第一一回

私のシェルター

 知り合った当時から、カオリはあまり感情をあらわにしないところがあった。一見無表情で冷たい印象を受けるのだが、ふとした拍子に見せる少女のような含羞に黒木は惹かれた。親しくなるのにそれほど時間はかからなかったが、何度も「こんな私でいいの?」と確かめるのだった。
 また、自分のことなどあなたには理解できるはずがないという強い思い込みが随所に感じられ、その都度黒木は辛抱強くそれを否定し続けた。それまでに女性とつきあった経験がなかったわけではないが、一生のパートナーとしてカオリを選ぶことにためらいはなかった。自分の家族のことも知ってもらおうと思った黒木は、まず弟と会わせ、それから両親に引き合わせることにした。自分の母はパートの経験しかなく、のんびりとしておしゃべり好きだったので、勉強ひとすじだったカオリはどう思うか気になっていたのだ。ところが最初に両親に会ったその日の帰り道、珍しく興奮した様子でカオリが言った。
「今日は特別だったの? いつもあんなふうじゃないよね」
 黒木は笑いながら、特別にしようとしたけれど失敗したようだ、ほんとに世間知らずな母だから気を悪くしないでほしいと答えた。カオリは心底驚いて、畳み掛けるように尋ねた。
「いつも、あんなふうに笑いながら食事をしてるの?」
 カオリにとって黒木の育った家庭は驚きの連続だったらしい。それほど豊かではないが、あまり波風の立たない家族だったし、両親はそこそこ仲のいい夫婦だった。平凡すぎて引け目を感じていたが、カオリにとってはこの上なくうらやましかったようだ。それから現在に至るまで、カオリは黒木よりも母親になついている。仕事を辞めて自宅で臥せるようになってからは、黒木の実家でカオリを一か月間預かってくれた。弱々しげに「ここが私のシェルターかも」とつぶやいて少しだけ笑みを浮かべたカオリの顔が、黒木は今でも忘れられない。

新たな攻勢

 大晦日の夜、時折体を震わせて泣きながら帰宅したカオリは、もう実母とは会わないと宣言した。正直に言えば、その時黒木はすべて納得していたわけではない。いったいあの世話好きなカオリの母を、なぜここまで拒否するのだろうという疑問が心の片隅に残っていた。
 しかし、憔悴しているカオリを目の当たりにして、とにかく自分が守らなければならないことだけはわかった。カオリの宣言が何を引き起こすか、その時はまったく想像もつかなかったのだ。
 カオリの母は、それからというもの、あらゆる方法を使ってカオリに接近しようとしたらしい。別々の事務所に勤め始めた黒木は毎日忙殺されていたので、同じくらい忙しいはずのカオリにどのようなことが起きていたのかはわからなかった。カオリも心配をかけまいと黙っていたようだ。
 メールや電話攻勢は拒否されるとわかってからは、どうやって調べ上げたのか、母親はカオリの事務所の周辺に出没するようになった。そして、事務所のメールボックスにカオリへの手紙を投函するという行為が一度ならずも及んだ。消印のない直接投函の手紙は、弁護士事務所では危険物扱いである。差出人が自分の母であることを告げるときのカオリは、どれほどつらかっただろう。
 なんどもカオリはその行為をやめてくれるように手紙を書いたようだ。手紙を書くまで、そして書き終えるまでにカオリはかなりのエネルギーを使った。その甲斐があって、母親がカオリの事務所の周囲に出没することはなくなった。
 しかし、今度は自宅の近くで待ち伏せされているのではないか、と恐れ始めた。その不安そうな様子を目の当たりにして、黒木は思い切って転居することにした。その疲労も重なったのか、カオリは少しずつ元気がなくなっていった。不眠を訴え、食事量も減った。そして二年が過ぎたころ、思い切って休職をすることにしたとカオリは告げた。一年間くらいのんびりすれば元気になるだろうと、その時の黒木は軽く考えていた。

