第十一回 「知性」は止まれない――不安定・動き・無意識から考える


■山道という不安定さに飛び込んでみる  先日、佐賀へ物見遊山に訪れた帰りがけ、風土記にも登場する奇岩で有名な山に寄ったときのことです。登り始めてしばらくして気がついたのは、ふだん僕の歩いている道は「平面」だったのだなという、きわめて当たり前の事実でした。
 山道に向かうと地面は「面」とはいえ、湾曲し、激しい隆起が織りなしており、平らなところはほとんどありません。おまけに胸を突く勾配には拳や頭くらいの石が散らばっていましたから、靴は面ではなく足がかりが可能な「点」を中心に進まないといけません。多少整備されているとはいえ、ほぼ剥き出しの自然においては、面ではなく立体的な環境それ自体と向き合わなくてはならなかったのです。
 それでも、往きの登りはまだよかったのです。

 足場が悪いうえに、脚にかかる自重とのバランスをとる必要があるため、下りでは、一歩ごとに体力を消耗していきました。
「ここで歩きながらスマートフォンをいじるなんて絶対に無理だし、そんなことをするのは曲芸みたいなものだなぁ。都市にいるような感覚はまるで通じないや」
 そう思った途端、はたと気づいたのです。

 僕はなぜかアスファルトを歩むような安定を自らに求め、それを再現すべく注意深い足取りで山を下っていたのです。ここには勘違いがありました。つまり、いまここにないものを感覚的に探ってしまっていたわけです。そうしてみても探り当てられるのは「何か普段とは違う」という落差だけです。まったくとんちんかんなことをしていたのです。

「これは違う。いま自分の置かれた環境に合わせて歩みを進めてみよう」
 と仕切り直し、歩みを改めると、さっきまでの「よいしょ、よいしょ」と踏ん張って、自分の足なのにわざわざ重たく下ろしている感じがなくなりました。
 さらにそれまでは靴を履いている感じがありありとあって、靴底で堅い石や木の根を踏んでいるという自覚があったのです(なんだか当然すぎることを言っていますが)。
 それが環境に合わせて歩こうとしていると、いつのまにやら「あれ、ちゃんと靴を履いているよな?」と思うくらい、足裏で直に山を捉えているような感覚になってきたのです。それに靴を履いた足を動かして下りているのではなく、「まるごとの自分」がただ動いているとでも言いましょうか。明らかに足取りが軽くなりました。
 さっきまでの眉間にしわ寄せて足元を見て、注意深く歩くといった重々しさ、仰々しさが消え、なんだか楽しくなってきました。

 そこで思い切って、段差に足を慎重に下ろし転ばないように動きを止めていくのではなく、千日回峰行で山を飛ぶように駆ける行者よろしく、飛び降り、その勢いのまま点でしか捉えられない凸凹の道を下ってみました。駆けながらわかったのは、地にしっかり足をつけないほうがめちゃくちゃ楽に下れるということでした。
 子供の頃からインドア派でしたから、山道を駆け下りるなんて初めての体験です。大人にはなりましたが、思わぬ発見にうれしくなってキャッホーと叫んでしまいました。あまりに楽しかったので、飛んで着地する際に回転したり、といろいろやってみました。

 街中の道路と同じような安定を山で求めたところで得られないのですから、どこまでいっても「かのような動き」、いわばパントマイムじみた動きにしかなりません。一方、いま自分のいる不安定な山道を感じ、ただ歩くことが凸凹した道の高度な計測であり、それが環境への適応になっていく。この発見がとにもかくにも非常に愉快でした。
 しかし山道を抜け、再びアスファルトを歩き出した途端、奇妙な感覚に襲われました。駆け下りることで体に生まれた軽快感が失せ、異様に重く感じられるようになったのです。どうやら安定した平面を歩き出すことで、かえってそれが不安定に感じられるようになったようです。
 この差はとても印象的でした。

 さて、今回はこの山道での体験をもとに「知性の原点とは何か」について述べてみようと思います。これまでの連載で言葉はどこからやって来るか。どのように僕らは言葉を使っているか、についていろんな側面から書いてきました。
 では、その言葉を駆動する僕らの知性とはどういうものなのか。
 これについて考えていきます。

