第十一回


医療をどれだけ評価できるか

 医師は病気を診て、これを治し、国民の健康を守るのが仕事だ。といえば、至極当然のことに聞こえるが、こと日本の医療に関しては、国民不在で発展してきた歴史がある。
 西洋医学が奔流となる前には、仏教医学、僧医が日本の医療の源であった。やがて宋、明の時代に中国医学(李朱医学)が導入されたが、医師といえば、薬師[くすし]であり、皇室、上級武士と、大商人などのごく限られた町民のもので、一般庶民にとっては、滅多に接することのない職種であった。彼らにとっては、村の陰陽師の祈祷、薬売り、鍼灸医や民間療法がより身近な存在だったのかもしれない。
 明治になるまでは医師になるための試験はなく、勝手に標榜することができた。そして「だれそれという薬師は、街道で行き倒れを何人も助けた」とか、「あの医者は殿様の腹痛を治したことがあるそうだ」など、真偽のほどはわからぬ噂話が横行した。そういう話に乗せられて、確かかどうかわからぬ医療を受けていたのが庶民であった。
 当時は、心理面はともかく、科学的な意味での医師の治療への貢献は乏しかったといえる。そもそも、今日の標準から言えば、科学としての医学的知識はほんの僅かしかなかった。例えば、細菌やウイルスの存在がわかったのは、ずっと後世なのである。
 だから、先に示したような医師の成功譚の一部が真実であったとしても、それはしっかりした医学的根拠があってそうなったというより、おそらくはたまたま自然回復を助けたとか、丁度回復の時期に当たったのにすぎない。それが、誇張して語られ、やがて名医の太鼓判が押され、人々がそれを信じるようになる。そういう名医のところへは、教えを請う標榜医師が次々に弟子入りを求め、短期間その医師の診察を見ただけでも、「俺は、名高い○○先生の高弟である」などと名乗って、信頼を高めてゆくということが行われた。
 結局、庶民は作り話や、根拠の乏しい他人の評判に頼るしかなく、医療というものの正当性を評価する手段など持ち得なかった。当時の医療の水準から考えると それも仕方のないことであった。

 しかし、現代に生きる人々の間でも、同じようなことは起っている。
 私のいくつかの経験を話そう。
 結膜下出血という病気がある。これは、いきみ、咳、くしゃみ、こすりなど僅かな刺激で、あるいは何のきっかけもなしに結膜の壁の弱い血管から出血するもので、乳児や老人によくみられる。繰り返す場合は、結膜や結膜下の病変などが見出されることもあるが、ほとんどは偶然の出来事である。白目が血の色で真っ赤になり、しかも結膜の下は組織が緩[ゆる]いので、僅かな出血でも広がりやすい。だから、はじめて経験すると、自分自身も周囲も大変なことになったとびっくりしてしまう。
 ところが、この病気は眼科医にとっては、何ら治療の難しくないものである。出血の少ないものでは3、4日、多いものでも1、2週間待てば消えて治ってしまうからである。
 もちろん眼の表面の出血だから、眼の機能には一切影響しない。私などは、心配なく自然に治ることを説明して、目薬も何も処方しないでお帰りいただくことが多いが、どうしても何か目薬がほしいという人もいる。その場合には生理的食塩水に近い目薬を出しておく。そうすると、1週間以内にはすっかり治るので、「若倉先生の薬はよく効いた!」となって、一躍名医として高い評価を受けるのである。

 似たようなことは、自然回復する病気ではしばしば起る。それをうまく利用すれば、名医の誉れを得るのは難しい話ではない。江戸期までの医師も、経験を活かして上手な「見立て」ができる医師なら、そういうこともでき、名医になることができた。確かに、一面では名医なのかもしれないが、庶民による正当な評価とは言えない。
 やたらと、テレビや新聞、雑誌に登場する医師がいる。中には「神の手」などともて囃[はや]されることもある。確かに、話題になっている疾患や手術については優れた、第一級の能力と技量を持っているかもしれない。しかし、一般の人は、医学に詳しいわけではないから、夥[おびただ]しくあるほかの疾患についても、名医なのだと誤解する可能性がある。
 かく言う私も、求めに応じてメディアに出ることがある。たとえば「たけしの健康エンターテインメント! みんなの家庭の医学」という比較的視聴率のよい朝日放送系のテレビ番組に過去に3度ほど呼ばれた。自分の専門の話を紹介するためなのだが、番組の中で「名医、名医」と囃し立てるので、視聴者の中には眼科のどの疾患に対しても「名医」なのだという錯覚が起こりやすい。テレビ放映後、外来予約が急に増え、てんやわんやになる。
「外来数が増えて、おめでとう」などと言う人がいるが、私の給与は、外来患者を何人診ても同じであり、自分の能力を超えた数の患者さんを拝見することで、ストレスはピークに達する。医師も一応客商売だからと、なるべく機嫌よくしているつもりだが、内心はもう限界を感じているのである。
 脱線してしまった。ここでは、そういう自分のストレスを話題にしているのではなく、今日でさえ、一般の人間が医療を評価することは、甚だ難しいことだし、正しく評価できるシステムになっていないということを言いたいのである。

