第八回 未完の代表作「空間」

 ヴァレーズの作品表をあらためて眺めてみると、1936年から1947年の間に、長い空白があることが分かる。1936年2月16日に初演されたフルートのための「比重21.5」から、1947年2月20日に初演された「空間のためのエチュード」まで、およそ11年間にわたって、彼は新作を一切発表していない。しかも、後述するように「エチュード」が事実上破棄に近い作品であることを考えれば、1954年の「砂漠」にいたるまで18年間の空白があると考えることもできよう。決して多作とはいえない作曲家ながらも、ICG(国際作曲家組合)やパン・アメリカン作曲家協会などの活動において徐々に地歩を築きつつあったことを考えれば、この空白はかなり奇異にも感じられる。実はこの期間、ヴァレーズは主にひとつの曲についてプランを温め、さまざまな角度から検討を重ねていた。それまでの彼のすべての経験と希望を集大成したものになるはずだったこの作品は、フランス語で「空間Espace」と名付けられていた。

■「空間」の胚胎とニューメキシコ
 この作品は1930年代から1940年代初頭を通じて、その計画が大きく変化した末に、最終的には放棄されてしまったものである。もしも完成したならば、ヴァレーズ作品の中でも最大の規模を誇るものになっていたことは間違いなく、その場合、11年間の空白は大作を生み出すための豊かな序奏として位置付けられていたことだろう。
 以下、まずはこの未完の大作を、ヴァレーズの生きた時代と重ね合わせながら多面的に考察してみたい。後述するように、この作品の推移を詳細に追ってみると、「空間」がヴァレーズという作曲家の本質、そして当時のアメリカ社会と密接にかかわっており、それ故に一種の必然として挫折せざるをえないものであったことが明らかになるはずである。
 ヴァレーズがこの作品についてのプランを練り始めたのは、伝記作家ウェレットによれば、1929年頃にさかのぼる*1。何を根拠にしているのかは不明ながらも、とりあえずウェレットを信じるとすれば、これはヴァレーズがおよそ5年にわたってニューヨークを離れ、パリに滞在していた時期(1928年10月~1933年9月)にあたる。つまり「空間」のプランは、以前に検討した「ひとりぼっち/天文学者」と並行して進められたということになるのだが、実際、多くの研究者は、最初期にはこれらの諸プランの輪郭は混濁しており、ある時期には一体化していたとみている*2。筆者もこれにほぼ賛成なのだが、しかし「ひとりぼっち/天文学者」と「空間」には、共通点と同じくらい相違点があることもまた事実だ。簡単にいえば、「ひとりぼっち/天文学者」のプランがオペラあるいはオラトリオ的であるのに対して、「空間」のプランは当初から「音響の空間移動」という明確なテーマとともにある。おそらく、最初期の着想が、徐々に二つに分裂していったというのが正解なのだろう。
 ともかくは、いったんパリ時代に戻って、「空間」という未完成作品がどのような地点から胚胎したのかについて考察を加えてみたい。
 妻のルイスは「合わせ鏡の日記 第2巻(未公刊)」で、この時期のヴァレーズについて次のように述べている。

『パリ・ヘラルド』は「ヴァレーズ氏の現在の主要な関心は、新しいフランスの楽器ダイナフォンにある」と書いています。(中略)ベルトランは、ヴァレーズがアメリカに渡る前からの知り合いでした。私とヴァレーズがパリに短期滞在していた1924年、そして1927年に、ヴァレーズは再びベルトランと新しい音響の実験を始めました。そしてその後[1929年頃]、ヴァレーズは自分が作ろうとしている現代音楽の学校に彼を引き入れようとしています。この計画がうまくいったら、ベルトランとの共同作業で音響研究室を作ろうというのです。
 この音響研究室はヴァレーズ自身が「ヴァレーズ音楽研究室」The Varese Laboratory of Musicと仮に名付けていた施設で、1930年代前半の書簡資料にたびたび名前を見ることができるものだ。
 ヴァレーズのプランは、グッゲンハイム財団やベル電話研究所、あるいはRCAレコードの資金を導入して研究室を作り、エンジニアたちとの共同作業によって新しい楽器、そして新しい音響の可能性を探求しようというものだった。弟子のチョウによれば、ヴァレーズは研究所の使命について「新しい音響を生み出すことのできる楽器のための作品を探求すること。私の新しい音響コンセプトを助けてくれるような新しい試みを見出すために、その研究室において精査を加えること。様々な技術者たちに、音楽――少なくとも私の音楽――が科学から受けている貢献について知らせること。そして作曲家と科学者の間の密な連携が必要であることを証明すること」と語っていたという*3
 しかし、1929年の大恐慌後まもない時期とあって、企業との交渉は難航する。
 現存する書簡に、ベル電話研究所のヘンリー・フレッチャーからの2通がある(1928年5月16日および1932年12月15日付)。1928年の書簡ではフレッチャーは多少の可能性があるニュアンスの返信を行なっているが、しかし大恐慌後の後者の書簡で彼は、「再度のお便りをありがとうございます。あなたがグッゲンハイムの奨学金を得ることを心から願っています。お問い合わせのあった当社およびベルの関連会社との共同作業の可能性ですが、現在の状況ではそのようなことができるチャンスはまずないと思います。また、平時であっても、なかなかそのような会社はないかと存じます」と、にべもない断りの文言をパリのヴァレーズに送っている。そして、この文中で触れられているグッゲンハイム財団への申請、そしてRCAへの申請も、結局通ることはなかった。
 研究所設立のための資金提供の可能性がほぼ無くなったあと、ヴァレーズとベルトランの関係は途絶えていったようである*4。それでも、ヴァレーズの新しい音響への志向は、途絶えることなく脈打っていた。とりわけアルトーからの完全原稿が到着しないために「ひとりぼっち/天文学者」の企画がほぼ頓挫した1935年以降、ヴァレーズはしきりに「音響の空間移動」というアイディアを口にするようになる。
 大きなステップになったのは、1936年6月から11月までおよそ半年にわたる、ニューメキシコ州のサンタ・フェ滞在である。直前の5月に友人に送った手紙には、「きわめて静かな土地で二つの作品を完成させるつもりだ」*5とあり、この「二つの作品」のうち一つは間違いなく「空間」だと思われるが、もうひとつが「ひとりぼっち/天文学者」なのか、あるいは他の作品なのかはよくわからない。
 東海岸のニューヨークから中西部のニューメキシコへという移動はずいぶんと唐突のようにも思われるかもしれないが、大恐慌後、東海岸の少なからぬ芸術家たちは、こぞって西へと移住し、あるいはそこで長いヴァカンスを過ごした。とりわけ1930年代のニューメキシコ州、それもとりわけアメリカ最古の都市のひとつであるサンタ・フェとタオスにはこの時期、ちょっとした芸術家たちのコロニーが出現していたのである。タオスに住むマーベル・ルーハンなどの大パトロンのもとには画家のジョージア・オキーフや作家オルダス・ハクスリ、写真家のアンセル・アダムズ、作家のウィラ・キャザーなどが集まっていたし、サンタ・フェにも画家のジョン・スローンをはじめとするヴァレーズの古い芸術仲間が毎夏数か月滞在するのが常だった。言うまでもなく、彼らはニューメキシコという土地から受けたインスピレーションを各自の創作活動に反映させることになる。その広大かつ荒涼とした風景は、東海岸にもヨーロッパにもあり得ないものであり、あらためてアメリカという国のひとつの側面、あるいは都市生活の中で忘却されていたこの国のアイデンティティを如実に示すものだったに違いない。
 ヴァレーズの音楽仲間たちも同様だった。指揮者のストコフスキーはニューメキシコを「世界でもっとも偉大な磁力を発揮している中心のひとつ」*6と語り、ICGの仲間である作曲家ディーン・ルディヤーは1933年から34年までサンタ・フェとタオスで講義を持っている。彼らの強い勧めでヴァレーズはサンタ・フェ滞在を決めたようだが、何より決定打となったのは、ジョン・スローンの知り合いであるフローレンス・マコーニックが滞在費用を負担してくれることになったことである*7。こうして彼は療養がてら、西へと向かう。
 確かに、この時期のヴァレーズの精神状態は最悪だった。元来の持病である躁鬱病がひどくなっていたのに加えて、前立腺炎が慢性化しており、肉体的な痛みもしばしば彼を苦しめた。そして妻ルイスの未公刊の日記によれば、前立腺炎の影響もあってか、ある女性と一夜を過ごした際に性的な不能状態に陥ったことが、ヴァレーズの自尊心をいたく傷つけたらしい(ヴァレーズは時として妻以外の女性とそうした関係にあったようだが、ルイスはそれを是認していた)。こうした様々な苦痛から、ヴァレーズの精神状態は、一時は自殺未遂をはかるまで深刻化する*8。結局、彼を救ったのはニューメキシコの生活と、そして友人のイムラ・ラダニー医師(ハンガリー系アメリカ人の皮膚科医師にして画家)の献身的なアドバイスだった。ちなみにこれ以降、ヴァレーズは公私にわたって、ラダニーを頼ることになる。
 ヴァレーズがサンタ・フェに到着したのは1936年6月14日。
 翌日の「サンタ・フェ・ニュー・メキシカン」紙は、はやくも最初の記者会見においてこの作曲家が「音の塊の移動」や「音響のビーム」について滔々と語ったことを報じている*9。サンタ・フェの新聞記者にとってみれば、ずいぶんと奇矯な芸術家がやって来たと感じたことだろう。また、注目されるのは同紙の8月21日に掲載されたインタビューの中で、ヴァレーズがしきりにベートーヴェンの「第9交響曲」について語っていることだ*10。のちに見るように、ヴァレーズの「空間」は一時期、終楽章で合唱が入るという「第9」的なスタイルが予定されていた。おそらく当時の彼は、そうした関心からベートーヴェンのスコアを見直していたに違いない。
 サンタ・フェに移住したヴァレーズは、アメリカ・インディアン協会(アメリカ先住民初のロビー団体)の後援により、8月23日には「我々の時代の音楽」と題したレクチャーをメアリー・オースティン・ハウスで行っている。「芸術作品は規則を産みださねばならない。規則が芸術作品を産むことはできないのだ」「美というものを考える際に、芸術と科学は協同しなければならない」「私は人々に言うのだ、私は音楽家ではないと。私はリズム、周波数、そして強度の職人なのだ」*11。こうした言辞はまさにヴァレーズが生涯にわたってライトモティーフのように繰り返したものに他ならない。
 また、のちに弟子のチョウ・ウェンチュンによって「サウンドの解放 The Liberation of Sound」というタイトルでまとめられるヴァレーズの講演録には、おそらくこの日のレクチャーの一部と思われる「新しい楽器と新しい音楽」という文章が含まれている*12。ここには彼が抱いているプランが、さらにはっきりとあらわれていよう。