■荒れた山道でスマホをいじる不自然さはどこからくるのか  山を降りて平坦な道を歩き、舗装された道路を車で走る。いつものような日常に僕は戻りました。道路にかぎらず、現代的と呼ばれる暮らしはおおむね平面的な出来事で構成されています。住まいがそうですよね。四角四面で構成されているし、最近はバリアフリー化が進み、細かい段差すらも解消され、平面化が進んでいます。
 環境だけでなく、見渡せば生活そのものがフラットになりつつあります。
 交通機関の遅れはサービスの抜かり、業績未達は管理ミス。どうやら僕らの暮らしにはあの山道のような足取りを予測不能にさせる起伏があってはならないようです。
 しかし、あってはならないからといって、どんなものごとにおいても、不確定なところを完全になくすことはできません。
 「これが現実だ」とコントロール可能なように思っているものは、あくまで現実の断片でしかありません。でも僕らの意識は、認識可能なそうした断片・局部を全体だと思ってしまいがちです。そういう離れ業をやってのけています。この意識の働きはときに厄介なものなのです。
 この厄介さについてまずは明らかにしていきたいのです。

 ちょうど山の中でスマートフォンをいじりながらの「ながら歩き」をするのは曲芸だというようなことを先に話しました。これを例として、意識の問題について考えてみたいと思います。
 曲芸というからには難易度が高い。それに挑戦したいかというと、僕の場合、まったくそう思えなかったのです。ポケットからスマートフォンを取り出す気にさえにならなかった。皆さんも機会があれば、山中で試みてください。一歩ごとに状態が変化する不安定な環境の中で、スマートフォンでゲームしたり、メールしたりすることが、きっとひどく奇妙で場違いな行為に感じてしまうと思います。
 どうしてそう感じるかというと、それが現実に即した所作ではないからです。

「そりゃ険しい道でゼーハーしているときにネットのおしゃべりなんかまるで役に立たないから見たいとも思わない」
「でも都市には都市のリアルがあるわけで、活用する場所を間違えているだけ。違うものを比べても仕方ないでしょう」と思う人もいるでしょう。たしかにそうです。
 でも僕は「バーチャルな世界とリアルは違う」とか「現実といっても人それぞれ、さまざまにあるよね」と言いたいのではありません。

 山中でスマートフォンをいじることに必然性を感じられないのは、「道が険しくて転びそうでーす!」とツィートすることがバカバカしいのではなく、スマートフォンを手にしたときに訪れる意識のあり方や感覚が、いま自分のいる環境にまったくそぐわないからです。

 足元が不安定な道がこの先も続いている。どういうルートをたどればいいか。全身で状況を把握しなくてはいけないとき、感覚はひとつに固執できずあらゆるところに向かっています。注意を絶え間なくあちこちに投げかけつつ、全身全霊で環境と向き合っている。これはあちらこちらに気を取られるといった意識散漫とはまったく違います。むしろ意識は静かにしておかないと危ない。
 ところがスマートフォンに向かう時はどうでしょう。意識がきゅっと縮こまると同時に散るような感じを覚えませんか。そのままの状態で歩くと周囲のことはあまり目に入らなくなります。画面の訴えかける情報のほうが、実際の体として存在している事実よりもリアルに感じるからです。それだけ意識が一点に集中していると思われがちです。
 けれども、そういう没頭は意識が散乱した状態に取り込まれているだけのことです。そんな散漫さで山の中にいるのは感覚的に耐えられない。だから手にとりたいとも思えなかったのです。
 散漫というとネガティブな響きに聞こえるでしょうけれど、僕は情報技術の発達をマナーや道徳の乱れと結びつけるような野暮なことをしたいわけではないのです。それが非常に便利で快適で魅力的な技術であるがゆえに、人の根幹にある知性とは何か?を問とうとするとき、そこから目を背けさせてしまう強烈な力があると言いたいのです。

■リアルとバーチャルの狭間にある身体/性  平面化された暮らしがもたらす安全・快適・便利さの中で、僕らが重んじるのは意識です。物理的に自分を阻む障害は限りなく失せていくのですから、「思ったとおりのことが実現できてなんぼ」という世界観が当然のものと考えられていきます。
 実際、僕らの暮らしは「意識できるもの」で形作られ、どんどん思った通りのこと、意のままになるように、危険や不快、不便なものを物理的に是正、排除していくようになりました。
 自分で注意しなくても車間距離を保つ車が開発され、ピザは頼んでから30分以内に必ず届けられ、犯罪防止のために常に監視カメラが街中で作動している。これが人の意識がもたらしたフラットな現実で、意識はどんどん拡張していきます。インターネットはまさしくそうですよね。この世界では思いつき(アイディア)がビジネスに、想像できることが現実になっていくのですから、意識が現実を構成するのだと思っていても不思議ではないでしょう。