健康保険制度の導入

 医者の趣味が嵩じただけと侮[あなど]るなかれ、有難いことに新聞各紙で取り上げられている筆者の処女小説『高津川――日本初の女性眼科医 右田アサ』(青志社)には、明治時代の眼科専門病院が出てくる。健康保険制度などない時代の話である。その件[くだり]を引用してみる。
 ――当時の病院では今日のように個々の診療費の請求は行われず、受付に「慈善鍋」に似たものが置いてあり、患者は自分で治療費を適当に計算した上で、懐中に応じてそこに金銭を投入して帰る習慣だった。野菜などの物納や、何回かの治療をまとめて払ってゆくものもあったという。(中略)眼科病院は名声高く、手術を受けた人々や、裕福な人は盆暮れ払いの時に、多額の金銭を納めてゆく者もあり、大口の寄附もあって、病院経営は順調であったというから、有徳[うとく]思想が当時の日本人には根付いていたのかもしれない。
 各人が受けた医療の内容を評価し、自分の懐中に応じて診察料、薬礼を支払っていたこの時代は、もしかすると医療の主体性という観点から、医療が最も庶民に近く、合理的に評価された時代だったかもしれない。
 ところが、そのような医療を受けられるのは、やはりどうしても裕福な人、都会の人、知識のある人に限られていた。資本主義化が進むにつれて、貧富の差が無視できない状況に至り、金のない人は医者にかかれない状況が続く。
 この頃、富国強兵を旗印に国と軍部が進める国策では、労働者や兵士となるべき成人男女の健康問題が頭痛の種となった。トラコーマ、梅毒、結核といった伝染病だが、ことに結核は軍を悩ませた。劣悪な工場で結核にかかった女工だけでなく、男性労働者たち、軍隊の中にまで蔓延していった。医療政策は、軍部が主導権を握ることになった。
 1919年結核予防法が制定され、労働者を対象にした健康保険法は1927年に発足した。1937年保健所法、1938年医療の国家統制を図るため、軍主導で厚生省が設置され、国民健康保険法が制定された。その後、第二次世界大戦で崩壊しかけた健康保険制度は、連合軍総司令部(GHQ)の指示で再建され、1961年(昭和36年)、高度経済成長期直前には、国民皆保険が実現することになる。これは、折角科学として信頼できるところまで発展してきた医学の恩恵を、当時の日本はなお貧窮かつ貧富の差が大きかったために、平等に得られなかった多くの国民にとって善政であったといえる。
 しかし、その後、高度経済成長を経て、経済的にも先進国入りした日本は、バブル崩壊、長期不況時代に入り、東日本大震災、福島原発事故という大きな歴史的事象を経てもなお昭和36年と同じシステムを続けることが果たして正しいのだろうか。以下にこの点を検証してみたい。

