第九回 電子の詩

 1937年11月、サンタ・フェを後にしたヴァレーズは、サンフランシスコへと向かった。道中のアルバカーキ(ニューメキシコ州)ではフランス語新聞の記者に「私の作品は未来に属している」と宣言し、サンフランシスコに着いたあとのインタビューでは「現代はスピードと統合と強度の時代なのだ。我々はこのような質を反映するための現代的な形式をこそ期待する」と例によって決然とした口調で述べている。実は、大作「空間」の実現を夢見る一方で、この時期のヴァレーズは、さらに新しい「未来の芸術形式」である、映像とのコラボレーションを模索し始めていた。そして、この新しいヴィジョンのためには、1927年のトーキー発明後、ヨーロッパを瞬く間に凌駕して映画の黄金期を迎えつつあった、ハリウッドという場所にたどり着く必要があった。

■ハリウッドのヴァレーズ
 いったんサンフランシスコに落ち着いたヴァレーズは、イタリア系音楽家のジュリオ・ミネッティと意気投合し、彼が主宰するサンフランシスコ・シンフォニエッタ・オーケストラの演奏会で、「オフランド」を取り上げてもらっている(1938年2月15日)。この演奏会は超満員の中で行われたが、演奏後にはスタンディング・オベーションが起こり、さらには第2曲「南十字星」のアンコールが行われるなど、ヴァレーズとしては異例ともいってよい好評で迎えられた。現代音楽に慣れていないサンフランシスコの人々には、むしろヴァレーズの音楽は新鮮に映ったのかもしれない。
 この直後、ヴァレーズは前立腺炎が悪化し、サンフランシスコの病院で緊急手術を行っている。やむなく2か月の療養を経た1938年5月、彼はいよいよ目的地ロスアンジェルスに到着した。
 彼が2年間にわたって住むことになるノース・シエラ・ボニータ通りは、ウェスト・ハリウッドの高級住宅地であるが、どうしてこのような経済的余裕があったのかはよく分からない。実際、この前年の1937年、ヴァレーズの経済的窮状をみかねたカルロス・サルセードは、アイヴズに宛てて、この作曲家の深刻な経済危機をなんとかしてあげられないだろうか、という内容の書簡を送っているのだから(1937年3月16日)。もしかすると、この手紙が効を奏して、アイヴズが何らかの資金提供を行ってくれたのかもしれない。
 偶然というべきか必然というべきか、このハリウッドには、亡命を果たしたアーノルド・シェーンベルクが居を構えており、ここでヴァレーズは、およそ四半世紀ぶりに12音音楽の巨匠と親しく交際するようになる。考えてみれば、二人ともヨーロッパの故郷を離れて新天地で活動を続ける身であり、ベルリン時代に顔を合わせた時とは大きく境遇が異なっている。お互いに、一種のシンパシーを感じた可能性も十分にあるだろう(ちなみに、この年の9月にはストラヴィスキイも、ロスアンジェルスに移住してくることになる)。
 現在パウル・ザッハー財団に残されているヴァレーズの書簡の中で、シェーンベルクとのやりとりは1922年頃からいくつかが現存しているが、これらのほとんどは事務的なものに過ぎない。ただし、少しばかり興味を惹くのは、ヴァレーズがハリウッドに到着して1年後、1939年5月23日付のシェーンベルクからの書簡である。

大変に申し訳ないのですが、あなたのグループ「TEN」に加入することはできません。理由はお察しいただけると思うのですが、いずれにしても、私の決意は変わりません。確かに私は、自分の作品が、他の同時代の作曲家とは異なるものとして捉えられるような若い世代を待たねばならないことを知っています。それは20年程度では変わらないでしょうし、また、何度演奏されても状況は同じかもしれません。ただし、私は自分がこの道を歩まなければならないことを悟っており、自分の運命を変えようとは思っていません。私に対しての、あなたの心遣いは大変にありがたく、深く感謝する次第です。
 ヴァレーズが出した書簡の内容は不明だが、この文面から察するに、新しい音楽グループ(あるいは演奏会シリーズ?)「TEN」をヴァレーズが結成しようと考え、近くに住むシェーンベルクを誘ったということなのだろう。「TEN」についての詳細は一切分からないのだが(筆者の知る限り、ヴァレーズ関係の他の資料や文献にこの名はあらわれない)、シェーンベルクの返信から判断すると、おそらくこのグループはシェーンベルク作品の演奏・紹介をアメリカ西海岸で積極的に行なおうとしたのだろう。異郷カリフォルニアで演奏機会に恵まれない巨匠を前にして、生まれつきプロデュース体質を持つヴァレーズが一肌脱ごうとしたのかもしれない。
 ルイスの未公刊の日記によれば、ハリウッド時代のヴァレーズ夫妻は、たびたびシェーンベルク邸を訪れている。ヴァレーズはあまり応じなかったようだが、好奇心旺盛なルイスは積極的にシェーンベルクと卓球に興じた。日記の中でルイスが述べるところによれば、シェーンベルクは卓球を教えることが大変に好きで、延々と彼女に「レッスン」をつけたらしい。シェーンベルクの教師体質を考えると、さもありなん、という話ではある。この後、ヴァレーズ夫妻が再び東海岸に転居したために、こうした親密な交流は途絶えてしまうのだが、しかしシェーンベルクの音楽が、生涯にわたってヴァレーズの密かな参照点であったことは間違いない。
 この1939年、かつてはシェーンベルクも教鞭をとった南カリフォルニア大学で、ヴァレーズは「芸術科学としての音楽」というタイトルのレクチャーを行っている。

音楽は芸術として、あるいは科学として捉えられてきました。しかし実際には、音楽は両方の性質を帯びているのです。[中略]ほとんどの人は、音楽を単に芸術だと考えているでしょう。しかし人が音楽を聴くとき、それが物理的な現象に属していることを否定することはできません。聴き手の耳と楽器の間にある空気が揺らされない限り、音楽は生じないわけですから*1
 こうして音楽に関する科学的な探求の必要性を訴えたのち、ヴァレーズはいつものように平均律からの解放、そこから得られる新たな音階の可能性、新たな音色の可能性について縷々述べている。それは、彼が20代の頃から、何度も繰り返し語ってきたことに過ぎないともいえるのだが、その執念にはあらためて感心してしまう。

■映像と音楽のコラボレーション
 ヴァレーズがロスアンジェルスに移住したのは、端的にいえば映像と音楽のコラボレーションを実現するためである。彼はこの街で、その可能性を探りながら2年あまりを過ごすことになった。
 映像と音楽の融合というアイディアは、ヴァレーズがパリに滞在していた1920年代後半にまでさかのぼることができる。すでに彼は1930年の1月にフランスの雑誌「あなたのためにPour Vous」の中で、映像と音に関する質問に次のように答えている。

まだ考えねばならない問題がたくさん残っている。それはまだ完全ではない。というのも、普通のオーケストラによって録音された音楽を使わざるを得ないからである。しかし私はこれを完全に克服し、自分の手で扱う最初の機会を楽しみにしているのだ。それは映画が伝統という牢獄から出るための、最初の機会になるだろう*2
 ヴァレーズはこの頃から、単にオーケストラの録音を映像の背後で流すのではなく、おそらくは電子楽器の力を借りながら、より密接に映像と音楽を同期させようとしていた(インタビューではこのあと、音楽家と映画製作者の共同作業について語られている)。そしてこの若いころからのアイディアを、ついに1930年代後半のヴァレーズは本格的に実現させようとした。
 ルイスの日記によれば、この「映画の街」で、彼は音響スタジオに所属する技師と頻繁に会い(スタジオや人物の詳細は不明だが、毎日のようにMannとBrownという名の技師と会っている)、映画の技術について知識を深めるとともに、多くの人脈を作る努力を重ねている。また、メキシコのディエゴ・リベラに、同地のスタジオで映像とのコラボレーションができないかと打診したりもした。
 1939年4月22日には、ハリウッドのプロデューサーであるアンドレ・デュモンソーに、映像と音楽のコラボレーションについての長い手紙を送るが(内容は不明)、結局、はかばかしい結果を得ることができなかった。ただし、彼が翌1940年にカトリック系の雑誌「コモンウィールCommonweal」の12月号に発表した「サウンドフィルムのための組織された音響」という論文は、おそらくはこの手紙の発展版と見てよいだろう。
 「音楽、という用語は本来の意味よりもはるかに小さな領域をあらわすようになっていると思われるので、私は『組織された音響』という表現を使うことにしたのです。こうすればいつも繰り返される、あの『それは音楽なのですか?』という、うんざりするような質問を避けられるでしょうから」と始まるこの論文は、ヴァレーズが映像と音楽のかかわりについて真正面から述べた点で貴重なものである。
 まだ若い映画という芸術においては、音響は単に現実を示唆したり、あるいは情緒を高めたりする役割しか果たしていないと指摘したうえで、ヴァレーズは「われわれは今、単に現実的な音を再生するだけではなく、音響と映像との完全に新しいコンビネーションによって、新しい感情や感覚を生じさせることができる科学的手段を持っています」と宣言する。彼によれば、映像と音響という2つのメディアは「同一性」を軸にするのではなく、むしろその差異を利用しながら、お互いを補いあわなければいけない。このための具体的な案としてヴァレーズが提出するのが、作曲家とエンジニアが共同作業をする「新しい研究所」の設立である。映画会社がこれを設立することは、最終的に自らの利益にもなるのだと論文の中で彼は強調するのだが、言うまでもなく、この背景にはベル電話会社の援助による音響実験室の失敗という経験が横たわっていよう。そしてヴァレーズは、論文を次のように締めくくる。

……フィルムのための組織された音響という、この「芸術科学」のあり方に似た芸術がほかにもあります。建築です。音楽と同じく、建築は芸術科学です。科学は建築に新しい構造の可能性を与え、さらに人間が新しいニーズを訴えるにつれて、建築は芸術としての様相を変えてゆくのです。音楽の世界とは異なり、建築は科学の力を全面的に利用して、われわれの新しいニーズと常に関わっています。だから現代の人間は日々、新しい建築に反応するのです。フーバー・ダムのような、工学と建築のはざまの偉大な傑作を見に来る多くの人々を考えてみてください。この建築は、いわば現代のピラミッドや大聖堂としての言葉を語っています。ダム、橋、工業プラント、穀物倉庫、さまざまな研究所……いずれも厳格な精密さに律された力学と材料の追求が、建築と工学を融合させているのです。
 しかし音楽、つまりもう一つの芸術科学においては、われわれは科学的な発見をほとんど利用していません。我々は新しい音楽言語を提供できていません。古典的なシンフォニー・オーケストラは過去には対応できますが、われわれの新しい概念を示すためには十分ではありません。建築家が彼の用いる材料についての完全な知識(例えば、それらの力学的な抵抗、反発、拡張についてなどの知識)を持っているように、現代の作曲家は、彼の音響的な構成を組み立て、想像力を発揮する際に、大気の中における振動の法則や、すでに科学が明らかにした、あるいは明らかにしつつある種々の可能性についての完全な知識を持っているべきなのです。そう、重要なのは「想像力」なのです*3

 このヴァレーズの論文を読んで深く感銘を受けたのが、若き日のジョン・ケージだった。ケージは1941年の1月13日、以下のような熱烈な文面の手紙をヴァレーズに送っている。

