第一〇回

工業学校に入る

 国民学校6年生のころである。受験前だというのに、野崎は暇さえあれば小説ばかり読んでいた。菊池寛は全集を、山本周五郎も片っ端から読破するほどの読書家であった。
 子どもが本を読まなくなったことに大人が危機感を抱く現代であれば、受験前に本を読んでいても、野崎は模範的な子どもとして見なされたのかもしれない。しかし、時代は戦時中である。国に尽くすことが尊ばれていた世相では、野崎のようなタイプは勉強を全然やらないで遊んでいるダメな子どもとして見なされた。
「男と女が絡み合う小説ばかり読んでいると軽薄な不良になる。だいたい文士というのはまともに働かない世間の外れ者の無頼じゃないか。刻苦勉励[こっくべんれい]することが大事なのに、博はなんだ!」
 小説家の考えに染まりすぎて、虚無的な考えに陥り、怠け者になったり、反体制的な考えを持ったりすると、博は将来、立派な大人になれない。息子である博の将来を父親の知城さんは人一倍憂えていた。
「おまえ、またそんな軟弱なもの読みやがって」
 家で小説を読みふけっていた野崎に対して、知城さんはしばしば手段を講じた。殴り飛ばしたり、本を没収したりと強引な手段で、読書をやめさせようとした。
 知城さんの思いに反し、野崎は本の世界にますますのめり込んでいった。その結果、野崎の成績は伸び悩んだ。放課後に補習を受け、街灯がともる頃にやっと下校するのもしばしばというぐらいに頑張ったりしたが、それでも努力は足らず、中学校の合格基準に達しなかった。

「おまえの成績じゃ中学に行くのは無理だ。工業学校受けれ」
 担任の先生にそう言われ、野崎は納得する。読書好きだったため国語の成績は良かったが、理科は苦手なままであった。国語だけで受験が出来るのなら、合格するのだろう。しかし、試験は国語以外の教科もあった。
 野崎は次のような考えに至る。
「自分ほど工業学校に向いていない生徒はいない。数学や理科など理系科目の成績はからきしなんだから。だけど2、3年で飛行兵になって戦争で死ぬんだから。中学校か工業学校かなんて、どうでもいいや」
 野崎はとにかく戦争に行きたがった。格好がいい飛行兵という職業に就くのを望んでいた。飛行兵になるには予科練(海軍飛行予科練習生)に採用されるなどして、飛行機乗りにならねばならない。例えば予科練の場合、中学校4学年修了程度の学力を必要とした。国民学校の高等科に行っていては論外である。しかし工業学校であれば可能性は残されていた。「中学校か工業高校かなんて、どうでもいいや」と当初は思ったものの、工業学校に行くと決めたら、心身を鍛えて試験に備えるぞ、と自らを鼓舞するようになる。

 野崎が受験したのは興南公立工業学校という、昭和15(1940)年に創立された新設校であった。地元企業の朝鮮窒素肥料が約56万円(現在の数十億円)を出資し、すべての施設を建設したというから、公立とはいえ実質的には朝鮮窒素肥料による私立学校だったのだろう。5年制というのはほかの旧制中学校と同じである。煉瓦造りの立派な校舎には50人のクラスが4つ、男子生徒が機械や化学など5つの科に分かれて学んでいた。
 国語、理科、数学に口頭試問(いまでいう面接)が試験科目であった。口頭試問の目的は人柄より、歴史観を調べることにあった。国のために忠実な子どもとして育っているか、教師たちは知りたかったのだろう。その点、野崎はまったく問題がなかった。

 試験は幸い、合格となる。
 野崎は第5期生で、この年に立ち上げられた電気科に所属した。ほかの科を選ばなかったのは、汚れ仕事(今でいう3K仕事)ではないから、という単純な理由によるものであった。
 当時の実業学校(農・工・商業)は半数が朝鮮人の学生であったというから、鎮海中学に比べると朝鮮人に門戸が開かれていたほうである。
 人口比率と進学率が比例すると考えれば、中学校の生徒数は朝鮮人が圧倒的に多くなる。しかし、実際には日本人のほうが、進学率は高かった。というのも朝鮮総督府が朝鮮人を二等国民とし、支配者はあくまで日本人としたからだ。施政者だけでなく、将来を背負って立つ人材にもまた日本人を置きたかったのだ。朝鮮人も日本の国の一員だから、「日本人」である。しかし彼らに国を任せるほど、本土の人間は朝鮮人のことを信用していなかったことの表れなのだろう。朝鮮人は差別されていたということである。

