第一一回

チャムスから綏化[すいか]への避難

 8月9日にチャムス(佳木斯)中学の解散式を終えた後、溝上は頭を抱えた。
 学校が解散するほどの緊急事態なのだ。「家族の元へ帰り、避難するように」と言われても、どうしたらいいのかわからない。中学生が自由に移動する手段は限られている。トラックの荷台にのせてもらうか、それとも数十キロの距離を歩いて帰るかである。満州人たちの標的となり袋だたきに遭ったり、強盗に襲われたりする可能性だってある。帰りつくことに成功しても、家族と再会できるとは限らない。
 ほかの寄宿舎生とともに寄宿舎に戻り、避難態勢を整えるための準備をした。溝上にしても、ほかの者にしても自宅住まいではないから、私物は少ない。持って行けるものはたかがしれていたし、たくさん詰めすぎると移動がやっかいになる。何を持って行くのか、溝上は私物を吟味し、カバンにつめていった。
 先の見えない未来に不安を抱えていたからか、屋内の雰囲気は暗く、厚い雲で覆われた空のようにどんよりとしていた。勤労動員作業をしなくてもいいという解放感はあった。しかし、それよりも学校がなくなったことから来る虚脱感、これからどうなるのだろうかという将来に対する不安が溝上の心を支配していた。

 陽の高い日中、寄宿舎に軍服を着た男性が訪れ、身支度をする寄宿舎生たちに高圧的で張り詰めた声で呼びかけた。
「松花江の埠頭でジャンク(船)への弾薬積み込み作業をせよ」
 男の正体は指令を伝えるためにやってきた関東軍の兵士であった。関東軍の撤退のため、寄宿舎生たちを使おうとしたのである。名残惜しさを感じる余裕などない。寄宿舎を離れ、速やかに現場へと急行する。目的地である松花江は大河であった。黒龍江(アムール川)の支流でしかないのに川幅は数キロもある。
 物資輸送の現場に到着すると関東軍兵士の監督の下、さっそく作業に取りかかった。
 それまでの動員とは作業の目的が決定的に違っていた。飛行場建設や農作業は戦争に勝つための動員であったのが、この作業は部隊を撤退させるため、つまり事実上の敗戦処理のためといってもいい作業であったのだ。
 その日、ソビエト連邦は対日参戦を宣言、満州や樺太から攻撃を開始した。それを受け、関東軍は防衛線の大幅な後退を決定した。大連・新京(現在の長春)・図們[ともん](満州国と朝鮮の国境の町)という三角線に囲まれたラインよりも北にある地域から部隊を引き揚げ、作戦の立て直しを図ろうとしたのである。すでに勝つ見込みはなく、事実上の敗走を意味していた。北満に住む日本人は関東軍の作戦の影響を受け、人生を大きく狂わされはじめていた。そんなことは無論、溝上たち寄宿舎生たちは知る由もなかった。

 9日の夕刻、弾薬の積み込み作業を終えた生徒たちに次の指令が下った。
「明朝、避難の準備をして憲兵隊へ集合せよ」
 それはチャムス配属の憲兵隊による出頭命令であった。彼らの身柄は憲兵隊のもとに置かれることを意味していた。
 寄宿舎での最後の一夜を過ごした翌10日の朝、溝上たちは憲兵隊の建物に出頭する。対応したのはまだ20代の若い憲兵中尉であった。若いのに権力を振るうことのできる立場を任され、自分よりも年齢も位も下の学生たちを前に偉ぶってみたくなったのか。中尉の態度は理不尽なものであった。
「以後、オマエたちはオレの指揮のもと、避難民の警護にあたる。オレの命令に従わぬ者はこの拳銃で射殺する」
 中尉は腰に差していた拳銃を抜いて見せ、生徒を威嚇[いかく]した。撃たれれば確実に当たる距離である。目の前で拳銃をちらつかせる荒っぽいやり方に怖じ気づいた寄宿舎生は黙り込んだ。
 訓練を受けた兵隊であれば、銃の扱いに慣れていて、拳銃で脅されても簡単に怯んだりはしなかったはずだ。同年代の者に比べてませているとはいえ、溝上はまだ十代前半の子どもである。小さなときから、海軍にいた父親の話を聞いたり、立派な皇軍兵士となるべく、戦意をあおるプロパガンダにどっぷり浸かったりしてはいても、実際、兵士として戦場に立ったこともなければ、実戦で銃を使ったこともなかった。銃を持つことの本当の意味をこのとき初めて実感したのである。「戦って国のために役に立ちたい」といくら熱望していても、それはあくまで現実を知らない少年の思いでしかなかったのだ。
 あまりにも気が動転してしまったためか溝上はその日のことをよく覚えていない。唯一覚えているのは、その日の夜、チャムス駅近くにある無人の官舎風アパートに宿泊したということだけだ。おそらく避難後に空き家となり、関東軍が接収したのだろう。荷作りするまもなく慌てて避難したのか。他人の家の生活のにおいが、いまだ充満していた。

