第十一回


働かないアリ

 とても暑い日だった。胸のあたりが嫌にぬるぬるする。手をあててみるとそれは血だった。したたり落ちるほどのおびただしい出血。真っ赤に濡れた手のひらをじっと眺めた。痛みはまったくない。しかし、こんなに血が出て、生きている人はまずいない。それでは私は死んでいるのだろうかと考えていたら目が覚めた。夢だった。
 南米コロンビアと中米パナマの間に横たわるダリエンギャップ。南北アメリカ大陸を縦断するパンアメリカンハイウェイは、ここで寸断されている。ジャングルの中の道なき道を、ガイドを雇いながら1週間、徒歩とカヌーで抜ける。ただし、それは運がよければの話だ。ダリエンギャップはゲリラとマフィアの潜伏地帯である。
 当時、コロンビアではシウダー・ペルディーダ遺跡で8人の外国人観光客が誘拐され、7人がまだ拘束されていた。そして、日本人の矢崎シーメル副社長が、誘拐から3年近い拘束の後に、射殺体で発見されたばかりだった。遺跡でさらわれた1人は、私がベネズエラのシウダー・ボリバルで働いていた旅行代理店のお客だった。いずれも左翼ゲリラの仕業である。
 シウダー・ボリバルはベネズエラで2番目に暑い町だと言われている。日が高くなるまでとても寝ていられない。汗で胸がびしょびしょに濡れていた。そのせいで血まみれの夢を見たのだろう。世界最長の滝、エンジェルフォールのシーズンは雨季である。乾季になれば、旅行代理店には閑古鳥が鳴くが、雨に降られずに中米を旅できるようになる。雨季が終われば、ベネズエラを出て中米に行こうか。ダリエンギャップを陸路で越えるかどうか。そんな思案が不穏な夢を私に見せたのだろう。

 ベネズエラは南米大陸の終着点だった。チリから反時計回りに始めた旅は一筆書きのように順当にはいかなかった。ボリビアをひたすら東に突っ切ってパラグアイに戻ったり、はるばるエクアドルから再びコロンビアを経てベネズエラまで戻ったりもした。いずれも現地で働くためだったのだが、その国を一歩出れば紙屑同然の通貨を稼ぐことがいかに虚しいか、じきに気がついた。雇われているかぎりは日銭しか稼げず、生活するだけで精一杯だ。もしそんな生活を続けていけば、最後は日本に帰る旅費さえも残らない。
 それを重々承知の上でシウダー・ボリバルに半年以上もいたのは、移動することにほとほと疲れ果てていたからだ。シウダー・ボリバルは、ギアナ高地のハイライト、エンジェルフォールへの拠点となる町だ。これまで見てきたもの、これから見るであろうもの、思い至るすべてと比べたところで、世界中どこを探してもここに勝るものはないとしか思えない絶景を、すでにギアナ高地で見てしまったことがさらに私の腰を重くしていた。
 旅を続けるのも億劫だったが、どうしても日本には帰りたくなかった。「いつ帰るんですか」と訊かれるたびに「さあ」と曖昧にごまかしてきた。「えっ、どこに?」ととぼけることもあった。でも、半ば本気でそう答えていたのだ。帰るあてはない。誰も待ってはいない。いったいどこへ帰れというのか。だから、ずっと見知らぬところを旅してきた。ここではないどこかへ向かって。そのどこかとはきっと私を温かく迎え入れてくれるところなのだ。しかし、これほど具体性に欠いた、あてどのない旅はない。行きたいところなど、もはやどこも思いつかなかった。それでも、なにもない、誰もいない日本に帰るよりは、ダリエンギャップを徒歩で越える方がはるかにマシなように思えた。

 シウダー・ボリバルでは二人のルイスにお世話になった。一人は私が働いていた旅行代理店オーナーのルイス・ギジェルモ・キハノ・ウリベ。もう一人は事業家のルイス石川氏である。コロンビア生まれニューヨーク育ちのベネズエラ人であるギジェルモと、沖縄出身の日本人移住者である石川新助さん。私がシウダー・ボリバルに長居したのは、この二人に出会うためだったと思っている。彼らの言葉の端々からたくさんの大切なことを教わった。
 ギジェルモは私が唯一信頼しているラティーノだ。三重国籍である彼は適度にアメリカナイズされていて、ベネズエラ人にありがちな東洋人に対する差別意識もなかった。穏やかで怒っているところを見たことがなかった。他人の話をちゃんと聞く人だった。
 ラテンアメリカでもっとも信用できないのは、弁護士と警察と軍隊だと言われている。ベネズエラはやたらと検問が多い。ある日、ギジェルモと私と外国人客を乗せた車がシウダー・ボリバル郊外の検問で止められた。すると助手席に座っていたギジェルモは、あらかじめ買っておいた冷たいジュースを軍人に手渡し、満面の笑みを浮かべて愛想よく挨拶し、ねぎらいの言葉をかけた。分厚い軍服を着て編み上げの軍靴を履いた、汗だくの若造は「行け、行け」と手を振るのももどかしく、ペットボトルのキャップをひねった。外国人はとかく難癖をつけられやすい。気の利いた賄賂で安く、スマートにすませたギジェルモの勝ちだ。さすが悪名高い麻薬カルテルが仕切るメディジン出身! ラテンの処世術を目の当たりにして、外国人一同は大喜び。緊張が解けた車内は拍手喝采だった。