 私は、コモンウィール誌に掲載された、あなたの「サウンドフィルムのための組織された音響」を読みました。これまでに出会った中でもっとも興奮させられた論文です。あなたの作品がどこかの実験室で実現することを心から願っています。ぜひそうあるべきです。音響実験室がある大会社は、大胆さや探求への欲望に欠けており、まったく理解しがたいものがあります。私も、実験音楽センターを設立したいと思っていますが、まだ成功していません。いくつかの機関は興味を持ってくれているのですが、資金があるようには見えません。彼らは、新しいものを作るためのバックグラウンドがないと不満を言うのですが、彼らがそうしたバックグラウンドにならないといけないのですから、まったくバカげています。[中略]私は、モダンダンスを扱った教育映画(16mm)のために、「音楽」を書くことになっています。楽器の生演奏を同期させるのではなく、フィルムに直接、音響を刻み付けたいと思っています。もっとも、この種の仕事にはあまりお金がかけられないようです。私は、なんとか過度の出費を避けて、これを実現できればと思っているのですが。
よい年になりますよう。奥様にもよろしくお伝えください。

 既に映像作家のオスカー・フィッシンガーと試験的な共同作業を経験していたケージは、まさにこのころ、自らの「実験音楽センター」を設立するために奔走していた。その構想は、科学者との協同、電子楽器の開発、映像の実験といった多くの点で、ヴァレーズの考えていたものと重なる。そして彼はやはりヴァレーズと同じようにグッゲンハイム財団への申請を行うとともに(これは結局却下された)、ロックフェラー財団、カーネギー財団、そしてゼネラル・エレクトリック社などに掛け合い、この後、見事にセンターの実現にこぎつけたのだった*4
 ヴァレーズはといえば、このような若い賛同者こそあらわれたものの、例によって進展は見られなかった。結局、西海岸での試みもむなしく、1940年10月に彼はニューヨークへと帰還する。こうして映像と音楽のコラボレーションの試みは、いったんは放棄されることになった。あくまでも「いったん」ではあるのだが。

■グレイター・ニュー・コーラス
 1939年9月、ドイツ軍のポーランド侵攻によって、第二次世界大戦が始まった。
 アメリカ合衆国は、当初、第一次大戦の時と同じく不介入の立場をとり、イギリスを援助するにとどまる。しかし戦後の新秩序を見据えたローズベルト政権は、当初からアメリカ参戦の必要性を強く感じていたようである。1941年12月の日本による真珠湾攻撃は、その意味で、アメリカ参戦を絶妙のタイミングで後押しすることになったのだった。
 こうした不穏な空気の中で、「空間」のプランも、そして映像とのコラボレーションも行き詰ったヴァレーズは、再び合唱運動へと向かう。これは一種の「退行」と言い得るのかもしれないが、新しい創作活動が展開し難い戦争期において、いくばくかの確実な収入をもたらす手段ではあったはずだ。そして、後に観察するように、戦時中という環境は、合唱指導者としてのヴァレーズにとってはむしろチャンスでもあった。
 まず1941年5月、ヴァレーズは新しい合唱団のオーディションを久しぶりに行なった。サンタ・フェの「スコラ・カントルム」から4年ほどが経過している。
 この連載でも毎回見てきたように、パリ時代(「民衆の城」)、ベルリン時代(交響的合唱団)、そしてアメリカに渡った後においても、彼は創作の隙間ができると合唱団を設立し、主に中世からバロック期にいたる古楽を演奏しながら暮らしてきた。しかし、おそらく生涯の中でも、もっとも集中的に合唱に取り組んだのが、この第二次大戦期なのである。
 我々にとって都合のよいことに、合唱は社会的な音楽活動であるために、新聞記事を細かく追ってゆくと、活動の経緯の大筋が見えてくる。
 まず6月15日付のニューヨーク・タイムズは、ごく小さな記事の中で、「エドガー・ヴァレーズが指導するグリニッチ・ハウス・ミュージックスクール合唱団の最初のリハーサルが、明朝8時から同スクールにおいて行われる。新しいメンバーのためのオーディションも、月曜日から木曜日の夕方5時半から7時までの間に継続中」と記しており、続く7月13日付の記事も、新しく創設された同合唱団が「月曜から木曜日まで夜8時からリハーサルを行う。この合唱団において適性があるのは、音楽経験よりもむしろ声の質である」と報じている。これはヴァレーズの意向とみてよいだろう。そして「精力的に、そして知的に偉大な合唱曲を歌うことを楽しみましょう」というチラシの文章からも察せられるように、この団体は社会人を対象にした合唱団だった*5
 グリニッチ・ハウス・ミュージックスクールは1905年に設立された音楽学校だが、1940年当時、その資金の多くを負担していたのはチャールズ・アイヴズである。となれば、ヴァレーズは引き続き、アイヴズの好意で生計の大部分を立てていたと言ってよいかもしれない。
 次の9月7日の記事は、スクールの新学期を知らせるものだが、少々興味深い。

グリニッチ・ハウス・ミュージックスクールは9月14日に新しい学期を迎える。学生の申し込みは、土曜日以外は朝10時から午後7時まで、そして土曜日は朝10時から午後3時まで。エンリケ・カロセッリ校長によるこの学校は、40人以上の講師を擁している。今期は、エドガー・ヴァレーズによる合唱クラス、マーク・ブランスウィックによる作曲クラス、カロセッリ氏によるオーケストラ・クラスが開かれている。
 すなわちここでヴァレーズは、作曲は教えず、あくまでも合唱の講師として働いているのである。ブランスウィック(1902-1975)はきわめて保守的な作風のアメリカ人作曲家であるから、ヴァレーズにとってみれば取るに足らない存在だったはずだ。いったい、お互いにどんな気分だったのだろうか。
 翌1942年5月24日付、28日付のタイムズは、5月28日夜9時から「グリニッチハウスの40周年記念演奏会」にヴァレーズ指揮の「ニュー・コーラス」が出演することを伝えている。プログラムの中心になったのはシュッツの「十字架上の七つの言葉」で、他にはブラームスやコレッリ、そしてアメリカ人作曲家のワリングフォード・リーガー作品などが入っていた。
 その後、1942年の内に、この合唱団は「グレイター・ニューヨーク・コーラス」と名称を変更する。タイムズ1942年9月27日付では「合唱団の指揮者エドガー・ヴァレーズは、新しいメンバーのオーディションを、10月を通して行なう。於:グリニッチハウス・スクール・オブミュージック」とある。彼はこの合唱団を200~300人規模のものにして、大きなホールで演奏会を行うことを考えていた*6。実際、これまでとは異なり、この合唱団の運営委員にはバルトーク、シェーンベルク、ヴィラ・ロボスなどの錚々たる作曲家が名を連ねており、ある意味ではまるで「国際作曲家組合(ICG)」や「パン・アメリカン作曲家協会(PAAC)」の再現のようにさえ見える。
 現在、ザッハー財団に所蔵されている、合唱団の当時のチラシには以下のようにある。

 グレイター・ニューヨーク・コーラス
         エドガー・ヴァレーズの指導による
 目的:音楽の生きた息吹を理解し、活力豊かに再創造することを通じて、すぐれた合唱作品の歌唱を新鮮で価値のある体験とすること。ニューヨーク市の内外で、この種の音楽を安い値段で何度も提供し、より広い喜びを喚起すること。そうしてより高い水準の喜びにあふれた新しい聴衆を生み出すこと。素晴らしい音楽を世に広めること。
 レパートリー:すべての時代の偉大な作品。すなわち中世のポリフォニー、そしてルネサンス期の新しい展開、18世紀から19世紀のヨーロッパ音楽と初期アメリカ音楽、知られざる優れた民謡、そして今日の作曲家の作品。
 参加資格:自然な、あるいは訓練された声を持つ男女。読譜について多少の知識があること。
 備考:プラシド・ド・モントリウ氏による視唱と聴音のクラスが、合唱団員に用意されている。
 リハーサル:月曜日と木曜日の夜8時から10時半。バロウ通り46番地のグリニッチ・ハウス・ミュージックスクールのホールにて。

 対象を音楽経験者に限らないあたりは、フランス時代からのヴァレーズ流である。
 アメリカがついに第二次大戦に参戦し、戦火が厳しいものとなってゆく中で、ヴァレーズはひたすら合唱指揮に没頭した。そして面白いことに、この活動は戦争が進むに連れて、フランスに対する慈善演奏会の様相を帯びるようになるのである。言うまでもなく、彼の故郷フランスは戦争が始まるとほどなくしてナチス・ドイツに蹂躙され、ヴィシーを首都にした傀儡国家となり果てていた。
 1943年4月25日付のタイムズは、第二次大戦で苦しむフランス支援のための演奏会をヴァレーズが前日に開いたことを告げている。これはこの合唱団の最初の演奏会にあたる。「エドガー・ヴァレーズ氏の率いるグレイター・ニューヨーク・コーラスは、昨夜、ワシントンのアービング・パレス40番地にあるアービング・ハイスクールにおいて、フランス救援協会、および戦うフランス救援委員会への援助として演奏会を行なった。演奏会は『勝利のために』という名のフランスの新聞の主催による」(1943年4月25日)。曲目には、ビクトリア、クープラン、ダカン、ヘンデル、ラモー、バッハ、ブルックナーという古典的な合唱曲に加えて、ロシア民謡が入っている。
 演奏会は熱狂的な成功を収めたが、こうした展開は、まさにヴァレーズが第一次大戦期にアメリカに降り立ち、ベルリオーズの「レクイエム」で鮮烈なデビューを飾ったことを思い起こさせる。おそらくヴァレーズの頭の中にもあの時の記憶がよみがえっていたはずだ。
 面白いのは同じ25日付新聞に「グレイター・ニューヨーク・コーラスの指揮者エドガー・ヴァレーズは春のコンサートのリハーサルを行う。現在、このための新メンバーを募集中。オーディションをパスすること。視唱も必要。」と記されていることで、つまり演奏会が終わったとたんに新しいメンバーを募集しているわけだ。先の演奏会の成功に気を良くしたヴァレーズは、さっそくストコフスキーに手紙を送っている。