 さらにあくる11日、溝上たち生徒は「避難民警護」という任務のため、チャムス駅へ向かった。肩にしていたのは三八式歩兵銃(日本陸軍の歩兵用の銃)である。銃の扱いに慣れていない溝上たちに警備を任せることはいかにも危なっかしい。避難民への襲撃があったときに暴徒を封じ込めたり、避難民がパニック状態となったとき、場を鎮めることができるのか。溝上たち「幼い憲兵」に避難民が従わないかもしれない。銃の扱いを間違って、暴発させる可能性も捨てきれない。リスクはあっても憲兵隊は寄宿舎生たちを使わざるを得なかった。つまりはそれだけ兵員が不足していたということである。関東軍の主力部隊は太平洋に転戦していたし、地域の大人たちは根こそぎ召集され、在郷軍人として地域にとどまっていたりしたのだ。
 仮宿舎はチャムス駅のすぐ近くにあったため、溝上たちは程なく駅に到着する。駅の構内にはただならぬ異様な光景が広がっていた。持てるだけの荷物を抱えた避難民でごった返していたのである。鶴崗など三江省の各地からソ連軍の侵攻を避けて南下してきたり、チャムスから新京方面へ避難しようとしたりする日本人の群衆であった。あまりの混雑ぶりに用を足す場所さえない有様で、駅のまわりは糞尿で足の踏み場もないほどだった。
 溝上はそのとき、あちこちから黒煙が上がっているのを目撃している。軍や役所の人たちが撤退するにあたって証拠の隠滅を図ったというより、まさにそのとき横行していた、満州人による日本人家屋への襲撃・略奪によるものである可能性が高い。真相はともかく、チャムスという町が緊迫状態であることは疑いようがなかった。やはりチャムスから避難しなくては危険である。

 さらに追い打ちをかけるような事態が発生したのは昼前のことだ。警護活動を行っていた溝上たちの頭上に、黒光りするソ連機が飛来し、降伏を促す日本語のビラをまいて飛び去っていったのだ。ソ連機が市街上空を飛来するのを許してしまうぐらいだから日本側に制空権などあるはずがなかった。
 満州国崩壊の予感が避難民の間で広まることを危惧した憲兵中尉は生徒たちに「避難民がビラを拾って読まないようによく監視しろ」と指示した。
「ハイ」
 速やかに返答するが、生徒たちの心中は穏やかではない。避難民がこぞってビラを拾おうとするなら、溝上ら中学生の警備隊が、銃で威嚇してでも避難民の動きを阻止しなくてはならなくなるからだ。
「ビラが自分のまわりに大量に落ちてきてきませんように。避難民が競うようにビラを拾い、自分のまわりに混乱が広がったりしませんように」
 上空から落ちてくるビラの行方を溝上たちは祈るような気持ちで固唾を呑んで見送った。
 ばさばさ大量に落下してくるかもと思ったが、実のところ、ひらひらと数枚しか落ちてこなかったので、避難民が争ってビラを奪い合うようなことはなく、溝上はほっと胸をなで下ろしたのだった。