待ち伏せ

 ある日のこと、昼食をとるためにエレベーターでビルの一階に降りた黒木の前に、突然カオリの母が立ちふさがった。おそらく待ち伏せしていたのだろう。
 彼女の目つきは、最後に会ったあの大晦日の時とは全く違っていた。そこにわずかの狂気を感じた黒木は、思わず後ずさりをした。
 ていねいにおじぎをしたカオリの母は、顔をあげてから思いつめたように言った。
「お久しぶりです、少しお時間をとっていただけませんか?」

 昼休みを長めにとることにして、黒木は事務所の近くにあるレストランで、ランチを食べながらカオリの母の話を聞いた。まとめれば内容は次のようなものだ。
「あなたたち親子三人が、私の悪口をカオリに日夜吹き込んでいるに違いない。結婚するまであんないい子だったのが、あのように変わったのはすべてあなたたちのせいだ。まるで娘を拉致されたようなものだ」
「カオリをここまで育て上げた私が、どうしてこのような目に遭わなければならないのだろう。きっとカオリがどうかしているのだ。うつ病ではないだろうか。私がいっしょに病院に連れていきたいので会わせてほしい」
「実の母親に会いたくないなどと人の道に外れたことを言う子ではない。あなたが陰で糸を引いているのだろう。カオリのことは私が一番わかっている。会えば必ずあの子はもとの素直なカオリに戻るはずだ。会わせないように策略を練るのは弁護士として恥ずかしくないのか」
 ふだんは温厚な黒木だったが、さすがに、あまりの内容に怒りが込み上げてきた。反論しようかと思ったが、ランチには手を付けず立て続けに話し続けるカオリの母を見ていると、奇妙なことに怒りが萎えてしまった。
 どうせ何を言っても耳に入らないに違いない。このひとは話をやめないだろうし、考えを変えようともしないだろう。そんな無力感が全身を襲った。黒木がこれまでの人生で、一度も経験したことのない感覚だった。カオリが生まれてからずっと味わってきたものの一端に触れる思いがした。

人でなし

 黒木は聞きながらとにかくランチをほおばった。目の前で話し続けるカオリの母親を正面切って受け止めるのは、弁護士といえどもかなり困難だったからだ。そろそろ四五分を過ぎたころ、黒木は切り出した。
「お母さんのおっしゃっていることはとにかく承りました。僕としては、同意できない部分のほうが大きいです。そのことだけはお伝えしておきます。それに、今日うかがったことはカオリには伝えないでおきます。僕の胸のうちだけにしまっておきます」
 冷静にそう語り、コップの水を一気に飲み干してから、黒木は伝票を持って立ち上がった。
 カオリの母は、一時間近くしゃべりきったせいか放心したような顔で座っている。どこか力ない表情で、会った瞬間の異様な空気は影をひそめていた。しかしテーブルを離れようとする黒木の気配を察したのか、突然背広の上着をつかんでうめくように言った。
「これだけ言っても、カオリに会わせないのか! 人でなし!」
 黒木はその手を振り払うように、レストランを出た。

洗脳

 カオリには何も伝えなかった。勘の鋭いカオリは何かしら気づいていたかもしれないが、一切カオリの母に関することは口にしないことにした。
 黒木の実家にも、その後四通の手紙が届いた。最初の手紙を読んだ母から驚いて連絡があったので、黒木は実家に出向いてこれまでの経緯を両親に説明した。にわかには理解できない様子の両親だったが、その後激しさを増す手紙攻勢にほとほとまいってしまい、やっと事の深刻さを理解したようだ。
 内容は、カオリに何を吹き込んだのか、親を捨てろという新興宗教のような洗脳は論外だ、娘を拉致されたようなものだ、これ以上カオリと会わせないのなら裁判を起こす……などとエスカレートしていた。
 黒木は、とにかくカオリには何も言わないでほしいと頼み、カオリの父に連絡をとって母親にブレーキをかけてもらえないかという両親の意見に耳を傾けた。
 しかし、そもそもカオリの両親が意見交換ができる状態であれば、こんな風に母親が妄想に近いものを抱える状態にまで自分を追い込むことはなかっただろう。それにあの酔っぱらった父親が、暴力以外に母親を説得する手段をもつとは考えられなかった。詳しく説明しなくとも、黒木の両親は息子が出した結論を受け止めた。そしてひたすら、嵐の過ぎ去るのを待つように、何の反応も示さないことで一致した。
「カオリちゃん、ほんとうにたいへんだったのね」と母が黒木に涙ぐんで話すのを聞きながら、実の母親でありながらカオリが何を怖がっているのかを一切理解できないまま、どんどん傷口を広げるような対応に終始するカオリの母のことが、少しだけ哀れに思えた。