新たな楽器が、私が考えているような音楽を可能にするとき、線的な対位法は、音響の塊の動き、移動する平面の動きへと私の作品の中で取って代わったのである。(中略)一般的に、音楽には3つの次元がある。平面的、垂直的、そして動的な膨張あるいは縮小である。私はここに4つ目を付け加えたい。音響の投射だ。これはつまり、音響が我々のもとを去って戻ってこないという感情であり、耳のための強力なサーチライトによって発せられた光線が引き起こす感情に似ている。すなわち空間の中の旅、そして投影の感覚ということである*13
 音をサーチライトのように投射し、空間的に移動させること。まさにそれは「アンテグラル」以来、彼が常にイメージしていた音響のかたちである。そして急速なテクノロジーの発展は、この夢を実現可能なものとしつつあった。かくしてサンタ・フェという広大な土地の中で、「空間」のプランはのびのびと呼吸を始める。
 10月にニューヨークへと帰ったヴァレーズは、その二ヶ月後、1936年12月6日のニューヨーク・タイムズにおいて、新作「空間」のプランを明らかにしている。その記事「ヴァレーズは空間交響曲を思い描く」は、まさに先のレクチャーの内容を「空間」という作品に即して語ったものといえよう。

未来の交響曲作家は、ヴァイオリン製作者の代わりに科学者に助言を求めることになるだろう。作曲家、指揮者にして音楽におけるウルトラ・モダニストの一人として知られるエドガー・ヴァレーズは昨日のインタビューでそのように語った。彼はサンタ・フェから帰ったばかりだが、この地で彼は6ヶ月にわたって新作に従事していたという。彼は、この作品が未来の交響曲の可能性を示すものになると予感している。ヴァレーズ氏の興味は、時間軸上のリズムと同様に、空間上のリズムを作曲することにある。この驚くべき効果は、音響を楽器から会場の異なった場所へと移動させる手段の開発によって実現されるのだ。もしもそれが可能になれば、この交響曲の音響は会場のあちらこちらに置かれた増幅器を通して、いったん散り散りにされたあとに再統合され、かくして空間のリズムと、時間や音のリズムが関連づけられるのだ、と彼は説明する。(中略)ヴァレーズ氏は彼の新しい作品を「空間」と名づけている。それは単一楽章の交響曲で15分ほどを要する。この作品は電子機器などを使わずごく普通に演奏されるが、しかし彼は来年の春に作品を書き終えるまでに、何らかの形で空間要素の可能性を示すものにしたいと考えている。
 作品のアイディアの主眼は、増幅器(アンプ+スピーカー?)を使って音響像の空間移動を実現することにあるようだが、おそらく、この時点では現実的な見通しが完全にはたたないために、まずは「電子機器を使わず」演奏されるという、やや矛盾するようなコメントになっているのだろう。
 ともかく、こうして問題作「空間」は、まずは「15分ほどの単一楽章の管弦楽作品」として、公に姿をあらわした。この、やや漠然とした、しかし十分に実現可能と思われるプランは、しかし、およそ4か月後には、驚くべきものへと成長を遂げる。

「赤の交響曲が炸裂しようとしている」
 1937年3月3日、ヴァレーズは、ニューヨークのメイフラワーホテルにおいて、作家のアンドレ・マルローとともに、「空間」制作に関する記者会見を突然に開いた。翌3月4日のニューヨーク・タイムズは、この様子を「赤の交響曲が炸裂しようとしている」というタイトルでセンセーショナルに報じている。

 革命的な交響曲が、今まさに書かれている。(中略)。
 こう請け合うのは、フィラデルフィア管で作品が演奏されたこともある現代作曲家エドガー・ヴァレーズだ。そしてフランスのゴンクール賞受賞者で、「侮蔑の時代」の著者であるアンドレ・マルローもこの情報を保証している。(中略)。
 「私はどのような美学にも縛られたくないのです」とヴァレーズ氏は言う。彼の作品はこれまで、称賛、非難、失笑、熱狂的な高揚など、聴き手によって様々な反応で迎えられてきた。今回、彼は伝統的なオーケストラに、新しい楽器と「歌から叫び声まで何でも行なう」合唱を加えて、新しい響きを作ると語っている。ヴァレーズ氏によれば、この革命的な交響曲の合唱には黒人[negro]も混じっている。さらにマルロー氏によれば、そこにはロシア人も含まれており、交響曲はすぐさまロシア国内で演奏されることになるという。(中略)。
 ヴァレーズ氏にとって、マルロー氏はこの作品の詩人であり、死に直面した共産主義者の心情において何が起こっているのかに着目しながら、「侮蔑の時代」の叙情的な一節をリライトする役割を担う。これは交響曲の第3楽章、すなわち終楽章で合唱がうたう言葉となるのだ。
 人生における良きものを追求する主人公の自然な憧れ、そして最終的な聖化にいたる高揚を伝えるために、この作品では新しい電子楽器が使用される。オーケストラと合唱はアンプに繋がれて、会場の隅々から音が「聴き手の首の後ろを直撃」するという。「『なぜそんなことを』?と問うのであれば、『そうしたいからなのだ』と答えよう」とヴァレーズ氏は言う。彼は今までそのような音楽を書いた経験がないことや、実際にそうしたものを耳にしたことがないことを認めつつ、しかし彼自身の内面ではすでにそれを聴くことが可能になっており、必ず素晴らしいものになると断言している。

 ここでは、作品は一気に3楽章制へと拡大され、さらには電子機器が使用されることが明確にうたわれている。そして終楽章では合唱が導入されるという。聴衆の後ろにおいたスピーカーから音を放出し、全方位的な音響空間を作ることが、まずは目的なのだろうが、その空間は同時にロシア人や「黒人」をも包含する巨大な世界空間を含むものになっている。こうした途方もないアイディア、そして上の記事からもはっきりと感じられる高揚は、当時、時代の寵児となりつつあった作家アンドレ・マルローとの出会いによって引き起こされたものだろう。
 1901年生まれのマルローは、20代前半に当時フランスの植民地であったインドシナに旅行し、その後は中国国民革命を扱った「征服者」(1928年)や「人間の条件」(1933年)、そしてインドシナを舞台にした「王道」(1930年)を発表する中で反植民地主義、反帝国主義に対する旗幟を鮮明に打ち出すようになった。そしてヴァレーズがまだフランスに滞在中の1933年3月、アンドレ・ジッドが司会を務めた「革命的作家芸術家協会」の公開討論会において、ドイツで台頭しつつあるファシズムを厳しく非難してからは、積極的な「政治参加」が彼の作家人生を輪郭づけてゆくことになる。当初はあのロマン・ロランも出席するはずだったこの討論会を(結局は欠席)、パリ時代末期のヴァレーズも観客として見ていた可能性もあろう。
 マルローは、1934年1月にはブルガリア人共産主義者の釈放を求めるためにドイツに向かい、さらに同年の6月にソ連のモスクワにおいて開催された作家会議にアラゴンやポール・ニザンとともに出席。この後の1935年に彼が発表したのが、先の記事の文中にもタイトルがあがっている小説『侮蔑の時代』であり、ここでマルローはドイツ共産党員を主人公にして、彼とファシズムとの戦いを物語の主題に据えた。マルロー自身は共産党に入党することはなかったが、当時の彼はソ連という国家、そして共産主義思想に大きな可能性を見いだしており、1935年にフランスで成立した「人民戦線」に参加を表明した翌年、1936年後半にスペイン内戦が勃発すると、すぐさまスペインに出向き、反フランコ運動に加わったのだった。
 マルローはおよそ7か月にわたってスペインに滞在し、国際義勇航空隊を組織してファシズムと闘う。そして1937年2月にスペインを離れたあと、直接フランスには帰らず、反フランコ闘争の資金援助を求めてアメリカを訪問していたのだった。ヴァレーズとマルローがいつ知りあったのかは定かではないが、パリのシュールレアリストたちをはじめとする共通の知人も多いから、おそらくは30年代初頭のパリですでに顔を合わせていた可能性が高い(先の公開討論会が最初の出会いだった可能性もある)。ともかく、いきなりホテルにジャーナリズムを集めて記者会見を開くあたりからは、この時点での二人がかなり意気投合していたことがわかる。
 マルローとヴァレーズのコラボレーションは時宜を得たものであり、うまくいけば大きな注目を集めることになっただろう。しかしマルローはアメリカに1か月ほど滞在して人民戦線側の窮状を訴えたあと、あっさりパリへと戻ってしまう。彼には義勇軍体験を基にした小説『希望』を書くという仕事が眼前にそびえており、残念ながら「『侮蔑の時代』をリライトした」ものだという「空間」のテキストにはなかなか手をつけることができなかったものと思われる。
 1937年4月、ヴァレーズは再びサンタ・フェへと向かい、11月まで滞在した。ここで彼は、マルローを側面から支援するようにして、スペイン共和国の援助委員会を7月に組織し、市民戦争における医薬品不足や救急車不足などに対応する募金を求める。5年に及ぶパリ滞在から帰る際にバルセロナを訪問し(1933年8月)、画家のミロと共に国際的な芸術祭の開催を目論んだ経験があるヴァレーズにとっても、スペイン内戦は無関心ではいられない出来事だった。ちなみに妻ルイスの日記によれば、サンタ・フェでの募金運動の母体となっていた「スペイン民主主義を守るための北アメリカ委員会」は、実質的に共産党によって組織されていたものだったが、ヴァレーズはマコーニックをはじめとする保守的なパトロンたちにはその旨を隠していたという*14
 8月からはサンタ・フェのアルスナ芸術学校において「生きている事象としての音楽」と題した講演シリーズを担当。ここで彼は、様々な管弦楽曲のオーケストレーションについて数回にわたってレクチャーを行っている。しかし、いつまでたってもマルローのテキストは到着しない。
 まるで「ひとりぼっち/天文学者」の再現のようではあるのだが、それでもヴァレーズは簡単にはあきらめなかった。

