまりインタビューした。これまで生きてきた中で父と会話した総計時間は2時間もないかもしれない。親密な時間をもったことのない間柄であったが、ごく単純に「聞きたいことがあるから時間をとって欲しい」と伝えたら、あっさりと承諾してくれた。
 驚いたことは他にもあった。ひとつは素直に父が質問に答えてくれたからだ。拍子抜けした。答えるのを渋ったり、重々しい雰囲気に終始するのではないかというこちらの予想は大きく裏切られた。

 これは葛藤と向き合う上でヒントになるのではないか。葛藤はアクセルとブレーキを同時に踏み込むようなものだが、それが可能なのは頭の中だけで完結しているからだ。
 実際に他者と関わるにあたっては必ず行動を伴う。しかも、その時には同時にふたつのことは行えない。父を前にして葛藤を持ち込んだところで、結局は「尋ねるか尋ねないか」しか行えない。尋ねないように尋ねることはありえない。おもしろいことに「ただ尋ねた」とき、自分の前に立ちふさがっていると思えた「私として表現されている他者」はただ答えてくれるという現象が起きた。

 私が聞いたのは「父にとっての母や子供の存在、つまりは家族とはどういう意味合いを持っていたのか」だった。父のストーリーを尋ねたわけだ。
 私は「自分は被害者だ」というポジションからストーリーを作り上げていた。けれども、父の話を聞いていくうちに明らかになったのは、父もまた自身を「被害者だ」と思っていたことだった。彼にとって、私は親に理解を示さない「加害者」であった。
 そして私にとって最大の発見は、父の人生にとって価値があったのは先立たれた妻であり、子供は重要なキャストではなかったとわかったことだ。
 私は「怒られるのは自分が悪いからだ」と被害者の立ち位置から意味付けし、ストーリーを組み立ててきた。だが、父にとっては怒りにそう大した意味はなく、八つ当たりも含めた単なる感情の発露でしかなかった。
 話を聞くにつれ、葛藤の源にあった「誤ったことを際限なく繰り返すどうしようもない私」「私が切り離したがるもうひとりの私」は、こちらの勝手な思い込みによって生まれたもので、実際には足場を持たない幻想だったと気づいた。
 家族としてひとつの事実を体験しながらも、それぞれに解釈が違うことを改めて知った。同じ時間を過ごしても異なるストーリーを生きているのだ。なまじ「同じ」と思うから、過度に期待し、依存し、「私は私である」ことに目が向かないのかもしれない。

 それぞれが生き延びる戦略から編み出した切実なストーリーがある。単なる思い込みや幻想だと頭で理解したところで、そこから離れるのはなかなか容易ではない。私も完全に手放したわけではないが、以前に比べて距離をもってストーリーを眺められるようになったと思う。

 距離を保つとは、いわゆる客観的な態度で自分と向き合うことではない。「そうありたい私」という理想と「直視したくない私」という現実の対立を生み出し、ひいては努力が実を結ばない関係性を両者に作ってしまうだけだ。そうなると解決すべき問題がはっきりと認識されず、混乱した状態から脱することができず、結局は葛藤を抱えたままではないかと思うかもしれない。
 むしろ「そうありたい私」と「直視したくない私」を分離させれば解決に至れると思い込み、客観的に振る舞いたがる自分に対して距離を保つべきなのだ。自分とストーリー上の自分を切り分けて考えない。自分の中の他者性を否定しない。私とストーリーを生きたがる私は違う。しかし、それもまた切実な自分自身であることを認め、包摂することだ。

 「自分と向き合わなければいけない」と誓ってみせる時に思い描かれる「自分」とは厄介な自己であり、過去である。しかし、私は今に生きている。今に生きている私と過去の私は異なる。そこで切り離した煩わしい私を問題として扱おうとすると、必ずこれまでの所業を数え上げることになる。それが苦痛の再現というストーリーをなぞる力動をもたらすのではないか。
 過去の己を問題として扱う限り解決は望めない。なぜなら過去は幽霊のようなもので実体がないからだ。今を生きている私にできるのは解決ではなく、過去の己の成仏を祈ることではないか。
 私にとって私は被害者であり加害者である。私は損ない、損なわれてきた。双方の立場として私は私の話を存分に聞かなくてはならない。そうすることで初めて過去とつながり、一体化し、私として十全に生きられるようになるのではないか。

 葛藤に悩まされるのは亡霊に取り憑かれているのとそう変わらない。重たい念を引きずった過去が現在の私を飲み込もうとする。その時、見失ってしまっているのは、過去が現在を刻々と浸すように、未来という未知もまた私に向けてやって来ているということだ。どちらを向くかは選択次第だ。
 亡霊が住むとはいえ、過去は既知ゆえに、それにすがれば一時の安心は得られる。と同時に自分が亡霊になることも意味するだろう。未来には何が起きるか皆目見当がつかない。だから不安を覚える。しかし、一寸先は闇ではあっても、未だ来ないが確実に迫り来る方に一筋の光明を感じる。それを可能性と呼ぶのだとしたら、生まれて生きていくとは、常に光明に向けて歩んでいくことではないか。

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尹雄大(ゆん・うんで)

フリーランサーのインタビュアー&ライター。これまでに生物学者の池田清彦氏、漫才師の千原ジュニア氏、脳科学者の茂木健一郎氏や作家の川上弘美氏、保坂和志氏、俳優の田中泯氏、ミュージシャンの七尾旅人氏、川本真琴氏、大川興業の大川豊総裁、元ジャイアンツの桑田真澄氏など学術研究者や文化人、アーティスト、アスリート、ヤクザに政治家など、約800人にインタビューを行って来た。ライティングに関わった書籍多数。著書は『やわらかな言葉と体のレッスン』(春秋社)、『体の知性を取り戻す』(講談社現代新書)ほか。
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