第十一回 母が重い息子 その1


 金曜日の夜は同僚たちと飲みにいくというのが、3年前までのアキラさんの習慣だった。
 途中のターミナル駅で降り、安く飲める居酒屋横丁で終電ギリギリまでねばって酔って帰る、そんな日々のことを遠い昔のように思い出しながら、アキラさんは満員電車に押しつぶされそうになりながら自宅の最寄り駅に着いた。
 千葉県とはいうものの、家は十分都心への通勤圏内に位置している。大型店が林立する駅前を過ぎ、早足で10分くらい歩けば、もうすぐ3歳になる息子と妻の待つマンションに帰ることができる。その新築マンションは33歳のアキラさんにしては、ぜいたくな物件だ。入居者の多くは、40代で子ども2人という家族で、中には駅まで歩けるということで購入を決めた定年退職後の夫婦なども珍しくなかった。
 大手不動産会社による開発なので、近隣の建物の中でもいかにも高級そうな外観を誇っている。しかしアキラさんは近づくにつれてどんどん気分が沈んでいくのだった。

「パパを超さなきゃだめよ」

 似たような状態が過去に何度もあった。押しつぶされそうなのに、そのことを誰にも言えない。苦しいかどうかもわからなくなるくらいに追い詰められて、1日を過ごすのがやっとの状態が続く。アキラさんは、しだいに登校できなくなっていった中学2年の頃の自分を思い出していた。

 母親の受験準備の計画は、小学校の3年から始まった。それまではリトルリーグや水泳教室といった習い事に通わされ、「スポーツのできる子じゃないと男としてやっていけないわよ」という母の言葉のもとに外遊びを強いられていたアキラさんだったが、それが方向転換する。公文や楽しく学べる国語教室に通うようになり、4年生からは大手進学教室に入った。
 その塾は徹底した成績別クラス編成で、らくらくと高偏差値をテストでたたき出す子どもたちは運動部のような明るさを振りまいていたが、母親が髪を振り乱して予習復習に励む姿はアキラさんに恐怖を与え、自分がぬかるんだ道を永遠に歩き続ける兵士のように思われた。
 アキラさんは第一志望には届かず、私大付属中学に合格した。そのころから母親は「いい? パパを超さなきゃだめよ」と言い含めるようになった。父親は国立大学の商学部出身で、財閥系化学プラントの会社に勤めていた。母親は関西の中高一貫女子大学出身で、その学校名が自分のブランドだった。友人たちには社会で活躍している著名な女性も多く、そのひとたちの名前を挙げながら、自分もそうなれたはずなのにパパにだまされて結婚したのが間違いだった、と言い聞かせるのだった。アキラさんは幼いころから、父は母をだまして結婚したのだと信じてきた。

 中学校は表向き自由な校風だったが、生徒間のいじめには陰湿なものがあった。アキラさんはなぜかいじめのターゲットになりやすく、中2のときに体育の時間のあと更衣室で下着を下ろされ、囃したてられるという出来事が起きた。そんな性的いじめの経験を誰かに訴えるなど考えもつかなかった。成長が遅くクラスの雰囲気に乗れない自分だからこうなったのかもしれない。そう思うと登校する際に心臓がドキドキしたり、汗が出るようになった。それが不登校のきっかけだった。
 母親は、まさか自分の息子が不登校になるなんてと騒ぎ立て、父親はすべては母親が過保護なせいだと言い募った。深夜まで大声で互いを責めあう両親の声を聞きながら、自室でアキラさんはこのまま消えてしまったらどれほど楽だろうと考えていた。

 人一倍エネルギッシュな母親は、そのまま黙っているようなひとではなかった。中学校に乗り込み校長と交渉をし、いじめがあったことを認めさせた。アキラさんは却って学校に行けなくなってしまった。今でも中学校の最寄駅を電車で通過するたびに動悸がするほどだ。
 母親は、不登校の世界では著名なフリースクールを見つけて、アキラさんを通わせた。学校制度や管理的な教育に対するアンチを唱えるそのスクールは、志の高い不登校児が集まっており、母親は息子が「並みの不登校」ではないことで満足しているように見えた。
 しかし、アキラさんはそこで多くの友人を見つけることができた。父親を超すことはできなかったものの単位を取得し、浪人の末に有名私立大学に入ることができた。母親がまるで自分の成果であるかのように喜んだのは言うまでもない。
「今日からは久しぶりに街を胸を張って歩けるわ」
 そう告げた母を見ながら、アキラさんはこれまでずっと積み重なった負債の一部を少しだけ返済できた気がした。