■膨れ上がる計画とヘンリー・ミラーの参画
 ウェレットは、ある時に「空間」の概要について、ヴァレーズから次のようなメモを見せられたという。

 オーケストラ、合唱のための「空間」。休みなしの3楽章からなる。
 第1楽章。フルオーケストラによる、12分から15分ほどの長さ。この楽章は、空間内で平面、体積、質量が移動することによって構築されている。音楽の提示という点において、非常に動的で機敏であり、一切のレトリカルでペダンティックな展開は避けられる。
 第2楽章。かなり短く、2~3分ほど。抒情的で、弦楽器のみで演奏される。1楽章と3楽章の間で、衝撃を吸収するような役割を果たす。リラクゼーション。
 第3楽章。合唱のテキストのためのプランと提案。長さは18分から20分ほど。オーケストラと共に、合唱はその潜在的な可能性をすべて発揮する。すなわち歌い、ハミングし、叫び、詠唱し、つぶやき、激しく攻撃するような演説を披露する。主題は「今日」。前進する人間性。

 これがいつ書かれたものなのかはわからない。しかし、内容の具体性に鑑みると、先のメイフラワーホテルでの会見よりも後に成立したものなのだろう*15
 さらにウェレットによれば、ヴァレーズはラジオを用いて、全世界からの音を集約するというアイディアを持っていた。「パリ、マドリッド、モスクワ、北京、メキシコシティ、ニューヨーク」の合唱団がそれぞれの言語で歌をうたい、それを電気通信手段によって完全に同期させようというのである*16
 ちなみに、ラジオは1900年に通信テストが成功した後、1920年にアメリカで商業放送が開始され、27年には短波放送、38年にはFM放送が開始されている。ヴァレーズが「空間」にとりかかっていた時代、まさにこのメディアはその可能性を開陳しようとしていた*17。とはいえ、当時のテクノロジーでは、ヴァレーズの構想を実現することはほぼ不可能だったはずだ。
 さて、次に「空間」のプランが公にされるのは、1941年である。この年に雑誌Twice a yearは編集者のドロシー・ノーマンによる「ヴァレーズ:イオニザシオン-エスパース(空間)」と題した文章を掲載した。
 ここでノーマンは「ヴァレーズは再び夢見ている。この作品は『空間』と呼ばれるだろう。それはまだ書かれていないが、次にあげるのは彼自身によるプランである」という一文のもとに、ヴァレーズ自身の文章をそのまま載せている。

 主題は「今日」。世界は目覚める! 前進する人間性。決して止めることはできない。搾取されるのではなく、憐れまれることもない、はっきりと意識された人間性。行進! ただ進んでゆくのだ。何百万という足が絶え間なく、どしどしと、踏みつけるように、のしのしと、大またで、はねるように。
 リズムが変わる。速く、遅く、スタッカートで、引きずり、競争するように、なめらかに。大胆に、無慈悲に、行く意志はとどまることを知らぬという印象を与える最後の盛り上がり……空間の中に自らを投入すること……。  あたかも神秘な、見えざる手が架空のラジオのスイッチを入れたり切ったりしているかのごとく、天空の声が空間にあふれ、縦横に交錯し、オーバーラップし、互いに貫通し、分裂し、重なり合い、反発しあい、衝突し、崩壊してゆく。警句、スローガン、発声、詠唱、宣言。中国、ロシア、スペイン、ファシスト国家およびそれと対立する民主主義国家。これらすべてが各自の麻痺せるかさぶたを破りつつあるのだ。
 避けるべき点。宣伝調、そしてそれと同様に時局向きの出来事や主義についてのジャーナリスティックな思惑。今の時代のマンネリズムや俗物根性をはぎとって、この時代の衝撃的な叙事詩を書きたい。
 私は作品のそこかしこに、アメリカの、フランスの、ロシアの、中国の、スペインの、ドイツの革命に関する文章の断片を用いたい。流れ星のように、そしてまた定期的に打ち叩かれる鉄槌の鼓動のような言葉として、あるいは地下に流れる堅く儀式的なオスティナートのように。
 私は熱狂的で、予言的でさえある調子を、それでいながら偏向しており、剥き出しで、行動的で、懸賞金のかかった試合の、殴ったり殴られたりの記述のような、観客が緊張したままになるような、張り詰めて無防備なアナウンサーのようなスタイルの文章を好む。 そしてまた民間伝承から引かれた一節が、その人間的で土臭い質のために選ばれる。私はもっとも原始的なものから、もっとも最先端の科学までの、人間的な一切を包含したいのである*18

 詩的でやや混濁した文章ではあるものの、ヴァレーズの望むテキストのイメージは十分に理解できよう。ノーマンはこの文章を引いたあと、「誰かがこのテキストを書くべきである。そしてヴァレーズが作曲するべきである」と一文で全体を締めくくっている*19
 果たして、雑誌の出版とほぼ時を同じくして「テキストを書くべき」人物が、ヴァレーズの前にあらわれた。アメリカ人作家のヘンリー・ミラーである。
 ニューヨーク生まれのミラーは、1930年代の10年間をパリで過ごし、その放埓な経験を綴った自伝的小説『北回帰線』を1934年に発表。この書物、そして続く『南回帰線』(1939)は母国アメリカではその赤裸々な性描写によって発禁処分を受けたが、フランスを発火点にして熱狂的な評価を受け、注目される若手作家として頭角をあらわしたところだった。彼は大戦勃発とともにパリを離れ、ギリシャを経たのちの1940年、アメリカに帰国する。
 ミラーの妻ジューンを通じて、すでにヴァレーズは1928年にパリでミラーと知己を得ていた。彼らはすぐに打ち解けたようで、ミラーは「私は彼がどのようだったかを、とてもよく覚えている。きわめて印象的な顔立ちで、とてもハンサムで生き生きとしており、ユーモアの塊だった」とのちに語っている*20。1940年にミラーがニューヨークに帰ってから、彼らはヴァレーズ宅や医師のラダニー宅において、たびたび会合を持つようになった。そして1941年以降のどこかの時点において(多分、雑誌Twice a yearの出版を機に)、ヴァレーズはヘンリー・ミラーに先の文章を渡し、「空間」のためのテキストを依頼したはずだ。
 結論からいうならば、しかし今回も、ヴァレーズのためのテキストは完成しなかった。
 それでもミラーは1945年に出版したアメリカ旅行記『冷房装置の悪夢』の一章「ゴビ砂漠のエドガー・ヴァレーズ」の中で、小説ともエッセイともつかない彼独特の筆致でこの経緯について触れている。約束を果たせなかった代わりに、それを一種の文学作品として発表したということになろうか。
 ミラーはまず、ヴァレーズから手渡された先の文章をそのまま引用した後で、こう続ける。

これは一体なんの宣言なのか? 精神錯乱にかかった無政府主義者か? いきりたっているサンドウィッチ諸島の住人か? 否、諸君、これは作曲家エドガー・ヴァレーズの言葉なのである。彼がこれからつくろうとする作品のテーマについて述べているのである。(中略)私はこのような意図がもたらす反動を予見できる。「あいつは左巻きだ」と人々はいうだろう。あるいは、「あいつは何だ――気ちがいか?」とか「いったい、このエドガー・ヴァレーズという奴は何ものかね?」とか*21
 思わず引き込まれてしまうような筆致ではある。そしてこの後ミラーは、きわめて重要な人物が世に知られていないことがままあり、まさにヴァレーズはその一人だと論じる。では、なぜ、ヴァレーズは知られていないのか。

なぜなら彼の音楽は確然と未来の音楽だからである。しかも、未来はすでにここにあるのだ。というのは、ヴァレーズ自身いまここに存在し、また、その音楽はすでに少数の人々には知られているからである。たしかにそれは、たちまち聴衆に理解されるといったような音楽ではない。人間の中にはダイナマイトみたいな人物がいるものである。そしてヴァレーズもそうした人物の一人なのだ。それだけでも、そういう人たちが、なぜ用心深く、おずおずと取り扱われるかを説明するに十分であろう。(中略)もし彼が広々とした活躍の舞台を与えられたなら、検閲をくらうばかりか、石をぶつけられるだろう。なぜか。理由はいたって簡単だ。彼の音楽が他のものとはちがっている、、、、、、からである*22。[傍点はミラーによる強調]
 ミラーはこうして、ヴァレーズの破天荒なアイディアと表現について縷々述べた後に、いよいよ核心に迫るエピソードを披露する。

……その後ヴァレーズと、彼の新しい作曲について語り合った際、合唱用の歌詞を書いてもらえるだろうか、とヴァレーズが言った――「神秘的な歌詞をね」――そのとき、前に聞いたことのいっさいが、二倍の力と意味をもって私によみがえってきた。「ぼくはゴビ砂漠の感じ、何かそういったものがほしい」とヴァレーズは言った。ゴビ砂漠! 私の頭はにわかに回転しはじめた。彼の組織した音響の楽曲が私の頭の中につくりだした究極の効果を説明するのに、これ以上ぴったりしたイメージを用いることは、おそらく不可能であろう*23
 もちろんヴァレーズは、モンゴルのゴビ砂漠など実際に見たことはなかった。しかし彼は2度にわたって訪れたニューメキシコで、間近に砂漠を眼にしている。思うように作品を発表することができず、音響研究室の夢も半ば閉ざされ、さらには肉体と精神の病と闘っていたヴァレーズは、その荒涼とした風景にいつしか強く惹かれるようになっていた。こうした砂漠への愛着は、やがてその名を冠した作品へと結実することだろう。
 ミラーの文章の後半部には、彼が結局はヴァレーズのためのテキストを完成させられなかったことが記されている。そして「ぼくには、君の新作の脚注に若干付け加えることしかできない。それはつぎの通りだ……」として、以下のような説明ともト書きともとれるような奇妙なテキストのみが綴られているのである。