僕の合唱団について話させてほしい。この団体は労働者のために結成されているのだが、まだ僕が彼らのために設定したレベルにまでは到達してはいない。でも、実に熱心で意欲満々なんだ。同封したプログラムを見てくれれば、彼らがなしたことが分かると思う。なんとしても強調しなければならないのは、あの華麗なビクトリア作品が十分な情熱と厳格さをもって歌われたことだ。この音楽がまさにきちんと理解され、感じられているのが分かった。そして彼らは劇的なブルックナー作品で限界を突破した気がしたよ*7
 ヴァレーズがひとりの指導者として、いかに情熱的に合唱団に接していたかが伺えよう。旧知のストコフスキー宛ということもあるのだろうが、筆者の知る限り、彼の手紙の中でももっとも直截な興奮が伝わってくる文面のひとつだ。
 合唱団は1944年には3回の大きな演奏会を行っている。
 2月1日にはブルックナーの「テ・デウム」を中心にしたプログラム、そして2月22日にはラジオ局WNYCがスポンサーについて、アメリカ作曲家作品のみのプログラムが組まれた。後者はかなり珍しいケースだが、当然ながら戦時中においてアメリカ・ナショナリズムが高揚していたという背景ゆえだろう。実際、演奏会ではアメリカ音楽のルーツといえるウィリアム・ビリングスに始まり、アイヴズやオットー・ルーニングまでを含む多彩な曲目が演奏されている。そして続く5月22日には「古楽と現代音楽の夕べ」と題して、シュッツ作品とヴァージル・トムソン作品を並べるという試みがなされた。年3回程度という演奏会の頻度は、ほぼICGのペースに近い。
 1945年、第二次大戦最後の年は、グレイター・ニューヨーク・コーラスにとってもっとも忙しい年となったようである。おそらく、戦争と合唱の関係をヴァレーズはよく知っていたはずだ。
 1945年2月21日付のタイムズには、当日の夜にこの合唱団がアメリカ作曲家のみのプログラムで演奏会を行なうこと、さらに23日には同じくヴァレーズがベルリオーズ編曲による「ラ・マルセイユーズ」のアメリカ初演を、フランス解放を祝って行うことが記されている(パリはすでに1944年に解放されていたが、アルザス・ロレーヌはこの45年2月の「コルマールの戦い」で奪還された)。ちなみに後者の演奏会は、2月24日付のタイムズにおいて「フランスは対日本戦の援助をアメリカに約束した」という大きな見出しの記事と並んで詳細が報じられている。当時、ヨーロッパ戦線はほぼ終息に向かっており、枢軸国の残りひとつ、日本の動向がクローズアップされていたのだった。この演奏会でヴァレーズは自らのグレイター・ニューヨーク・コーラスと、ポーランド合唱協会のメンバーなどを加えた150名の大合唱団で「ラ・マルセイユーズ」ほかを演奏したという。
 さらに1945年6月5日、グレイター・ニューヨーク・コーラスは、フランスの戦災孤児のための慈善演奏会を行なっている。プログラムは14世紀から17世紀にいたる合唱作品。この演奏会の直前に、批評家オーリン・ダウンズ(20年代にはヴァレーズの「敵」だった批評家である)は、ヴァレーズの合唱活動について「この街の音楽生活のひとつの宝」とまで称賛している(6月3日付)。
 主にこのコンサートの功績によって、ヴァレーズにはフランス政府からレジオン・ドヌール勲章が送られることになった*8。しかし、なぜか彼はこれを拒否している。真相のほどは全く分からないが、遠い日の兵役問題が傷になっているというのは穿った見方だろうか。
 ヴァレーズの大規模な合唱活動が戦争と関連していることは、グレイター・ニュー・コーラスが、終戦とともに終息を迎えたことに象徴的だ。なにしろこの団体は戦局が決定的となっていた1945年6月の演奏会を最後にして、活動をストップしてしまうのである。

■「空間のためのエチュード」初演
 ただし、ひとつだけ奇妙なことがある。
 彼はグレイター・ニューヨーク・コーラスを解散した後、およそ2年を経た1947年春に突然、少数精鋭の20人ほどのメンバーによる合唱団を結成して、わずかに2度の演奏会を行っているのである。
 1947年3月31日付のタイムズは「ヴァレーズ指揮による新しい音楽集団」という見出しのもとに、ニュー・スクールに属するニュー・ミュージック・ソサエティ合唱団をヴァレーズが指揮したことを記している。前日に行われた第1回のコンサートで取り上げられたのは、モンテヴェルディ、シュッツなど16世紀、17世紀の作品。そして4月20日の第2回演奏会ではベルク、ウェーベルン、ケージ、バルトーク、ラッグルス、ホヴァネスなどの作品(独唱含む)が取り上げられた。この、一見すると突発的な合唱団結成には、おそらく明確な理由がある。
 我々が注目しなければいけないのは、これらの演奏会に前後して、ヴァレーズが同じニュー・スクールにおいて、あの「空間のためのエチュード」を初演していることだ。この作品についてはすでに前回の連載で触れたが、これまでその初演日は、ウェレットの伝記記述を基礎にして同年の2月23日とされており、ほとんどの事典類はこの初演日を採用している(実は前回、筆者もそう記した)。しかし、この初演は前後の状況が全く分からず、どのような演奏家による、どのような類の演奏会であったのかについて、ほとんど謎につつまれていたといってよい。筆者もこの日付の前後の新聞を精査したものの、何も手掛かりが得られず、不思議に思っていた。
 しかし、この「ニュー・ミュージック・ソサエティ合唱団」の第2回演奏会、すなわち4月20日に、他の現代作曲家の作品に紛れてヴァレーズ作品が演奏されたと考えれば、すべてのつじつまがあうのだ。場所、合唱団の調達、そして何より当日に演奏されたホヴァネス作品が2台ピアノのために書かれていることはかなり強力な傍証となろう。まさにヴァレーズの「エチュード」も、合唱、2台ピアノ、打楽器のための作品なのだ。おそらくウェレットの記した「2月23日」という日付は何かの勘違いではないだろうか*9
 この仮定に立つならば、ヴァレーズの動きはよく理解できる。すなわち戦争が終わるとともに、彼は合唱団の運営から再び創作の世界へと舵を切り、なんとか「空間のためのエチュード」を仕上げた。もともとオラトリオ的な「空間」から派生した作品だけに、この「エチュード」も合唱パートを持っているわけだが、「グレイター・ニューヨーク・コーラス」は既に解散してしまっている。彼は合唱団を工面する必要があったのだ。ヴァレーズはかくして新しく少人数の合唱団(ヴァレーズの初演作品を歌うのであるから、少数「精鋭」であることには大きな意味がある)を組織し、2度の演奏会を行う中に、自分の新作を織り込んだ。そして、ある意味では所期の目的を達成して、この合唱団はその後自然消滅した……。
 考えてみればヴァレーズは、なぜか生涯にわたって自分がかかわった合唱団のための新作を書こうとはしなかった。まるでそれは、何かの禁忌のようにも見える。しかし、おそらく例外的に、この「空間のためのエチュード」は自分の合唱団のために書かざるを得なかった。というよりも「エチュード」のために合唱団を組織したといった方が正しいだろうか。ただしヴァレーズはこの初演にはきわめて不本意だったようで(むしろ作品に対する不満なのだと想定される)、いずれにしても二度とこの曲を再演することはなかった。
 戦後の1946年、ヴァレーズは、グリニッチ・ハウス・ミュージックスクールのカロセッリ校長に対して、自らの理想の合唱団について「ソプラノとテノールはアメリカ人、テノールはイタリア/スペイン人、バスはロシア人、そして音の質と色合いのために、すべてのパートに少数の黒人」が適当だと述べている。また、民謡をレパートリーに加える理由について「アメリカの音楽に様々な人種が貢献していることを示すという、リアルに人種的な意義がある」とも*10。彼にとって合唱はこうした意味での「運動」でもあり、そしてその独特のユニヴァーサリズムは、未完の大作「空間」のコンセプトとも通底するものであった。

■EMS401、そしてダルムシュタット夏季新音楽講習会
 戦後になると、ヴァレーズの名は、少しずつではあるが音楽関係者の中で存在感を増すようになってくる。
 まず注目されるのは彼が1948年7月に、コロンビア大学に招かれて現代音楽に関する講座を担当していることだ。大学という場に縁がなかったヴァレーズにとって、これはちょっとした事件だった。彼はこの講義のために、わざわざダッラピッコラやシェーンベルクといった知り合いの作曲家たちに手紙を送り、(1)「自身の代表作」、そして(2)「その楽曲の自己分析」を書面で提供するように頼んでいる(なんとシェーンベルクからは20頁(!)におよぶ返答が届いた)*11。おそらくこれらの資料を存分に活用しながら、実際に「生きている」作曲家の様相について講義をしたのだろう。
 また、1949年の1月24日付タイムズは、作曲家連盟が批評家ローゼンフェルドを追悼して行った演奏会の模様をレポートしているが、ここでヴァレーズの「ハイパープリズム」、そしてステファン・ヴォルペやレオ・オーンスタインの作品が演奏されたことを伝えている。「作曲家連盟」はもともとICGと敵対し、そこから分派した組織だが、この戦後になるとしがらみもなくなっていたものと思われる。そして同じく1949年には、ヴァレーズの晩年を献身的に支えることになる中国系作曲家チョウ・ウェンチュンが弟子入りした。この頃のヴァレーズの周囲はいつになくあわただしい。
 しかし、ヴァレーズ受容において何より決定的だったのは1950年、「Complete works of Edgard Varèse vol.1」と題されたLPレコードが、ニューヨークのEMSレーベルから「401」のレコード番号で発売されたことだった。ヴァレーズ初の作品集である。
 収録作品は「アンテグラル」「比重21.5」「イオニザシオン」「オクタンドル」の4曲(音質の問題で、片面14分以内という制約があった)。演奏はフレデリック・ワルトマン指揮のニューヨーク管楽器アンサンブルとジュリアード打楽器合奏団、そしてフルートのルネ・ルロワである。のちにロバート・クラフトによるコロンビア盤が発売されるまで、およそ10年間にわたって、ヴァレーズの作品集はこの1枚だけであり、つまりは生演奏以外でヴァレーズの音楽を聴くための唯一の手段だった(1956年にはフランス盤も発売)*12
 1951年4月19日付の手紙で、ヘンリー・ミラーはこのレコードを聴いた感想をヴァレーズに送っている。文面は「実際のところ、ノックアウトされた」と始まり、熱烈な賛辞が続くものなのだが、考えてみれば、あの「ゴビ砂漠のエドガー・ヴァレーズ」(『冷房装置の悪夢』所収)を書いたミラーは、それまでろくにヴァレーズの音楽を聴いたことがなかったわけである*13
 ただし、収録されている作品のうち、最新の「比重21.5」でも1936年の作曲であるから、ヴァレーズとしては旧作ばかりという気分だったはずだ。レコードのタイトルに「vol.1」、そして「complete works」と銘打たれていることからもわかるように、実はこの後、「砂漠」を含む全作品がレコード化される予定だったのだが、プロデューサーのジャック・スカーニックが急死したために、作品集はこの1枚だけで終わってしまう。こういうあたり、ヴァレーズという人物は常に間が悪いというか、どこか運が悪いのである。
 ちなみに、このレコードEMS-401に関しては、ロック・ミュージシャン(という括りは彼には狭すぎるが)フランク・ザッパの愉快なエピソードがあるので、以下、簡単に紹介しておこう。
 13歳のザッパはある雑誌でヴァレーズの「イオニザシオン」について知り、それをどうしても聞きたいと願っていた。しかし地元の店で訊いても、そのようなレコードは売っていないという。そして1年以上たった時に、彼はとある店でついにヴァレーズの作品集に出会う。この時のことを、彼は「少年時代のアイドル」と題した1971年のエッセイで生き生きと語っている。

