第九回


〈私〉はいかにして世界に埋め込まれうるか

 前回提示した三種の知においては、一方向的にではあるが、第二の独在知が第三の媒体知を介して第一の全体知へと繋がることができた。しかしもちろん、実際には全体知のようなものが与えられていることはありえない。その場合、おのれを客観的世界の中に位置づけて(たとえば)たくさん存在している人間という動物の一例であると理解するには、(いまだ自己知なき)独在知から出発して、そこになぜか見出される受肉という事実を経由することによって、第一の全体知の可能性をひらいていく、という経路をとるしかないことになる。その逆の経路がすでに閉ざされていることは(一方向性によって)すでに明らかだろうが、こちらの経路のほうはいかにして可能なのか。
 フィルムと映像の比喩で言うならば、それは、なぜか現に今映っている唯一の映像から出発して、その映像内容を基にして(それ自身を一部として含むような)フィルムの全体を(少なくともその概要を)構成する、ということである。前回に提示した筋道はそのようなものではなかった。それは、独在知(現に今映っている映像)から出発するとはいえ、全体知(フィルム)は初めから与えられており、その二つを、媒体知(映像の内容)を使って繋ぐにすぎなかった。すでに何らかの形で全体知が与えられているのであれば、現実に直接与えられている独在知の側から、おのれがそのうちのどれにあたるかを突き止めることはたやすいだろう。フィルムの全容を知っているなら、現に映っている映像がそのどこにあたるかは当然わかるであろうからだ。
 しかし、現に映っている映像だけから、すなわちそれが現に映っているという事実とその内容だけから、フィルムの全容を、ともかくもその骨格を構成することなどがどうしてできようか。この課題は、伝統的には、意識に内在するものからそれを超越する世界を構成するという超越論的構成の課題に対応する。そもそも事実として私の意識に与えられているものしか手掛かりはないのだから、それを超越するものもまたそこから構成されるほかはないはずだ、と主張されることもある。もっともな主張ではあるが、じつのところはその仕事は、意識に内在するということの意味を広げて、カントのカテゴリーをはじめとする、内在するとも外在するともいえるある種の超越力をはらんだものの助けを借りなければ成し遂げられない。問題はむしろ、そういう助けを借りさえすれば(いかにして)成し遂げられるのか、である。
 助けを借りたとしてもなお、もっと根本的な発想の転換を要求する、途方もなく困難な課題が待ち受けているだろう。それは、現に映っている唯一の映像だけから、すなわちそれだけが現に映っているという事実とその映像内容(と直前に指摘した助け)だけを手掛かりに、可能な諸映像というものを構想し、おのれをそれらの一つとして位置づける、という課題である。同種の他の諸映像などというものが端的に無いことによってこそ特徴づけられていたまさにそのものにかんして、その内部からそのことにおいて同種の、他の諸映像の存在可能性を導き出し、それらと並ぶ一例として現に映っている映像を位置づけなおす、という課題である。
 ウィトゲンシュタインは『哲学的考察』第54節の、前回引用した個所の直前で、そこでの「現在」という語の用法にかんして、こう言っていた。

その語によって意味されているのは……空間内にあるものではなく空間それ自身にほかならない。すなわち、それは他のものに境を接する(したがって他のものによって境界づけられうる)ということがない。したがって、それは言語によって正当に際立たせることの不可能なものである。