 こうした意識の広がっていく世相を「身体性の喪失だ」と憂う人がいます。この文言には「リアルとバーチャルの区別がつかない」ことへの警告が込められているのだろうと思います。
 かつて僕も「身体性」というキーワードを多用していたことを踏まえて言いますと、身体性がそもそもバーチャルなのです。ですから意識の拡張と「身体性の喪失」とはバーチャルとリアルの対立ではなく、バーチャルに関する解釈の違いです。
 なぜかといえば、身体性とは僕らが「体」に当て込んでいるものの見方を通して見えた像であって、決して「体」ではないからです。身体性とは鏡に映った自他の姿を見て、それについてあれこれと言うようなものです。
 一方、身体性ならぬ「体」を喩えるなら「僕らの顔」になります。それはたしかにあるのですが、自分の顔を自分で直接見ることはできません。いやいや鏡に映せば顔が見えるでしょう? と思うかもしれません。しかし鏡の顔は反転しています。そうして映った顔はリアルでしょうか? それはよくできたバーチャルであり、リアリティのある像でしかないでしょう。もっともリアルなのはどうやっても直接自分の目で見ることができない、けれど確かに存在する顔のほうです。
 僕たちは意識をもってしてはリアルに到達することができないのです。

 意識の拡張は自分の画像を加工編集することにも似ています。発端がリアリティ=「よくできたリアル」なので、画像上においてリアルとバーチャルの境目は曖昧です。だからつい「ここをもうちょっとリアルにしたいな」と「よくできた」感をいじりたくもなります。ときにそれが創造だと思ったりもするのです。

 考えてみれば、人は「よくできたリアル」にずいぶん昔から馴染みがあります。言葉も文字も貨幣も「それではない何か」「本物そっくり」なものです。

 どこまで正確に言及しよう・表現しようとしても、概念=意識を介在せざるを得ないため「よくできたリアル」にしか行きつかない。僕らの脳はそういうバーチャル・リアリティに適応した進化を遂げているとも言えます。
 そうなると「意識の拡張は進化の自然の成り行きだ」といってもいいのかもしれません。でも、僕はそういう無邪気な言説に与したくはないのです。いま僕らの日常世界に起きていることは、意識の広がりというよりは偏重です。そして僕らはその鈍感さに胡座をかいているように思えます。問題は身体性の喪失ではなく、体の無視であり、それが意識にのぼらないことにある。

 意識が重んじられる世の中では、体は無視できてしまえます。たとえば体調管理に健康増進と、他ならぬ自分の体に対して何かの事業に使われるような言葉を平気で用いることに僕らはあまり違和感を覚えないでしょう。そのように体がコントロール可能だと思っているのは、意識の都合に体を合わせているからです。
 本当はこちらの都合に合うわけがないのです。
 あなたがどれだけ意識しようが、食べた物の消化を早めることはできないのです。爪や髪は勝手に伸びてきて、眠くなったらあくびが出ます。それらは自然の運動です。では、意識にとって都合のよくないところはどうしているかといえば、無視しているのです。

 ところが生きている限り、本当は体を無視できません。簡単な話、体には限度があり、それを無視したら死んでしまいます。だから僕らは無視ではなく、無関心を装っているのです。それが可能なのは、「意識で自分の体をコントロールできる」、そう思い込めるような、安全を確保された環境のもとで暮らせるからです。それが意識の拡大と現実が等しいと思える、フラットな社会ということでしょう。
 意識の拡張の火種は、ひょっとしたら人類誕生と同時に抱えたことかもしれません。かりにそうだとしても、意識の拡張礼賛を僕がためらうのは、分別のつき難いリアリティとリアルを弁えるのが人間の知的挑戦だと思うからです。単純に意識が拡大していくことは知的な広がりを保証しないのではないか。そう思っているからです。
 何より意識の拡張が忘れているのは、僕らが意識できるのは止まっているものだけだという事実です。対象化するには物事を止めるしかない。しかし、この世界はひとときも止まることはなく運動しています。
 運動それ自体を確認することはできないのですが、それこそがこの上ないリアルです。止まらないはずのものを「止まったもの」として捉え、それを広げて見るのを意識の拡大と僕らは呼んでいる。本来はありえないことをしているのだという自覚が伴わないのだとしたら、拡張とは名ばかりの散漫になった互いの意識を見て、それを現実と呼んでいるに過ぎないのかもしれません。
 なんだか意識が悪者みたいに書いていますが、事実、人は意識をもっているのでいいも悪いもありません。