レジに行く途中で、ふとLPの箱に目が留まった。一番前にあったレコードはジャケットの角が少し曲がっていて、変わった感じの白黒のアルバム・カヴァーだった。カヴァー写真に写っていたのは灰色の縮れ毛の男。まるで気狂い博士のようだった。ついに誰かが気狂い博士のレコードを出したんだ、すごいなあ。そう思った。そしてそのレコードを手に取った僕は、もう少しで(これは本当なのです、みなさん)おしっこをもらしそうになった……。これだ!EMS-401!*14
 レコードを手に入れたザッパは、このレコードを擦り切れるほど聴き、そして16歳の誕生日、5ドルのプレゼントをくれるという母親の申し出を断り、そのかわりにサンディエゴの自宅から、ニューヨークのヴァレーズに長距離電話をさせてほしいと懇願する。電話帳で番号を調べてかけてみると、ルイスが出た。「奥さんはとても優しい人で、ヴァレーズは今ヨーロッパにいるので何週間か後にかけ直すように言ってくれた。僕はそのとおりにした。ヴァレーズに何を話したかは覚えていない。でもこんな感じだった。『あなたの音楽が大好きなんです!』」*15。このエピソードを裏付ける、ザッパからヴァレーズに宛てた手紙がザッハー財団に収められている。日付はないが1957年夏頃のものと思われる。

 親愛なるサー、
 おそらくあなたは1月に僕がかけたバカげた電話のことを覚えておられると思います。もう一度自己紹介すると、フランク・ザッパ・ジュニアといいます。16歳です。(中略)僕は今ボルチモアの親戚のもとを訪れているのですが、東海岸にいるうちに、あなたに会いに行きたいと思い手紙を書いているのです。驚かれるかもしれませんが、僕は13歳の頃からあなたの音楽に興味を持っています。これはすべて小さなレコード店で、あなたのアルバム「エドガー・ヴァレーズの音楽 vol.1」を買ったときから始まりました。

 この後、レコードを買った経緯や(5ドル40セントという値段まで書かれている)、自分も作曲を始めており、大学を出たら、あなたのような作曲家になりたいといった文面が続く。そして、次のくだりが面白い。

奇妙に思われるかもしれませんが、僕はあなたに新しいアイディアのヒントを与えられるかもしれないと思っています。ひとつはルース・シーガーの対位法的ダイナミクスの原理を洗練させることです。そして、もうひとつは僕が「逆行四角形」と呼ぶ12音技法の拡張です。これによって、和声的に構築された汎調性的音楽を、調性を捨てることなく、論理的な帰結として導くことが可能になるのです。できれば、すぐに返事をいただけないでしょうか。ここには長くいることはできないのです。僕のアドレスは、4803 ロッホ・レイヴン通り ボルチモア メリーランド州です。電話はホプキンス77336です。どうぞよろしくお願いいたします。
フランク・ザッパ Jr.

 青年期の利発なザッパの姿が垣間見えるようで、微笑ましい。この手紙のあとでヴァレーズとザッパが実際に会ったという記録はないが、その後ザッパは作曲家、ミュージシャンとして成長し、時にはヴァレーズの影響を濃厚に感じさせる作品を発表してゆくことになる。
 そして、EMS-401が発売された1950年7月、戦後前衛音楽の牙城となりつつあったダルムシュタット夏季新音楽講習会にヴァレーズは招かれた。
 7月27日にフランクフルトに到着したヴァレーズはダルムシュタットに向かい、8月から9月にかけて若きルイジ・ノーノを含む多くの若者にレクチャーとレッスンを行うことになる。講習会の終盤でヴァレーズの「イオニザシオン」などを演奏したヘルマン・シェルヘンは、彼について「この65歳の作曲家は突如として音楽の世界の地平にあらわれたのです。夕暮れに消えゆく人物としてではなく、創造的な音楽のアイディアが燃え盛る、生ける松明として」*16と紹介したという。
 こうした若い作曲家たちの期待に応えるようにして、ヴァレーズは生涯をかけた大作へと向かってゆく。

■マルチメディア作品としての「砂漠」
 件のレコードが発売される前年、およそ1949年頃から、彼は新しい作品、すなわちやがて「砂漠」と名付けられる作品の作曲に着手している。あまりにも長くかかわっていた「空間」のプロジェクトが、その残骸といえる「空間のためのエチュード」の不本意な初演で一段落した今、ヴァレーズはようやく沈黙の時代を脱しようとしていた。
 面白いことに、のちの1954年にヴァレーズがヘラルド・トリビューンの記者に語ったところによれば、この音楽はそもそも「砂漠」と名付けられた映像作品のための音楽として構想されたという。そこでは音楽と映像が新しい形で交錯するのだが、まずは音楽から手をつけたというのである。
 そう、ヴァレーズは映像とのコラボレーションをまだあきらめてはいなかった。実際、1946年にはトマス・ブシャールがヴァレーズの作品(「オクタンドル」「イオニザシオン」「アンテグラル」「ハイパープリズム」)を自身のフィルムの中で使い、さらにこの続編のフィルム(「ひとつのタブローの誕生」)では、ヴァレーズがバロック音楽からいくつかの断片をセレクトしている。かくして、ヴァレーズの映像への思いは急速に再燃することになった*17
 現時点で分かっている限りにおいて、最初に「砂漠」という作品の存在が語られるのは、フランスに住む娘クロードに宛てた1949年6月13日付の書簡である。

そう、バージェス・メレディスと私は一緒に「砂漠」というフィルムを作っている。ただし、これはドキュメンタリーではない。新しいアプローチ、すなわち光と音は必ずしも調和せず、画像は音楽を追ったり、対立したりするのだ。かつてなかったようなやり方で。音楽が先に書かれることになるだろうが、最終的には、私の人生の中ではじめて音響研究と実験の可能性を追及する機会になるだろう*18
 メレディスはどちらかといえば通俗的ともいってよいハリウッドの俳優/監督であり(当時は「バットマン」の悪役などで知られた)、芸術的な作品を残してはいない*19。案の定というべきか、メレディスはいつしか共同制作者から名を消し、フランス人のレイモンド・クルーズが候補にあがるが、これも頓挫*20
 一方で、「砂漠」のオーケストラ部分は着々と進んでいた。かつて「空間」のために書いたスケッチ類を投入したこともあり、ヴァレーズとしてはきわめて早いペースでスコアが作られている、こうして1952年の後半には、ほぼオーケストラ部が完成した。あとは映像作家を探さねばならない。
 興味深いのは、1952年の夏、ヴァレーズが旧知の指揮者であるスロニムスキーにウォルト・ディズニーの住所について問い合わせる書簡を送っていることである(1952年6月21日)。さらに1952年7月5日のスロニムスキー宛ての書簡では、以下のような依頼がなされる。

もしも私の記憶が正しいのであれば、確か君は、ウォルト・ディズニーが私の仕事に興味を持っていると言っていなかっただろうか? もしもそうだったら、そして君が彼をよく知っているならば、私に紹介してくれないだろうか。もちろんその前に、私が一体何をするつもりなのかは君に知らせるつもりだ。
 なるほど、一般に我々は、ディズニーを子供向けアニメーションの会社と認識しがちだが、アニメーションの創成期においては、ディズニーはきわめて実験的といってよい最先端の芸術家だった。ヴァレーズが「砂漠」の映像担当にふさわしいと考えたのもよくわかる。この時点ではヴァレーズがスロニムスキーにははっきりと明かしていない「私が一体何をするつもりなのか」は、その前日の52年7月4日、出版業を営むメール・アーミテージMerle Armitage宛の書簡ではっきりと述べられている。

このプロジェクトの着想は、映像と音楽の新しい関係性を作り出すことにある。その映像は、決して観光的であったり、あるいは物語的なものではないのだが、アメリカという国のある部分をあらわすものにするつもりだ。主題はアメリカの砂漠だ。ここで砂漠という言葉は広い意味で使っている。すなわち、地球上にある砂漠(砂、雪、山)、海の砂漠、空の砂漠(雲や星座)、そして人の心の中にある砂漠だ。[中略]このプロジェクトを完成させるためには、まずは私が最初にスコアを書き、そしてそれを演奏したものをテープに録音しなければならないだろう。だいたい20分から30分ほどのものになる。この音楽部分はそれ自体でひとつにユニットを形成する。そして強度、テンション、リズム(広い意味でのリズムのことだ。安定的な要素。)はごく自然に計算されて画像と一緒に全体を成すことになるだろう。画像の監督となる人物は音楽に通じていなくてはならず、そして撮り始める前に細部についてのディスカッションが必要となろう。[中略]地球の風景、空、水などがアメリカの砂漠の風景となるだろう。カリフォルニア(デス・ヴァレー)、ニュー・メキシコ、アリゾナ、ユタ、アラスカなど。[中略]私は20人の器楽アンサンブル、そして同じ数の合唱を予定している。
 ヴァレーズの脳裏には、あのニュー・メキシコの荒涼とした大地、そして彼が生涯愛した宇宙、そして自らの徒労に満ちた長い空白期間が浮かんでいたことだろう。「砂漠」という単語は、彼にとってはもはや特別な意味を担うものになっていた。
 ちなみに、ここでヴァレーズが「合唱」を想定していることはきわめて重要である(周知のように、完成した「砂漠」には合唱パートは存在しない)。すなわち、まだこの時点での彼は明らかに、未完成の「空間」の構想を引きずりながら、この新作に向かっていたはずだ。20人という合唱の人数は、ほぼ正確に「空間のためのエチュード」と同じものでもある。
 詳細は分からないものの、結局ディズニーはヴァレーズの計画に興味を示さなかったようである。ディズニーからの返信は筆者の知る限り存在しない。こうして、「砂漠」は徐々に映像のない音楽単体の作品として初演に向かってゆくことになる。

■コンクレートという手法
 一方、このころ、大西洋を隔てたフランスではヴァレーズの「組織された音響」を実現する、強力な手段が開発されつつあった。フランス国営放送の音響技師であったピエール・シェフェールによる「ミュジク・コンクレート」である。外界の音をテープに録音し、それを変調して音楽作品に仕上げるという方法は、当然ながら平均律とは無縁であり、楽器の音もそれ以外の音も素材にできるという点において、ヴァレーズの望むものに近い。
 シェフェールの最初のコンクレ―ト作品は1948年にまでさかのぼる(「5つのエチュード」)。ヴァレーズがこの動きをいつ知ったのかは分からない。また、どの時点から「砂漠」にコンクレートを用いようとしたのかも定かではない。
 ただし不思議なことに、パリにいる「本家」のシェフェールは、すでに1952年の著書の中でヴァレーズについて奇妙な形で言及している。シェフェールはアメリカに住むヴァレーズがアコースティックな音響に満足していないことについて述べ、彼を一種の予言者であるとしたあと、「その詳細は全く分からないのだが」と断った上で次のように記している。