暴力による洗礼

 入学2日目、体格や体力の検査があった。ここでも鎮海中学校の受験同様に、野崎は懸垂をさせられる。そのとき記録係をつとめた上級生は日本人であった。
「はい、次。本籍と名前は」
「福井県 野崎博です」
 申告してから、飛び上がり、野崎は鉄棒にぶら下がる。松尾博文は飛び上がった勢いでこなした回数を含めても2回が精一杯だったが、野崎は博文に比べると、体力があり、4回はこなすことができた。
「よし10回」
 記録係は野崎の回数を勝手に水増しする。同じ日本人だからということで記録係は野崎に対して身びいきした。
 下駄を履かせてもらったことについて、野崎はあっけにとられつつも、内心は喜んでいた。
 記録係は無論、同級生の朝鮮人に対して、記録を細工するということはしなかった。一方、朝鮮人の記録係は朝鮮人の学生に対して身びいきをしただろう。

 入学してまもなくのころだ。クラスで昼食を食べていたとき事件が起こった。突然、上級生が3、4人、教室に乱入してきた。
「ようし、そのまま話を聞け!」
 竹刀を手にしている。いきなりのことにあっけにとられつつも、まわりに左右されない野崎はそのままモグモグと箸を進めた。見咎めた上級生は野崎の行為に注意する。
「誰がメシを食えと言った。人が話をしているときは箸を置け!」
 バンッと竹刀で机を叩く音がする。
 慌てて食べるのをやめたが、ときすでに遅し。上級生の反感を買ったらしい。教室はピンと糸をはったように張り詰める。野崎たちはなにをされるのかわからず怯えた。
「目を閉じろ!」
 生徒たちは号令にあわせ、全員が一斉に目を閉じた。

 しかし、困ったことに、目を開けていいという許可はいつまでたっても下りない。目をつぶっているため、その時間は永遠に思えるぐらいに長く感じられた。
 しびれを切らした野崎は我慢できず、ついに薄目を開ける。
「誰が目を開けろと言った!」
 上級生たちは怒鳴りながら、またも机を竹刀で叩く。野崎は慌てて目を閉じる。
「おまえらはたるんでる。気合いが入ってない。人が話をしているときに箸を置かなかったり、目を勝手に開けたり。上級生の命令に対して守ろうとしない。態度が悪いんだ」
 そう言いながら、上級生は、再び竹刀で机を叩いた。
 野崎は驚いて肩をびくっとふるわせた。目を閉じているためか、竹刀の音が余計に怖ろしく感じられた。
 説教をぶつと溜飲が下がったのか、上級生たちは教室を出て行った。残された生徒たちは呆然とし、しばし沈黙が流れた。

 このようなことは、入学すると誰でも体験する通過儀礼だったということをのちに知るようになる。教室を急襲した上級生たちも、1年生だったときに、同じような洗礼を受けたし、そのまた上級生もまた同様であった。理不尽にそして暴力的に振る舞うことで、「上級生の言うことは絶対」だという校内ヒエラルキーを、新入生にたたき込むのが、この学校の伝統となっていたのだろう。

 戦局が悪化する中、野崎の通っていた学校も、鎮海中学同様に授業どころではなくなっていく。昭和19(1944)年の2学期までは、国語や理科、数学、英語のほかに食糧増産のための芋栽培、そして電気の実習などがあり、野崎たちの学校は機能していた。
 行進や匍匐[ほふく]前進、銃剣術。体育の代わりである軍事教練も積極的に行われた。「お国のために死ぬ」という将来の目的に教練は役に立つことから、野崎は張り切った。
 教練というと、暴力がつきものであるし、嫌な思い出を抱いているのかと思っていたら、野崎はむしろ楽しかったという。
「おっちょこちょいだったのでね、よく怒られました。でも教練は楽しかったよ」
 失敗したりして目立っても、野崎だけが見せしめ的にひとりだけ殴られるわけではない。全員が殴られる連帯責任制である。
「眼鏡を外せ、眼をつむれ、歯を食いしばれ、股を開け」
 二列に並ばされ、生徒同士殴り合いをさせられても、野崎は、博文や古賀のように対抗演習を苦にすることはなかった。尋常小学校から国民学校に通っていたころ、見せしめ的に殴られることが多かった野崎は、全員が殴られる方がまだましだと思っていたのだ。