 午後も遅くなり、日が暮れようとしていた頃、避難民の流れがようやく一段落する。警護の任務をある程度果たせたと判断したからか。それとも自分たちも避難しないとまずいと考えたのか。生徒たちに中尉は次の命令を下した。
「オマエたちも、列車に乗って避難するように。これがチャムス発の最後の列車となる。列車通過後は守備隊を一部残し、鉄橋を爆破する」
 司令部があったチャムスからも関東軍は撤退するのであった。鶴崗からチャムス、チャムスから西の方角にある綏化[すいか]と関東軍の防衛線は急速に後退していた。満州国は崩壊しつつあり、溝上たちはそのさなかを避難していたのである。松花江にかかる鉄橋を爆破すると鉄道での移動が不可能となる。ソ連軍の追撃を防ぐため逃げ遅れた避難民の見殺しも止むを得ない。関東軍はそう判断した。
 溝上たちが乗り込んだのは普通客車であった。何のためなのか理由を知らされることなく、汽車は停車したままで出発する気配はなかった。
 しばらくすると、窓の外が薄暗くなってきた。生徒たちの焦りは募る。しかし待つ以外にすることはない。
「バキューン」
 沈黙を打ち破ったのは一発の銃声であった。
 威嚇のための空砲を撃ったのか。食料や座る場所をめぐって諍いが生じたのか。何のための発砲だったのかは分からなかったが、溝上にとって、その後の運命を暗示する不気味な前触れのように思えたのだった。
 列車は綏佳線を西へと進んだ。北満有数の農業都市である綏化まで内陸部を蛇行しながらつないでいる381.8キロの路線である。出発してほどなく、松花江にかかる巨大な鉄橋を通過する。通過した後で橋が爆破されたのかどうか溝上たちは見届けていない。
 真夜中に乗り換えがあり、石炭運搬用の無蓋貨車に移った。乗り換えた途端に雨が降り出した。バケツをひっくり返したような雨である。たちまち全身びしょ濡れとなる。あとで知ったことだが、北満に60数年ぶりに降った、九州の2-3倍という大きさの湖が出来るほどの記録的な豪雨であった。
 北満の地は夏でも夜は寒い。昼は30℃ぐらいまで気温が上がっても夜は15℃ほどにまで下がる。移動中、向かい風をもろに受け続けているので、体感温度はさらに低くなった。おまけに空腹感と極度の疲労が加わっていたため、溝上たちはまともな睡眠をとることが出来なかった。
 目の前には指揮官の憲兵中尉がいた。彼は一人だけ雨合羽を着て、涼しい顔をしていた。キュウリをかじりながらウイスキーの小瓶をチビリチビリやっていて、その自分勝手な態度が今も溝上の脳裏に焼き付いている。

 あくる日、もう一度乗り換え、普通車両に移る。ソ連軍の動きに警戒していたのであろう。停車しては動き、動いては停車するという不規則な運転が続き、なかなか進まない。
 そのため到着は遅れた。終点の綏化駅に到着したのは出発してから3日が経過した14日の昼前であった。綏化駅も避難民で大混雑していた。線路と線路の間は豪雨のためにできた水たまりと避難民の糞尿が入り交じっている。引き込み線には、避難民が乗ったまま長い時間停車している無蓋車もあった。
 駅のホームにたどり着くと、大きな文字で注意書きが貼ってあるのが目に飛び込んできた。
「無蓋車の下の線路には絶対に入らないように」
 先について待機していた避難民が折から降り始めた豪雨のため、たまらず無蓋車の下に潜り込んでいた。雨の当たらない車両の下はずっと快適だったのだろう。空腹と疲労に苦しめられていた避難民にとって、車両の下はシェルターのような場所であったはずだ。
 しかし突然、列車が動き出したことで運命は暗転する。列車に轢かれ、多数のけが人や死者が発生した。家族や友人など、生き残った者は目の前で起こったことに戦慄したり、慟哭したりしたことであろう。
 駅にいた大多数の人は事故の現場を目撃しても、何の反応を示すでもなく通り過ぎた。他人の事故よりもこれから自分自身どうやって生きていくのかそれぞれが必死になっていたのである。事故の直後にもかかわらず、綏化駅に到着した溝上たちもまた、気にかけている余裕はなかった。食うや食わずで3日間も列車に揺られ、疲労をため込んでいたからだ。