奇妙なことなのだがヴァレーズはオーケストラを用いた様々な工夫を続ける中で、ケージのような「プリペアド」ピアノを使うのではなく、他に類のない、時として「ミュジク・コンクレート」に似ている音楽を書いているというのだ*21
 考えてみれば、シェフェールは音響技師としてたまたまテープ音楽という手段を発見したわけだが、一方のヴァレーズはテープ機器というテクノロジーが一切存在しない頃から、ほぼ同じようなことを夢見続けていたのである。
 しかし、いずれにしてもテープ・レコーダーという魔法の杖がないことには作業は不可能だ。どこのスタジオにも属しておらず、経済的にも困窮していたヴァレーズにその入手は困難だったが、ある日突然、無名の提供者からアンペックスのテープ・レコーダーが届いた。実は、この最新式のレコーダーは、妻ルイスと、友人の科学者/画家のアル・コプレイが共同で購入したものである。しかしヴァレーズの自尊心を考慮して、無名者からの贈り物にしたのだという。ヴァレーズの面倒な性格が透けて見えるようなエピソードではある。
 機器を得たヴァレーズは、即座に「砂漠」に挿入されるテープ部の作曲を開始。フィラデルフィアの鉄工所や製材所をまわって音を収集し、それを加工するという作業が始まる。しかし70歳を越えたヴァレーズにテープ・レコーダーの扱いは難しかったようで、1954年初頭からは、若い作曲家アン・マクミランが助手として参加した。マクミランは当時を回想して次のように述べている。

彼は機械をどのように使うかを教えてくれる人材を求めていました。そして、そのころレコード会社に勤めていた私に対して、彫刻家のレイモンド・プッチネッリが、ヴァレーズを手伝ってみないかと提案してきたのです。(中略)私はまず彼の家のディナーに招待され、そしてすぐにヴァレーズ家のアンペックスを操作するようになりました。彼は、自分の指示の下で私が働くことを大変に喜んでいましたが、しかしプライドの問題からか、それをあまり認めたくないようでした(ヨーロッパで電子音楽を作曲する場合、エンジニアや技術者と共同作業をするのは、むしろ普通のことなのですが)*22
 実はこうした作曲者と技術者の共同作業に対する、ヴァレーズの「古い」意識のありようは、のちに「ポエム・エレクトロニク」を制作する際に大きな問題を引き起こすことになる。ヴァレーズは技術者の創造性というものをほとんど認めず、彼らはあくまでも単なるアシスタントと考えていた。
 ヴァレーズがコンクレートを作っていることを知ったシェフェールは、1954年初頭、親切にもヴァレーズを自らのフランス放送局のスタジオに招待した。数か月の逡巡ののち、ヴァレーズはフランスに向かうことを決める。
 かくして彼は54年の10月5日にル・アーブルの港に到着し、その後11月末までかかって、ピエール・アンリの手を借りながらテープ部分の音響(第1稿)を完成させたのだった。ミュジク・コンクレートの震源地だけあってパリでは順調にことが進んだようでもあるが、電子音楽の作曲家であり、のちにヴァレーズの「砂漠」テープ部分改訂を手伝うことになるウラディミール・ウサチェフスキーは、次のように述べている。

彼[ヴァレーズ]は、ミュジク・コンクレートのスタジオで仕事をした。このスタジオはピエール・シェフェールの管轄下にあったわけだが、彼はコンクレートの「父」だけあって、それに大変に固執しており、電子音を好まなかった。ゆえに、ヴァレーズは完全に自分の好みですべての音響を作ったわけではないと思う*23
 なるほど「本場」だけに全てが自由ではなかったかもしれない。もしかすると「砂漠」のテープ部分に電子音が少ないのは、このせいだった可能性もなくはないだろう。しかしフランスでの最終的な作業が一か月半ほどであることを考えると、本質的にそれほど違いがあったとは思えない。
 こうして完成した作品の正式名称はDéserts, for orchestra and two tracks of“organized sounds”on magnetic tape、すなわち「砂漠 オーケストラと磁気テープに録音された2トラックの『組織された音響』のための」というものである。ついに、ここでヴァレーズが長らく夢見ていた「組織された音響」という概念が、部分的にではあれ、実現することになったのだった。
 ひとつ気になる情報は、1954年初頭、ヴァレーズがルイスヴィル交響楽団のためのオーケストラ作品を準備していたらしいことである*24。この作品はTrivium(三学科)という名を持っており、3つの部分が切れ目なく演奏される楽曲だという。各部分はテンション、強度、リズムを象徴しているらしいのだが、この構造がそのまま「砂漠」の3つのテープ部分に応用された可能性があると、伝記作家のウェレットはいう*25。作品自体が完成していないこともあり、真偽のほどは定かではないが、十分にあり得る話ではあろう。

■初演とその余波
 ついに1954年12月2日、「砂漠」はシャンゼリゼ劇場で初演を迎えることになる。
 当日のラジオ生中継は、フランス初のステレオ放送が試みられた(これはChaîne Nationale局とFrance-Inter局がそれぞれ右、左のチャンネルを担当し、2台のラジオがあればステレオ放送を享受できるというものだった)。様々な意味で、画期的な一夜だったのである。
 しかし、ヘルマン・シェルヘン指揮によって、モーツァルト作品の後に演奏された「砂漠」は、テープ録音されたコンクレート部分で怒号がとびかう事態に発展する。この様子については、本連載の第1回ですでに述べたので、ここでは繰り返さない。ともかくヴァレーズがあれほど夢見た新しい「組織された音響」を、そして音楽とテクノロジーをめぐるとてつもなく長い彷徨を、このとき、故郷のパリはやすやすと受け入れてはくれなかった。
 では、「砂漠」とはどのような作品だろうか*26
 曲は、フルート、クラリネット、そしてチューブラー・ベルなどによるF音とG音の重なりで幕をあける。冒頭のベルの音はどこか神話的なニュアンスを音楽に与えていよう。やがて金管と打楽器が導入されると、いつものヴァレーズ節に近づくが、しかしこの冒頭部は何か強い抑制が音楽全体を貫いている。82小節目が終わると、最初の「組織された音響」が登場。打楽器を変調したとおぼしき響き、鉄工所的なノイズ、電子パルスなどが交錯するメタリックな触感はかなり刺激的だ。
 続くオーケストラの第2部分は、ホルンに始まり、管楽器が同音連打を繰り返す背景で、打楽器が作品に色彩を導入する。ここはもっとも長く(およそ7分)、またサウンドも他のヴァレーズ作品に近い。随所で、楽器群のみによる「イオニザシオン」的な部分があらわれるのも特徴だ。そして224小節が終わると、第2の「組織された音響」。ここは爆発音のようなサウンドで始まるが、途中では内省的な打楽器音の変調が中心。沈黙に近い部分も多く、どこか「中間楽章」的な落ち着きが感じられる。
 ティンパニの響きとともに、オーケストラの第3部分が始まる。ここではロングトーンが精妙な音価で置かれているが、およそ1分半というエピソード的な短さ。263小節が終わると、第3の「組織された音響」があらわれる。ここは悲鳴のようなグリッサンドに始まり、途中からは電子音が頻繁に導入される。一方でオルガンの変調などはのちの「ポエム・エレクトロニク」を思わせよう。音響の種類としてはもっとも多彩な部分であり、キーンとした音が増幅される最終部まで、独特の遠近感が構築されており聴き応えがある。
 そして打楽器で始まる第4のオーケストラ部は、いったんコーダ的なクライマックスがあらわれたのち、音楽は弱音基調へと沈み、静かな和音をたなびかせて終わる。ヴァレーズ作品の中でも、これほど美しく、ある意味で「音楽的な」エンディングはほかにないだろう。
 こうして展開を追ってみると、決して分かりにくい作品とは思われないのだが(平均して3分ほどでオーケストラ部とテープ部が交替するという構成も形式の把握を容易にしている)、主にテープ部のノイズ的な音響が聴衆を刺激したということなのだろう。
 批評は例によって賛否両論で、「ノイズがあればあるだけ彼は喜んでいる。我々の『電気交響曲』作曲家に必要なのは電気椅子への旅であろう」などという激しい罵倒調のものもあれば*27、旧知の詩人リブモン・デセーニュの「音楽は常に他の芸術の後塵を拝してきた。しかしようやくいま、音楽は革命の力に満ちることになったのである。まさにヴァレーズの手によって」という絶賛*28、そして音楽学者アントアーヌ・ゴレアの「敵意をむき出しにした暴力と、熱狂的な支持が対立したということが、この作品の持つ大胆さ、そして生き生きとしたエネルギーを証明している」*29と、やや腰の引けた賛辞というべきものまで多彩だ。
 しかし、翌週の12月8日、ドイツのハンブルクでブルーノ・マデルナ指揮によって行われた二度目の演奏は、聴衆から大きな歓声で迎えられた。批評の類は確認できていないが、ヴァレーズ自身が「大成功」という語を珍しく口にするほどだから、おそらくは相当な評判となったのだろう。
 ただし……記録を調べて愕然としてしまうのは、この時、同時に演奏されたのが、シュトックハウゼンの「コントラ・プンクテ」だったことである。1950年代半ば、70歳を過ぎたヴァレーズがアンペックスのレコーダーを必死に操り「砂漠」を作っている間に、こうした戦後世代が続々とデビューし、根本的に新しいコンセプトの作品を次々に世に送り出し始めていた。確かに45歳年下のシュトックハウゼン作品と一緒に演奏されてみれば、ヴァレーズ作品は決して過激には響かないだろう。ちなみに12月13日には、やはりマデルナの指揮でストックホルムでも演奏が行われたが、ヴァレーズはこれには立ち会っていない。
 1955年5月にアメリカに帰ったヴァレーズは、5月17日にヴァーモントで、そして11月30日にはニューヨークで「砂漠」の演奏を行う。しかし彼は、当初から「組織された音響」部分のクォリティに全く満足していなかった。これは基本的には慣れない機材を初めて使用したことによるものだったが、もしかするとウサチェフスキーが先に述べていたように、シェフェールのスタジオで最終的な仕上げをしたことへの不満も含まれていたかもしれない。
 4年後の1959年、オットー・ルーニングとウサチェフスキー、そしてロジャー・セッションズとミルトン・バビットらによってコロンビア-プリンストン電子音楽センターが開設する。この翌年からヴァレーズは、このスタジオにおいて、トルコ人作曲家ヴレント・アレル、アルゼンチン人作曲家マリオ・ダヴィドフスキーの手を借りて、テープ部分を大きく改訂した(とりわけフランス語に堪能なアレルはヴァレーズに気に入られていたという)。その後、彼は自宅においても作業を続け、結局、初演後に3回の改訂が行われることになった。1961年夏に作られたものが、現在使われている「最終版」ということになる。
 ちなみに初演後も、ヴァレーズは「砂漠」のマルチメディア化をあきらめてはいない。1955年のシャンボニエールとの対話で、彼は次のように述べている。

 C:映画のための作品を書いたことがありますか?
 V:ありません。しかし「砂漠」のためのフィルムを作りたいと思っています。
 C:つまり普通とは逆に、最初に音楽があって、そこからフィルムを構築していくというわけですか?
 V:そうです。「砂漠」はまさにそのために書いたのです。
 C:その画像は抽象的な性格ですか?
 V:いや、抽象的なものではありません。そもそも「抽象的」とはどのような意味ですか?
 C:つまり、形のあるものを考えているのですか、それとも?
 V:あらゆるものに形はあります。
 C:確かに。全てに形があり、全ては象徴であり、イマージュです。私が言いたいのは、それはなんらかの「物語」のようなものなのかという点なのです。
 V:全く違います。物語ではありません。ただ何かを示唆し、イマジネーションを刺激するのです*30