朝鮮人との付き合い

 朝鮮人同級生と机を並べて勉強するのは、鎮海中学の博文や古賀だけでなく、興南工業学校の野崎にとっても初めての体験であった。それまで顔をあわせた朝鮮人と言えば、家に手伝いに来てくれた子守や、集落に迷い込んでしまったときに自分を取り囲んだ子どもたちぐらいのもので、親しくつきあうという経験をしたことがなかった。野崎は朝鮮人が珍しくて、最初の頃は同級生たちの顔をまじまじと見てしまう。
 日本語学習は朝鮮人には不利である。しかも倍率は日本人生徒に比べると著しく高い。そのような不利な条件に置かれながら試験に合格するだけあって同級生の朝鮮人は精鋭揃いであった。同級生といっても1-2才年上の者が多かったので、知力体力共に圧倒されていた。日本人は朝鮮人に対してけんかをふっかけることなど出来ず、逆に朝鮮人からすると、年下の日本人同級生に対して弟に接するような気持ちでいたのか、やはり手を出すことはなかった。互いに挑発しあうことはなかったのは、年齢差によって微妙な均衡が保たれていたからなのだろう。

 生徒や教師、また生徒同士。日本人と朝鮮人は内鮮一体という言葉通り、融和していた。
 野崎が朝鮮人の級友たち3人と、自分たちが見た映画の話をしていたときのことだ。
 当時、映画館に入るのを見つかると一週間の停学を食らう時代であったけれども、野崎らは危険覚悟で見に行った。小遣いではまわらずに野崎は親の財布からお金を抜き取って見に行ったこともある。
 咸興[ハムフン]出身の朴竜興(彼が堂々と朝鮮名を名乗っていたのは、父が有名な独立運動家だったという理由による)は西部劇の話をした。
「へえー、面白そうだ」
「僕も見てみたい」
 アメリカの大地を駆け回るカウボーイを想像し一同は胸を躍らせたのだろう。
「野崎は何を見てきたんだ?」
 次に順番がやってきた野崎は、吉川英治原作『天兵童子』について話すことにした。
「……時代は豊臣時代、あの朝鮮征伐の秀吉の頃……」
「……ウーン」
 それまでは和やかに話していた級友たちが、息をつめた声にならない声を発した。級友たちの表情から笑顔は消えている。
 級友たちの心のスイッチを押してしまったことに気がついた野崎はハッとする。豊臣秀吉という、朝鮮人からすると侵略者である武将のことを口にしたことが、級友たちは許せなかったのだろう。
 しかし、幸いなことに張り詰めた雰囲気はすぐに変わった。
「ところで、ほかに面白い映画はあったかな?」
 その場に居合わせた他の級友が話を切り出した。そして何事もなかったかのようにすぐにまた和やかな話となった。
 侵略されたという事実は、野崎がそれまで想像していた以上に同級生たちの心の傷として深く残っている。そのことを語り合いの中から野崎は強く思い知ったのだった。

 剣道部に入っていた野崎は、顧問である教師の指示により、名札の上に「剣」と朱書していた。「肉を切らせて骨を断つ」というのが日本精神の神髄である。日本人であることに誇りを持て、という意図があった。
 普段から「剣」という朱書きを胸に目立たせていた野崎は、数学の授業で、清原という朝鮮人の教師に指摘される。
「君らの名札の文字は何の意味だね」
「剣道部の印です」
「ウーン、剣道部かあ、それは学校の規則なのかねえ」
 言葉は穏やかだった。しかし頬にはあざけりの色があった。
 このとき内心、「これは皮肉ではない。差別だ」と野崎は思った。
 黒板の問題を解くように日本人生徒を何人か指した時、野崎を含めて誰も解けなかった。しかし、次にさされた朝鮮人生徒はすらすらと解いてみせたことがあった。「剣」の朱書に対してではなく、日本人の生徒たちの出来が悪いことをあざけったと野崎は受け取ったのだ。
 何かにつけて優遇される日本人に対して、面白くないと感じていた清原先生は、そうやって、鬱憤を晴らしていたのではないだろうか。