開封しないままの手紙

 カオリの母の攻撃対象は、黒木から黒木の両親へと移り、そして最後はカオリへの飽くことのない手紙攻勢へと戻っていった。
 転居先は知らせずにいたのだが、いつのまにか住所を探し出していた。最初に見覚えのある母の字の手紙を見た瞬間、カオリはパニックを起こしてしまった。呼吸が落ち着くまでかなり時間がかかった。区役所に行って戸籍を開示してもらったのか、それとも黒木を尾行したのか、どのようにしたのか見当がつかなかった。
 ひょっとして、自分の留守中に母親が訪ねてくるようなことがあるかもしれない。そう考えた黒木はいつもカオリに戸締りだけはきちんとするようにと言い残して出勤した。何か実力行使めいた事態が起きたときは、あらゆる手段を使ってカオリの母の不当性を証明しようと考えた。
 さまざまな法律知識を駆使して、カオリへの接近を禁止できないかと判例を探したりもした。
 そんな黒木の覚悟が伝わったかのように、手紙の頻度は月一通にまで減った。メールボックスを開けるのは、黒木の役割だった。用心深くカオリの母の手紙だけを除けて、カバンに入れる。捨てるのも怖く、家のどこかに手紙があることも耐えられないというカオリのために、黒木は仕事場に持っていき、机の引き出しの一番下に保管することにした。もちろん開封しないままで、だ。

初雪を眺めながら

 仕事を休んで、時々黒木の実家で泊まったのが功を奏したのか、カオリの状態は少しずつ改善し始めた。自分で探した近所の医師から睡眠導入剤や抗不安剤を処方してもらってからは、少しだけ顔色もよくなった。
 カオリのために、自分ができることは何だろうといつも黒木はいつも考え続けてきた。母親について触れないこと、手紙を見せないようにすること、いざとなれば法的措置をとる覚悟をしておくこと。でも、どうしたってあの母親を変えることなどできないだろう。結局カオリを救うことはできないのだ、と考えると、そんな自分が歯痒く思えた。
 あの大晦日のできごとから丸四年が経った一月の日曜の朝、珍しくカオリがすがすがしい顔で起きてきた。
 マンションのベランダには、枯れた植物の鉢がいくつも積まれている。花を育てる気力など失せていたカオリを象徴するような光景だ。
 その上に白いものがふわりと降りてきた。
「あらっ、雪じゃない!?」
 カオリが声を上げた。灰色の冬の空から雪が舞い降りている。「初雪だ」と思わず二人で声を合わせた。
 しばらく黙って次々と降ってくる雪を眺めながら、カオリは言った。
「ほんとうにありがとう」
 少し間を置いて、黒木はつぶやいた。
「これくらいのことしかやってあげられないんだ」
「そんなこと言わないで、あなたと結婚しなかったら、私、今頃生きていなかったかもしれない」
 カオリは強い口調で主張した。
「病気になってたかもしれないし、ひょっとしたらママを殺してたかも……」
「……」
「今朝、とってもいい夢をみたんだ、内容は秘密だけどね。ママのことはどうだっていいって今は思える。それに、あなたのそばにいれば安心だし、シェルターだってあるしね」
 久しぶりに微笑んでいるカオリの横顔を眺めながら、黒木は少しだけ未来に光が見えるような気がした。

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信田さよ子(のぶた・さよこ)

原宿カウンセリングセンター所長。著書に『母が重くてたまらない』(春秋社)、『共依存・からめとる愛』(朝日新聞出版)、『選ばれる男たち』(講談社)、『タフラブという快刀』(梧桐書院)、『父親再生』(NTT出版)ほか多数。
原宿カウンセリングセンター、ホームページ http://www.hcc-web.co.jp/

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