 このヴァレーズの計画は実現しなかったが、はるかに後の1994年、映像作家ビル・ヴィオラがヴァレーズの構想をできる限り忠実に実現した映像作品「砂漠」を発表している。ヴィオラは制作にあたって、ヴァレーズに関する資料(とりわけ「砂漠」に関するもの)を膨大に収集した*31。ヴァレーズの意志は、死後およそ30年を経て、こうした形で達成されることになったともいえよう。
 「砂漠」を経たヴァレーズは、かくして「ポエム・エレクトロニク」という最後の大作へと向かってゆくことになる。しかし、そこには多くの困難が待ち構えていた。

■ル・コルビュジェとフィリップス館
 1958年のブリュッセル万博は、第二次大戦後初の本格的な国際万博である(その前は1939年のニューヨーク万博までさかのぼる)。戦後の秩序が回復され、人類が未来に向かって前進する力強いイメージがこの万博の特徴だ。テーマは「新しいヒューマニズム」*32
 オランダの電気メーカーであるフィリップス社がこの万博のために計画したのが、伝説的な存在といえる「フィリップス館」である。1891年にオランダのアイントフォーヘンの電球会社として出発したフィリップスは、20年代の終わりからラジオの分野に進出し、その後も通信、レコードの分野における巨大な組織を築いていた。重要なのは、この会社がカーボン・フィラメント、すなわち光を扱う企業として出発しながら、徐々に電気テクノロジーによる音響製品へと軸足を移動させていった点である。彼らにとって光と音は企業としてのレゾン・デートルであり、ゆえに「光と音の饗宴」は、フィリップス館のもっとも主要なテーマとならなければいけなかった。
 万博の2年前にあたる1956年、彼らがそのために白羽の矢をたてたのが、建築家のル・コルビュジェである。
 すでに戦前の「レスプリ・ヌーヴォー館」(1925年、パリ万博)から万博の仕事を手がけていた彼は、大戦後の一時期にはヴィシー政権への加担で非難されるも、マルセイユの「ユニテ・ダビタシオン」(1952年)などの代表作をものして、世界的な建築家としての名声を確立していた。モダニズムの粋といえるその様式は、なるほど、フィリップスの理念にも適合するものだったはずだ。
 しかしひとつだけ、大きな問題が横たわっていた。この時期、ル・コルビュジェが手掛けていたインドのチャンディーガルの都市計画が佳境に入っていたのである。
 彼の創作の軌跡を追ってゆくと、その初期からひとつの建築のみならず、その集合体、さらには都市のデザインという志向を強く持っていたことが分かる。パリ市街に巨大な高層建築を建て、まわりに緑地帯を配するというヴォワザン計画(1925年)はそのもっとも有名なものだろう。しかし当然ながら、邸宅の設計などとは異なり、都市計画のチャンスは簡単には与えられない。ましてやパリやロンドンのような都市をデザインすることは、絶対的な権力者が現れない限りは無理だろう。ゆえにル・コルビュジェも、アルジェリアをはじめとする北アフリカ、そしてブラジルでその機会を探っていたのだが、しかしいずれも最終的な実現には至らなかった。ところが50年代初頭にいたって、北インドのチャンディーガルで、ついにその夢がかなったのである。
 チャンディーガルは、インドとパキスタンが分離した際(1947年)、かつてパンジャブ州の中心だったラーホールがパキスタン側に編入されてしまったことを受けて、インド側に人工的につくられた新しい州都である。「過去の伝統に束縛されない、将来の新しい国家の信条のシンボル」を求めていた首相ネルーは、いくつかの紆余曲折を経たのち、最終的にそのデザインをル・コルビュジェにまかせた。果たして、彼はこの都市全体に、800m×1200mのセクターが40個以上拡がるグリッド状の形態を与え、それぞれの地域が有機的に接続されるように官公庁や大学、そしてレジャー施設を配するという計画で応えたのだった。もちろん都市のデザインを施すだけではなく、裁判所や行政庁舎などの主要な建築物は自身で設計した。
 この超巨大プロジェクトに没頭していたル・コルビュジェに、フィリップス館を自分で設計する余裕はない。結局、彼はラ・トゥーレット修道院(1956年着工、60年竣工)に続いて、若い弟子にして作曲家でもあるギリシア系作曲家ヤニス・クセナキスに実質的な差配をまかせる。おそらく最初の根本的なコンセプトはル・コルビュジェによるものながらも、細部の設計に関しては、ほとんど全てクセナキスが担当したと考えてよい。こうした共同作業ゆえ、のちに二人はどちらが「フィリップス館」の設計者であるのかについて若干の対立を引き起こすことにもなった(クセナキスは1961年に「……コルのところをやめた理由は、彼がフィリップス館を自分がやったことにしたからです。私が彼に不満をいうと、『これが自然だ。自分は君に給料を支払っているのだから』と答えました」と述べている)*33。いずれにしても、ル・コルビュジェ流のモデュロール(人体のサイズを基礎にした建築の単位)を基礎にしつつ双曲放物面を主題にした、あまりにも独創的なフォルムは、二人の個性によって生み出されることになったことは確かだ。ル・コルビュジェは、のちに次のように語っている。

1956年、フィリップスの社長からブリュッセルのフィリップス館を依頼されました。「まったく自由に思い通りに展示館のファサードをつくってください……」。私の答え。「展示館はつくりません。瓶に『電子詩[Poème électronique]』を入れます。瓶は展示館になりますが、ファサードはありません」。[中略]突然の思いつき! つまり、速度、数学、色彩、響き、騒音、無限性を取り入れるのです*34
 「電子詩を入れる瓶」という発想は、弟子のクセナキスが作曲家であったことと無縁ではないだろうが、この直前に作られた「ロンシャンの礼拝堂」(53年着工、55年竣工)において、不規則に穿たれた様々な形態の窓から、ステンドガラスによって彩色された光が降り注ぐ内部の様態は、一種、フィリップス館との類似を感じさせる。とすれば、この全体像は当時のル・コルビュジェを捉えていたヴィジョンのひとつのようにも思われる。ともかく、これを受けてクセナキスは、いくつかの段階を経ながら計画を組み立ててゆく。その過程の詳細を追ったマーク・トライブの研究およびフィリップス社の報告によれば*35、当初の案は双曲放物面と円錐を組み合わせたもので、確かに全体は曲面を成しているものの、最終案とはかなり異なる。しかし、その後の案では全体を双曲放物面で構成することによって、きわめて不思議な形態が立ち上がった*36。この最終形態について建築史家の五十嵐太郎は以下のように述べている。

曲面は、構造的なバランスを保つように凹面から凸面に変わったことにより、すべての柱を取り除くことができた。そして純粋に曲面の組み合わせで構造的に自立した形態が成立する。コンクリートの表面はすべて銀色のアルミニウムによりおおわれ、あたかも連続した曲面のように仕上げられた。かくして、フィリップス館は、壁・柱・屋根が一体化しつつ、ねじれた連続的な形態を誕生する*37
 当然ながら、この「ねじれた連続的な形態」は、鉄筋コンクリートによる工法の発展によって基礎づけられているものだった。
 そして、このあまりにもユニークな建築物のもう一つの特徴は、それが「電子詩」を閉じ込める瓶として構想されている点だ。建物の内部には、なだらかな曲線を描く壁面に325個のツイーターが埋め込まれ、さらに底面には25個のウーファーが設置された*38。これらが12通りの「音響の道」を形成するというのである。問題は、誰がこの内部で「電子詩」を響かせるか、である。ル・コルビュジェの答えは、最初から明快だった。

■フィリップス社との攻防
 ル・コルビュジェが指名したのは、言うまでもなく、エドガー・ヴァレーズだった。
 二人の出会いは1935年にまでさかのぼる。この年の12月、ル・コルビュジェがロックフェラー財団とMOMAの招待で初めてアメリカを訪れた際、ヴァレーズと知り合ったという。20年以上たった1956年になって、突然ヴァレーズを指名するのはやや不思議だが、弟子のクセナキスから何らかの情報(とりわけ「砂漠」に関する情報)を得ていたものと思われる。

響き、騒音、無限性。現前する人間に開かれた新しい創造。25年[ママ]も付き合いが途絶えていましたが、即座にヴァレーズのことを考えました。この任務はヴァレーズが作曲してくれるのでなければできないと強く主張しました。「音楽家や作曲家はほかにもいます」と言われましたが、私は「ヴァレーズが来るか来ないか、どちらかしかありません。ヴァレーズに相応しい報酬が支払われるような状況だけはつくりたい」と答えました*39
 ヴァレーズにとっては願ってもない申し出だったに違いない。フィリップスの資金で電子音楽を制作し、それを立体的に放射できるという企画なのだから。チャンディーガルがル・コルビュジェの夢だとすれば、この「ポエム」はヴァレーズの夢ともいえる。ちなみに先の引用でも見たように、「ポエム・エレクトロニク」というタイトルは、ル・コルビュジェのアイディアによる。つまりこれはヴァレーズの作品名であると同時に、光と音によるこのパヴィリオンの出し物自体の名称でもあった。
 ただし、フィリップス社はこの提案には乗り気ではなかった。どうせ音楽を依頼するのであれば、当代随一の人物に依頼したいというのが彼らの本音であり、実際、社から出ていた名前はブリテンやウォルトン、コープランドといったものだった*40。この雰囲気を敏感に察知したクセナキスは1957年1月2日の手紙でヴァレーズに次のように語っている。

まず第一に、あなたの美学的な土台について彼らには一切触れさせないでください。ル・コルビュジェはあなたに仕事を頼んだのです。彼はあなたのために闘わねばなりません。彼はあなたを最後まで守るでしょう。……彼の拳がテーブルの上に振り下ろされたら、反抗的な人も従うようになると思います。言うまでもなく、私は完全なる味方です。なぜならあなたの音楽が大変に好きだからです。ル・コルビュジェはほどなくして戻ってきます*41
 最後の「ほどなくして戻ってきます」というのは、ル・コルビュジェがチャンディーガルに滞在していることを指している。ニューヨークに住むヴァレーズ、パリに住むクセナキス、そしてインドに滞在するル・コルビュジェというわけで、連絡ひとつとってもなかなか困難をきわめた。今から冷静に見ると、フィリップス社とヴァレーズの関係が必要以上にこじれたのは、この距離のせいもあるように思われる。
 当初の反感を突破したものの、1957年の9月からヴァレーズがアイントフォーヘンのフィリップス社のスタジオに籠り、作業に没頭することになると、再び問題が勃発した。ヴァレーズと、これまで音楽制作に携わったことなどない技師たちとのコミュニケーションがうまくいかないのだ。もちろん、その根本的な原因のひとつに、先に述べたようなヴァレーズの技術者軽視があったことは間違いないだろう。現場の責任者ウィレム・タックはのちの論文で次のように述べている。