 憲兵中尉とともに関東軍の兵営で、しっかりとした食事と休息をとったあとの翌15日正午前、ラジオの放送時間にあわせて兵営の中庭に整列した。「正午、重大放送があるので諸君もそれを聞くように」と告げられていたからだ。
「朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲[ここ]ニ忠良ナル爾[なんじ]臣民ニ告ク朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ……」
 雑音が多いため、誰が何を言っているのか、すぐに理解した者はいなかった。溝上がわかったのは「日本は戦争に負けた」ということだけであった。満州国の崩壊にあわせて避難を繰り返す中で、すでに敗北を実感していたからなのか、さほど大きなショックは受けなかった。

「再建」と書いた決書・血判

 8月15日の釜山は暑かった。典型的な夏の日差しが照りつけていた。生徒たちは勤労動員に駆り出されていた。本来であれば、夏休みであるはずなのに、古賀ら生徒たちはクラスメイト4、50人と一緒に教室で手榴弾作りに取り組んでいた。
 午前中の作業が終わると、古賀を含む生徒全員が校庭に集合した。「正午に重大な放送があるので、聞くように」と先生からお達しがあったからだ。時間通り、校内放送が始まる。仲間たちと整列していた古賀は耳に全神経を集中させる。
「……堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス……」
 先生たちから「天皇陛下のお言葉」だと伝えられていた。しかし、何を言っているのか、はっきりしない。最後まで放送を聞いたが、古賀は理解できずじまいであった。
 放送の後、先生による解説や訓辞があるのかと思ったが、そのようなものはなかった。放送を「聞くように」と予告しておいたというのに、なぜ内容を解説してくれないのだろうか。古賀はいぶかしんだ。
 しかし、古賀が大人たちに話を聞くことはできなかった。先生たちはしょげた様子で「作業は続けなくて良い」と言ったきり、何も話さなくなってしまったからだ。
 今まで夏休みを放棄してまで作業に取り組んでいたのに、なぜいきなり作業をしなくてもいいのか。訳がわからない。キツネに化かされたかのような気分であったが、学校にいてもすることがない。古賀は仕方なく、家路へとついた。

 途中、乗り込んだ路面電車で二人組の兵隊と居合わせた。いつもと違って、腰の短剣をはずした丸腰姿だった。なぜ武装していないのだろうか。もしかすると、先生がしょげていたのと、何か共通する理由でもあるのだろうか。ピンと来るものがあった古賀は彼らに声をかける。
「今日の放送は何だったんですか」
「日本が米英、ソ連と支那にお辞儀をしたんだよ」
 兵士たちは直接「戦争に負けた」とは言わず、遠回しな表現にとどめた。
 古賀にとってはそれで十分だった。教師がなぜしょげていたのか、兵隊たちはなぜ丸腰なのか。それらの理由に思いが至った。
「そうか、やっぱり日本は戦争に負けたのか」
 しょげて思考停止に陥ることはなく、彼の頭にはすぐに別の考えが頭に浮かんだ。
「だとすると、敵に何をされるかわからんぞ」
 アメリカの兵士が本土や朝鮮に上陸してきて、容赦なく皆殺しにする場面を思い浮かべ、戦慄を覚えた。先の見えない、混沌とした未来に不安を感じながら、電車を降りるまでずっと、窓の外をぼんやり眺めた。

 家に帰った古賀は、日本が本当に戦争に負けたのかどうか、新聞やラジオで自分なりに確かめようとした。
 タブロイド判裏表一枚の夕刊を隅から隅まで目を通す。すると、玉音放送の内容や敗戦についての社説が目についた。夕方6時のニュース放送を聞くと、それまで知らなかった事実がつまびらかになった。
「この戦争で亡くなった人数は200万から300万人にのぼります」
「ええ、そんなに」
 それまで新聞やラジオは戦意高揚をはかるプロパガンダばかりを発表していて、敵に与えた損害についても、被害についても正確なデータを発表することはなかった。
 古賀はひどく衝撃を受ける。戦争の恐ろしさを初めて思い知ったのである。戦後左翼のような反戦の意識はなく、大本営発表が間違っているという意識もない。日本がアメリカに攻撃され、滅亡することをただ心配したのである。