 ここで使われている比喩によって表現するなら、われわれが直面している課題は、その「空間それ自身」を空間内に在る一つのものにすることであり、その「他のものに境を接するということがない」ものを他のものに境を接するということがあるものにすることであり、したがって、「言語によって正当に際立たせることの不可能なもの」を「言語によって正当に際立たせることが可能なもの」に仕立て上げることである。これはすなわち、それしかないという現実から、そのしかなさ、、、、において同種の他のそれしかないものを作り上げて自分をその仲間にする、ということである。言い換えれば、「ものごとの理解の基本形式」を、そこに収まらないことこそを特徴とするものにかんしても作り上げて、自らをそこに収める、という課題である。すなわち、端的な現実性を欠いた、概念的にのみそれを持つ《今》や《私》を構想するという課題である。
 こうしたことは、哲学の世界の伝統=流行において「他我問題」として考えられてきたものに似ており、そこではしばしば「他人の心」の存在が懐疑の対象とされてきた。しかし、ここでは、実は存在したり実は存在しなかったりできるような「他人の心」なるものが主題になっているのではなく、端的に存在しない(じつは存在していることも、存在するようになることも、ありえない)他人の私(という矛盾したもの)をただ概念的にのみ作りあげることが課題なのである。だから、そこに作りあげられる前の立場を持ち込めば、その存在が懐疑できるのはあたりまえのことにすぎない。このような捉え方をもし独我論と呼ぶのであれば、独我論を超えるなどという課題はありない。もし超えられてしまったら、世界の中のたくさんの生き物のうちに私は含まれていないことになるからである。あるいは少なくとも含まれているかどうか(含まれているとしてどれがそれであるのか)わからなくなってしまうからである。
 さて、それでは、そこに収まらないことこそを特徴とするものについて「ものごとの理解の基本形式」を作り出しておのれをそこに収めるなどという仕事がどうして可能なのだろうか。抽象的に答えるならば、カントのそれとは本質的に異なるとはいえ、そのために必要とされるのはやはりある種のカテゴリーである。最も本質的には様相(現実性・可能性・必然性)、そして、それから派生したものとしての人称[パーソン](第一人称・第二人称・第三人称)と時制(現在・未来・過去)である。その効力をひとことで言うなら、これまでの議論で中心的な役割を演じてきた端的な現実性というあり方を(その端的性を取り払ってあるいは含み込んで)「現実性」という様相上の一カテゴリーとして位置づける、ということである。実存と本質という伝統的対比を借りていうなら、それは、端的に実存するということによって(暗に)特徴づけられていた事態から端的には実存してはいない、たんなる「実存する」という概念を作り上げて(すなわち実存という名の新たな本質を作り上げて)、おのれをその諸例のなかの一つとみなす、ということである。
 この驚くべき、ある意味ではほとんど信じがたいほどの知的な飛躍が、人間的ロゴスの始まりであろう。この驚くべき飛躍がほとんど問題にされないのは、哲学の問いをも含めてほぼすべての問いが――『デ・アニマ』や『アビダルマ』から『存在と時間』や『ことばと対象』にいたるまで――すでにこれが完了した後の世界像を前提にしてそこから開始されており、この問題はつねに飛び越えられ隠蔽されてきたからである

*客観的世界そのものを(総合的統一によって)はじめて実在させる「超越論的統覚」として「私」を捉えたカントにおいてもやはり、その論じる問題は結局のところ世界の中心化された在り方という形式的な問題に終始しており、統覚というその役割を現実に担って現実に世界を実在させている〈私〉と、その世界の中に登場する一対象にすぎないと同時にまったく同格に超越論的統覚でもあらねばならない(もしそうでなければともに『純粋理性批判』を理解しあうことなどできない)《私》たちとの落差の問題は、やはり飛び越されて(それゆえその問題の存在は隠蔽されて)いる。要するに、中心性の問題の外に現実性の問題があることが考慮されていない。いいかえれば、タテ問題に終始しヨコ問題の存在が考えられていない。