 心温まる交流も経験している。
 勤労動員で城川江のほとりにある朝鮮人農家のところへ田植えに行った。その日は小鳥がさえずる晴れ渡った春の日であった。
 生徒たちは一列に並び、紐で記された印にそって植えていく。午前中の作業が終わるころアジュンマ(朝鮮人のおばさん)が声をかける。
「ご飯にしてください」
 昼食は野崎にとっては初めての朝鮮料理である。
「たくさんお上がり」
 アジュンマは野崎ら生徒たちに朝鮮料理を振る舞う。メンタイを醤油で煮た料理や朝鮮漬けの入った混ぜご飯のキムチビビンバである。
 好奇心旺盛な野崎は興味津々で口の中に運ぶ。独特の唐辛子の辛さとキムチの酸味が口の中に広がる。
「おいしい」
 初めて食べた朝鮮料理に野崎は満足する。
 午後の作業を終えた後、農家を離れる。アジュンマは見送ってくれた。
 実る前の麦の青さとアジュンマのもてなしぶりが野崎の心に残った。

 同級生の反応に驚いたり、先生の態度に違和感を覚えたり、アジュンマのもてなしに喜んだり。工業学校での学園生活を通して、野崎は朝鮮という「異文化」を次第に受け入れていった。

毎日100回の素振り

 昭和20(1945)年3月、B29が一機飛来した。防空隊が高射砲を撃ったが高度が高すぎて届かない。興南のような軍需物資製造工場が連なる工業地帯は米軍の標的になってもおかしくはなかった。しかし、単に偵察にきただけであった。飛行機が四条の飛行機雲をひきながら飛んでいる。その様子が青空に映えた。美しい、きれいだなあと野崎と思った。白煙を退いていることから野崎たち生徒は「すぐに墜ちるぞ」と話し合ったが、そうではなかった。結局、空襲は一度もなかった。

 4月となり、2年生に進級すると、英語の授業が廃止された。国のために死ぬことを夢見、鬼畜米英の標語を信じていた野崎はバンザイバンザイと喜んだ。
「英語がないなんてこんなに楽なことはない」
 彼が生まれて初めて楽だと思った瞬間だった。
 しかし、この年になると授業そのものがまったくなかった。あるのは興南工場での学徒動員だけである。火薬、肥料、薬品、石けんなど、さまざまな製品を作り出すコンビナートである興南工場地帯には商業学校や農林学校、女学校などいろんな学校から学生が集っていた。野崎らは軍事物資を直接生産する部署ではなく、工場内の整理整頓や無蓋貨車に積んだ石炭を降ろしたりといった単純労働ばかりさせられた。

 この年の春、陸軍幼年学校の受験のための予備身体検査があった。陸軍幼年学校は陸軍士官学校を目指す子どもたちが目指した。受験資格は13-15歳の中学1-2年修了程度の生徒で、20-30倍という競争率はこのころの中学校の競争率の4倍であった。東京のほか、仙台や大阪、熊本、名古屋などにあり、各校に50人が集い、幹部候補生として2-3年の教育を受けることになった。推理小説で有名な西村京太郎や精神科医のなだいなだ、作曲家のいずみたくは敗戦時、幼年学校に在学していた生徒である。
 野崎は陸軍幼年学校の願書を提出するため、父親に承諾の捺印を頼んだ。しかし、知城さんは承諾書に判を押さなかった。
「子どもなのに軍隊の学校に行く必要ない。敏夫がすでに戦地でご奉公しているのだから二人も行かなくていい。勉強しなさい」と強く言った。
 野崎は「父は非国民だ」と思った。そして彼はハンコを盗んで願書を出した。

 望んだ予備身体検査では痩せていた野崎は胸囲が足らなかったため、振り落とされる。合格して、陸軍幼年学校で勉強したいと思った野崎は毎日の木刀の素振りを自らに課す。学校に行く前に毎朝、100回である。