 すっかり日が落ち、暗くなると、古賀家は室内の電灯に黒い布をつけ自主的に灯火管制を敷いた。戦争が終わったのだから、空襲警報が鳴るはずもないのにである。
 古賀の家族は用心深かった。
「アメリカ軍は信用できないから、戦争が終わったと言いながら、こちらの油断につけ込んで、空襲を仕掛けてくるかもしれない、今夜だけは灯火管制にしておこう」
 その夜、暗い灯火の下で、古賀は日本の再建を誓う文書を便せん三枚にわたって書き連ねた。
「天皇陛下からあのような言葉をお受けするのは我々国民の不忠不義にあり、まことに国民の責任である。次の日本を背負うのは少国民である我々である。日本の勢いを盛り返して世界の平和を確立せねばならない。日本が負けたのは、我々の団結心が足りなかったからだ。民族が滅亡しないようにやむなく和平に至った。降伏に至らしめたのも国民の責任である。大いに奮起し、なおいっそう頑張らなくては再建はできない。我、大いに誓って奮起せねばならぬ。断じて再建は我の手でやることを誓う」
 書き上げた後、古賀は左手の小指の先を切って「再建」と血書し、血判を押した。

 翌16日、おそるおそる古賀が外に出てみると、それまでの秩序は失われようとしていた。日本人の商店で埋め尽くされている目抜き通りである「長手通り」を韓国服を着た男たちが肩を組んで、道路いっぱいに広がって、「マンセーマンセー(万歳万歳)」と笑みをたたえながらこっちに向かってくる。
 それまでずっと朝鮮を統治していた日本人をひとたび見かければ、何をしてくるのかわからない。抑圧から解放された朝鮮人たちが、一人のこのこと外に出て来た古賀を狙い撃ちにするかもしれない。身の危険を感じた古賀は震え上がり、そそくさと家に帰った。

にわかには信じられなかった敗戦

 8月15日、登校した野崎は「玉音放送」の内容についてクラスの仲間たちと話し合った。前日、学校で「ラジオで天皇陛下のお言葉が放送されるので聞くように」と予告されていた。
「どんなことをお話になるんだと思う」
「『重大戦局に国民は心を一つにして聖戦を完遂せよ』とおっしゃるのかな」
「そうだろうね」
 本土決戦に向けて檄を飛ばす内容のお言葉に違いない。クラスの誰もがそう思っていた。

 校内で土地掘り作業に取りかかった。体力があれば誰でもできる作業に不満を抱いていたが、任されたことをコツコツとこなしていくしかない。炎天下、野崎はそう自分に言い聞かせながら作業に打ち込んだ。
 午前中の作業が終わり、一息つく。弁当を食べ終わり、午後の作業に取りかかろうとしたとき職員室から出てきた朝鮮人の先生が言った。
「作業は中止。すぐ帰宅するように」
「なぜですか」
 生徒たちは戸惑いながら、疑問の声を上げた。それもそのはずである。国のために夏休み返上で働いてきたのだから。
「戦争はスンダ……」
 先生はそう言ったきり、その場を去ってしまった。
 どういうことなのか、野崎は意味が飲み込めない。百万人の軍勢を誇る関東軍はいまだ健在である。連合艦隊はまだ使わずに温存してあるのだから負けるはずがない。この場に強い指導者がいて、神州不滅を叫び皇軍不敗を呼びかけたなら、みな同調したはずだ。野崎はそのように思っていたからだ。
 まわりの生徒も同じ考えのようであった。それが証拠に「戦争はスンダ」と先生が告げても、皆、戸惑って顔を見合わすだけで、悔し泣きをしたり、激高する者は誰もいない。
 とはいえ先生の帰宅命令に従わず、再び作業を始めるわけにはいかない。大半の生徒はうろたえ、不安を抱えながら、そそくさと帰宅していった。