この作品は膨大な種類の音響によって特徴づけられているために、その作業はしばしば極度の困難をきわめました。とりわけこの分野における言語の不足、すなわちどういう表現を欲しているのかを指し示す言葉の不足が大きな問題でした。ヴァレーズは頻繁に「もっと鼻にかかったように」「それほど鋭くなく」「もっと苛立つような感じで」という具合に彼の意図を伝えるわけですが、彼の希望にできる限り沿うようにフィルタリングやミキシング、周波数変調を行うのは我々の仕事なのです。必要な作業をきちんと伝えるために、我々はしばしばオノマトペに訴えざるを得ませんでした。「ワウワウ」「プーウィップ」「ティック・トック」「フーップ」「チューシャッ」といった具合です*42
 控えめな表現ではあるが、まるでこの作品を作ったのは我々だ、と言わんばかりのようにも読める。いずれにしても彼らにとって70代半ばのヴァレーズは、いまだ国際的な名声を獲得するには至っていない老作曲家であり、しかもフランス訛りのきつい英語で、抽象的で時として実現不能な指示をあれこれと投げつけてくる、傲慢な人物だったに違いない。技師たちとの対立はやがて、フィリップス社のCEOであるフリッツ・フィリップスにまで波及していった。
 ヴァレーズの方でも我慢の限界が近づいていた。1957年12月18日、弟子のチョウ・ウェンチュン宛の書簡の中では「何度かは、礼儀として許されないほどに激怒してしまった」と述べている*43。対立は深刻化し、密かなヴァレーズ下ろしが上層部の課題となった。驚くべきことに、実はこの時フィリップス社は、ル・コルビュジェにもヴァレーズにも知らせないまま、フランス人作曲家のアンリ・トマジに「ポエム・エレクトロニク」という同名の楽曲を作らせている。いざとなったらこれに差し替えるつもりだったのである*44
 しかし、ル・コルビュジェは頑として最初の選択をまげなかった。彼はチャンディーガルからプロデューサーのルイス・カルフに対して「ヴァレーズを解任するのであれば、それで構いません。ただしもしもそういうことが起こったら、私もこの計画からおろしてもらいます」と手紙を送る*45。またヴァレーズも1958年1月2日にクセナキスに対して「心配しないでください。私が何事かを決定したときには、私は自分が正しいと、そして自らの正しさの中にいると分かっているのです。私は決してあきらめません。譲歩するなどということは、私には決して起こらないのです」*46と断言している。こうした瀬戸際の攻防の中で、なんとかヴァレーズの作品は完成をみたのだった。
 ちなみに、フィリップス館に入退場する際の2分ほどの音楽として、クセナキスもテープ作品の「コンクレPH」(1958年)を制作している。タイトルの「PH」とは仏語の「双曲放物面Paraboloïde hyperbolique」からきたもの。この作品は「湿らせた練炭がひび割れる音で構成されており、その配置はPHの計算によって」決定されていた*47。クセナキスは当初、自分も小曲を提供することがヴァレーズの気に障らないか不安だったようだが、むしろヴァレーズは率先してフィリップス社やル・コルビュジェとの折衝にあたってくれたと、後に深く感謝している*48

■「ポエム・エレクトロニク」と空間性
 フィリップス館で行われる「ポエム・エレクトロニク」は、2分間の入退場時間(クセナキス作品が流れている)の後に、ヴァレーズの8分の作品が流れるという構成を、30分おきに朝10時から夕方6時まで繰り返すというものである。
 現在では二人の音楽作品のみが残されているわけだが、当初、ヴァレーズ作品には、評論家のジャン・プティの協力によってル・コルビュジェが構成した、480種の映像からなるフィルムが付随していた。映像全体は7つのシーケンスからなり「人類の誕生からはじまって、聖母マリア、仏陀、死刑執行人、工場の歯車、原子爆弾の爆発など」*49に色彩と光の抽象的なパターンを組み合わせたものだったという。さらに終盤に至るとコルビュジェ自身の作品である「ユニテ・ダビタシオン」「モデュロール」「開かれた手」「チャンディーガルの町」などの写真も使用された*50。彼は1957年6月16日のヴァレーズ宛の手紙で次のように述べている。

 過日シナリオを提出しました(映像の最終版です)。複写をつくってお送りします。
 私はこう決めました。あなたの音楽は自由。私のシナリオも自由。互いに自律しています。想像して見てください。ある人が本を読んでいるところにソナタが奏でられます。目と耳が働きます。(劇的な)効果をもたらすために、ここぞというときに、音楽をちょきんと切断して中止し、どこか不快な静けさが生まれた後に、また音楽を再開するのです*51

 ル・コルビュジェが想定していたのは、映像と音楽がほぼ無関係に進行し、後半のある地点で一瞬、映像の空白と音楽の静寂がシンクロするというものだった。結局、ヴァレーズがこの「静寂」部分を作ることはなかったのだが、なるほどユニークな発想ではある*52
 かくして1958年5月2日、ブリュッセルにおいて、ル・コルビュジェ、クセナキス、そしてヴァレーズによる「ポエム・エレクトロニク」が公開された。以後、9月末までおよそ4か月間、150万人の観客がこれを鑑賞することになったのだった。
 8分2秒の長さを持つヴァレーズ作品は、正式には「Poème électronique for tracks of organized sounds on magnetic tape」というタイトルを持っている。すなわち直訳すれば「磁気テープに定着された、組織された音響の数トラックによる『電子の詩』」となるだろうか。オーケストラとテープによる「砂漠」を経て、彼は「組織された音響」のみによる作品を提出したわけである。
 作品は深い鐘の音で始まり(「砂漠」も鐘の音で始まっていることに注意したい)、電子音、中世風の合唱、女性の声、そしてさらには様々な自作断片が散乱する中で、あたかもヴァレーズという作曲家の個人史と心象風景をあらわすかのような構成をとる。「砂漠」のテープ部分と比べてみると、コンクレートよりも電子音にかなりの比重がかかっているが、そのせいで現在聴くと音響が古く感じられる側面も否定できないだろう。ありていにいえば、全体の基調をなしているのは、典型的な初期電子音楽のサウンドなのだ。ちなみに、クセナキスの小品「コンクレPH」は同時に作曲されているにも関わらず、錆を帯びた鉄のようなノイズが続く点で、むしろ現在でも十分に新しく感じられる(ここにはまた、先のシュトックハウゼンのケースと同じように、世代の差が横たわっていよう)。
 しかし、ヴァレーズにとって何よりも大事だったのは、フィリップス館という特殊な空間において、「音の空間性」というテーマがひとつの成就をみたことだった。
 若いころからジョヴァンニ・ガブリエリの「コーリ・スペツァーティ(複合唱)」を好み(その意味でフィリップス館はヴァレーズにとっての「サン・マルコ大聖堂」ともいえる)、オーケストラに空間性をもたらしたベルリオーズを愛し、そしてアコースティックな楽器で「空間的な投影」を扱った「アンテグラル」を経て、ついにヴァレーズは350個のスピーカーから音を放射する作品に到達した。「フィリップス館」の設計のコンセプトになっているのは、放物双曲線を可視化することだったが、「音の放物線」とは若き日のヴァレーズがサイレンの実験において魅かれたものでもあり、ここにはある種の数奇な因縁さえ感じられる*53
 1958年、ヴァレーズがついに「聖マルコ大聖堂」にたどり着いたとき、彼は75歳になっていた。その道程の長さには目がくらむ思いがするが、ともかくこの8分02秒の電子音楽は、彼の人生の中で初めて、ヴァレーズの理想と現実が接近した瞬間だったようにおもわれる。ようやくここで彼は完全に平均律を越え、自由自在に空間の中に音響を移動させることができたのだった。

■ジャズへの/からの影響?
 ところで、ヴァレーズが住んでいたニューヨークのグリニッチ・ヴィレッジ近辺は、「ヴィレッジ・ヴァンガード」「ブルーノート」などのジャズ・クラブで知られる、戦後のジャズの中心地に他ならない。いわば、彼の自宅があるサリヴァン・ストリートの数ブロック先で、まさに黄金期のジャズの歴史が刻々と刻まれていたことになる。アカデミックな権威とは無縁だったヴァレーズのもとには多くの若い芸術家が集まってきたが(先のフランク・ザッパはよい例だろう)、ジャズ・ミュージシャンも例外ではない。驚くべきことに、その中にはチャーリー・パーカーも含まれていた。
 1954年の秋、パーカーはヴァレーズに弟子入りを志願したという。のちにヴァレーズは以下のように語っている。

バードは、何度も私のところに立ち寄ってくれた。まるで子供のような人間だった。子供が持っているある鋭敏さがそなわった大人だった。それに、途方もない情熱を抱え込んでいた。部屋へ入ってくるなり、いきなりこう叫んだりした「私を赤子としてうけとめて、音楽を教えてください。いまの私は、ただひとつの声でしか、曲がつくれないのです。私は構造が欲しいのです。オーケストラのスコアが書けるようになりたいのです。お金はいくらでもお払いいたします」*54
 しかし、タイミングがあまりに悪かった。1954年の秋といえば、ヴァレーズが「砂漠」のテープ部分を完成させるためにパリへと移る直前にあたる。帰国したら必ず時間をとりましょうという約束を交わしたものの、パーカーはヴァレーズが帰国する2か月前、1955年3月に薬の過剰摂取による衰弱で他界していた。残念なエピソードというほかないのだが、実はヴァレーズとジャズのかかわりは、これだけにはとどまらない。
 研究者オリヴィア・マティスによれば、驚くべきことに「ポエム・エレクトロニク」には、ジャズの影響が直接的にみられるという。以下、主に彼女の論文を参照しながら、この件について記してみたい。
 ヴァレーズがブリュッセルに向かう直前の1957年夏、グリニッチ・ヴィレッジではアール・ブラウンとテオ・マセロが主宰する、一流ジャズ・ミュージシャンによるジャム・セッションが行われていた。メンバーはアート・ファーマー(トランペット)、テオ・マセロ(テナーサックス)、ホール・オーバートン(ピアノ)、ジョージ・ハンディ(ピアノ)、エド・ショーネシー(ドラムス)ほかという豪華なものである。ヴァレーズはアール・ブラウンの勧めで、週末の土日に行われていたこの集まりに参加するようになったが、他にもケージやマース・カニングハムがしばしば顔を出していたという。
 アール・ブラウンは、一般にはケージらと並ぶ初期図形楽譜の作曲家として知られているが、彼は現在のバークリー音楽院(当時はシリンガー音楽院)出身であり、ポピュラーやジャズの理論を学んだ人物に他ならない。ゆえに彼独特の「オープン・フォーム」は、ジャズとの関連をも考えなければならないのだが、まさにヴァレーズもブラウンと同じような形で、ジャズを応用することになる。
 ヴァレーズが試みたのは、曲線によって、各奏者のフレーズを示すスコアを作ることだった。現在、ザッハー財団にはヴァレーズによるジャズ作品の「図形楽譜」が残っているが*55、これは8段の「譜表」のようなものに様々なラインが書かれており、その脇にダイナミクスや「solo」などの語、そして時にはリズム譜のようなものが混じっている。おそらくは8人の奏者のためのものなのだろう。
 ヴァレーズのメモによれば、彼はこのジャム・セッションに1957年3月31日、4月14日、6月30日、7月27日、8月4日の5回ほど参加したことが分かっているのだが、妻ルイスへの7月3日付の手紙にジャム・セッションの様子が記され、「6人のみがあらわれた」「しかしこの6人は非常に熱心で、私がヨーロッパへと出発する前に、もう一度一緒にやりたいと言っている」と書かれていることを鑑みると、おそらくはまず6月30日のセッションで「楽譜」が用いられ、場合によってはその後の7月、8月のセッションでも再度試みられたのだろう(8月末にはヴァレーズはオランダへと出発してしまう)。
 ジョン・ケージは著書『サイレンス』の中で、次のような重要な証言を残している。文章の初出は1958年秋に出版されたストックホルムの雑誌「ニウティーダ・ミウシーク」だから、多分、まさにこの58年夏ころに書かれているはずだ。

