第十一回 恐怖の原点


 「どこにでもあるような家族の風景」と、ハナレグミが何気ない暮らしのかけがえのなさについて鼻にかかった声で歌うとき、私の脳裏に浮かぶのは、たとえばほとんど家に帰らない兄の部屋のあまりの汚さ、乱雑さに怒り心頭に発し、二階の窓から一切合切を放り投げる父であり、その仕返しに金属バットを持ち出し、父の部屋に殴り込もうとしたものの、私に阻止されて腹いせにリビングのシャンデリアを粉微塵に叩き割る兄の姿であったりする。

 所構わず怒りを噴き出す父と、それに対して怯えて目を伏せる私。それとは対照的に父の怒りに反応して激昂の度合いを増していく兄。それが私にとっての「どこにでもあるような家族の風景」だった。
 みんなそれぞれ自分の態度には正当な理由があると思っている。「なぜ理解されないのだろう」と本気で不思議に思ってもいる。

 ひとつの出来事を巡っての解釈は、家族であってもまるで異なる。互いの感情や思考を想像しようにも取りつく島がない。私がその「ないこと」に不足を感じなかったのは、自分の感情を押し殺していたからだろう。少なくとも、「これが普通の家族なのだ」とことさら思うこともなく、当然のものとして受け入れていた。

 シャンデリアが打ち砕かれてからしばらく、ショーン・ペンの初監督作品『インディアン・ランナー』を観た。無性に胸が苦しくなった。映画では、主人公の弟であるベトナム帰還兵のフランクが、破滅に向けてひた走る様が描かれていた。日に日に常軌を逸していく弟に、兄は心痛めていた。

 私は映画の主人公のような思いやりを兄に表したことはない。金属バットで暴れた兄に「勝手にものを捨てるなんてひどいよね」と慰めの言葉をかけることもなく、彼の面前で淡々とガラスの破片を掃き集めた。兄には、シャンデリアを破壊したことを責めるような行為に見えたかもしれない。
 生まれてこのかた、心通わすのとは無縁のそうした態度に疑問を持ったこともない。けれども、映画を見終えて思ったのは、無関心でいられるのは、兄との関係性、ひいては家族のあり方を直視するのを自分が避けているからではないか、ということだった。不都合な真実が現れるのを恐れているのではないか。映画はこれまで感じたことのない何かを私にもたらした。

 私はその頃、ボクシングに熱を入れていて、自宅のガレージで練習を行なっていた。いつものように汗を流していると、赤いフェラーリ・テスタロッサが派手なエンジン音を立ててやって来て、ガレージの入り口を塞ぐように止まった。何事かと訝しく思い車の方をじっと見ると、面相の悪い男が車の窓を下げるや私を睨めつけ「おまえ、○○か?」と兄の名を呼んだ。

 「違います。私は弟です」。そういうと男は「だったら兄貴に伝えておけ。あまり調子に乗んなって」。

 フェラーリは爆音を響かせて去っていった。私は『インディアン・ランナー』の結末を思い出して、身震いした。兄もまた映画と同様に、無軌道な行動の果てにもう戻って来れなくなるところまで行ってしまうのではないか。いったい何が彼を押しやり、捨て鉢な行動をさせているのだろう。そのとき初めて兄に関心を持った。

 前回で「否定されることがその人の唯一の評価となれば、当然それを生きる上での信念にしてしまう」と述べ、その上で「信念とは、生き延びるために養ってきたストーリー」だと記した。これは兄にも当てはまる。
 兄は両親の期待をことごとく裏切る存在として扱われていた。我が子であっても他人である。期待通りに育つわけがない。親が思い通りに息子を形作ろうとした結果、兄の個性は認められずじまいだった。おそらく彼が「愛されている」という感覚を味わったことは少ないだろう。母が異様に私を偏愛したため、彼はずっと飢餓感を味わっていたはずだ。
 兄は母の死に目に立ち会うのを避けた。「あと30分で息をひきとります」と医師に宣告されたにもかかわらず、「親戚に連絡しなくては」と、ベッドに横たわる母を一瞥することもなく、30分で往復など叶わないことがわかっていて家に戻った。臨終を見届けてからでも連絡は遅くない。あの時の兄の横顔が私の中で引き攣れを起こさせる記憶として、今なお残っている。

「我が子を愛さない親はいない」という。これにならって、「本当は愛されていたんだよ」と兄を諭す人がいるかもしれない。だが、親が子供にそうあって欲しい姿を願うように、子供も親に期待する。
 どれほど親が心から「愛している」と思っていたとしても、子供が「自分は望むような愛され方で親に愛してもらえなかった」と感じて過ごしてしまえば、愛に飢えることを主軸にした人生を選んでしまう。親も子も互いに身勝手な生き物なのだ。