 学校には7月に大陸から部隊が移動し、駐留していた。化学実験室は兵器係の部屋になっていた。朝、部屋の前を通りがかったとき、最新式だという九九式小銃を木箱から出してグリスを拭いながら「これは最新式の銃だ」と野崎に説明しながら並べていた。帰宅する前に野崎はその兵士に会いに行った。すると彼は小銃を元の木箱に戻し蓋をして釘で打ち付けているではないか。
「どうするんですか」
 野崎が外から窓越しに尋ねる。すると兵士は投げやりに言った。
「戦争に負けたので裏山の横穴防空壕に埋めろと命令だ」
 兵士の答えを聞いた野崎は敗戦の事実の重大さにようやく気がついた。「敗けたとなると朝鮮におれなくなる。これは大変だ」と。
 兵士はたばこをくわえ、窓に近づき、眼を細めて空を仰いだ。野崎は同じく空を仰いだ。白みかがった青い空は晴れ渡っていた。
「俺達はこれからどうなるのだろうか」
 ぼんやり考えながら、家路についた。

 夜、灯火管制の黒い幕をはずすと、電灯が煌々と輝いて見えた。するとほどなく、隣組から「灯火管制は続けるように。停戦交渉中であり談判破裂したら戦争だ」と通達があった。
「そうだろう。日本がそう簡単に敗ける筈がない。それが本当だ」
 野崎は妙に納得し、そして床についた。

引き揚げの明暗

 本来ならば夏休みに入っている時期だったが、勤労奉仕のため、鎮海中学の学生たちに休みなどはなかった。8月15日もそれまでと同じように登校する。
 北島校長は校庭に生徒たちを集め、訓示した。
「今日は天皇陛下から重要な放送があるからラジオがある者は家へ帰れ」
 校長の深刻な面持ちに事態がただならぬ方向へ向かっていることに、松尾博文たち鎮海中学の生徒の誰もが気がついたのだろう。

 博文の同級生の塩井末幸は著書『いつも時代を見ていた』(プレナス)で玉音放送を聞いたときのことを次のように振り返っている。
「家に帰ってみたものの雑音でよく聞き取れない。私自身はソ連に対する宣戦布告だろうと思ったんですが、アナウンサーが泣き声でどうも様子が違う。それで学校にいって尋ねてみると『負けたんだ』と。それからは大変でしたね」
 初めて聞く天皇陛下の肉声であった。ポツダム宣言を受諾し、無条件降伏を受け入れ、戦争は終わった。神国日本は負けないと信じこんでいた大人たちは一様に衝撃を受け、放心状態となる者、泣く者もいた。塩井の姉たちはそろって泣いたが、塩井自身は泣かなかった。日本が戦争に負けたことよりも、これからどうするのか心配する気持ちが勝ったからだ。

 松尾博信堂は15日以降も営業できたようだ。少なくとも新聞の配達は引き続き行っている。朝鮮人の番頭たちが自転車で手分けして日本人の各家庭へと配り続けた。博文は15日以降に配達する新聞がいつもと違っていたことを覚えている。紙の節約のため、タブロイド判一枚だけで、しかも裏面が印刷されていない、学校の壁新聞のような代物である。それまで、敗戦という事実にぴんと来ていなかった博文も、貧弱な新聞を手にして、ようやく敗戦という現実を実感した。

 38度線以南に進駐する予定のアメリカ軍の朝鮮上陸は遅れていて、日本軍の武装解除はすぐには行われなかった。海軍の町である鎮海は平穏が保たれていた。しかし、ひとたび武装解除が行われると、治安は崩壊し、無法地帯となる。本土決戦に備え要塞内に蓄えられていた物資や兵器といった備蓄物資を売る闇市が鎮海駅前に公然と現れた。10人以上の憲兵が銃剣を持ち、収拾にあたろうとしたが、すでに朝鮮総督府の権限は著しく失われていたからか、それしきのことで闇商人たちを完全に追い払うことは出来なかった。町の誇りともいえる海軍の権威は失墜した。兵士が民家に避難し「かくまってくれ」と懇願する有様であった。