インパールで死線をかいくぐった兄

 戦地から敏夫さんの手紙がしばしば届いた。しかし、中国から東南アジアへと転戦してからは手紙がぱったりと途絶えてしまう。敗戦まで2年ほど音信不通となる。
 インドを植民地としていたイギリスと、ビルマまで占領した日本が国境付近で激突した。日本はインドも手中に収めるべく、インドとビルマの国境地帯にあるインパールという小さな町を包囲する作戦が開始された。昭和19(1944)年3月のことである。
 ビルマ北西部、インド国境の近くを流れる大河チンドウィン河を渡った後、標高2千メートル級の峻険な山々の連なるジャングルを補給らしい補給なしで進撃していくという無謀な作戦であった。6月、雨期に入ると完全に補給が途絶えてしまう。ジャングルの中を進撃していた日本兵は飢えと病気、空軍の支援を受けたイギリス軍の反撃によって、劣勢に陥り、翌7月には撤退を余儀なくされる。この戦いによって日本軍約8万6000人のうち、戦死・戦病死者の数は約3万人にのぼった。
 太平洋戦争の中でも最も悲惨な戦いの一つであり、陸軍の無謀な作戦の代名詞ともいえる象徴的な戦いであった。野崎さんのお兄さんはそのような戦いに参加していたのだ。次に書くのは、僕が敏夫さんご本人から直接聞いた体験談である。

「中国には1年半いました。江陰(上海から西北西の方角に約140キロの地点)の基地で警備をしていました。匪賊がたくさんいたので1週間に1回ぐらいは交戦がありました。手紙を出したのはその頃です。もちろん場所は書けません。
 転戦の指令があり上海から船に乗りました。13隻の輸送船(平たい川船)。駆逐艦、飛行機が先導し護衛しました。行き先は告げられていませんでした。
 船は南へ向かっているようでした。台湾海峡の島から先は全滅しないよう、船団はわざとバラけ、1週間ほどかかって到着したのはベトナムのサイゴンでした。
 そこからは引き続き、船で川をさかのぼっていきます。途中からは汽車に乗り換えて、シャム(現在のタイ)を移動します。首都のバンコク、北上してチェンマイです。
 チェンマイから先は鉄道がありません。ビルマのマンダレーまではジャングルの中を徒歩で行軍することになります。炎天下ですから暑くてきつかったですが日本が占領していたので安全な道中でした」

 野崎敏夫さんが所属したのは第15師団67連隊第2大隊第7中隊で通称「祭」部隊であった。部隊ごとに分かれて、イギリス軍が駐留しているインパールを取り囲むために、ビルマとインド国境の道なき道を行軍する。ジャングルに覆われているので、どこを歩いているのかわからない。兵站が伸びきっているので補給はない。飲まず食わずで歩き続けるしかなかった。
 インパール付近に到着した「祭」部隊は攻撃を開始する。戦車100台とともに攻撃を仕掛けるはずだったが、錆びて穴があき使い物にならず、敏夫さんたちは丸腰に近い白兵戦を強いられてしまう。
 日本軍の接近を察知していたのか、イギリス軍に返り討ちにされる。
「向こうが気がつかんうちに日本軍が包囲して奇襲したつもりが、バンバンと撃たれた。英国軍は戦車と飛行機で攻めてくる。匍匐前進をすると腰から下げている雑嚢が敵の銃撃によってたちまちボロボロになりました」
 あまりの劣勢に撤退命令が出される。そのころ、雨期は最盛期となっていた。食べ物は尽き、兵たちは栄養失調にかかってしまう。マラリアや赤痢といった病気にかかる者が続出する。そのような状態で、敏夫さんたちは死の退却を続けることになる。
「ゴーという敵戦車の音が聞こえましたが、ジャングルなので自分たちがどこにいるのか判りません。昼寝て、陣地を築いて逃げて、陣地を築いて攻撃した。逃げたかったが逃げたら味方にやられる。部隊が飛び石で交互に退却したんです。機関銃しか持っていなかったのですが、イギリス軍が怖がって逃げていくこともありましたね」
 もちろん形勢は逆転しない。追い詰められた日本軍は次々に兵力を落としていく。落後した兵の中には手榴弾で自決する者、虎に食われる者、イギリス軍にガソリンで火をつけられる者と悲惨な末路をたどる者が多かった。
「気がついたらみな全滅です。蠅が覆っていて真っ黒になっているんですが、しばらくすると骨と軍服だけになった。産み付けられたウジが味方の兵士を食ってしまったんです。
 味方の白骨は退却の道標になりました。インパールに近づくにしろ、退却するにしろ、実際に通っていたんですから。味方同士、まとまって退却すると目立ってしまい、敵軍の攻撃を受ける可能性があります。だから退却はそれぞれ少人数です。
 その道中、まわりで戦友が死ぬのは当たり前でした。敵の攻撃のほかには栄養失調で衰弱したり、マラリアにかかったりして、バタバタと亡くなっていきました。ジャングルの中を這い回り、骸骨が転がる中、逃げ惑う。補給はない。どこにいるのかまったくわかりません。
 連隊旗の護衛は本来であれば、階級が上の人間がやるのですが、みな死んでいたので私がやりました。逃げる途中、村があると軍票で食料を買ってインパールのそばからマンダレーまで行きました。川が広がると筏に銃器を積み、自分たちは泳いで渡りました。中にはワニがうようよと潜んでいる川もありましたが、やはり泳いで渡るしかありませんでした。結局、私たちが最後の撤退でした。友軍の基地にたどり着いたとき、私たちは痩せ細っていました。骨と皮しかないような状態でした」

