第十回
冷戦を背景にした灰色の不条理劇
―― 「スパイ」
アンリ・ジョルジュ・クルーゾー監督といえば、『恐怖の報酬』(52)と『悪魔のような年』(55)があまりにも有名だが、もうひとつ忘れられないのが、一九五七年の作品『スパイ』(日本公開は58年)。十代の頃に見て、その異様な雰囲気に圧倒された。
題名から見ると派手なスパイ・アクションに思われがちだが、これがまったく違う。心理的、形而上学的な不条理劇。そのために公開当時、わけのわからない映画と評されることが多かった。
たとえば淀川長治は『映画の友』誌58年7月号で、この映画を「見て大損をするか、大とくをする映画」とし、「アヘンの如く酔える人はこの映画はさぞかし面白いであろうが、その酔いは悪酔の恐れもある」としている。
つまり、分かりにくいけれども面白い、あるいは逆に、面白いけれども分かりにくい。
しかし、こんなことを書くと生意気だと思われるかもしれないが、中学生の時にこの映画を見て実に面白かったし、分かりやすかった。奇妙な連想だが、当時、熱中していた江戸川乱歩の怪奇小説に近いものを感じた。
一九五〇年代、米ソ冷戦時代の話である。アメリカとソ連が敵対し、相互にスパイ合戦を展開している。『007シリーズ』が作られるのはもう少しあとのことで五〇年代はまだスパイ映画はシリアスな作り方をしている。
東ドイツから原爆製造の知識を持つ科学者がアメリカ人のエージェントの助けで西側に亡命してくる。しかし、この良心的な科学者は自分の原爆製造の知識がアメリカ側に利用されることも拒み、中立国に亡命しようとする。だが、米ソ冷戦時代に、アメリカもソ連も拒否しようとする科学者を受け入れる中立国があるのか。
その背景がこの映画を複雑なものにしている。米ソ――つまり、黒か白かではなく、第三の灰色の中立国(どこと明示されていない)を設定した。そのために、全体に灰色のヴェールがかかり、物語の展開を分かりにくくした。しかし、その灰色であるがゆえの不安な面白さがある。
原作はチェコからアメリカに亡命したエゴン・ホストフスキー。日本でも映画公開に合わせて翻訳が出版されているが、原作はより形而上学的、まさにカフカの世界のように不可思議で映画以上にわかりにくい。
ちなみにクルーゾーは当時、カフカの『城』を映画化しようとしていたが、あまりに難しくホストフスキーに変えたという。それでもなお複雑怪奇。『悪魔のような女』が大ヒットしたので、あえて採算を度外視する冒険が出来た。
物語の展開で見せるよりも、暗く不可解な雰囲気で見せる映画になっている。その点では、フィルム・ノワールといってもいい。フィルム・ノワールの映像の特徴は、夜と雨の場面が多いことだが、この映画も夜と雨が多い。無論、モノクロ。
原作の舞台はニューヨークだが、映画はパリ郊外のヴェルサイユ。森のなかに建つ古ぼけた精神病院がおもな舞台になる。
出だしの映像が素晴らしい。前夜の雨がまだ小雨で残る朝。カメラは、人の姿のほとんど見えない郊外の並木道を映し出す。道路は雨に濡れている。女性がひとり、傘をさして道路沿いにぽつんと建っているカフェにやってくる。女主人のようだ。ギャルソンらしい男が店の前に突き出た天幕に前夜から降りたまった雨水を棒で突き上げて流れ落とす。
カフェの前には、ゴシック・ホラーに登場してもおかしくないような建物がある。精神病院と分かる。その院長マリク(ジェラール・セティ)が小型バイクで戻ってくる。病院の前には先ほどから木立のなかに隠れるように一台の車がとまっている。
やがてその車に乗っていた人物、のちにアメリカ情報局のハワード大佐(ポール・カーペンター)とわかる男がカフェの電話でマリクを呼び出し、カフェでひそかに重大な話をもちかける。
アレックスという男をしばらくかくまって欲しい。謝礼に大金を出す。マリクの精神病院は大きな建物にもかかわらず患者は二人しかいない。経営に困っている。それでマリクはハワード大佐という見知らぬ男の話に乗ってしまう。そこから不可思議な物語が始まる。
ハワード大佐とのひそかな取引きが成立した次の日から、マリクの病院には奇妙なことが起こる。看護師や料理人の顔ぶれが変っている。病院の前のカフェでも従業員が変っている。マリクは不思議に思うが大金の前金をハワード大佐からもらっているため強く抗議出来ない。
このあたりからカフカ的な異様な状況があらわになってくる。
精神病院にはさらに大物が二人、診察にやってくる。アメリカ人のクーパー(サム・ジャッフェ)と、名前からして東欧系らしいカミンスキー(ピーター・ユスティノフ)。それぞれ西側と東側のスパイを代表している。