何のために自分は苦しんできたのか

 アルバイトにバンド活動と充実した生活を送るアキラさんを見ながら、母親はひそかに進路をいくつか探っていた。
 大学二年の夏、警備員のバイトから戻った息子の顔を見て、母親は真剣な顔で言った。
「これからは資格の時代よ、アキラの大学では司法試験は無理だけど、税理士か公認会計士はどうなの? 社労士っていう手もあるわ」
 不意を衝かれて言葉もなかったアキラさんは、突然母親に怒鳴った。
「もういい加減にしてくれないか! 僕はこの大学が好きなんだよ」
「パパを超せるかどうかなんて、どうでもいいじゃないか!」
 そう叫んだ自分にアキラさんはびっくりした。もっともっと言いたいことがある気がしたが、堰が切れてしまうといったい自分が何をするかわからなくなり、それが怖くて沈黙した。顔色も変えず、平然としていた。
「あらそうなの? じゃ、自分で選んでみなさいよ。泣き言を言っても知らないから」
 凄みのある声でそう告げると、部屋を出て行った。

 落ち着いてからアキラさんは、自分がほんとうに母に言いたかったことは何なのかを考えてみた。小学校からずっと母親に先導されて生きてきたが、大学に入って初めて自分で生きていると思えた。自分の関心がどこにあるか、自分がどんな人間なのかが、少しずつ見えてくるようだった。もやがかかりぼんやりとした息の詰まりそうな世界から、さまざまなことがくっきりと輪郭をもって立ち現れる世界へと変化してきた。
 自分のために東奔西走し、フリースクールを見つけ、大学入試のために必死になって栄養満点の料理をつくってくれた母のことを、アキラさんは全面的に信じていた。しかし、先ほどの言葉で、アキラさんをまったく理解していなかったことがわかった。
 とすれば母親は、どこに向かって自分を先導してきたのだろう。日々父親を超せなかった息子である自分を責め、だまされて結婚させられた母親の唯一の希望を打ち砕いたことに呵責を感じてきた。長年背負ってきたその負債はいったい何だったのだろう。
 アキラさんは、これまでの母親像が音を立てて崩れていくような気がした。

 その一件がきっかけとなって、アキラさんは家を出た。演劇活動やバンドに熱中している友人たちが応援してくれ、バイトを掛け持ちしながらそれから2年間は家に帰らなかった。大学は中退することにしたが、後悔はなかった。映画に出会ったからだ。これからは好きな映画づくりに集中できるとわくわくしていた。
 いくつかのバイトを経て、映画配給会社に友人の誘いで勤め始めた。やっと自分で部屋を借りられるようになったので、ずっと気になっていた母親に報告をしようと思い、久々に実家に戻ってみた。勇ましく家を出たものの、母親への思いが急転直下で割り切れたわけではない。ときどきふっと少年時代や不登校時の自分を思い出すと、当時の母親の姿が浮かび無性に悲しくなった。引き裂かれるような思いを抱えながらも、友人たちにそのことをひと言も話すことができなかった。

衝撃のひと言

 少しは自立できたことで自信もついたし、母親もさぞかし心配しているだろうと考えた。時が経てば自分のことを理解してくれているのではという期待もあったので、思い切って実家を訪れることにした。
 ところが驚くようなことが待っていた。母親はぐんと若返っていて、服装も髪型も変わっている。
「ママは毎日ジム通いで忙しいのよ、筋肉ついたでしょ、ほら」
 スキニージーンズを履いた右足のすねを、アキラさんの眼の前に突きだして、母は自慢げな顔をした。息子の不在など気にかけてもいない。この2年間がなかったことにされてしまうような空気にくらくらしながら、アキラさんはこわばった笑顔でうなずいた。
 そんなアキラさんを一瞥した母親は、驚くような言葉を吐いた。
「どう? 映画のほうは見通しついたの?」

 いつのまにか自分の生活状況が母親に知られているのだった。どうやって調べたのだろう、いやこっそり監視されていたのだろうか……。
 ゆるふわのパーマをかけてギャルのようなかっこうをした母親が、薄気味悪いどころか、恐怖に近い存在に思われた。
 早々に退散したアキラさんは、帰路しばらくは混乱が収まらなかった。そして、とにかく実家に近寄らないようにしようと決心したのだった。

 次回はなぜアキラさんがマンションに住むようになったか、そこに母親がどのように介在したかについて述べたいと思う。

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信田さよ子

臨床心理士。原宿カウンセリングセンター所長。アルコール依存症、摂食障害、ドメスティック・バイオレンス(DV)、子どもの虐待などに悩む本人やその家族へのカウンセリングを行っている。著書に『母が重くてたまらない』『さよなら、お母さん』(いずれも春秋社)、『コミュニケーション断念のすすめ』(亜紀書房)、『傷つく人、傷つける人』(ホーム社)、『家族収容所』(河出文庫)、『家族の悩みにおこたえしましょう』(朝日新聞出版)、『父親再生』(NTT出版)、『カウンセラーは何を見ているか』(医学書院)、『依存症臨床論』(青土社)、『アディクション臨床入門』(金剛出版)など。
原宿カウンセリングセンター http://www.hcc-web.co.jp/

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