 しかし、たとえば様相における現実性を時制における現在性に置き換えて考えれば、この問題の存在は容易に理解できるはずである。現在にかんしては、現にこの今、この現在しか現在ではなく、他の時間はすべて過去か未来である。一方では、このことがあまりにも明らかだろう。しかし、他方では、いつでも現在であって、現在でない時はありえない、という直観もまたわれわれは持つだろう。ここにはあからさまな矛盾があるのだが、多くの人はその矛盾の存在を気にとめてさえいない。
 この矛盾的なあり方には二つの表象の仕方があって、一つは「動く現在」という表象の仕方である。それによれば、年表のような出来事系列上を現在というものが過去方向から未来方向へ向かって動いていく。現在が動いて行くのだから、その動く現在は現在どこにあるのかという問いが成り立ち、たとえば「それ(=現在)は現在2018年1月にある」などと言える。さてしかし、動く現在のほうの現在と、それが現在どこにあるのかのほうの現在とが、ともに現在と呼ばれるのはなぜなのであろうか。
 もう一つは、現在という場の上にさまざまな出来事が次々と生じては消えていく、という表象の仕方である。この場合もやはり、さまざまな出来事がその上で生じては消えていくのであれば、その現在という場にも過去のそれや未来のそれもあることになる。もちろん現在のそれもである。ではしかし、現在という場のほうの現在と、現在のそれのほうの現在とが、ともに現在と呼ばれるのはなぜだろうか。
 答えは、端的な現在からその端的さの側面(すなわち現実性)を取り除いて、現在というあり方の本質的特徴の側面(すなわち中心性)だけを抽出し、そのうえでおのれをその一例と見なしたから、というものだろう。抽出された本質のなかには、現実性もまた概念(本質)化されたかたちで保存されている。すると、過去にも未来にも現在があることになる。過去にはあったし、未来にはあるだろう。
 その結果、現在が動くとか、現在という静止した場に出来事が生起するといった、見方によってはまったく意味をなさないほど馬鹿げた考え方が、何の問題もない、きわめて普通の考え方になる。現実性を概念(本質)化して保存することによって、「ものごとの理解の基本形式」から外れざるをえなかったものをそれに乗せることに成功したのである。現在は、むきだしの実存としての現在とその実存を本質化して保持した現在という二つの意味を持つことになった。
 時制における現在を人称における第一人称に置き換えて、上の〈現在〉の《現在》化のプロセスを〈私〉の《私》化のそれに変えても、本質的な問題は変わらない。要約を兼ねて本質的な点を繰り返そう。
 私は世界に一人しかいない。他はみな他人である。一方では、これはあまりにも自明のことだろう。しかし他方では、だれもがそれぞれ「私」であって、「私」でない人などはいない、ともいえる。ここには矛盾があるのだが、多くの人はその矛盾の存在を気にとめてもいない。だがしかし、現に一人しかいない〈私〉と、それぞれの人が自分を呼ぶ「私」が、なぜ同じ語で表現されるのだろうか。
 答えはやはり、端的な私からその端的さの側面(すなわち現実性)を取り除いて、私であるというあり方の本質の側面(すなわち中心性の側面)だけを抽出し、そのうえで自らをその一例と見なしたから、というものだろう。抽出された本質のなかには、現実性もまた概念(本質)化されたかたちで保存されている。すると、他人もそれぞれ「私」であり、それぞれにとっては「端的な私」であることになる。「ものごとの理解の基本形式」から外れざるをえなかったものがそれに乗せられることになったわけだが、乗り切ることはやはりできない。むきだしの実存としての私と、その実存を本質化して保持したものとしての私の区別が、消滅することはない。
 と、このように説明しても、この期に及んでもなお、最初の「私は世界に一人しかいない。他はみな……」を読んだ時点においてすでに、それぞれの(あるいは任意の)人にとってそうである、という意味に取ってしまう人がいるかもしれない。そうなれば、これは一般に自分である場合の「私」と一般に他人である場合の「私」とのあいだに成り立つ問題になってしまう。じつはこれはそのような理解の仕方の成立そのものについての議論なのだが、すでにそれが完了した段階で理解されて(もちろん誤解なのだが)しまうわけである。「ほぼすべての問いが……すでにこれが完了した後の世界把握の仕方から開始されており、この問題はつねに飛び越えられ隠蔽されてきた」との認識から始まったはずのこの議論が、それ自体「これが完了した後の世界把握の仕方」で理解され、問題はまたもや(繰り返し繰り返し)隠蔽されてしまうわけである。そうなってしまえば、この議論はよくある任意の主体から出発する他我問題のようなものの一種になってしまうだろう。現在についてもまったく同じことがいえる。カテゴリーというものはいつもすでにはたらいているのだから、それはやむをえないことではあるのだが、そのはたらきからあえて意志的に離脱して、そのはたらくさまを外から観察することができなければ、ここで論じられている問題の意味はわからない。
 さて、そのような誤解なしに首尾よく理解がなされて、「ものごとの理解の基本形式」から外れていたものがそこにきれいに収まる仕組みが理解されたとしよう。他人もそれぞれ「私」、それぞれにとっては、、、、、「端的な私」であることになり、どの時点もそれぞれ「現在」、それぞれにとっては、、、、、「端的な現在」であることになった。これはすなわち、問題のタテ化、すなわち反省意識化の準備が整った、ということでもある。なぜなら、それぞれの人やそれぞれの時点がまずは並列的に存在し、それぞれおのれを反省的に捉えたときに、そこに「私」や「現在」が成立する、という世界観がこれによって可能になったからである。すでに述べたように、しかしこれは誤りである。じつはそんなふうにはなっていないからだ。他人(や過去や未来)においてすら、それにおける「私」(や「現在」)の成立にとって不可欠なのは、反省や再帰ではなく、可能的なそれしかなさ、、、、、、である(これが先ほど、ここに中心性だけでなく「現実性もまた概念(本質)化されたかたちで保存されている」と言ったことの意味である)。想定された可能的なあり方の内部においてなお、そこにおける現実性とそこにおける可能性とのこの落差こそが一見「反省」意識と見えるものを成立させるのである。