 飢餓感があったとしても、「私は愛されなかった。だから愛することがどういうことかわからない。それゆえ愛されることも拒む」と、拒絶の態度が一貫していれば問題はさほど起きない。しかし、実際は愛情を受け取ることを拒みながらも求めてしまう。その矛盾が信念を育む。絶えず自らが「被害者」であり続けるところに立脚の地を確保しようとするのだ。それがこの社会を生き延びる上での初期設定になってしまう。

 愛情が得られなかった。それゆえ傷ついた。こういう経験は嘘ではない。その人にとってはまぎれもない現実だ。けれども仮に同じことを体験しても解釈は人それぞれだ。その人にとって紛れもなく起きた事実であっても、あくまで「そう感じられるもの」であって、現実そのものとは言えない。私たちが現実と呼んでいるものは現実感に過ぎない。 
 「被害者であり続ける立場の確保」というストーリーを目論むのは、「私は何も得られなかった。損なわれた」という自己憐憫だ。と同時に、決してそうした憐憫に浸る自分を許さない眼差しである。
 なぜならいかなる形でも自分を肯定するわけにはいかないからだ。常に自分は否定されるにふさわしい存在であると考え、だからこそ被害者であろうとし、自己憐憫に埋没する自分を罰する。どうあっても自分を肯定するわけにはいかないという力動は、怒りに縁取られている。ここに葛藤の源泉がある。

 怒りの根底には悲しみがあるだろう。「私は傷ついた」という悲しみと、「なぜそのような目に私だけが遭わねばならないのだ」という怒りを持続させること。それが生きる上での原動力となっているのならば、決して解決してはならないドラマが絶えず必要になる。そうして周囲ととり結ぶ関係は、愛されることを願いながら拒絶するという物語の再現に費やされるだろう。
 自分が培ったストーリーなど手放してしまえばいい。確かにそうではあっても、一人一人の人生には、こだわらざるを得ない背景があり、だからこそ盲点になり、その仕組みは当人に自覚されない。胸底の奥深くにしまい込んで、見ないで済んでいる葛藤が、案外その人を衝き動かしているものだ。
 真実を明らかにするのは怖い。今まで通り培ってきた信念に自らを委ねて生きるほうが安全だ。だから他人の振る舞いの瑕疵【かし】を暴くことには熱心でも、同様の情熱を己に向けることはしない。
 しかし、信念に依存するほどに、巧みに隠してきた悲しみはいよいよ募ってくる。朝目覚めた途端に「私」として意識されているものは、決して本当のことを言わないように演出された自己に過ぎないのかもしれない。それでも「私」は会社へ行ったり、友人とのつつがない会話し、普通に社会を生きてしまえるだけの現実的な力を持ってしまっている。今さら本当の自分として生き直すことなど恐ろしくて足がすくむ。

 葛藤を克服して、まともな人間になりたいとしばしば思う。それが成功しさえすれば、人生は好転するのではないかと期待してしまう。一方で、「まともな人間」という理想のモデルがこの世に存在しないことも重々承知している。「まとも」は極めて個人的な考えと感情に基づくものを社会規範に合わせてカスタマイズしたものに過ぎないからだ。

 こうした心の内に起きることは複雑過ぎて、どこから手をつけていいかわからない。自分と向き合うと言ったところで、自分を憐れむか罰するか以外に知らなければ、何をどうすることが向き合うことになるのかよくわからない。
 そうだとしても、立ち返る場所はあるはずだ。私の抱いた恐怖の原点は何だったのか。傷ついたこと。傷つくことを恐れ、それを回避する術を覚えたこと。いつしか傷つきやすさを武器にして生き延びてきたこと。それらがいかに私の習慣、価値観を生み出し、ストーリーを形成したのか。
 私が最初に感じた恐怖は他者から与えられた。しかし、以降は自分の育んだ恐怖が私を恐れさせてきたのだ。

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尹雄大(ゆん・うんで)

フリーランサーのインタビュアー&ライター。これまでに生物学者の池田清彦氏、漫才師の千原ジュニア氏、脳科学者の茂木健一郎氏や作家の川上弘美氏、保坂和志氏、俳優の田中泯氏、ミュージシャンの七尾旅人氏、川本真琴氏、大川興業の大川豊総裁、元ジャイアンツの桑田真澄氏など学術研究者や文化人、アーティスト、アスリート、ヤクザに政治家など、約800人にインタビューを行って来た。ライティングに関わった書籍多数。著書は『やわらかな言葉と体のレッスン』(春秋社)、『体の知性を取り戻す』(講談社現代新書)ほか。
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