 200人の中隊は壊滅、敏夫さんを含め4人だけが生き残った。後の者は戦闘で亡くなったり、飢えで衰弱したり、病気にかかったりして亡くなっていった。生き残ったのは、とても希なことであった。

15歳で諜報員になった兄

 溝上愰の父、秀雄さんは昭和19(1944)年の正月明け、警察署に参考人として呼ばれている。とある父の友人が、溝上家で酒を飲み、帰宅後に変死するという事件が発生したからだ。言いたいことははっきり言う。そんな性格だったためか、罪をとがめられたわけでもないのに2、3日帰ってくることが出来なかった。ぬれぎぬを着せられて、「何を言うか」と警察に楯突いたことが警察官の心証を著しく害してしまった。取調中、殴る蹴るの暴行を受けた。
 秀雄さんは帰って来るなり、「赤紙(召集令状)がたぶんくると思う」と、迫り来る運命を、取り乱すことなく冷静に予言して見せた。

 3月になり、溝上は鶴崗在満国民学校を卒業する。中学進学に申し分のない成績をおさめていた溝上は当然、進学を希望する。陸軍の幼年学校を卒業した後に士官学校に進み、将来的には将校になりたい。そのような当時としては平凡な将来の夢を溝上も抱いていた。中学校に入るのは幼年学校進学の近道であるから、溝上が進学を希望しないわけはなかった。
 ところが父親である秀雄さんはその決断を認めなかった。溝上は受験を許されず、そのまま国民学校高等科へ進学することになる。秀雄さんには意図があった。愰の二つ上の兄と同様、愰を特務機関に入れようと思っていたのである。
 特務機関とは、諜報、宣撫工作、対反乱作戦といった特殊任務を占領地や作戦地で遂行する組織のことである。軍閥や国府軍、八路軍にソ連軍、朝鮮の独立派などそれぞれの政治的な思惑を抱いている勢力が入り交じり、暗躍していた満州では、統治を盤石なものにするために特殊工作が欠かせないと関東軍は思っていた。そのため、満州各地には官製だけではなく民間のものも含め、各種の特務機関組織が活動していた。満州国を運営する日本人官僚の代表的人物に武部六蔵(国務院総務長官)がいる。溝上の兄が属していたのは武部氏直属の特務機関であった。
 溝上愰の兄は全満州から20名というすさまじい倍率の試験をくぐり抜け、遼寧省中部の町、営口での1年即製の訓練の後、15歳で特務機関員となった。八路軍の拠点を見つけ出し、そこで中国人の行商のふりをして、潜入する。拠点の入り口近くで商売をしながら、見張りを続け、出入りする顔ぶれを確認し、特定できた時点で専門の上級機関に連絡する。溝上兄の仕事はそこでおしまいである。
 摘発された活動家はその後、過酷な運命を辿った。拷問を伴った取り調べにより、自白を強要される。中には廃人になってしまう者もいて、そうした者たちはハルピンにある防疫給水部(後に731部隊として知られる)に送られることになる。「マルタ」と呼ばれ人体実験の被験者として扱われていたことは当時、ごく一部の者しか知らされていなかった。
 秀雄さんは息子の活動の詳細を知るはずがなかった。自分のように警察に目をつけられない職業について欲しいという一念から息子を特務機関へとすすませた。警察よりも強い権限を持っていれば、同様に愰も安泰だ。そのように考えたのだ。