サム・ジャッフェはジョン・ヒューストン監督の傑作『アスファルト・ジャングル』(50)の中年ギャングで知られる。ピーター・ユスティノフは『スパルタカス』(60)でアカデミー賞助演男優賞を受賞している。
急に得体の知れない人間たちが現われるようになった病院に、ある夜、ひそかにアレックスなる問題の人物がやってくる。夜だというのにサングラスをしている。秘密めいている。この男は何者なのか。
演じているのはドイツの名優クルト・ユルゲンス。この映画のなかでは唯一のスター。
医師のマリクはハワード大佐から頼まれているのでアレックスを匿うことにする。同時に得体の知れない連中の動きも活発になる。誰もがアレックスの正体を知ろうとする。
やがて徐々に分かって来る。アレックスとは東ドイツからハワード大佐の手引きで亡命した原爆製造の科学者フォーゲル博士らしい。そのために東西のスパイたちが動き出した。
ただクルーゾーは分かりやすい説明的な作り方をしていない。暗く、不気味な雰囲気を作り出すことを重視している。
二人いる入院患者のうち一人は、リュシイという失語症の患者。言葉は話せないが、彼女はすべてのことをきちんと目撃している。演じているのは『恐怖の報酬』『悪魔のような女』に出演したヴェラ・クルーゾー。監督の夫人である。
小道具も効いている。なぜかスパイたちが気にするマッチ。近くに住む子供が飛ばす紙ヒコーキ。マリクの部屋に置かれた電話。とくに電話は重要で、ベルが鳴るたびにマリクも観客もどきっとする。
事態がよく分からなくなったマリクはハワード大佐に連絡をとろうとアメリカ大使館に電話をするが、そんな人物はいないといわれてしまう。アメリカ側のスパイ、クーパーに聞くと、ハワード大佐は自分たちを裏切って、亡命させたフォーゲル博士をひそかに第三国に逃がそうとしていると教えられる。
それを知ったマリクは心情的にハワード大佐とフォーゲル博士を助けたくなる。善良な小市民がスパイ合戦に巻き込まれ、さらに、積極的に関わってゆく。
やがて謎の男アレックスはフォーゲル博士の替え玉だと分かる。東西のスパイたちがアレックスを追っている隙にフォーゲル博士を無事に第三国に逃がそうとするハワード大佐の作戦だった。
替え玉と分かるやスパイたちはいっせいに姿を消してしまう。マリクは看護師のふりをして病院に乗り込んでいた女性スパイの手を借りてなんとかハワード大佐を見つけ出すが、アパートの屋根裏に隠れていた大佐は作戦の成功に自信がなくなったらしく毒を飲んで自殺してしまう。死の直前、博士がマルセイユ行きの列車に乗ることを告げる。
ここで列車の場面になる。それまでの静から一気に動に変わる。小さなことだが驚く場面がある。夜行列車が十字路で交差する! フランスの鉄道にはこんなことがあるのか。日本では危なくて考えられない。
マリクは列車のコンパートメントではじめて本物のフォーゲル博士に会うが、列車にまで東西のスパイが追ってきて、追いつめられた博士は列車から飛び降り自殺してしまう。なんとか博士を助けようとしたマリクは空しく、ひっそりとした病院に戻る。
フォーゲル博士を演じているのはドイツの名優O・E・ハッセ。『誰が祖国を売ったか!』(55)でヒトラーに抵抗したカナリス提督を演じたので知られる。
この映画は音楽が使われていない。音楽(作曲はフランス六人組の一人、ジョルジュ・オーリック)はタイトルのところで流れるだけ。あとはいっさいない。現実音だけで通している。
唯一の音楽は、東側のスパイがオカリナという小さな楽器で吹く曲だけ。オカリナは粘土などで作った笛のようなもの。個人的な思い出になるが当時、住んでいた阿佐谷の町にはオカリナという喫茶店があり、それが楽器の名だと知った。
病院に戻ったマリクは失語症の患者リュシイが話せるようになっていることを知り、うれしく驚く。そして彼女を証人にして起ったことを警察に知らせようとする。
その途端、机の上の電話が鳴る。マリクも観客もぎょっとする。どちらかのスパイがまだ部屋に盗聴器を仕掛けていて、お前のことを監視しているぞという警告である。
そして電話が鳴り続けるなか「FIN」と出る。この映画、歌舞伎町にあった二番館、新宿劇場で見たのだが、幕が降りた瞬間、場内に次回開幕を告げるベルが鳴り響いた。映画のなかの不気味さが継続しているようで怖かった。
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