医療・福祉制度と国民

 日本の医療制度、今日の健康保険制度の歴史を概観してみると、残念ながらそこには国民の意志というものが少しも姿を現さない。

 おそらく、これは医療に限ったことではないのかもしれない。年金、介護保険などの社会保険、老人福祉、児童福祉など社会福祉政策も、官僚や時の政府がお沙汰を発するのみである。国民のだれも、どのような福祉、補償を望んでいるか真剣に尋ねられたことはないであろう。
 拙著『三流になった日本の医療』(PHP研究所)の中で私は
「そもそも日本が『非福祉国家』を選択したなどということは、国民には全く知らされていない。そして、国民としても、そんなことを許した覚えはないであろう」
 と述べている。それは、富永健一氏の論文を引用する形で、1960年代後半から90年代前半にかけて、先進諸国が「福祉国家」と「非福祉国家」とに分解し、日本は米国、イタリアなどともに、最下位グループ、すなわち日本の政治は非福祉国家を選択したのだ、という事実を示した上で、上記のように述べたのである。ちなみに、日本は医療と福祉に国家予算の約28%を使っている。これは随分多いと思う人もいるかもしれないが、日本と同じ最下位グループに分類される米国でさえ、国家予算の55%は医療と福祉費なのである。
 それだけ、医療と福祉はどうしても金のかかる最大の国家的事業のはずなのであるが、日本はそれを最大とは見ずに、むしろ道路、鉄道、港湾、空港、ダム、公的な上物[うわもの]の建設に大きな予算を費やしてきたことは、どなたも認めるところであろう。
 それは、とりもなおさず、日本国民の真の欲求、声に真摯に耳を傾けることを怠ってきたからである。ちゃんと選挙をしているではないか、という反論が聞こえてきそうだが、そういう国の方向性を問う選挙をしたことがあっただろうか。選挙では、掛け声が聞こえるばかりで国民との論議は行われることはないし、選挙以外の手段で、国民の考えを反映させる方策を構築してこなかったことは、紛れもない事実である。とりわけ、医療や老人福祉はそれを受ける高齢者達の考え方、感じ方が大切であるのに、その声が反映されているという話は聞いたことがない。これでは、国は高齢者医療や福祉を「金食い虫」とばかりに蔑視している、との謗[そし]りを免れることはできない。

今を生きる人間のための制度を

 昭和36年とはうって変わって、診断面でも、治療面でも医学は進歩し、治療の選択肢も増えている。時代とともに、国民の医療への期待度や注文も高等化した。以前はただ医師の言うことを聞くだけだったのが、インフォームドコンセント、セカンドオピニオン、クオリティーオブライフ(生活の質)、エビデンスベースドメディシン(実証医学)といった欧米、とくに米国発の考え方が日本の医療現場に取り入れられて、医療における庶民の権利意識は劇的に高まった。
 だが、ここには以下に示すような未解決の大きな問題が横たわっている、そのことが今日、医療現場で医師患者関係を悪化させ、医療不信、医療崩壊を招いた、と私は考える。
1 日本人が医療に何を求めているかを検討せずに、ただ欧米流の考え方を導入したために、権利意識だけが突出して成長した
2 欧米流の考え方を導入すれば、医療に時間と金がかかるのに、その部分の手当てが全くなされてこなかった
3 国民が、医療の価値を評価するというプロセスが抜け落ちていることに気付かなかった
4 権利意識は成長したが、そこに医療におけるリスクや限界の考え方が入ってこなかった
5 医療と福祉は一体化して機能すべきなのに、政策も予算も別個に行われ、連携性が乏しい状態が続いた

 これを一つ一つ論ずると紙面が足りないので、簡単に補足しておく。まず1、2については、日本人は医療に何をどれだけ求めるのかという、巨大なテーマが潜在している。つまり、実証医学をしようとすれば、診断治療方法が確立しているものに対してのみ扱えばよいことになる。確かな診断をして、治療方針を示し、実行すればよい。無論、治療不能のものも少なくないから、その場合は治療しないと決めるだけである。それでも、医学がそれだけすればよいのなら、決して医師不足ではないであろう。時間と金のかかる欧米流の考え方も十分に導入できる。
 ところが、疾患や症状の正体が不明のものや、治療方法が確立していない、実証医学ができないものは非常に多い。それらも医療側としては放置することはできない。また、治療行為が、もとの健常な状態に戻すだけでなく、進行遅延、再発防止、経過観察に留まるといったものもかなりある。そういうものまですべて含めて、医師がケアすることを要求されているので、医療の出番が増え、医療の規模は膨れ上がる。実は、これが今の日本の現状である。
 もしここに、生活指導やメンタルケアまでも必要だということになれば、医療施設も、医師数も、金も圧倒的に不足となる。このように、需給のバランスが悪いから、日本人にとって不満足な医療環境になっているのである。

