第八回 慰安婦の彼女のかき口説いたこと


 1997年初夏のある日、東京地方裁判所に出かけた。官庁街とは無縁の暮らしだったにもかかわらず霞ヶ関に出向いたのは、従軍慰安婦だったSさんの日本政府に対する損害賠償請求の訴訟を傍聴するためだった。
 慰安婦について考えると頭の上に重石が置かれたような気分になる。“イアンフ”と口にすると、その言葉に唇がささくれ、口中に鉄錆のような血の味が広がるように感じる。裁判所に向かう足取りは重かった。
 当時も今も「慰安婦問題」について滑らかに語ることが私にはできない。様々に感じるところはある。だが、はっきりとしたことを言おうとすると胸がつかえる。それでも口を開こうと何とか話の緒【いとぐち】を見出して、手繰り寄せてみれば、たちまちセックスや暴力、ジェンダー、戦争、民族、国家と、ひとつ取り上げるにも骨が折れるものが複雑に絡みあっていることがわかり、またしてもどこから手をつけていいかわからなくなる。
 多くの人の人生が絡まり合い、過ぎていく時間の中で朽ち果てることもない念だけが日毎に膿んで熱を持ってしまっている。

 気づくとこのようにとっかかりさえ見つからない纏綿【てんめん】とした事態になってしまったのは、慰安婦の存在が世間にあまり知られていなかったせいでは、ない。たとえ私のように戦後生まれではあっても、彼女たちの足跡を小説や映画を通じて知る機会はそれなりにあった。
 慰安婦という言葉を知る前に、その存在について知っていたが、それは小学校高学年の頃に関西ローカルのテレビ局でよく再放送されていた、勝新太郎主演の「兵隊やくざ」を通じてだった。その年頃であれば、セックスについて少しは知るようになっており、映画に登場する彼女たちのしていることは、なんとはなしにわかった。女たちの出自と行く末が明るいものではないこともよく理解できた。

 映画は慰安婦について微に入り細を穿【うが】った描写はしない。彼女たちの存在は、軍隊を経験した男たちにとっては説明するまでもない、「普通の光景」だったからだ。
 彼女たちは戦争の輪郭を描く際に欠かせない存在でありながら、正史には登場しない。しかし、稗史【はいし】においては語られていた。ひところ私は戦友会の会誌を読み込む仕事をしており、その中で慰安所について触れているものが散見された。ただし、書き手はあくまで思い出として綴っているのであって、内省の対象として取り上げてはいない。そもそも戦後間もないうちに戦友会に出席したり、寄稿できるのは早々と過去を回顧できるような人たちだ。振り返ってしまえば自分のしでかしたことの重さに耐えきれない人たちは、口を噤んで決して語りはしなかった。

 男たちの戦地における「普通の光景」は、彼女たちにとって平常であるはずはなかった。そうしたことを語る多くの証言を文献で読みはしたものの、それはあくまで文字として整理されているため、抑揚は一定に揃えられている。
 彼女たちが実際に語る声はどういうものなのか。それを知らないことには、史実の断片も知ったことにはならないだろう。

 私が裁判所を訪れたのは、Sさんが自らの半生を述べる日にあたった。法廷に現れた彼女に対する最初の印象はと言えば、きついパーマのかかった短髪と口を衝いて出る東北訛りのあけすけさもあって、「粗野」に尽きた。Sさんは16歳で斡旋業者に騙され、中国の慰安所に送り込まれ、戦地を転々とした。自分の人生を狂わせた戦争を、そして日本を呪っていた。
 彼女は「呪う」と端的な表現をしたわけではない。我が身に降りかかった災厄と不幸。殴られ、蹴られ、軍刀を突きつけられて体に負った傷のひとつひとつについて話をする中で、「なにゆえこのような目に遭わなければならないのか」とかき口説いた。この口惜しさ、恨みをいったいどうすれば晴らすことができるのか。ぶっきらぼうな節回しで語るすべてが呪詛であった。

 慰安婦だった女性は本当のところは何を考えているのか。その声を聞きたいと思ったにもかかわらず、私はSさんの話を少々回りくどく感じた。そのように身の上を物語るのではなく、国家の不法ぶりを明かすような話し方はできないものかという思いが脳裏をよぎったのだ。
 しかし、すぐに私はそれは誤りだと気付いた。法廷という場に合わせた、世間に受け入れられやすい洗練された言葉遣いをなぞることの愚かさを思い知らされた。彼女は日本への恨みを述べるかたわら、振り絞るようにして言い放った。