懲罰的な召集

 高等科では勤労奉仕ばかりさせられる。全校生徒による塹壕掘りや根が薬用となるキキョウ掘り。ほかには畑作業も多かった。在校生の食糧は19年にはすでに不足していたので、食糧増産に励まされた。
 8月に入り、秀雄さんの予感は的中する。召集令状が届いた。このころ、兵士は前線で次々と消耗し、不足していた。敗戦にかけて日本軍は40歳以上の者でも、根こそぎで召集するようになっていったのだ。明治33(1900)年生まれだから、満44歳と召集するには年を取りすぎていた。あと数ヶ月で召集年齢の上限である45歳になろうかというところで、召集を受けた。
 秀雄さんは元々目をつけられていた可能性がある。主に家の中でだが、海軍仕込みの響き渡る声で、次のようなことを常々言っていた。
「アメリカとの戦争で日本が勝つはずはない。日本は負ける」
 当時の禁句を口癖のようにして連呼していた。聞いていた近所の人たちが警察に通報したとしても不思議ではない。

 秀雄さんは次のように妻に言い残して、発った。
「俺の方針で愰は高等科へ行かせたが、もし愰が来年からでも中学に行くと言うなら行かせろ」と。生きて帰ることは出来ないと観念していた彼は、だったら息子の好きなようにさせよう。そう思って出征していった。
 鉄道で満州を南下し、船で玄界灘を渡った。連れて行かれたのは海軍上がりの秀雄さんにとっては懐かしい佐世保だった。佐世保海兵団に参加し、1ヶ月訓練した後、沖縄那覇部隊への配属が決まった。
 船で東シナ海を南下していく。同乗の兵士には似たような年齢の中年男性、つまりロートルが多かった。
 海軍で鍛え上げた肉体を持つ秀雄さんは彼らを見て、「こんな奴連れて行って戦争になるのか」と首をかしげた。
 秀雄さんからの連絡は、11月に「沖縄に配属になった」という手紙を最後に途絶えた。アメリカに制海権を握られたため、郵便船の行き来が難しくなったからだ。

寄宿舎生活

「中学に行くというなら行かせろ」という父の意を受けて、溝上は昭和20年、受験をし直す。合格し、1年遅れでチャムス中学に通うことになる。
 4月、沖縄本島にアメリカ軍が上陸する。軍民あわせて毎日約2500人以上の日本人が死ぬ、血みどろの戦いが続いていた。父の安否がわからず、しかも勉強できる環境でもない。そんな心ここにあらずといった中学生活であった。6月23日、沖縄は陥落する。父が死んだと思った溝上は寄宿舎で布団をかぶってワンワンと号泣した。

 ほかの者同様、昭和20年4月以後、学校教育は行われなくなっていた。せっかく合格したのに、授業はなく勤労奉仕ばかりの日々であった。寄宿舎には約30人の寮生が集った。15人ずつ、板で仕切っただけの部屋で上級生と下級生が入り交じった混成生活である。勉強するのも寝るのもその部屋で行うことになる。私的空間は一切なかったのだ。朝夕の掃除や便所掃除、寄宿舎の警備にいたるまで、下級生の仕事であった。
 道路の向かいには満人の集落があった。寄宿舎と集落を隔てている道は舗装されておらず、穴が空き、そこにはヘドロがたまっていた。死に対する考え方や習慣がそうさせるのか。その窪地にはなぜか新旧の棺桶がおかれ、まわりを豚やアヒルが駆けずっていたりして、周囲の衛生状態は悪かった。
 朝、学校に出かけ、寄宿舎が留守になると、空き巣に入られる可能性があった。日本人に比べると生活水準がとても低い満人たちが、寮に入って日本人生徒たちのものをほしがり、盗んでしまってもおかしくはなかった。そこで1年生が交代で毎日、寄宿舎の番をした。溝上は月曜の担当だったので、その曜日の授業を彼は受けることが出来なかった。
 一触即発の治安の悪さといい、そうした仕事を寮生に任せてしまうことといい、現代では考えられないことだが、当時はそれが当たり前だった。

 生活環境の悪さは日本人が彼らを集落から追い出したせいもあるのかもしれない。つまり、日本人がそれだけ辺境にまで移住していたということも示している。
 野良犬がうろついているのは見慣れた光景であった。留守番中、大きな犬が人間の子どもの死骸をくわえてきて、玄関の石段のところで食い始めたことがあった。野生児の溝上とはいえ大型犬を追い払う勇気はない。そんなことをすれば、犬に自分が襲われ食われてしまうかもしれない。溝上は、震えるばかりであった。
 やがて満腹したのか、犬は食べかけの子どもの亡骸をくわえ、どこかへ去っていく。溝上は安堵する。冷静になった溝上の頭には別の考えが去来する。
「出征し、戦場に出ると、否が応でも死体を目にすることになる。なのに俺はびびってしまっている。こんなことぐらいで衝撃を受けてしまう弱虫じゃ、戦場で生き残っていけないぞ」
 将来の出征を覚悟していた溝上は、自分にそう言い聞かせ、鼓舞した。
 夏以降、ソ連侵攻という事情により、嫌というほどの死体を目にすることになるが、そんなことをこの時点では知る由もなかった。