 ここで、国民が医療というものを正しく評価しているかという3の問題に進まざるをえない。現代人は金額でものの価値を評価する習慣がついているが、病院医院の外来窓口で支払う医療費は通常非常に安く、数百円から数千円で、よほどの検査をしない限り1万円を超えることは少ない。これで、医療とは安いものだ、その程度の価値なのだというレッテルが貼られてしまっているのである。
 安いのは無論、健康保険のおかげで、かかった医療費の1-3割を窓口で支払っているだけだからである。その上、設定されているもともとの医療費(健康保険では全国一律の診療報酬点数=医療費)も諸外国に比べて非常に安い。例えば米国で虫垂炎を手術して2泊3日の入院をすれば約200万円請求される。日本では同じ手術を受けて6泊7日の入院をして約30万、窓口支払いは3割負担で9万程度である。健康保険制度では、2年ごとに診療報酬の改訂が行われるが、それで医療費は公定価格になって、抑えられてきた。国民にとっては安くて有難いのだが、医療側からすると、医療に人と金と時間がかけられなくなり、医療崩壊へ進む事態になったのである。

理想的な医療、患者の責任

 ここでは、日本国民が、自分たちが(自分個人のではない、将来を含めた日本人全体が)受ける今の医療、健康保険制度の在り方を真摯に評価し、これからどうしたいのかを十分検討するプロセスを踏むことが、与えられるべき使命である。その時に忘れてはいけないのは、医学は万能ではないという前提なのだ。
 前出の拙著『高津川』で、登場人物の一人である医師がこんなことを言う場面がある。
「昔は治療をしても二、三割しか助からなかったから医者はすごく感謝された、今は七、八割は助かる医学になってきたから、うまくいかないと医者が非難される」
 権利意識だけ成長させて、医学の限界を考慮することを忘れれば、患者と医師の関係は悪化の道を辿るばかりである。
 自分の受ける医療の選択肢が広がったと書いたが、その選択肢を考えるとき、「神の手」ではありえない人間の手が行う医療には、当然限界があることを承知しなければならない。そうした上で、医師の言う通りに従うという選択のほかに、医師の治療を受けないという選択肢だって当然あってもよい。だが、そこでは、十分な情報の収集と、熟慮という過程が必要であり、その選択に対する自分や家族に対する責任があることも知らなければいけない。

 日本の健康保険制度、年金は皆保険、皆年金となって、全国民平等に受けられるという利点がある。加えて、この健康保険で前回取り上げた「フリーアクセス」を実現させている。後者は健康保険制度を創設したときからの基本理念かどうかは不詳である。むしろ怪我の功名だろうと思っている。この、セカンドオピニオン時代に、いつでも、何回でも、どこの医療機関にでも行って保険診療を受けられるという状況が存在するのは、大変理想的なことと言える。
 時代が進む今後も、本当に2年に1回だけ診療報酬をいじるだけの健康保険制度でいいのか。フリーアクセスのようなよい面を残しながら、福祉、医療が有機的につながった医療福祉制度を、国民の要求、実感を十分に反映させながらそろそろ作りはじめなくてはいけないのではないか。
 納得のゆく制度ならば、国民は負担を増やすことも受け入れるだろう。東日本大震災で国民が「ここは、どうしても金がかかる事態だ」と感じたから莫大な義捐金が集まった。また、だれでも増税は反対に決まっているが、最近のどの世論調査をみても40%前後の人々が消費税増税をやむを得ないことと理解している。そうした日本人の意識変化、成熟度をみても、今こそ有機的な新しい医療と福祉について考えるべきときが来ていると言えるのではなかろうか。

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若倉雅登(わかくら・まさと)

視神経の病気や眼科難病疾患を得意とする専門医。眼そのものにとどまらず、神経や心身のコンディションからアプローチする「心療眼科医」のエキスパートとして有名。
1980年、北里大学大学院医学研究科博士課程修了、医学博士。グラスゴー大学シニア研究員、北里大学医学部助教授を経て、130年の伝統をもつ日本初の眼科専門病院、医療法人社団済安堂井上眼科病院にて名誉院長をつとめる。北里大学客員教授、東京大学非常勤講師。2007年、心療眼科研究会をたちあげる。現在、日本神経眼科学会理事長、アジア神経眼科学会会長、日本眼科学会評議員、日本眼科手術学会理事、メンタルケア協会評議員。著書に、『健康は〈眼〉にきけ――名医が教える眼と心のSOS』(春秋社)、『目力の秘密』『目の異常、そのとき』(人間と歴史社)、『三流になった日本の医療』(PHP研究所)ほか。小説に、『高津川――日本初の女性眼科医 右田アサ』(青志社)がある。

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