「敵が襲撃した時には、銃弾を運んだりした。私たちも御国のために戦ったんだ」

 その一言を聞いてハッとした。その「敵」とは国民党の軍なのか。それとも八路軍なのかはわからなかったが、中国の軍隊が彼女にとっては敵だった。癒えることのない傷を与えた日本に呪詛を吐いていた立場から反転したところでSさんは語っていた。彼女がそう発言した際、原告の弁護士のひとりが渋い顔をし、傍聴席の支援者が苦笑いしたことに気づいた。このような目に合わせた恨めしい国。しかし、国のために身を投じて戦いもした。人によっては矛盾して聞こえたであろう訴えの後、彼女はひときわ興奮した口ぶりでこう続けた。

「兵隊さんはかわいそうだった。泣いている人もいた」

 私はさっきまで彼女の語りは冗長だと感じた。だが大事なことを見落としていた。彼女が日本語を身につけたのは、16歳で慰安婦になってからだった。男たちの欲求を理解するために彼女は言葉を覚えたのだ。
 母国の言葉ではない日本語であるがゆえに表現が洗練されていないのではなく、当時の生活が彼女にそのような言葉遣い、身振りを要請したのだ。
 誰も彼女を繊細に丁寧に扱ってはこなかった。彼女が今生【こんじょう】を生き延びるためには、なりふり構わず、荒々しく生きる以外に手立てがなかった。まだ10代半ばにして望まぬ人生を歩むはめになった人の体験が、私たちが穏当に受けいられるような、上品な、理路整然とした言説に収まるはずもなかった。

 私が一瞬でも間怠【まだる】く感じてしまった、その口ぶり以外では、彼女が体験したことを語りようがないのだ。身に刻まれた恨みや悲しみを抑えることも晴らすことも叶わない、引き裂かれた感情を抱え、それでも正気を保たないことには生きていけない。苦渋しか味わえない人生に意味があるのかと、何度己【おのれ】に向けて問うてもみた。そのような葛藤を持ちながら言葉を発するとすれば、受けた辱めに泣き、身を震わせて激昂し、身悶えしつつかき口説くほかない。少なくとも凡庸な生き方しかしてこなかった手合いには想像もつかないひしがれざるを得なかった人生がある。

 元慰安婦たちを罵る言葉が巷に溢れている。「慰安婦」の存在そのものを否定する言説も目立つ。面罵し否認する人たちに見られる態度のひとつが「確固とした情報がない限り、事実として認められない」という信念だ。彼らは言う。そもそも証言内容が信じるに値しないと。慰安婦によっては、証言の細部が経年に従い変わっているではないか。それでは事実として認めがたい。そもそも曖昧な記憶を裏付ける文書や事実があるのか。
 批判する人たちは論理立って、客観的な検証に耐えうる整序された説明でなければ、信じるに足りないという考えを信奉している。私が公判中に感じた自身の愚かさの根もここにある。
 ただ、私と彼らには決定的な違いがある。彼らはオーラル・ヒストリーなど歴史の些末な傍証に過ぎないと考えている。だから公的機関による裏付けのない、誇張や捏造の混じる個人の記憶などあてにならないというのだろう。
 あまりに悲惨な体験をした人にとって、真実を語ることほど辛いものはない。時に偽りを述べることもあるだろう。本人にとっては真実としか感じられないこともあるだろう。個人の記憶を語ることは真実を何も証立てないのかといえば、それほど事は単純ではない。嘘もあれば事実の糊塗もある。しかし、それ自体が、彼女らの来し方や今の暮らしの在り処をはっきりと指し示している。

 確たる事実があって初めてその人の体験なり身の証になり得ると信じて疑わない人たちは、自分の存在をどう立証するのだろう。健康保険やパスポートという国家のお墨付きがそれにあたるというだろうか。「確実なデータ」のひとつに国家の管理する戸籍謄本がある。しかし、それは私が生まれたことの証明に本当になりえるか。
 いつどこで生まれたかを私は知らない。私が生まれたのを目撃した親が役所に届けを出し、それが文書になった。私の存在の証明は、他者の記憶と他者の記述という行為に根本的に委【ゆだ】ねられている。私の存在証明を突き詰めていくと、生きていることの証とは、文字による記録以前の人の記憶のあいだで紡がれていることだとわかる。他人の介在によって証立てられた、その記憶の彩【いろどり】の中で私は存在しているのだ。
 祖父母や両親、兄弟や近隣、友人が私について語る複数の声の中で私は存在し、その記憶に私は支えられている。誰しも経験しているだろう。「あなたの小さい頃は-」という他者の昔語りは、馴染みのあるエピソードを毎度語っているようで、語るに従い時系列や登場人物は微妙に変わり、別の人物によって新たな事実が加えられ、また話は枝分かれし、私の記憶を豊かにする。そうして過去の景色は変化していく。
 変わってしまっては真とは言えないと言うだろうか。では嘘なのか。そうかもしれない。だが偽りでもない。私が生きている限り記憶は変化し、固定したストーリーになりはしないからだ。