 清濁併せ呑むこと。それがラテンアメリカで、そしてこの世界で生き延びる方便なのだ。それにかけては石川さんもギジェルモに引けを取らない。いや、東洋人である以上、はるかにハンデを負っている。しかも、石川さんは移民というよりも密入国者として、この地でスタートしている。
 40年前、日本よりも豊かだったベネズエラに石川さんは単身で乗りこんできた。彼の身の上話は、まさに事実は小説よりも奇なりだ。強盗に大金を持っていかれ、商売敵に放火された話を淡々と語る。火をつけた人はわかっているが敢えて訴えはしない。
「人が人を赦さなくてどうするの?」と石川さんに穏やかに言われるとなにも言えない。
 シウダー・ボリバルでの暑い正月、青年海外協力隊の隊員たちと一緒に石川さんのお宅に招かれた。帰国時に見初めてベネズエラまで連れてきた、ミスぶどう娘だった美しい奥さんが出迎えてくれた。日系人が多いブラジルやパラグアイならともかく、まさかベネズエラで本格的なおせち料理がいただけるとは思いもしなかった。しかし、日本人同士の和やかな宴は、まもなく気まずい雰囲気になった。
 カトリック信者が神の存在を説き始めたのである。
「私はね、神様に助けてもらったことなんてないよ。神様なんていないよ」
 石川さんはにべもなかった。穏やかながらも強い口調でその存在を否定した。実は日系移民で宗教を信じている人は少なくない。信仰は不慣れな異国での開拓や起業などのつらさと不安を乗り越えるための方便なのだ。怒気を含んだ口調で理由も理屈もなく、ただ闇雲に神は存在すると繰り返す信者。水掛け論になってきたところで石川さんの奥さんが仲裁に入り、論争はお開きとなった。
 神に祈ったりすがったりする暇があったら自助努力をしなさいというのが、石川さんのスタンスなのである。私もそれに同意する。もしかしたら神はいるかもしれないが、できうる努力をすべてやり終えた後で初めて祈るべきものなのだ。言葉もろくにわからない、誰も頼る人がいない異国で、一旗挙げた人に神様は要らない。石川さんは日本人としては少数派の攻めの移民である。だが、クリスチャンとしてではなく人の道としてであっても、「汝の敵を愛せよ」というキリストの教えを、もっとも忠実に実践しているのは、誰あろう他ならぬ石川さんである。

 私が働いていた旅行代理店は昼間でも鍵をかけていた。近くの中華料理屋は鉄格子の中で商売をしていた。ガラス越し、檻越しに、お客を確認してようやく中に招き入れる。周りの店は片っ端からショットガンで武装した押しこみ強盗にやられていた。職場の目と鼻の先で間借りをしていたのだが、夜中に銃声で跳び起きたこともあった。
 近所に青年海外協力隊員が住んでいた。クリスマス休暇には、兄貴分の彼のところにベネズエラ中に赴任している若い隊員たちが集まっていた。兄貴分はアメリカの大学に留学後、日本の大手証券会社に勤めた経歴があった。彼はそこで資本主義の嘘臭さに気がついて退職したのだった。担当していた大手会社社長のことを「金のことしか考えてない、ほんまにしょうもないやつやったわ」と評していた。シウダー・ボリバルでの彼は、任務のかたわら、毎日ヨガとマクロビオティックに励んでいた。
 実際に現地の役に立っているかどうかはともかくとして、隊員たちは世の中の役に立ちたいと思っているような真面目な人がほとんどだ。そして、将来どうするか、少なくとも日本にいる日本しか知らない若者よりも深く考えている。両親が二人とも自殺を図った兄貴分は「生きているだけでありがたい」と常々口にしていた。日本に帰ったら、気の合う仲間と一緒に田舎で自給自足の生活をしたいと彼は言っていた。
 日本人とよく一緒に食事をした鉄格子の中華料理屋は、大陸から来た中国人夫婦がやっていた。スペイン語はおろか英語すら話せなくとも、合法的に商売を営んでいる。彼らも石川さんと同じ、攻めの移民である。私たちに彼らはいつも親しみをこめてパイサノと呼びかけた。パイサノとはスペイン語で同胞という意味だ。ベネズエラ人にしてみれば、中国人も日本人も区別がつかない。私にしてみれば、箸を使う人はすべて中国人とその亜流である。パイサノよ、言葉もわからないまま、この地へ乗りこんできた、あなた方の精神力の強さに私は感服する。人の価値は単身で生身でなにができるかで決まる。