■リアルとは何か  では、いったい人間にとって何がリアルなのか。そもそもリアリティとリアルの分別がつき難いのであれば、何をとっかかりにすればいいのでしょうか。僕は意識ではなく、体を通じて見ていくしかないのではないかと思っています。

 山道の体験でなにより愉快だと感じたことがあります。時間も空間も平面的に構成された暮らしの中で、意識的に何かを行うことはとても重要です。意識的に何かを行おうとするとき、必ず最初に解があり、ボタンを押すように解法を実行しようとしています。しかし、山ではそれが一切ムダだと気づかされました。
 先述したように山を下りながら「転けないように」と足場を確かめていたときの、その基準は街中での安定でした。舗装された道ではないのに、そのような安定を求めても得られるわけがありません。それを「パントマイム」とたとえたのは、「街にいるようにはうまくいかないことだけは知っているかのような足どり」といった、非常にややこしくもぎこちない動きを行っていたからです。予測の実行は常に自分のいる環境にはそぐわない「かのように」に向けて体を動かすことになります。

 意識した振る舞いというのはある意味で、すべてパントマイムかもしれません。不自然な、誇張された、どこかに角のある動きがそこに生まれます(もちろん素晴らしいパントマイムにおいては誇張されてはいるけれど、なめらかで角のない人を魅了する動きが表現されています)。
 下山し始めてしばらくの間、僕は、「気をつけなくてはならない」という演出がなされたぎこちない動きをしていたわけです。それに気づいたとき、途端に体が軽くなり、快活になったのは、意識がまといつかせる「転んだらどうしよう」「危ない」「バランスが取れない」といった不安・恐怖から解放されたからだと思います。だから楽しくなったし、体が軽くなったのでしょう。
 何かのように体を動かす。それは意識や身体性が得意とすること。リアリティのあることです。だけどリアルではない。
 人間にとって何がリアルかそうでないか判別がつきにくいとは、身体性と体を混同しがちだということです。両者の区別がつき難いのは、意識の上では分別がつかないからでしょう。意識して取り組む限り、意識された体やその動かし方、身体性しか見えてこないのです。

 体が見えてくるのは、たとえば危機の迫ったときです。「このままでは転んでしまう」と僕は危機感を抱きました。こちらが選択しようもないからこそ危機なので、否も応もありません。うまい歩き方やいつもの歩き方が通じない。ならば、それらを捨てるしかないと思い切ったとき、体がせり上がってきた。山道をただ駆ける。凸凹をただ感じることがリアルに応じることになっていたのです。このように感覚によって状況に「応じる」行為は非常に高度な計算で、意識的には行えないことです。

 僕らは意識の拡張とその実行が知的な行為だと思っています。けれども知性の根幹にあるのは「意識的に行わずとも生きている」という事実です。加工編集することなく存在している体。ここに戻ることが、人の知性とは、ひいては人が存在するとは何かを問う関門になるのではないでしょうか。

 意識は物事を止める。あるいは止めたものしか意識・認識できない。しかし世界は変化している。体もひとときも止まることはありません。つまり体は運動しています。
 この運動は意識からすると無秩序に見えます。なぜ僕らは存在しているのか。しかもひとときも留まることなく動き続けているのか。それがまったくわからないのに平気で存在しているのですから。
 けれども存在し続けていられるということは、無秩序ではないまとまりがあるからこそです。それを意識化できないだけです。