受肉の果たす役割

 さて、ここまでの議論によって、現に映っている映像だけから可能な諸映像というものを構想し自らをそれらの一つとして位置づけるという課題がいかにして果たされるか、について一つの道筋が見出されている。これはいわば、現に上映されている映像の内部からそれをフィルム上に位置づける可能性が見出されたということである。これは主観的意識から客観的世界を構成する超越論的な世界構成の議論とは違う課題に答えるものなので、そこを混同しないようにふたたび強調しておきたい*。

*とりわけ哲学の専門家は要注意。素人の方々は提起された問題をそのまま素直に理解できるのだが、哲学の専門家はすでに一見似て見える問題をたくさん知っているため、それらと識別するという別の課題がここに介入せざるをえないからだ。

 ここでの課題は、なぜか、、、(すなわちその内容からの根拠づけをいっさい欠いた仕方で)現実に、、、それだけが存在してしまっているこれ、、から出発して、(そのなぜかさ、、、、を含めて)同種の多数のものを実在させ、自らをそれらのうちの一つに仕立て上げること、そのようにして諸主観が並列的に共在するという客観的で相対主義的な世界像を構築すること、にある。そのようなことが(逆方向においては不可能であるにもかかわらず)この方向においてはとにもかくにも可能ではあることを示すことが、この議論のポイントである。ここにはたんなる現実性(ウィトゲンシュタインの比喩でいえば、なぜか現にその映像がスクリーン上にあること)という、フィルム上の意味連関の外にある偶然性が介在するので、超越論的構成(すなわち中心化された世界から出発する脱中心的世界の構成)のような意味での必然性のある構成作業は成立しない(フィルム上のいかなる事実を手掛かりにしても、逆向きにその現実性にいたりつくことはできないのもそれゆえである)。
 この事態は受肉と呼ばれてよいのだが、その意味するところは自分を物質化することにあるのではなく、もっと広く、複数個存在しうる何かある種類のものの一例とすることに、ウィトゲンシュタインの言い方を借りれば「他のものに境を接する者」とすることに、要するには「ものごとの理解の基本形式」に収めることに、ある。もちろん、その何かある種のものは物体であってもよいが、必ずそうである必要はない