 歴史を振り返ればわかるのは、文字や文書で確定しようのない陰影を人は実際には生きているということだ。Sさんが「なぜこのような憂き目にあわなければならないのか」と嘆く時、国家や戦争が原因だということはできる。しかし、それは「なぜ他の人ではなくSさんがそのような体験をせざるを得なかったのか」という問いへの答えにはならない。社会の枠組みの中で因果関係を説明しても、その謎を解き明かすことはできない。
 その災厄をもたらしたものは何か?と問うても答えがない。そのため人は太古から不意打ちの運命の一撃、降りかかった災いに怒り、怯え、身悶えしながら祈り、踊り、歌ってきた。
 怒りも嘆きも抑えようがなく溢れてしまうものだ。だから地を叩いて哭【こく】する。その姿は感情を抑制することがスマートであると思っている者の目からは、ひどく野卑に見える。それでいて私たちは人生を損なうような圧倒的で野蛮な力の存在を想像することができなくなっている。

 生は整然とした社会の内側に収まっていると思うのは勝手だが、それは仮想の現実に過ぎない。私が社会に期待している像とそれを保証してくれるシステムや情報の照らし合わせで現実が構成されていると思い込むと、本当に大切なことは情報にならないところにあるということが見落とされてしまう。
 なぜSさんは恨みを述べつつ、日本兵を哀れんだのか。その感情と感覚は決して整然とした理屈にはなりはしない。矛盾を矛盾と指摘するのはたやすい。矛盾を飲み込んで生きてきた姿を記したところで、その真意は可視化されない。
 文書というひとつの線的な物語に収斂されることのない、抑揚に富んだ、回りくどい口調の感情の昂ぶった人たちの悲痛な声は何を訴えているのか。見えないところに見るべきものがあると知らないままでは、その声が聞きとれなくなるのだ。
 記述された「歴史」を重んじても、切って血の出る言葉に感じ入ることがないのだとすれば、その時、歴史は色褪せ、生気のない他人事の事実の羅列でしかなくなる。

 私がここにいるのは、「これまで」があるからだ。始まりの人物が誰かはわからないが、途絶えずに伝えられたつながりがあって、「ここで生きている」という事実がある。ここに至るまでに、到底認識できないような多数の人の体験によって私は支えられている。私にまで辿り着いた物語が歴史に他ならないのだ。他人事にはならない切迫した数々の物語があって、私はこうして生きている。
 ここに至るまでの中の人物には無念な思いをしたものもいるだろう。かき口説くほかなかった人生を歩んだものもいるだろう。多数の声にならざる声が私の中にも響いている。記述された「歴史」を覚えるのではなく、切って血の出る物語に肉薄するには、私の中を通じて「これまで」の遍歴を遡る旅が必要になる。

 それは栄光と賞賛に満ちた歴史を語ることにはならないだろう。知りたくもなかったことに出会い、傷つくこともあるだろう。傷に向き合うことをせず、雄々しく振る舞ってしまうのは、自らの痛みを癒すことを恐れるからだ。癒すためには知らなくてはならない。しかし、私の中に響く声の中には、己のしでかしたことの重さを感じることに恐れを抱いている。

 何度でも言う。私がここまで辿り着いた当事者としての物語が歴史なのだとすれば、他人事のような理路ではなく、声を伴う物語りから訪ね歩くほかない。その時、私は自らの中に彼女たちの物語と響く声を見つけられるかもしれない。

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尹雄大(ゆん・うんで)

フリーランサーのインタビュアー&ライター。これまでに生物学者の池田清彦氏、漫才師の千原ジュニア氏、脳科学者の茂木健一郎氏や作家の川上弘美氏、保坂和志氏、俳優の田中泯氏、ミュージシャンの七尾旅人氏、川本真琴氏、大川興業の大川豊総裁、元ジャイアンツの桑田真澄氏など学術研究者や文化人、アーティスト、アスリート、ヤクザに政治家など、約800人にインタビューを行って来た。ライティングに関わった書籍多数。著書は『やわらかな言葉と体のレッスン』(春秋社)、『体の知性を取り戻す』(講談社現代新書)ほか。
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