コーラスを生き残ったひとたちの象徴たらしめよ。ゴビ砂漠を避難の場所たらしめよ。砂漠の周辺に、おそるべきバリケードのごとく頭蓋骨をつみあげよ。静寂が世界の上に覆いかぶさる。人は呼吸すら思い切ってできない。聞き耳を立てることすらできない。一人残らず静まりかえってしまう。絶対の静寂だ。心臓のみが鼓動をうっている。(中略)
一人の女が嗚咽する。すると、また一人がすすり泣きをはじめる。男の中から大音声が起こる。「おれたちはだめになってしまった!」
女の声。「あたしたちは救われたわ!」
断音の叫び。「だめになってしまった! 救われたわ! だめになってしまった! 救われたわ」
   沈 黙
 巨大な銅鑼が、つづけざまに、全ての音を圧倒して鳴り響く。幾度となく、くり返し、くり返し。

 注意深い読者ならば、ここに、アントナン・アルトーが手掛けた「天文学者」の終結部に近いニュアンスを発見するかもしれない。単なる想像に過ぎないものの、ヴァレーズは先の自分のテキストに加えて、アルトーの「天文学者」の台本もミラーに見せたのではないだろうか。「ひとりぼっち/天文学者」と「空間」が双子のような作品であることを考えれば、これはあながち無理な仮定ではないだろう。実際、ある種の虚無感や破滅の感覚、そして銅鑼が連打されるという指示などは、偶然というには似すぎている気もするのである。
 かくしてエッセイとも小説ともつかないミラーのテキストは、次のような風景に到達する。

私は右側にある空地をぬけて行く。思いがけなく、それはゴビ砂漠だ。冷たい月光に照らし出された百万か二百万の最近殺戮された人たちのことを思い出しながら、私はヴァレーズに向かっていう。『いまこそ君の笛(ホーン)を吹き鳴らしてくれ!』。冷たく死んでころがっている世界に、それはなんという音を立てるのだろう! これでも音楽なのだろうか? 私は知らない。知る必要はない。
 ミラーはヴァレーズとさして長く付き合ったわけではないが、しかしこの一節を読むだけでも、彼の文学者としての直感がヴァレーズという音楽家の本質をつかんでいたことがよくわかる。このあと若干の文章が記された後、「我々は進み続ける……」という一文で、「ゴビ砂漠のエドガー・ヴァレーズと共に」と題された章は終わる。
 ヴァレーズが、この「冷房装置の悪夢」をどう感じたのかはわからない。なにしろこれは、ヴァレーズにテキストを提供することを放棄した宣言のようなものでもあるのだから。それでも、この後もヴァレーズとミラーは手紙をやりとりし、しかも最晩年のヴァレーズは、やがてヘンリー・ミラーの(そして一時期はおそらくアントナン・アルトーの)愛人でもあったアナイス・ニンのテキストを最後の作品で用いることになるのである。
 マクドナルドほかの学者も指摘することだが、ヴァレーズがミラーに語った「ゴビ砂漠」という単語は、明らかに、やがて書かれるオーケストラとテープのための「砂漠」(1954)を想起させる*24。そして実際、ヴァレーズの弟子であるチョウは、「空間」のためのおぼしき楽譜のスケッチがヴァレーズのスタジオに長く置かれてあったが、晩年の作曲にあたって、ヴァレーズはしばしばそれを参照、引用していたと述べている*25。これらの状況を鑑みると、ヴァレーズは「空間」のためのスケッチを、後期の作品、とりわけ「砂漠」にゆるやかな形で流用しているということになる。その意味で以降のヴァレーズ作品には多かれ少なかれ、「空間」の破片が混じっていると考えてよさそうだ。
 とはいえ、この後に書かれることになる作品のうち、「砂漠」と「ポエム・エレクトロニク」は声楽を含まず、唯一声楽を含む「ノクターナル」にしても、歌詞はアナイス・ニンの「近親相姦の家」からの一節と、ヴァレーズ自身の手による意味のないシラブルが連綿とつづられるにすぎない。当初の「空間」のプランを輪郭づけていた、汎世界的で革命的なニュアンスは、完全に放棄されたということになる。

■ヴァレーズ自身によるテキスト構成
 これまでの研究者にとって「空間」に関する情報は、ほぼ以上のようなものだった。
 しかし2004年、弟子のチョウが保存していた膨大な資料がザッハー財団に移管された際、そこに「空間」のテキストをヴァレーズ自身が構成した48ページの詳細なメモが含まれていることが明らかになった。これらは以下の6部に分かれている。

資料1:「空間」のテキスト案1(12頁)
資料2:「空間」のプラン+空間のテキスト案2(6頁)
資料3:空間のテキスト案3(6頁)
資料4:Excerptsと記され、他人の詩からの引用語句のみを抜き出したもの
資料5:空間のテキスト案4(13頁)
資料6:空間のテキスト案5(6頁)

 これらの資料の時間関係はまったくわからない。ただし内容はほぼ重複しており、実際には1種類といってもよい。ちなみに、もっともよく整理され、タイプ打ちも鮮明な「資料1」は、以下のように始まっている。

沈黙の中から、激しい叫び声が湧きおこる。
 Ai-i-i-ah !
(部分的に苦痛にみち、部分的に生への希望をもって。この声は長い拍に支えられた後、不意にまた沈黙へと戻る。そして様々な声の蠢き、つぶやきが大きくなってゆく)
 Ai-ai-ai-
 Yaj-yah-yah
 Ah nah nah-med
 Ah nah nah-med-
 Ai-i-yah! Ai-i-yah!
 Man-da-do-man-da-do

 どこかしら、先のミラーによるテキストの残滓が感じられるのと共に、ヴァレーズが生涯にわたって好んだ呪術的・前言語的な語句が用いられていることがわかる。
 他のヴァージョンも、ほとんど同じような構成をとるのだが、この前言語的シラブルは二重合唱で扱われる予定だったようで、とりわけ資料2の紙面には2群の合唱がそれぞれどの言葉を発するのかが、青や赤の線で、また紙面の左右を使って、立体的に記されている。
 さらにテキストを読み進めてゆくと、前言語的なシラブルの中に、徐々に既成の詩が混入し始める。すなわちこれらのテキストは「前言語的なシラブル」「ト書き」「引用詩句」という三つの層によって構成されているわけだ。ヴァレーズが引用詩句をまとめて記している「資料4」には詩人の名とおぼしきメモがいくつか見られるのだが、それらを精査した結果、すべてのテキストの出典を明らかにすることができたので、以下に著者、書籍の原題、出版社、出版年などの情報を記してみたい*26。抜き出されているのは、以下の6人の著者による作品の一部であり、すべての書籍は1930年代後半にニューヨークで出版されている。注目すべきは、これらのうち少なからぬものが(とりわけ最初の3人の詩)、あからさまに革命的、左翼的な色彩を持っていることだ。

1.Muriel Rukeyser A Turning Wind (The Viking Press, New York, 1939)
ミュリエル・ルーカイザー(1913-1980)はアメリカのユダヤ系女流詩人。ヴァレーズは彼女のこの詩集から計30行を抜粋しているのだが、この多くは怒りや血をモティーフにした激烈な表現を持っている。ヴァレーズの抜粋は「その言葉は戦争」という一語で開始され、「彼らはその人々の手を切り落とした、そして彼らの肩だけが残された」「彼らはその頭を切り落としたが、しかし心臓は鼓動を打っていた」「必要なもの! パン! 血! 死!」「炎、怒り、輝き、そして恐れ」といった具合に、革命を想起させる表現が続く。先にも触れたように、ヴァレーズは1941年に公刊した「空間」のためのメモにおいて「熱狂的で予言的でさえある調子」を欲していたが、ルーカイザーの詩集からの抜粋は、この意図によく沿ったものと考えられよう。

2.Carl Sandburg The People, Yes (Harcourt, Brace & Company, New York, 1936)
カール・サンドバーグ(1878-1967)はスウェーデン移民の子としてアメリカに生まれた詩人。一時は日雇い労働者として働いた経験をもつだけに、詩集のタイトルからも労働者階級への共感がうかがえるが、実際「鋤、ハンマー、ナイフ、シャベル、植林用の鍬、刈り入れ用の鎌がそこら中に。これはまさしく民衆の持ちものである」「そう『死よりも強く』、ハンマーをこのスローガンのもとに打ち鳴らそう」「『私の喪に服さず、組織を固めよ』と、ユタのI.W.W.は前線部隊の前で言った」といったヴァレーズの選択部分は、ほとんどあからさまに労働運動の声明文のような色彩を持っている。以前にも触れたが、IWW(世界産業労働者同盟)は1905年に設立された、不熟練労働者までをも対象にした急進的な団体である。1908年の規約前文に「労働者階級と雇主階級はなんら共通のものをもたない。何百万という労働民衆の問に飢餓と欠乏がみいだされ、雇主階級を構成する少数の者たちが生活のあらゆる良きものをもっているかぎり、平和はありえない」*27という戦闘的な宣言でも知られるが、ヴァレーズはあえてこの固有名詞を含む部分をサンドバーグの詩から抜き出したのだった。

3.Edgar Parks Snow Red Star over China (Random house, New York, 1938)
ジャーナリストにして共産党研究者として知られるエドガー・スノー(1905-1972)によるテキストは、毛沢東と初期中国共産党の歴史を綴った代表作『中国の赤い星』の一部である。「長征」を経験した15歳の革命家の「……ことがきついとか苦しいとかを考えません。僕たちの前にある任務だけのことを考えるんです。もしそれが一万里を歩くことなら、僕たちは一万里を歩くし、もしそれが二万里なら、二万里歩きます!」といった言葉、そして毛沢東の「中国人が中国人と戦ってはいけない!」*28といった言葉、そして「赤軍」という単語がヴァレーズによって抜かれており、もっとも直截に政治的な色彩が強いものといえる。また、中国を題材にしている点で、マルローの小説のはるかなエコーを聞き取ることも可能かもしれない。