*この意味に解するなら、イエス・キリストが受肉したといえるのは、人間の肉体を持ったからではなく、たくさんいる人間たちのうちの一人になったから、ということになる。

 しかし逆に、身体というあり方をこの事態を象徴するものとして捉えることはじゅうぶんにありうることだろう。たとえばあのルドルフ・リンゲンスであっても、先に言及した際には原論文の状況設定に従って、記憶は喪失しているが客観的に全知である(自分がだれであるかは知らないがすべての客観的知識を持つ)という設定に従ったため、知覚状況の知を媒介にして独在知と全体知を繋げることが課題となったが、もし全知などという想定を持ち込まなければ、自分がだれであるかを知るのに不可欠な媒体となるのはやはり身体の知であろう。すなわち、身体的受肉(言い換えれば身体的自己意識)を出発点とするほかはないだろう。
 実際、リンゲンスは、原論文の設定においても、じつはそれを持つことが暗黙の前提とされている。すなわち、すべての個人的記憶の喪失にもかかわらず、図書館内にたくさん存在する人間身体のうちで「私はこの身体である」と知ることができるのだ。言い換えれば、たくさん存在する人間たちのなかで「私はこれである」と自分の身体を指して言うことができるのである。
 これはもちろん、デカルト的意味では必ずしも不可謬というわけではない。とはいえ、多数の人体のなかでただ一つ、現に右膝に痛みを感じ、背中に痒みを感じ、その目を開けたときだけ外界が見え、(目を開ける、、、という想定にも示されているように)その体だけを動かすことができ、したがってその口からだけものが言える、……等々、といった人体が存在したならば(すなわち、そう感じたならば、いいかえれば、そういう自己意識を持ったならば)、それがじつは自分の身体でない、ということはありえないといえるだろう。
 もちろんこれは身体への受肉知であるから、そこから離脱した純粋な「コギト・エルゴ・スム」のような絶対性はない。たとえば、(欺く神に欺かれているといった理由で)そんな身体などじつはそもそも存在せず、そうした思い(すなわち物質的身体とのその結合感)自体がすべて幻覚・幻想である、といった極端なケースなども考えられはする(逆にいえば、デカルト的コギト・エルゴ・スムはその種の極端な想定にも耐えうる絶対性がある)。しかし、当面の課題は常識的世界像の構築にあり、受肉知もまた事実知にすぎない以上、そのような極端なケースを考慮に入れる必要はないだろう。
 そのようなケースを排除するなら、ルドルフ・リンゲンスもまた、たとえ「私はだれであるか」を知らないとしても、「私はどれであるか」は知っている、といえる。リンゲンスのみならず一般に、自分がだれであるかわからなくなったとされる認知症の患者なども、じつは、周囲に多数存在する人間身体のなかでどれが自分の身体であるかを知っているだろう。それはつまり、それらの多数の人間身体の主体たちもまた《私》(現実的でない〈私〉)ではあるが、現実の〈私〉はなぜかこの身体に受肉している、という知である。これはすなわち(前回論じた意味での)自己意識であり、そこからはより客観的な(自分がだれであるかという)自己知にいたる道筋が通じているはずである。スクリーン上の映像の比喩を使って言うなら、このような仕組みがはたらくことによって、映像の成立そのものの中にフィルムの構成を成り立たせる原理の一部がすでに含まれており、したがって映像はそのようにして構成された(はずの)フィルムの一点に必然的に位置づけられることになるわけである。

*ここでもまた、精神が身体に受肉しているように誤解する人があらわれるかもしれないが、もちろん、そのような問題を論じているのではない。ここで身体のかわりに精神を置いても、精神もまたここでの意味では身体であるから、本質的には同じことがいえる。この注が付けられた文の「身体」を「精神」に置き換えても、その文は問題なく成立し、むしろそちらのほうが私が論じている哲学的問題にとっては重要な意味を持つといえる。しかし、精神は自他に共通の仕方で(すなわち他の物体と同様に)目によって見られるという側面がないので、ここで論じている、客観的世界への定位という問題にとっては不適切な例になるというにすぎない。