 東京でラジオ番組をコーディネートすることになった。ガイドブックの編集部からも連絡をもらった。いずれもネット上で私がやっていたサイトへのリアクションである。まるでセコンドが見るに見かねてリングに投げこんだタオルみたいだった。東京はもう私の帰るところではないし、私の知っているかつての東京でもない。東京はもはや見知らぬところなのだ。それならば、通過点としてなら寄ってもかまわない。これはまだ、ここではないどこかへの旅の途中なのだ。
「泣いても一日、笑っても一日。それなら、笑ってすごした方がいいでしょう」
 石川さんの口癖のとおり、世界中どこにいようとも毎日はただひたすらそれだけなのだ。
 ベネズエラでの半年は、その後の人生になくてはならない不可欠な時間であった。ギジェルモは「日本でつらいことがあったら、いつでも戻ってこい」と私を笑顔で送り出してくれた。「いつか世界中から旅人が集まる居心地のよい宿をみんなで一緒にやろう」
 彼の旅行代理店はカラカスという名のホテル内にあった。ホテルのオーナーが代わり、移転せざるをえなかったようだが詳しいことはよく知らない。人手に渡ったホテル・カラカスに一度泊まったことがある。さまざまな国籍の旅人が集っていたかけがえのない場所は、老朽化して見る影もなかった。ほこりが積もったバーカウンターと傾いたビリヤード台が置かれた広いサロン。その名のとおり、暴動でもうもうと黒煙が上がる首都カラカスのように荒れていた。
 ギジェルモはツアーから戻ってきたお客にいつも気持ちよくビールをおごった。誕生日を迎えるお客がいれば、ケーキを買ってきてお祝いをした。それはかつてホテル・カラカスで何度も繰り返されてきたことだったのだろう。ギジェルモも私も、他のスタッフも決して儲かってはいなかったけれども、毎日を笑ってすごしていた。毎日楽しかった。
 いつかシウダー・ボリバルでギジェルモとホテル・カラカスを再興するのも悪くない。そして、いつでも戻れるところがあるのは頼もしい。けれども、その前にまだやるべきことがある。世界中どこにいても気の置けない仲間がいればいい。ネット世代だからこそ、それはそんなに難しくはないことだ。

「もの書きになりたいと思います」
 反射的に口を衝【つ】いて出た言葉にまず自分自身が驚いた。しかし、考えてみれば至極当然の答えだった。選択肢はそれより他に残されていない。いい年をしたバックパッカーの間で半ば禁句となっている「日本に帰ってどうするのか」というまっとうな質問を、定住者である石川さんが不意に私に投げかけたのだ。日本でのこれまでやこれからを考えたくないから海外に逃避する人もいる。旅人同士は自分が訊かれたくないことは他人にも訊ねない。
「開高健はね、『他人の行かないところへ行って、他人のやらないことをやれ』と言っていたよ」
 車の運転をしていた石川さんはまっすぐに前を向いたまま言った。まるで用意していたかのようなこれ以上ない的確な受け答えだと思った。開高健は南ベトナム軍に従軍してベトナム戦争を取材した。太公望の開高健をオリノコ川に案内したのも、日本のテレビ番組ロケ隊を初めてギアナ高地に連れていったのも石川さんである。彼もまた、開高健と同じように、他人の行かないところへ行って、他人のやらないことをやってきたのだ。