 権力の失墜と治安の悪化という事実に朝鮮在留の日本人たちは動揺し、本土へと引き揚げようとする者が釜山や仁川はもとより朝鮮各地の港へと押し寄せた。利用した船は貨物船、漁船に軍艦など使える船ならば何でもありである。カネを持っている者が個人で闇船を借りたり、役所や日本人会が仲介したケースもあるが、カネを取って引き揚げを商売にする者もあらわれた。
 鎮海中学の生徒たちも家族と町を引き揚げていく。最も早かったのは軍の関係者家族である。16日に軍艦に乗り、翌17日未明に佐世保港に苦労なくたどり着いた者。16日、70トン前後の船に400人というすし詰めの状態で乗り込み、台風をなんとかやり過ごして唐津に上陸した者。24日、70トン前後の小船に乗り、台風に遭い、命からがら4日後に鳥取県の境港にたどり着いた者。施設部のチャーター船に乗り僚船とともに出航するも、僚船は途中、機雷に触れて沈没、自分の乗っていた船だけが門司に到着し、助かった者など。
 楽にたどり着けた者、生きるか死ぬかぎりぎりのところで助かった者と、千差万別の引き揚げ体験であるが、朝鮮南部でも内陸に住んでいる者などに比べると鎮海は玄界灘を越えればすぐに九州にたどり着けたのだから恵まれていた方だった。

 8月23日未明、博文は鎮海に別れを告げる。乗り込んだのは海防艦と呼ばれる船(主に沿岸防備を担当する)であった。祖母のヌイに連れられた博文と4人の妹、川浪家の女たちとその子どもが一緒だった。母のハルエは病臥中であり、応召された父正巳は済州島から未だ復員していなかったので同行していない。

 荷物の運搬は、かつての一番番頭で、慶和洞に博信堂の支店を出していた青山長吉さんが親身になって手伝ってくれた。
 大小40個の荷物が運び込まれた。荷物の中には「松尾博信堂」の名が入った番傘や写真アルバム、そして1俵の米があった。この様に多くのものを積み込めた背景にはヌイの獅子奮迅の働きがあったと思われる。

 艦内では甲板が居場所だった。海防艦の艦橋は弾除けのために青竹で覆ってあった。博文はこれを見てこの戦争が物資の乏しい負け戦であったことを実感した。

 博文や妹たちには生まれ育った街から内地への旅であったが、4月に夫謙一を亡くし未亡人となっていたヌイにとっては34年間営々と築いて来た生活と財産を全て放棄して故郷に戻る旅であった。

 日本海軍の要港であった鎮海の基地を離岸した船は巨済島をかすめ玄界灘へと舵を切った。この年は台風の襲来が多かったがこの日の海は幸いに凪いでいた。しかし真夏の炎天下厳しい陽射しや船酔いで具合の悪くなる人たちが多かった。一番下の2歳になったばかりの妹節子がひきつけを起こし「節子の様子がおかしい。死ぬ!死ぬ!」と、肝っ玉の据わったヌイも冷静を失い騒いだのだった。しかし大事には至らずに夕方5時頃に佐世保軍港に船は着岸した。

 夏の九州は日が長い。頼った知人の家で供されたうどんがとてもおいしかった。持参した米を謝礼に置いて1泊させてもらい翌24日に、復員軍人で溢れる汽車に乗り佐世保駅から約20キロの有田に向かい、祖父謙一の実家である古い平屋に辿り着いた。

 父正巳の実家は杵島郡橋下村の農家である。兄が家を継いでいたが両親は健在であったので博文たちは当時同級生たちが味わった酷い飢えは知らずに育っている。

 学業も滞りがなかった。転校手続きを済ませてすぐに9月の学期が始まり、佐賀県立武雄中学校の2年生になった。

 その頃、古賀、野崎、溝上の三人は引き揚げることができず、まだ現地に留まっていた。

※本稿の時代背景を説明するため、地名・呼び名など、当時の表現のまま記述した箇所があります。

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西牟田 靖(にしむた・やすし)

1970年大阪生まれ。神戸学院大学法学部卒業。8ヶ月の会社員生活の後、地球一周の船旅へ。以降、ライターとして活動を始める。『深夜特急』の経緯をたどる香港からロンドンへのバス旅、北インド、ベトナム取材、タリバン支配下のアフガニスタン潜入、空爆停止直後のユーゴスラビア突入、旧大日本帝国エリアの踏破など、世界各地に挑戦的な旅を続けてきた。訪れた国は50以上、国内外を含め訪れた離島は100を超える。著書に『僕の見た「大日本帝国」』、『誰も国境を知らない』(いずれも情報センター出版局)などがある。

著者ホームページ http://nishimuta62.web.fc2.com

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