4.Kenneth Fearing 
Collected Poems of Kenneth Fearing (Random House, New York, 1938),
  A New Anthology of Modern Poetry (Rondam House, New York, 1938)

5.Genevieve Taggard
Calling Western Union(Harper & Brothers, New York & London, 1936)
Collected Poems 1918-1938 (Harper, New York, 1938)

6.Archibald MacLeich
The Fall of the City(Rinehart and Co., New York, 1937)

 一方で、この残りの3人、すなわちケネス・フェアリング(1902-1961)、ジュヌヴィエーヴ・タガード(1894-1948)、アーチバルト・マクリーシュ(1892-1982)による詩と戯曲は、直接的に左翼思想と関連しているものとはいえない。それでもフェアリングの「そして、その日、その場所で、我々は試みるだろう、そして今度は勝利するだろう」という理想主義的な色彩、そしてマクリーシュの詩に頻出する「People」の語、そしてタガードの詩における「March(行進)」という語は、いずれも前半3者の詩の革命的な色彩と呼応するものだ。
 いずれにしても、当時の代表的な左翼雑誌「パーティザン・レビュー」の創刊に関わったフェアリング、そしてソ連共産党支持を表明していた雑誌「ニュー・リパブリック」の編集者を務めていたマクリーシュは、いずれも1930年代のプロパガンダ詩人として知られており*29、さらにタガードも左翼的な詩のアンソロジーである「メイ・デイズ」(May Days)を出版するとともにマルクス主義者として労働運動や反戦運動に深くかかわった人物だった*30
 これらを総合して見たときに、ヴァレーズの選んだテキストあるいは詩人が、両大戦間のアメリカにおいて隆盛を誇った左翼思想と関係を持っていることは明らかである。この選択は、やはり彼が1941年に述べていた「私は作品のそこかしこに、アメリカの、フランスの、ロシアの、中国の、スペインの、ドイツの革命に関する文章の断片を用いたい」といった言葉と呼応するものだろう。

■アメリカにおける社会主義思想の隆盛
 ここで我々はどうしても、当時のアメリカにおける社会主義思想の隆盛について考えねばならない。
 以下、1917年にロシアで共産主義革命が勃発した後のアメリカ国内の動きを、なるべく手短に概観してみよう。一般的に、アメリカという国と社会主義は水と油のように思われているが、唯一、この1920年代から30年代にかけての時期には、アメリカにも社会主義の大きなうねりが押し寄せていた。
 最初の登場人物はジョン・リードである。ロシア革命を間近で取材していたアメリカのジャーナリストであるリードは、この体験を『世界をゆるがした10日間』と題したルポルタージュに著して一躍名を知られるようになった。もともとリードは1911年から左翼雑誌「マッセズ(大衆)」の編集者を務めており、既に1913年から14年にかけてメキシコ革命の取材にも赴いていた。彼はその後、モスクワの革命政府と密接な関係を保持しながら、アメリカ共産党の創設において中心的な役割を果たすことになる。
 帝政ロシアが革命によって倒れたというニュースは、アメリカの社会主義者・共産主義者を強く刺激した。かくして1919年には社会党から離脱したメンバーによって、リードらが中心になった共産主義労働党、そしてフレイナらが中心となったアメリカ共産党が誕生した。活動方針の調整が失敗したために、相次いで二つの共産党が生まれてしまったわけだが、モスクワのコミンテルン(第三インターナショナル)は、こうした分裂状態に対して厳しい態度をとり、二つの政党を統一することをコミンテルン加入の条件として提示する。こうして1921年、ついに共産党と共産主義労働党が連合して、統一アメリカ共産党は結成された。
 こうして社会主義勢力が無視できない力を持つにつれて、保守派からの巻き返しも厳しいものになる。既に第一次大戦中にはウィルソン政権によって、防諜法や治安法が導入され、ユージン・デブズをはじめとする社会主義者たちが2000人以上も起訴されていたが、さらに1919年から1920年初頭にかけては、より過激な「赤狩り」がミッチェル・パーマー司法長官、フーヴァー局長によって行なわれ、4000人以上が投獄されることになったのだった。
 こうした状況の中で新しいアメリカ共産党は表立った活動は出来ず、合法的に活動を進める労働党との連携による政治活動を余儀なくされる。ようやく1923年に労働者党と統一し合法化されたものの、皮肉にも空前の好景気を迎えつつあった20年代のアメリカにおいては、共産党の活動および労働運動は、必然的に沈滞化せざるを得なかった。先にも触れたIWWの場合も、20年代後半にはほとんど活動が成立しなくなってしまうのである。
 しかし一方でこの時期、第一次大戦、そして続くナチスの台頭を契機にして渡米した、多くのヨーロッパ知識人たち(前回述べたように、彼らのうち少なからぬ人々はニュースクールにその行き先を求めた)からの刺激によって、社会主義思想はさらに深くアメリカに根を下ろすことにもなった。先にもふれた雑誌「マッセズ」は1927年に「ニュー・マッセズ」として再創刊され、この後30年代前半にかけて、アメリカの左翼人脈の一つの拠点として機能するようになる。もはやアメリカの知識人たちの「左傾化」は、誰の目にも明らかになっていた。左翼的な文学雑誌、演劇団体、舞踊団体、その他の文化団体の数や勢力が突然増えたことは、党の指導者にとっても大きなおどろきだったという*31
 いわば1920年代後半を一つの境にして、アメリカにおける社会主義・共産主義の浸透は、底辺労働者の待遇改善を前提とした労働運動経由から、知識人を経由しての思想的な色彩が濃いものへと、徐々にではあるが変化を遂げるのである。
 20年代後半の大量消費社会を謳歌する中で、国民の約5人に一人が自動車を所有するという好景気に沸いたアメリカは、しかし1929年10月24日の大恐慌によって一時的に全てを失う。もっとも社会主義者たちにとっては、この恐慌はむしろチャンスでもあった。
 大恐慌後、大統領フーヴァーの政策はことごとく民衆から反発を受け、1932年の選挙では惨敗を喫した。代わって大統領に就任したローズヴェルトは、いわゆるニューディール政策によって経済の復興を図ることになる。よく知られているように、この政策は連邦政府が強力な権限を発揮して諸産業を管理する点において、きわめて社会主義的な側面が強い。33年に発動されたNIRA(全国産業復興法)、AAA(農業調整法)、そしてTVA(テネシー川流域公社)による総合開発などはいずれも「非アメリカ的」といってよい性格を持っているが、より注目しなければならないのは、これらの政策に付随して、労働者の権利擁護が飛躍的に進められたことである。
 例えばNIRAの第7条a項によって、団体交渉権が保証されたことはその代表的な例である*32。35年3月にNIRAが違憲判決をうけた際、この条項も失効したが、すかさず同年にはワグナー法(全国労働関係法)が成立して、労働者の権利はより強力に守られることになった。つまり未曾有の不況から脱する過程において、政府の政策は組合側の利害と一致したわけである。
 ローズヴェルトはさらに1935年からの第二次ニューディールにおいて社会保障制度を導入し、企業の組合活動を支持する政策をとる。このために1936年の大統領選挙では、衣服関係の諸労組がローズヴェルト支持を掲げるという、以前には決してあり得なかった状況がアメリカに出来することになった。逆にいえば、こうした状況の中で労働運動は、かつての急進的・社会主義的な性格を徐々に喪失し、アメリカ社会の中に独自の形で「健全な」位置を占めはじめるのである。
 一方、奇しくも知識人たちによる社会主義思想も、この30年代半ば頃に大きな転換--共産党からトロツキズムへの転換--を遂げることになる。もちろん、この変化は一気に生じたものではなかったし、依然としてコミンテルンの教条的な方針を遵守する党員も多かったが、知識人たちの大勢は明らかだった。
 例えば、1934年に創刊されたジョン・リード・クラブの機関紙「パーティザン・レビュー」は、左翼知識人の動向を知る上で最も重要なものであるが、早くも36年にはスターリニズムとトロツキズムの狭間で勃発した様々な抗争が原因で休刊を余儀なくされる。しかし37年に再刊された際には、明確に反スターリン主義を基盤としたマルクス主義をうたうようになっていた*33
 また、1936年には、アメリカ知識人たちの間に「トロツキー擁護委員会」が発足し、スターリン政権に追われて亡命を続けるトロツキーのメキシコ移住にも一定の役割を果たすことになった(この際にメキシコ側でトロツキーに住居を提供したのが、ディエゴ・リベラである)。さらに1937年3月にはあのニュースクールの創設者のひとりであるジョン・デューイらトロツキーの支持者によって委員会(デューイ調査委員会)が結成され、裁判の起訴状などの調査が行われた。
 こうした転換の原因は、1933年にナチスが政権をとったことによって、新たに大量のユダヤ系知識人がアメリカに流入してきたこと、1936年の第一次モスクワ裁判の悲惨な様相が伝えられたこと、そしてスペイン市民戦争をめぐるソ連政府の対応などに求めることができるだろう。そして後にも述べるように1939年の独ソ不可侵条約は、ある意味ではアメリカ左翼の息の根を止めることになる。
 まさにヴァレーズはこうした空気の中で暮らし、1930年代後半に出版された詩人たちの詩を密かに狩猟しながら、「空間」を構成しようともがいていた。