 南米のジャングルでハキリアリを見ているのがとても好きだ。彼らは円くかじり取った木の葉を巣に持ち帰り、葉にキノコを植え付けて育てる。行列してもぞもぞ進んでいく緑の葉を初めて見たときは驚いた。葉の下にはそれぞれアリがいて、自分よりもはるかに大きな葉をえっちらおっちら運んでいる。緑の帆を張って地面を進む小さな舟のように。
 アリというものは群れのうちの二割が働かないそうだ。その働かない二割を取り除いても、残りのうちの二割がまた働かなくなる。こうして日々の営みが継続されるのだという。つまり、その二割は生物として社会の維持に必要不可欠な怠け者なのである。
 種の保存を第一にすることにおいて、先住民はアリとよく似ている。先住民には個人としての意識が薄いのではないかと思う。少なくとも私たちが持っている意識とは異なっている。彼らは体を形作る細胞のようにそれぞれが寄り添って共同体の中に存在するが、私たちはお互いを個人として認め合う一方で、取り替え可能な部品としてぞんざいに扱われているような気がする。ゲマインシャフト(地縁、血縁による自然発生的共同体)の中の個人は細胞なのだが、ゲゼルシャフト(利益や目的を追求するための人為的機能体)の中の個人は歯車であるように思えてならない。軍隊や会社はその最たるものだろう。そこで違和感を覚える方がむしろ自然で健康なのだ。
 だからといって、私が先住民と森で暮らすことはできない。仮に彼らに受け入れられたとしても、そこでともに生まれ育ってはいない。なにより私に確固とした個人としての意識があることが邪魔になる。ただ森で生きていくだけならライフラインは必要ではないのだが、すでにあるアイデンティティを保つために、インターネットだけは私にはどうしても必要なのだった。血の通ったコミュニティにおいても、無機質なシステムにおいても、どちらもアイデンティティが重荷になる。前者では構成員としての自己しかないことで、また後者ではシステムにおいて与えられた役割とアイデンティティとの狭間で軋轢が生じる。
 働かない二割のアリを日本に当てはめて考える場合、いろいろな解釈ができそうだ。ひきこもりやニートとも、あるいは窓際社員や余剰人員ともとれそうだ。しかし、文化的な社会では、働きたいけど働けないのではなく、はなから労働しない人というものが存在する。音楽をつくったり、ものを書いたり、絵を描いたりするようなクリエイター。自分の作品で働く人々に息抜きを与える役割を担う人である。人間として社会の維持に必要不可欠な働かざる者のことだ。
 もちろんクリエイターが働いていないわけではないし、怠け者なわけでもない。創造を労働とは呼べない。クリエイターがアイデンティティを表出させて創ったものは、システムの歯車として労働者がつくったものとは明らかに違う。労働者のように時給や月給、年俸制など、時間単位で対価は換算されない。消費社会において作品を商品に摺り合わせなければならないし、中には消費財としての商品をつくるブルーカラー的な人もいるだろうが、いわゆる生産に従事していないという意味では、働いていない怠け者なのである。
 無用の用という意味では、研究者も働かないアリに含まれるかもしれない。学問とは世の中を眺める観点である。たとえば哲学にしても、社会学にしても、心理学にしても、本来は人それぞれが楽になる世界の捉え方をするための方便なのだと思う。その意味ではすべての学問が心を軽くする切り口を見つけるための実学なのだ。しかし、専門化、細分化が進むにつれ、専門用語を多用して排他的なものにどんどんなっていく。医学や技術を牽引する分野ならともかく、およそ実学とかけ離れた、ごく限られた読者しか読まない専門的な論文がいったい誰を救うというのだろう。実体験に裏付けられない思考はすべて、机上の空論なんじゃないのか。日常とかけ離れた言葉は、私には書けないとかつて属していた象牙の塔で思った。

 働かないアリは、生まれつき働かざるアリなのだ。いくつもあるかのように思えた選択肢は、実はそのほとんどが見せかけだった。働かないアリはそれでも社会の役に立っている。他人と同じようにできなくても、生産に従事しなくても、誰かを幸せにする役割は見つけられる。幻聴が聞こえて日本を出たように、ここでももう充分追いつめられた。アリに選択の余地がないように、結局私には書くことしかできない。
 ずっと感情を押し殺して生きてきた。ともすれば叫び出しそうなのに、人目を気にして黙りこんでいた。書くことで自己を解放し、それを読むことで他者が解放されるなら、それ以上はなにも望まない。そして、そのことが新たな温かいコミュニティを生むきっかけになればいい。それが私に与えられた使命なのかもしれない。自然が先住民を食べさせるように、天に順【したが】い心のままに生きれば、都市も私を飢えさせはしないだろう。

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片岡恭子(かたおか・きょうこ)

1968年京都府生まれ。同志社大学文学研究科修士課程修了。同大学図書館司書として勤めた後、マドリッド自治州立コンプルテンセ大学留学。中南米を3年に渡って放浪。ベネズエラで不法労働中、民放テレビ番組をコーディネート。帰国後、NHKラジオ番組にカリスマバックパッカーとして出演。下川裕治氏が編集長を務める旅行誌に連載。最近はスペイン巡礼路にはまっている。2009年はフランスの道800キロ、2010年はポルトガルの道250キロを踏破した。2012年現在、45カ国を歴訪。旅イベント「旅人の夜」主催。非リア充バンド、神聖かまってちゃんの大ファン。
ブログ 秘境散歩 http://ameblo.jp/kiokitok/
日記 中南米沈没日記 in 東京 http://kiokitok.jugem.jp/

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