近年(1957-58)になって、ヴァレーズは自分でコントロールできる形態で行われるジャズの即興のための記譜法を考案した。特定の音については決定できないものの、音量は決定することができる。ヴァレーズのイマジネーションの特性がよく表れており、即興はいくぶん不確定的ではあるが、響きは他のいくつかの作品に似ている*56
 すなわち、ケージも、この図形楽譜の演奏現場に居合わせたに違いないのである。
 何よりも衝撃的なのは、このジャズ・セッションのための「譜面」が、フィリップス社に残されている「ポエム・エレクトロニク」のための譜面(図形によるもの)とほぼ正確に一緒だという事実である。つまりヴァレーズは、ジャズ・セッションのための図形楽譜を「ポエム」に流用したのだとマティスは述べるのだが、しかし筆者は、実際に起こったことはむしろ逆だったのではないかと想像する。
 当時のヴァレーズは「ポエム」のための音響をあれこれと思い描いていたものの、自分で電子機器を持っているわけではないから、それを図形的なメモで記し、あとはオランダのエイントフォーヘンのスタジオで作業するほかない。しかし、アール・ブラウンや一流のジャズメンとの付き合いの中で、彼らが図形を即興的に演奏することを知った。この時、ヴァレーズは自らのメモを彼らに演奏させようと考えたのではなかったか。それは、やがて作られるはずの「ポエム」を予告するような響きになるかもしれない……。真相は不明ながらも、こうした可能性も十分にあり得ることのように思われるのである。
 そして、ジャズと「ポエム」の関係に関しては、もう一つ気づくことがある。やはりマティスも指摘していることなのだが、先に引用したフィリップス社のウィレム・タックの文章の中には、彼らが「ポエム・エレクトロニク」の音響素材を「ワウワウ」「プーウィップ」「ティック・トック」といった語で呼んでいたことが記されている。これらの語はいかにもジャズ風だ。おそらく、ジャズのヘッド・アレンジに影響された単語を、ヴァレーズも用いていたと考えるのが自然だろう。そうした前提にたってみると、「ポエム」の前半にあらわれる電子音のやりとりは、あたかもトランペットとサックスなどが応答を交わしているようなジャズ的なニュアンスを持っていることに気づくのである。
 50年代のグリニッチ・ヴィレッジに住んでいたヴァレーズにとって、ジャズという音楽は常に身近にあるものだった。そして完全なテープ作品という、五線譜がまるで通用しない未知の領域に足を踏み入れる際に、どの程度かは不明ながらも、ジャズから得たヒントを生かしたのだろう。

■60年代へ
 ヴァレーズの名は、今や現代音楽界において無視できない存在になっていた。すでに彼は「砂漠」「ポエム・エレクトロニク」の作曲家として、そしてアカデミックな権威とは無縁の孤高の前衛として、新しい作曲を目指す若者たちの間で熱烈にその名が支持されている。ケージ、ブーレーズ、リゲティといった新時代の若い作曲家は次々にヴァレーズに手紙を出し、そしてアメリカを訪れた際にはサリヴァン通りのヴァレーズ宅を訪れるのが常だった。新しい作品集レコードが企画され、オーケストラ曲の委嘱も舞い込んできた。長い、あまりにも長い雌伏の時を経て、ようやくエドガー・ヴァレーズの時代が訪れようとしていた。しかし――まったく仕方のないことではあるのだが――彼に残された時間はあまりに短かった。

*1 Elliott Schwartz and Barney Childs (ed.), Contemporary Composers on Contemporary music. (Holt, Rinehart and Winston, 1966), pp.198-199.
*2 ルイスの未公刊の日記の中に、この文章がそのまま掲載されている。
*3 Edgard Varèse “Organized sound for the sound film” in Commonweal, vol.33, Dec.13, 1940, p.204.
*4 もっとも、ケージ関係の文献を見ても、このセンターがどのような形で運営され、どのような成果を生み出したのかについては明らかではない。以下文献などを参照。『ジョン・ケージ伝 新たな挑戦の軌跡』(柿沼敏江訳、論創社/水声社、2015年)、49頁。
*5 Sabine Feisst, “Varèse and his New York Choruses” in Edgard Varèse: composer, sound sculptor, visionary, The Boydell Press, 2006), p.258.
*6 Ibid., p.258.
*7 Ibid., p.259.
*8 Fernand Ouellet, Edgard Varèse (English translation, DaCapo Press, 1981), p.160.
*9 ちなみに、注5に記したSabine Feisstの論文は4月20日初演説をとっている。
*10 Feisst, p.258.
*11 Ouellet, p.166.
*12 1977年の再発時に「砂漠」のコンクレート部分を足したLPが、現在CDで再発されている。
*13 Ouellet, p.172.
*14 CD「エドガー・ヴァレーズ コンプリートワークスvolume.1」(MSIG0443)解説の丹美継訳による。
*15 同前。
*16 Ouellet, p.171.
*17 のちにヴァレーズは、ミロに関する映像作品「アラウンド・アンド・アバウト・ミロ」(1955年)に、ごく短い音楽(「ヴェルジェの行進」)を寄せている。
*18 Olivia Mattis, “Varèse’s Multimedia Conseption of Deserts” in Musical Quarterly 76/4 (1992)
*19 ただし、バージェスは50年代には非米活動委員会に召集されて、一時期は監督活動ができなくなっている。このあたりにヴァレーズとの思想的な共通点を見ることも可能かもしれない。
*20 Mattis, p.561.
*21 Pierre Schaeffer, A la recherche d'une musique concrète (Seuil, 1952), p.180.
*22 Ann Macmillan,“Celebrated Villager:Edgard Varèse 1883-1965” in Contemporary Music Review vol.23,no1,2004, p.4.
*23 Richard Bayly “Ussachevsky on Varèse: An Interview April 24, 1979 at Goucher College” in Perspectives of New Music, Vol. 21, No. 1/2 (Autumn, 1982 - Summer, 1983), p.150.
*24 1954年1月24日のヘラルド・トリビューン紙に、この曲について論じたヴァレーズのインタビューが載っているというが、筆者は未見。
*25 Ouellet, p.180. ちなみにウェレットの書物では「Trinum」と綴られているが、これは明らかに「Trivium」の間違いであろう。
*26 ただし、この文章で筆者が描写しているのは4回の改訂を経た現行版であり、初演版の「組織された音響」はやや異なった様相を呈している。
*27 Ouellet, p.186.
*28 Ibid., p.188.
*29 Ibid., p.189.
*30 Georges Charbonnier, Entretiens avec Edgard Varese (edtions Pierre Belfond, 1970)
*31 筆者のインタビューによる(2009年2月)。
*32 ちなみにヴァレーズの「空間」の草稿にも、冒頭に「前進するヒューマニズム」という一語があったことを思い出されたい。
*33 佐々木宏『知られざるル・コルビュジェを求めて』(王国社、2005年)、186頁。
*34 ジャン・ジャンジェ編『ル・コルビジェ書簡撰修』(千代章一郎訳、中央公論美術出版、2016年)527頁。
*35 以下の文献を参照。Marc Treib, Space Calculated in Seconds, Princeton University Press, 1996. およびPhilips Technical Review 20/2-3, 1958/59.
*36 よく知られているように、この建築はクセナキスのオーケストラ作品「メタスタシス」(1954年)と直接的な関連を持っている。詳細は以下書籍の11頁以降を参照。ヤニス・クセナキス『形式化された音楽』(野々村禎彦監訳、冨永星訳、筑摩書房、2017年)。
*37 五十嵐太郎、菅野裕子『建築と音楽』(NTT出版、2008年)、213頁。
*38 この建物のスピーカーの数は350、400、425と諸説あるのだが(ヴァレーズ自身は晩年のインタビューで「450」と述べている)、フィリップスの現場責任者であるウィレム・タックが初演の翌年に書いた論文では明快に「ツイーター325、ウーファー25」と記されており、計350という数がもっとも信頼性が高い。以下文献を参照。Willem Tak, “The sound Effect” in Philips Technical Review 20/2-3, 1958/59, p.44.
*39 ジャンジェ前掲書、527頁。
*40 Ouellet, p.197.
*41 Ibid., p.198.
*42 Tak, p.43.
*43 Olivia Mattis “From Bebop to Poo-wip: Jazz influences in Varèses Poeme Electlonique” in Edgard Varèse: composer, sound sculptor, visionary (The Boydell Press, 2006), p.315.
*44 Ibid., p.315. ちなみにマティスによれば、この作品は男声合唱と女性合唱が意味のないシラブルを歌うというもので、今でもフィリップス社にスコアが保存されているという。ただし、ニューグローブとMGGにおけるトマジの作品リストには掲載されていない。
*45 Ibid., p.315.
*46 Ouellette, p.199.
*47 仲條大亮「万国博覧会における音楽の空間的展示」『国際基督教大学学報 3-A, アジア文化研究』、268頁。
*48 Ouellette, p.199.
*49 佐々木前掲書、176頁。なお、同書には映像の内容の詳細なリストが付されている。
*50 Mattis, p.310. また、注34で触れたPhilips Technical Review 20/2-3には何枚かの写真が掲載されている。
*51 ジャン・ジャンジェ編『ル・コルビジェ書簡撰修』(千代章一郎訳、中央公論美術出版、2016年)、471頁。
*52 のちにこの経緯を、コルビュジェはウェレットに次のように語っている。「……ある日ヴァレーズはアイントフォーヘンからブリュッセルに向かう自動車の中で告白しました。『コルビュ。そんな静寂はつくりだせませんでした。私の音楽にはどうも騒音が多いのです』」(ジャンジェ前掲書、8頁。)
*53 ちなみに、もうひとつ因縁を感じるのは、あのディズニー社がこの万博において「サーカラマ」と題した360度のマルチ・スクリーン作品を展示していることだ。彼らは映像における空間性をこの万博で追及していた。
*54 ロバート・ジョージ・ライズナー『チャーリー・パーカーの伝説』(片岡義男訳、晶文社、1972年)、361頁。
*55 ただし弟子のチョウ・ウェンチュンが精密に筆写したコピー。マティス論文の中に写真が掲載されている。
*56 ジョン・ケージ『サイレンス』(柿沼敏江訳、水声社、1996年)、149頁。

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沼野雄司(ぬまの・ゆうじ)

1965年東京生まれ。桐朋学園大学教授。東京藝術大学博士後期課程修了。博士(音楽学)。2008年から2009年にかけてハーヴァード大学客員研究員。おもに20世紀音楽に関する研究・評論を中心に活動。著書に「リゲティ、べリオ、ブーレーズ 前衛の終焉と現代音楽のゆくえ」(音楽之友社)、「光の雅歌 西村朗の音楽」(春秋社、共著)、「日本戦後音楽史 上・下」(平凡社、共著)、「楽譜を読む本」(ヤマハ・ミュージックメディア、共著)、「ファンダメンタルな楽曲分析入門」(音楽之友社)など。
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