■空間のためのエチュード
 何度も記すように、結局、この「空間」は完成しないままに終わる。
 しかし、第二次大戦後の1947年2月20日、ヴァレーズは「空間のためのエチュード」と題した作品をニューヨークのニュースクールにおける演奏会で初演している。いったん先回りすることになるが、この作品について見ておこう。
 「空間のためのエチュード」は妻ルイス、そして祖父クロードの思い出に捧げられており、2台のピアノ、6人の打楽器、混声合唱という編成。電子楽器の類は一切用いられていない。また、この作品は初演後、現在にいたるまで一切再演されておらず、楽譜も出版されていない。実際、先の「空間」のテキストと同じく、この楽譜もザッハー財団に資料が移管されるまで、雑誌Possibilitiesの1947・48年号に最終頁のみが掲載されたことを除けば、一般の研究者の目に触れることはなかった。ただし、現在残存している、この作品の自筆譜には大きな欠落がある。計24頁のうち、15-17頁、および22-23頁の計5頁がなぜか失われているのである。ゆえに、その最終的な形を復元することは不可能といわねばならない。現存する計19頁の演奏時間を計算すると計6分ほどになるが、失われた5頁もほぼ同じ密度だと想定すると、おおよそ8分ほどの作品であり、さして大きな規模のものではない。
 とはいえ、タイトルからしても、合唱を含む編成にしても、この作品が直接に「空間」と関わっていることは間違いない。普通に考えれば、「エチュード」という単語は、「空間」の完成に向けての道程とみることができるわけだが、その後に「空間」のプロジェクトを進めた形跡がないことを考えれば、そして「空間」の諸要素が晩年の作品へと溶解していったことを考えれば、むしろ、この作品をもってヴァレーズは自身の「空間」創作にひとつの区切りをつけたということなのかもしれない。
 作品はシロフォンの独奏によるcとcisの反復による旋律で始まり、やがて広い音域で和音をたたく2台のピアノと半音で上下行する合唱に、さまざまな打楽器が絡んでゆく構成をとる。
 興味深いのは、この作品の合唱部分のテキストである。自筆譜は相当に乱雑であり、音符、テキストともに一部の判読が不可能なのだが、現存するテキストは形式的には「空間」のそれと同様に「意味不明の呪術的シラブル」「詩的な文章」の2層から構成されている。残念ながら筆者はまだ原典を完全に同定できていないが、テキストはケネス・パッチェンKenneth Patchen、ヴィンセンテ・ウイドブロVincente Huidobro、そして16世紀のスペインのカトリック司祭である十字架のヨハネによるものが、混在しているという*34。ともかく、このうち、はっきりとした意味を成す「詩的な文章」は以下のようなものである。

 キリストは、敗北の吟遊詩人たちを祝福する
 太陽を回転させる叫びがある
 助けを求めている傷ついた人々がいる
 嘆き悲しむ舌がある
 傷ついた口の中の舌
 閉じることのできない眼がある
 しかし雪の中には白く輝く伝説がある
 期待した語を消してゆく耳がある

 まず指摘できるのは、これらのテキストが「空間」に予定されていたそれとは一切重なっていないことである。さらに注目されるのは、ここに政治的・革命的な含意が一切抜け落ちていることだ。熱狂的、革命的でプロパガンダ色の濃い語句に覆われた「空間」とは対照的に、「エチュード」の短い詩において顕著なのは、どこか虚ろで悲劇的な敗北のモティーフというべきだろう。
 30年代から手掛けられた「空間」のプランが二転三転しながら結局は完成しなかったこと、ようやく戦後になってからヴァレーズが「エチュード」という関連作品を発表し、そこで政治的な含意が抜け落ちたテキストを用いたこと、そして彼が生涯にわたって敬愛していた祖父のクロードに捧げられた唯一の現存作品であること(失われた「ブルゴーニュ」以外、祖父にささげられた曲はない)、そしてこの作品を「お蔵入り」させながらも、最後まで破棄はしなかったことを考えわせると、筆者には以下のような推論が浮かび上がってくる。

■ユートピアの残骸?
 「空間」のプランが、その最初期からきわめて左翼的な色彩の強いものであったことは疑い得ない。先にも見たように1930年代のアメリカは史上かつてないほどに共産主義・社会主義が大きな伸長を見せた時代だった。フランス時代に「民衆の城」を組織し、さらに「ソ連・アメリカ文化交流協会」の委員をつとめ、さらにはメキシコのトロツキストたちと深い交流があったヴァレーズは、ごく自然な形でこうした思想に共鳴していったものと思われる。
 もちろん、現存する資料、および直接ヴァレーズを知る人々の証言から判断するに、ヴァレーズ自身は左翼政党に入党した経験や、あるいは特定の政党のための音楽を書いたことはない。この点において彼は、ルース・クロフォード=シーガー、アーロン・コープランド、マルク・ブリッツステインなどのように、少なくとも一時期は政治思想の実践として音楽創作を行った経験のある作曲家たちとは明らかに姿勢が異なる。
 しかし、おそらくこの時期のヴァレーズは、「芸術的な前衛」と「政治的な前衛」を、すなわち「未来の音楽」と「未来の社会」を音楽の中で重ねようとしていた。この意味で彼の音楽活動を一種のユートピア主義と呼ぶことが可能なように思われる。そして「空間」をめぐる資料からも明らかなように、彼の描いたユートピアは、テクノロジーと革命思想をその両輪とするものだった。
 しかし、30年代から40年代にかけて、この両輪はもろくも破綻する。
 まずテクノロジーについて。「空間」は最新のテクノロジーを駆使して、音響を空間の中で自由に移動させるというアイディアによって成立している作品である。彼がその活動初期から期待をよせていた様々な電子機器は、当時、確かにその可能性が大きく啓かれようとはしていた。しかし30年代を通して何度もベルとグッゲンハイムに訴えた資金援助および音楽研究所設立がかなわなかったことによって、そしてベルトランらとの共同作業が不可能になったことによって、少なくとも一旦、彼の道は絶たれてしまう。さらに複数の研究者が指摘するように、1941年からアメリカが第二次大戦に参戦し、最終的には原子爆弾の投下という帰結に至った事実は、テクノロジーの負の側面をヴァレーズにまざまざと見せつけることになった*35
 一方、社会主義のユートピアはどうだったか。先にも見たように、大恐慌後のニューディール期は、ヴァレーズにとってもアメリカにとっても、社会主義思想の最大の培養液として機能した。またソヴィエト連邦が1935年から採択した「人民戦線」は、内部の路線の違いを問わず、新たな敵であるファシズムに全面的に対抗しようとするものであった。「空間」をめぐるマルローとの関係からいっても、彼が抜粋した様々な詩からも、ヴァレーズがこの路線を支持していたことは間違いない。
 しかし先にも述べたように、30年代末になると、アメリカにおいてもモスクワ裁判の様子が次々に明らかになるとともに、何よりも1939年8月に独ソ不可侵条約が締結され、ソ連とヒトラーのドイツは電撃的に手を組むことになった。この時点でアメリカの左翼が共有していた人民戦線の理想は一気に破壊され、地滑り的に集団的な転向が生じる*36。さらに数少ない非転向左翼も、トロツキズムへと退避ないしは転換を迫られることになった。
 おそらくはヴァレーズも例外ではない。というのも1941年11月7日、すなわちアメリカが第二次大戦参戦直前という時点において、ヴァレーズは「アメリカ第一主義委員会」に属していた形跡があるのだ*37。この委員会はC・リンドバーグらによって設立された強硬な反戦団体ではあるが、反ユダヤ主義者やファシストによる右翼的色彩を強く持っており、ルーズベルト大統領と激しく対立していた。一時的にせよ、ヴァレーズがこの団体に属していたことがあるとすれば、彼の中にも大きな転向が起こった可能性がある。
 そして第二次大戦が終結すると、トルーマン・ドクトリン以来、アメリカにおいては社会主義・共産主義はもはや「敵」としての色彩を明確に帯びることになり、48年から始まるマッカーシイズムの中では完全に弾圧の対象となる*38。第一次大戦時にカール・ムックの悲劇を間近で見ていたヴァレーズは、とりわけ外国出身者がアメリカで活動をする際の危険について十分に知っていたはずだ。
 こうして、彼が「空間」という夢の作品に託した二つの次元のユートピア思想は、30年代から40年代にかけてのアメリカ社会のおいては必然的に裏切られざるを得ず、この作品の完成が不可能に近かったことは明らかなようにも思われるのである。結局、彼は1947年になってから「空間のためのエチュード」を、電子的なテクノロジーも社会主義的なテキストも取り去った状態で、すなわち「空間」を何よりも特徴付けていたユートピア思想の両輪を外した形で初演した。とすれば、この作品は、いわば彼の夢見たユートピアの残骸として初演され、そしてそれ故に再演も出版も破棄もされぬまま、ゆるやかに葬られたといえるのではないだろうか。

■30年代後半における奇妙な果実「比重21.5」
 畢生の大作「空間」を完成させることができなかったヴァレーズだが、しかしこの作品を構想している間にひとつだけ、ある意味では彼の最大のヒット作といえる小品を発表している。フルート独奏のための「比重21.5」だ。
 彼の作品の中でも、これほど数多く録音され、現在でも演奏される機会の多いものは他にない。初演は1936年2月16日――すなわち彼がサンタ・フェに向かう直前――、ニューヨークのフランス人学校(リセ)支援のための演奏会においてなされた。カーネギーホールという豪華な場所が用意されたのは、ロベール・カサドシュをはじめとする、在米の一流フランス人演奏家が顔をそろえたためである。
 翌日2月17日のニューヨーク・タイムズには「フランス人学校を救うために」の見出しで、6歳から13歳のフランス人子弟が通う、ニューヨークのリセの財政援助のために演奏会が催されたことを記した上で、ヴァレーズ作品について次のように触れている。