 現在についても同じことがいえるだろう。今がいつであるかわからないことはありうる。しかしそれは、何年の何月何日の何時何分かがわからない、という意味であって、そういう場合でさえ、(さっき起こった)あの出来事や(これから起ころうとしている)その出来事ではなく、この出来事こそが現在起こっている、ということはわかっているであろう。それはつまり、それらもまた可能な現在ではあるが、現実の現在はこれ、、である、という認識であり、時間的自己意識(としての現在意識)である。すなわち、スクリーン上の映像の比喩にはじつはディスアナロジーが含まれているのであって、映像には前後関係が内在していないが、それとアナロガスだとされる現在には、すでにしてその内部に前後関係が含み込まれているのである。現在もまた(一方向的にではあるが)必ず受肉しているわけだ。
 現在にかんしては身体の比喩は成り立たないのではないか、と思う人がいるかもしれないが、そうではない。「あの出来事やその出来事ではなく、この出来事こそが現在起こっている」と捉えられる場合には、「出来事」が身体である。出来事という可算的身体性なしには、記憶という知の形式もありえなかっただろう。その点で出来事よりもっと適切な例は、一日、二日、……と、数えるための区切りがはっきりしている「日」(あるいは「年」)である。「日」は、「今日」と内側から捉えることも、「その日」と外側から捉えることもでき、「今日」は「その日」に一方向的に受肉している。他の日々もまた《今日》(現実的でない可能な〈今日〉)ではあるのだが、現実の〈今日〉はなぜかこの日である、という自己意識(今日意識)が(「日」と捉える以上)必ず成立しており、それが(何年何月何日であるかという)自己認識(今日認識)の成立の基盤になっている。自己意識においてすでに、実存(たんなる現実性)が本質(何であるか)と結合しているわけである。ただしもちろん、これもまた一方向的であるから、何年何月何日の側からたどって行っても、そちらの方向からでは一般的なその日としての今日(その日にとっての「今日」)という相対的なあり方までしかたどり着けない。
 《私》を識別する「第一基準」が提示されたとき、それはすでにしてこの身体的受肉の事実が前提されたかたちで表現されていた。新しいバージョンでは、それは「現実に物が見え、音が聞こえ、現実に思考し、想像し、現実に思い出したり予期したりする人」となったが、古いバージョンでは「その目から世界が現実に見え、その体だけが叩かれると現実に痛く、その体だけを現実に直接動かせる、……人物である」と、あからさまに身体への言及があった。もちろん、すでに指摘したように、じつはその身体が幻覚・幻想であるといった種類のことは考えられはする。それ以外にも、「人」とか「体」といった(この議論連関においては、複数個存在するもののうちの一個、、でなければならないはずの)ものが、複数個にバラけている場合なども想定可能ではある。すなわち、そこからだけ世界が現実に見える目が付いている体と、それだけが叩かれると現実に痛い体と、それだけを現実に動かせる体と、…と、がそれぞれ異なるといった場合である。
 さらにまた、ものを言う口だけをとっても、たとえば次のようなケースも考えられるだろう。私は頭が痛いので「私は頭が痛い」と言う。すると、なぜか私の近くにいた別の人の口が動いてその口から「私は頭が痛い」という言葉が発せられたとしよう。私は真実を語ったのだが発言は(客観的には)偽である。もちろん、彼もまた頭が痛いかもしれないから、偽であると限るわけではない。その場合、私はたまたま真なることを語ったことになるだろう。たまたまだと限るわけでもない。私はじつは自分の発話意図が彼の口を動かすことを知っていて、かつ、彼が頭痛状態にあることも知っていて、それゆえに「私は、、頭が痛い」と彼の口から言った、という場合も考えられるからだ。すると、その発言は(ある意味では)意図どおりで、かつ真であることになる。しかし、彼自身は(頭は痛いにしても)そう言おうと意図したわけではない。また、かりに言おうと意図してはいたとしても、その発話意図が彼の口を動かしたわけではない。そして、口を動かして発話した発話意図の主体(つまり私)もまた頭が痛いにしても、その痛みを指して「頭が痛い」と言ったのではないから、これは真なる発言だとは言い難いともいえる。
 こうしたことはみな、この議論連関でなければ、たんにそのように描写される事態(これらはみな可能な事態ではある)が起きているというだけのことで、哲学的にはむしろ興味深い分析の素材を与えるだけのことだろう。だが、この議論連関においては、このようなことは起きてはならない、、、、のだ。このようなことが通常は(実際には・事実としては)けっして起きないということがこの受肉的結合を可能にしており、それを前提にして、「人[パーソン]」という基礎的な概念も初めて成立する。「人」ほど明白ではないにしても、時間における「出来事」や「日」にも同様の仕組みが働いている。これらは偶然的事実に基づくとはいえ、すでにして一種の論理的な役割を担っている。このような恒常な繋がりを前提にしてわれわれの世界理解は成立しているからだ。
 逆にいえばそれはしかし、すでにして一種の論理的な役割を担っているにもかかわらず、この受肉的結合にはあからさまな矛盾(を含んだ二面性)が内在している、ということでもある。その一方の側である現実性は、他方の側から見ればそもそも実在しておらず、この結合は一方向的であり、逆方向からたどっても相対化された(概念としての)「現実性」にしか至りつけないからである。すなわち、「私」概念に矛盾が内在していることによって、〈私〉は世界に繋ぎ止められ、「現在」概念に矛盾が内在していることによって、〈現在〉は時間に繋ぎ止められているわけである(ただし、あくまでも一方向的に)。