■体が知る、ということ  僕らが体に戻る方法、つまりリアルに向かう方法はいくつかあります。たとえば、新たな体験をしてみることです。そんな簡単なこと?と拍子抜けするでしょうか。たしかに簡単ではあります。しかしながら新たな体験に踏み出すには勇気がいります。
 体験の「験」とは「ためす」という意味です。体をもってためしてみる。しかも新たな試みとなればどうでしょう。これまで身につけた見聞や知識が通用しない場に出て行くということです。
 あなたの培ってきた社会的地位や体験の一切がまるで考慮されない場に出て、素っ裸の力を試されるとしたら? それは恐ろしいことです。怖くて足がすくむ。それが怖いから、人はすでに知っていることに、権力に、多数派の意見に、いとも簡単に与し、他人や状況を操作しようとするのです。
 その怖さは、まるで自分が無力な幼子に戻されてしまうかのように感じることから生まれてくるように思われます。見るものすべてが初めての体験で、あの、泣くことしかできなかった時代を悲しい屈辱として記憶しているからでしょうか。
 しかし、実際に幼子だったとき、僕たちは無力だったかもしれませんが、その初めての体験に恐れおののいていたのでしょうか。

 僕たちはいつしか知ることが知的な行為だと思い、言語的に理解し、「すでに知ったこと」の範囲を広げようと努めてきました。その範囲の中は安全で、次第にその範囲から外に出なくなっていきます。言葉によって世界を認識することが明晰さだと考え、言葉越し(=「よくできたリアル」な像)に世界を見るようになりました。
 しかし、ここで言葉以前について思い返してみたいのです。身近に幼子がもしいるようでしたら、彼/彼女たちをよく観察してみてください。
 彼/彼女たちはちょっとした光の加減、音、などにも敏感に反応し、しきりと手足をばたつかせ、そして手にものが触れるとぎゅっと掴みます。そして放します。指を差し出すと、筋肉も骨もまだ発達していないのに、予想以上の力で掴んできます。
 さらに観察していくと幼子がさまざまなものを掴んだり、放したりをくり返している様子が発見できるはずです。僕は、この振る舞いこそが、原始的な体験であり、知性にとって体が不可欠である証ではないかと思います。
 ものを掴むことで「ある」を知る。放すことで「ない」を知る。そしていっそう重要な出来事がこのとき起きているのではないかと思うのです。
 それは「“ない”ことが“ある”」という極めて抽象的な存在の把握の仕方を、手の開閉という運動の中で知覚しているのかもしれない、ということです。行うことが知ることで、知ることは行うこと。このあいだに予測も答えも存在しない。
 僕らがまだ言葉を知らなかった頃、つかんだモノと自分の間には「こちらは指だ」「こちらはおもちゃだ」といった具合に分離は生まれていませんでした。つかんだときにモノと自分は一体になっていた。そうして体として知っていったのです。そのとき、行為することはそのまま世界を認識し、一つになることだったのです。行為するごとにそれは新たな試み(体験=体をもって験す)となり、体まるごとで事物を知っていきました。

 言葉によって均されることのない世界は起伏に富んでおり、生きるとは、あの隆起した山道にも似た姿だった。
 試してみて応じる。
 その行為が知ることと不可分でした。

 幼子に戻ることはできない。意識をなくすこともできない。何がリアルか判別つき難い人間がこの世を生きるとは、本当のところを知らないまま混乱のうちに生を終える。それだけが確かだということかもしれません。
 体に戻ることは「人が存在するとは何かを問う関門になる」と述べました。それは何が本当なのか、リアルなのかがわからず、終始混乱している人間が立ち返るべきところだと思います。それは幼子の時代を理想に感じてノスタルジーに浸ることではないでしょう。
 あの頃に戻れないことは確かです。ただ体はあの頃からここに断続することなく存在しています。運動しつづけています。それが生きているということです。
 体は問いかけを待っています。意識で濁らせることなく、自己に向かうとき、何をいまここでなすべきか。答えではない「応え」という最適な計測を体は見せてくれるのではないかと思うのです。

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尹雄大 / Yoon Woong-Dae / ユン・ウンデ

フリーランサーのインタビュアー&ライター。これまでに生物学者の池田清彦氏、漫才師の千原Jr氏、脳科学者の茂木健一郎氏や作家の川上弘美氏、保坂和志氏、俳優の田中泯氏、ミュージシャンの七尾旅人氏、川本真琴氏、大川興業の大川豊総裁、元ジャイアンツの桑田真澄氏など学術研究者や文化人、アーティスト、アスリート、ヤクザに政治家など、約800人にインタビューを行って来た。ライティングに関わった書籍多数。
http://nonsavoir.com/

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