 寄宿舎生活は兵営生活さながらの厳しいものであった。しかも、食糧は不足し、空腹との戦いは熾烈であった。
 寄宿舎の舎監(監督者のこと)をやっていたのは、学校の体育教師である。彼はほぼ毎晩、生徒たちに点呼を取らせた。
「1、2、3、4」
 各生徒が数字を言い、全員いるかどうか確かめるのだが、舎監はなにかしら理由をつけて、樫の拍子木で目いっぱい生徒たちの頭を殴った。連帯責任であるから、殴られるのは寮生全員であった。それは目から火が出るような痛さであった。不始末をしでかした張本人はさらに罰が加わる。全員が見ている前で、失神するぐらい強く往復ビンタをくらわされたのである。明日は我が身かと、身に降りかかるかもしれない制裁に、誰しもが恐怖していた。

 唯一の憂さ晴らしと言えば、鶴崗の社宅で隣同士であったチャムス高等女学校4年のお姉さんに、高女の寄宿舎で洗濯物を洗ってもらったことぐらいであった。当時、自分の姉や妹とでも、一緒に歩いていれば、退学処分を受ける時代であったという。だからこそ、お姉さんとこっそり会い、洗濯してもらうだけでも、大変危険なことで、だからこそ快感があった。

満州国の崩壊

 一学期が終了し夏休みになっても、溝上は鶴崗の実家に帰ることが出来なかった。チャムス在住の自宅通学生と一緒になって1年生は勤労奉仕につとめたのである。
 8月になると、関東軍の弾薬庫の草刈りがあった。それが済むと、次はチャムス飛行場の草刈りを任された。
「これから1週間やってもらうぞ」
 監督する軍人にはそう言い聞かされていた。初日は昼から夕方までで終了となる。このぐらいの作業なら大丈夫。楽ちんだ。宿舎に戻った愰ら生徒たちは安堵する。
 しかし、運命は翌日、突然の事態に直面し、暗転する。
「今夜、午前零時を期し、ソ連軍が侵攻してくる。よって諸君たちの勤労奉仕は中止。明日、朝食が済んだら、すぐに引き揚げるように!」
 飛行場作業に入る前日、上級生たちが開拓団の村から勤労奉仕を終えて帰ってきていた。その場で満人から「日本はもうすぐ負ける。日本人は今のうちに美味しいものを食べておいた方がいい」と言われたと上級生たちに聞かされていた。だから、溝上は「ついに来るべきときが来た」と子どもながらに観念した。

 翌朝、校庭の隅で中学校の解散式が行われた。
「チャムス中学校は解散する。諸君はすみやかに家族の元に帰り、避難するように」
 式の始まりから終わりまで、30秒あるかなしかという短くて素っ気ない解散式であった。
 溝上は困った。寮生活を送っていたこの地から、簡単に家族のいる鶴岡に帰れるはずがないからだ。
 そのとき沖縄で生死不明の父、特務機関で活動家を摘発する兄、鶴崗にいる母や妹、そして愰と、溝上家はバラバラであった。

※本稿の時代背景を説明するため、地名・呼び名など、当時の表現のまま記述した箇所があります。

第一一回へ  

ページトップに戻る

西牟田 靖(にしむた・やすし)

1970年大阪生まれ。神戸学院大学法学部卒業。8ヶ月の会社員生活の後、地球一周の船旅へ。以降、ライターとして活動を始める。『深夜特急』の経緯をたどる香港からロンドンへのバス旅、北インド、ベトナム取材、タリバン支配下のアフガニスタン潜入、空爆停止直後のユーゴスラビア突入、旧大日本帝国エリアの踏破など、世界各地に挑戦的な旅を続けてきた。訪れた国は50以上、国内外を含め訪れた離島は100を超える。著書に『僕の見た「大日本帝国」』、『誰も国境を知らない』(いずれも情報センター出版局)などがある。

著者ホームページ http://nishimuta62.web.fc2.com

Web春秋トップに戻る