自由意志について

 もうかなりの字数を費やしてしまったが、最後にこの連関で自由意志の問題について少しだけ触れておこう(もし気が向いたら、次回、この問題について多少くわしく論じることにして)。
 唯一現実に与えられている視覚状況から実在する特定の眼へ、唯一現実に存在する痛みから実在する特定の身体へ、……、といった一方向性はあくまでも受動的だが、方向性はこれらとまったく同じであっても、唯一現実に与えられている発話意図から実在する特定の口を動かすことによる音声発話へ、唯一現実に存在している欲求から特定の身体を動かすことによる身体行動へ、……、といった場合は能動的であるとされる。ここまで論じてきた矛盾的接合の問題がこのように顕れた場合が、すなわちいわゆる自由意志といわれるものであろう。自由意志の問題は、通常、一般的な心的なものから一般的な物的なものへの因果性のはたらきのようなものとして、すなわちタテ問題として捉えられているが、自由意志もまたヨコ問題として捉えることができる。すなわち、多数の身体の中になぜか一つだけ現実に動かせる身体が存在している! という驚くべき事実の存在こそが自由意志の問題なのだ、と。ここでもやはり、中心性の問題だけでなく現実性の問題を考慮に入れるべきだ、ということである。
 しかし、それだからといって、自由意志の問題はじつはヨコ問題であって、中心性の問題ではなく現実性の問題こそがその本質なのだ、といえるかといえば、それはかなり微妙な問題があるだろう。「現在」や「私」については、〈現在〉や〈私〉にまつわる問題を考慮に入れなければ最も本質的な点を取り逃がす、と私は自信をもって主張できるが、同じことが「自由」と〈自由〉の関係についてもいえるか、となればそれは微妙である。すなわち、そこにヨコ問題があることは疑う余地はないのだが、それが本質かどうかについてはなお考慮の余地があるのだ。
 しかし、私の見るところでは、それが本質だとみなすところに(じつのところは)根拠を置く伝統が厳然としてあって、超越論的自由や行為者因果説の伝統がそれである。それらは十分に根拠のある考え方であることは疑いないが、そのような見地に立つ場合には、以前に欺く神の欺き力との関係で検討したデカルト的「コギト・エルゴ・スム」もまたじつは自由意志の問題であったことになるだろう。〈私〉は存在については神に勝つことができたのだが、さて自由についても同じことがいえるのだろうか。(続)

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永井均 (ながい・ひとし) 

哲学者。1951年、東京生まれ。日本大学文理学部教授。

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