 この演奏会の目玉は、バレール氏が3000ドルもする新しいフルートを演奏する点にある。当夜に演奏された6曲のうちのひとつは「比重21.5」と名付けられた作品であり、このタイトルはプラチナの比重をあらわしている。この2分ほどの独奏曲はフランス系アメリカ人のエドガー・ヴァレーズによって書かれたもので、この楽器の可能性を存分に開陳するものだった。
 ここで記されている「2分ほどの」という語句は、後に少なからぬ重要な意味を持ってくるので記憶しておいてほしい。初演者のジョルジュ・バレールはフランス出身のフルート奏者で、主にアメリカで活躍した人物。その軌跡はなかなか興味深いものだ。
 14歳でパリ音楽院に入り、17歳でコンセール・コロンヌの首席フルート奏者に就任。この管弦楽団によるドビュッシー「牧神の午後への前奏曲」の初演にも参加したという(あの冒頭のソロを吹いたかどうかは定かではない)。さらに彼はパリにおいて「現代木管楽器協会」を組織し、膨大な数の新作をヨーロッパ各地の作曲家に委嘱した。フルート、オーボエ、クラリネット、バスーン、ホルン、ピアノというやや変則的な合奏団ゆえに、「私たちの組み合わせのための作品は数が少なく、この二十年というもの、私は勇気を振り絞り、あらゆる作曲家の扉にへばりついては、私たちのために書いてくれと泣きついた」*39というわけである。
 のちにフルーティストのパトリック・ガロワは、かつてはフルーティスト自らが作曲をしたことを述べたあとで「それらのなかで二十世紀に生き残る作品は多くありません。バレル[ママ]は自分では作曲しませんでした。その代わり、彼は新しい音楽を生み出すよう多くの作曲家を手助けしました。その意味で、彼こそは私たちの楽器での最初の現代の音楽家だったのです」*40とその積極的な委嘱活動を高く評価している。
 バレールは1905年にはアメリカにわたり、ニューヨーク交響楽団の奏者として活躍するとともに、カルロス・サルセードらと三重奏団を結成し、やはり数多くの新作を作曲家に委嘱した(先のチャリティ演奏会にも、この三重奏団は参加している)。言うまでもなく、ハーピストのサルセードはヴァレーズと共にICGを立ち上げた盟友であるから、バレールがヴァレーズと知り合うのはごく自然な成り行きだったろう。実際、バレールは自らの主宰する「リトル・シンフォニー・オーケストラ」で「オフランド」を取り上げ、さらにはパン・アメリカン作曲家協会の演奏会にもしばしば演奏者として参加するなど、30年代半ばにはヴァレーズ・コミュニティの一員となっていた。
 バレールは、初演ののち「比重21.5」をメキシコシティやフィラデルフィアで再演し、さらにはアンコールピースとして生涯にわたってこの曲を大事にした。もちろん作品の魅力もあったのだろうが、自慢のフルートの「比重」がタイトルになっているのだから、当然ともいえよう。
 このユニークなタイトルに関しては、以下のようなエピソードがヴァレーズ自身によって語られている。

 私の作品は彼[バレール]がプラチナ製のフルートをちょうど受け取った時に、そのお披露目として書かれたものである。私が彼に楽譜を渡した時、彼はタイトルがないことに気づき、きちんと決めてくれと求めてきた。私はごくシンプルに答えた。この作品は初のプラチナ製のフルートのお披露目のために書かれ、そしてプラチナの比重は21.5なのだから、「比重21.5」と呼ぼうじゃないか*41
 なかなかカッコよいエピソードではある。かくしてヴァレーズ最大の「ヒット曲」が誕生したわけなのだが、しかし、この作品の一次資料および周辺について詳しく調査したフェリックス・マイヤーは、いくつか興味深い事実を明らかにしている*42
 まず、現在にいたるまで、この作品の楽譜のすべての出版譜には、先の述懐と同じヴァレーズ自身の注釈「1936年1月に書かれた。これはバレールが作らせたプラチナのフルートのお披露目[inauguration]に際して依頼されたものである。1946年4月に改訂。」という一文が記されており、ほとんどの解説はそれを踏襲している。ところがマイヤーによれば、バレールが最初にこの特注フルートを用いて演奏会を行ったのは、「比重21.5」の初演よりも5か月ほど前にあたる、1935年7月18日だという。とすれば「お披露目」という表現には当たらない。ヴァレーズがこのことを知らなかったのか、あるいは知っていて「初」にこだわったのかは不明である。
 また、これは決して虚偽というわけではないが、そもそもボストンのヘインズ社に特注したバレールの楽器はプラチナ100%ではなく、イリジウムを10%ほど含むものだという。ヴァレーズ作品のタイトルは、ほかならぬプラチナの比重を指しているわけだが(ただし正確にいえばプラチナの比重は21.45)、イリジウムの比重はさらに重く22.56であるから、これが混ざっているのであれば、もう少し数値は大きくなる。そして面白いことに、マイヤーの調査によれば、ヴァレーズのスケッチの中には「比重21.6」と鉛筆書きしてある五線紙が存在するのである。
 となれば、ヴァレーズは純プラチナではなく、イリジウムの混入した、このフルートの「正確な」比重をタイトルにしようとしたのかもしれない。この場合、先のような颯爽とした命名エピソードとは、やや異なる光景が展開されていたことになる……。
 ただし、いずれにしても、これらは些事といってよいものだろう。マイヤーの指摘で決定的に重要なのは、初演時のこの作品が現在とはかなり異なった相貌を持っていたことである。もちろんヴァレーズ自身の注記に「1946年4月に改訂」とあることは先にも触れたが、この注記はある意味ではかなりトリッキーなものだ。というのも、実際には「改訂(revised)」という範囲を大きく超えた変更がなされているからである。
 マイヤーはスケッチを検討する中で、初演で披露された「比重21.5」は、我々が現在知るものの半分ほどのサイズしか持っておらず(現行版は61小節、初稿は32小節)、必然として全体のフォルムやモティーフ操作が大きく異なっていたと主張する。この初稿スケッチは、開始音がasと、現行版よりも短3度高く始まり、現行版の中間部やクライマックス部を抜いたような構成を持っている。先ほどの批評の中にあった「2分ほどの独奏曲」という記述を考えあわせても、マイヤー論文の指摘には十分な説得力がある(ちなみに61小節の現行版は、たいていの演奏ではちょうど4分ほどを要する)。
 確かに、ヴァレーズが初演前の2月5日に妻のルイスに宛てた手紙の中で「あの小さなフルート作品はかわいいよ。バレールは実にうまく演奏するんだ」とリハーサルの様子を述べていること、そして初演の2日後にはアンドレ・ジョリヴェへの書簡の中で、この曲を「機会作品 pièce de circonstance」*42と述べていることなどを考え合わせると、「比重21.5」はシリアスな作品というよりは、仲間へのプレゼントにも似た、ちょっとした手慰みとして書いたものという可能性が高い。いずれにしても、当時のヴァレーズは「空間」のプランで頭がいっぱいだったはずなのだ。
 しかし、バレールがこれを気に入り何度も演奏したこと、そして「空間」の制作が障壁にのりあげたことなどから、ヴァレーズはこの後、「比重」に大きく手を入れることになったものと思われる。マイヤーによれば、バレールが41年に演奏活動を引退し、44年に死去したことが決定的なきっかけになった。こうして大きな「改訂」を経た「比重21.5」は、1946年にニューミュージック・ソサエティ社から出版された。その結果、録音も出版もされていない初稿版は、バレールが頻繁に演奏したにも関わらず、自然と闇に葬られることになってしまう。
 初演からおよそ10年を経てから作られた改訂版(印刷譜)は、先にも述べたように倍の長さを持つことになったわけだが、2分しかない本当の「小品」であれば、現在に至るまでこれほど人口に膾炙することはなかったとも予想されるから、ヴァレーズの措置は正解だったと、とりあえずは言えるだろう。
 ただし、ひとつ注意しておかねばならないのは、この作品の中盤であらわれる特徴的なキー・クラップ(キーを指で叩いて打楽器的な音を発する奏法)は、初稿には存在しないことである。
 しばしば、この作品は「キー・クラップというフルートの特殊奏法の初出」としてあげられることが多いのだが*43、しかし戦後の1946年に出版された改訂版で初めてこの部分があらわれたとすれば、この勲章は返上せねばならない。マイヤーは、ヴァレーズにこの奏法を伝授したのは、1946年初頭に深い付き合いがあり、この改訂版初演をニューヨークで行っているフルーティストのルース・フリーマン、あるいは改訂版を最初に録音した名手ルネ・ル・ロワではないかと推定している。ともかく、とするならば、ヴァレーズがわざわざ印刷譜に「1936年のバレールのプラチナ・フルートお披露目」のために書かれたと記したのは、初演の時点からこの形だったのだと暗に主張したかったからと考えるのは、あまりに穿った見方だろうか。もちろん「1946年4月に改訂」という一言がアリバイのように添えてあるのだが、まさか初稿がたった半分のサイズであり、しかもあの中間部がまったく無かったと想像する人はほとんどいないだろう。
 さて、こうした経緯はともかくとしても、「比重21.5」がきわめて魅力的な音楽であることは、論を俟たない。
 冒頭のモティーフが、何度か音高を変えながら執拗に繰り返され、中間のキー・クラップの部分を挟んだのちに、モティーフの展開型が舞曲のようなリズム型をとりながら第一のクライマックスに到達し、さらに主題モティーフが冒頭よりも半音上で回帰した後に、最高音へ向けて上昇する大きなクライマックスが訪れる。単旋律ながらも、これ以上は求められないような端正なバランス。
 しばしば指摘されるように、この曲は明らかにドビュッシーの独奏フルート作品「シランクス」を意識したものである。単にフルート独奏というのみならず、冒頭の3音モティーフの音程関係がまったく一緒なのだ(「シランクス」がb-a-h、「比重21.5」はf-e-fis)。1937年7月19日付のサルセード宛ての手紙でもヴァレーズは、「彼[バレール]は『シランクス』と一緒に『比重21.5』を演奏するべきなのだ」と述べているから*44、むしろ「シランクス」から派生した兄弟作品のようなつもりだったに違いない。
 フルート独奏という条件ゆえか、バレールという友人へのプレゼントだったせいか、あるいは深く敬愛するドビュッシーにオマージュをささげたせいなのか、筆者の耳にこの小品は、1930年代という、ヴァレーズにとってきわめて辛い時期にあって、例外的にリラックスした雰囲気を感じさせる。考えてみれば、「ひとりぼっち/天文学者」「空間」という巨大な未完成作品に没頭していたヴァレーズにとって、友人のためにミニマムな一本の旋律を書き綴るという経験は、どこか心やすまるものだったのではなかろうか。実際、彼が「比重21.5」を完成させた直後に出した妻ルイスへの書簡(1936年2月9日)の中には、次のような一節がある。

……「空間」を書き始めた。まさに進行中だが、うまくいっている。フルートのための小品が私に課した規律が、実を結んでいるようだ*45
 確かにこの小品は、長い停滞期の中にふと生み出された、幸せな果実のようにも見えるのである。

■合唱活動の継続、そしてさらに西へ
 パリ時代、ベルリン時代に様々な合唱団を組織していたヴァレーズは、1930年代にも粘り強く合唱に関わっている。まず、1935年12月27日付のニューヨーク・タイムズによれば、彼はネブラスカ合唱団の「運営委員」として、合唱団のアメリカ縦断ツアーを強力に支援しており「アメリカの西と東の文化交流は、戦後におけるヨーロッパとアメリカの交流と同じ重要性を持っており、アメリカの文化と精神的な発展において莫大な価値を有するものと思います」と紙面で述べている。この時期はまだ彼がサンタ・フェに行く前にあたるが、中西部のネブラスカ、西部のニューメキシコ、そして西海岸と徐々に西側に進んでゆく道程はなかなか興味深い。ちなみに、この合唱団のプログラムは、バッハやメンデルスゾーン、そして革命を機にロシアからアメリカに亡命していたグレチャニノフなど多彩なものであった。
 そしてサンタ・フェにおいても、1937年夏、彼は「スコラ・カントルム」と名付けた合唱団を組織している。ヴァレーズは100人規模の合唱団を計画していたというが、集まったのは40人ほど。9月末に行われた演奏会はサンタ・フェ芸術博物館ホールにピアノを購入するためのチャリティ演奏会だったが、このパンフレットでヴァレーズは「すべての芸術の中でも、音楽は共同体的な芸術です。それが存在するためには広範囲にわたる協同と組織化が必要です(中略)。ひとつのコミュニティの中で偉大な合唱音楽を共に歌うことは、良いものを判断する力と美に対する敬意を発展させるための、もっとも確実な道であり、これこそが音楽文化の基礎となるのです」*46と述べている。しかし、ヴァレーズは11月にはサンタ・フェを出てしまうために、合唱団はすぐに解散せざるを得なかった。
 こうしてヴァレーズは、さらに西へと向かう。サン・フランシスコ、そしてロス・アンジェルスへ。そこには彼が夢見た、映像と音楽のコラボレーションの可能性が拡がっているはずだった。

*1 Fernand Ouellette, Edgard Varèse (English translation, DaCapo Press, 1981), p.131.
*2 マクドナルドもマティスも、「空間」を「ひとりぼっち/天文学者」の延長線上に見ている。以下を参照。Malcolm Macdonald. Varèse : Astronomer in Sound (Kahn&Averill,2006), Olivia Mattis, “Varèse’s Multimedia Conseption of Deserts” in The Musical Quarterly vol.76,no.4,1992.
*3 ChouWen-Chung “Varèse: A sketch of the man and his music” in The Musical Quarterly vol.LII, no.2,1966, p.2.
*4 実際、1933年10月にフランス滞在を終えてアメリカに帰ったヴァレーズはレフ・テレミンとの交流を深め、翌年の「エクアトリアル」初演に際しては、特注のテレミンを依頼するに至る。
*5 Denise von Glahn “Empty Spaces: The Conceptual Origines of Déserts” in Edgard Varèse: composer, sound sculptor, visionaly, (The Boydell Press, 2006), p298.
*6 Ibid., p.298.
*7 Ibid., p.298.
*8 ただしルイスは、ヴァレーズが本当に自殺するとは考えていなかったようではある。
*9 Ouellette, p.137.
*10 Ibid., p.138.
*11 Ibid., p.139.
*12 ただしこの講演録には正確な日付がないために、他の日の講演だった可能性もある。
*13 Elliott Schwartz and Barney Childs (ed.), Contemporary Composers on Contemporary music. (Holt, Rinehart and Winston, 1966), p.197.
*14 David Shiff“Red but Not Communist: Varese in the 1930s and 1940s” in Edgard Varèse: composer, sound sculptor, visionaly (The Boydell Press, 2006),p.240.
*15 Ouellette,p. 134. 現在、ほぼ同じ内容のタイプ打ちされたメモがザッハー財団に所蔵されている。ただし、このメモはウェレットの著書にあるものと細かい語句の異同があるほか、最後の「前進する人間性」という言葉のあと、後述するノーマンのテキストが続けて記されている。
*16 Ouellette,p131. そして下記文献のp.166にも同様のプランの記述がある。ChouWen-Chung “Varèse: A sketch of the man and his music” in The Musical Quarterly vol.LII, no.2, 1966.
*17 このプランは、のちの1943年、ストコフスキー宛の手紙の中にも認めることができる(43年10月9日)。ここでヴァレーズは、ラジオ放送では低音と高音がよく入らない点で問題があると述べている 。また、特注のテレミンを作曲者が持って行ってしまったことを嘆いている。
*18 Dorothy Norman, “Edgard Varèse: Ionisation-Espace” in Twice a year no.7, p.259.
*19 同じ時期、ヴァレーズには、社会主義小説ともいわれる「怒りの葡萄」を発表したばかりのジョン・スタインベックと、アメリカの権利章典を題材にした作品を共作するという話も持ち上がったようだが、二人の気が合わず、すぐにこの話は消えたという。Shiff, p241.参照。
*20 Ouellette, p156.
*21 ヘンリー・ミラー『冷房装置の悪夢』(ヘンリー・ミラー全集9、大久保康雄訳)新潮社、1967年、167頁。
*22 前掲書168-169頁。
*23 前掲書176頁。
*24 Macdonald, .305.
*25 Solkema, Sherman, The New Worlds of Edgard Varèse: a symposium (I.S.A.M.,1980), pp.88-89.
*26 以下の文献に詳細な報告を行っている。沼野雄司「E.ヴァレーズにおけるユートピア思想:未完の《空間》をめぐって」2009年、日本音楽学会『音楽学』第54巻2号、93-103頁。
*27 大下尚一、有賀貞、志屯晃佑、平野隆編『資料が語るアメリカ』有斐閣、1989年、146頁。
*28 日本語訳は、『中国の赤い星(下)』(ちくま学芸文庫、1995年)の松岡洋子訳による。
*29 アメリカ文学者の亀井俊介は1930年代の代表的なプロパガンダ詩人としてルーカイザーとフェアリングの名を挙げている。以下文献94頁を参照。亀井俊介『アメリカ文学史講義3』(南雲堂、2000年)。
*30 ゆえに彼女は、戦後になってからマッカーシーの非米活動委員会の査問を受けている。
*31 アーヴィング・ハウ、ルイス・コーザー『アメリカ共産主義運動史(中)』(西田勲、井上乾一訳)、国書刊行会、1979年、160頁。
*32 有賀夏紀『アメリカの20世紀(上)』2002年、中公新書、162頁。
*33 このあたりの事情に関しては、以下文献の第3章に詳しい。堀邦雄『ニューヨーク知識人 ユダヤ的知性とアメリカ文化』(彩流社、2000年)。
*34 Anne Jostkleigrewe“Reaching for the Stars: from The One-All -Alone to Espace”in Edgard Varèse: composer, sound sculptor, visionaly, (The Boydell Press, 2006), p.217.
*35 ウェレットやマクドナルドは、戦争に関するショック、とりわけ原爆に関するショックが「空間」中断のひとつの原因だったと述べる。Ouellette, p.132, Macdnald, p.304.
*36 この過程は以下の文献に詳しい。Michael Denning, The Cultural Front (Verso, 1997). 前川玲子『アメリカ知識人とラディカル・ヴィジョンの崩壊』京都大学学術出版会、2003年。
*37 Shiff, p.241.
*38 こうした中でコープランドは非米活動委員会の招集を受け、アイスラ―は国外追放となった。
*39 クロード・ケネソン『音楽の神童たち(下)』(渡辺和訳)、音楽之友社、2002年、130頁。
*40 前掲書、124頁。
*41 Felix Meyer“Flute Piece with a Past: Density 21.5 revisited” in Edgard Varèse: composer, sound sculptor, visionaly, (The Boydell Press, 2006)p.248
*42 注40に挙げたMeyer 文献。
*43 Edgard Varèse, Andre Jolivet, Correspondance 1931-1965 (Contrechamps edition, 2002), p.133
*44 ただし筆者は、もしもキー・クラップ部分が1936年に書かれていたとして、それがフルート史において本当に初めての例なのかについては確証を得ることができなかった。
*45 これについてひとつ思い出すのは、ICGの最後の演奏会において、ヴァレーズが自作「アンテグラル」を、ストラヴィンスキーの「オクテット」と並べて演奏していることである。もちろん「アンテグラル」はきわめてオリジナルな作品ではあるが、管楽器の乾いた響きがひとつの刺激的な音風景を醸し出す点において、「オクテット」が重要な先駆であることは間違いない。ヴァレーズは敢えて両作品を並べて演奏したわけだが、これは彼の自信でもあろうし、原アイディアに対する尊敬の念でもあったのだろう。
*46 Meyer, p.250.
*47 Ouellette, p.143.

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沼野雄司(ぬまの・ゆうじ)

1965年東京生まれ。桐朋学園大学教授。東京藝術大学博士後期課程修了。博士(音楽学)。2008年から2009年にかけてハーヴァード大学客員研究員。おもに20世紀音楽に関する研究・評論を中心に活動。著書に「リゲティ、べリオ、ブーレーズ 前衛の終焉と現代音楽のゆくえ」(音楽之友社)、「光の雅歌 西村朗の音楽」(春秋社、共著)、「日本戦後音楽史 上・下」(平凡社、共著)、「楽譜を読む本」(ヤマハ・ミュージックメディア、共著)、「ファンダメンタルな楽曲分析入門」(音楽之友社)など。
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