第七回 二重被爆者、山口彊さんとの思い出


 店先に枇杷[びわ]が並び始める季節になると、長崎で口にした実の甘さを決まって思い出す。2007年5月初旬、私は広島と長崎で二度被爆した山口彊[つとむ]さんにインタビューするため長崎を訪れた。
 挨拶を終え、まずは昼食をと向かった先で、山口さんは90歳とは思えぬ健啖ぶりを発揮し、とくに天ぷらを好んで食べた。家族の話によると、歳をとるにつれ左半身のケロイドが薄くなり、その上、近年に足を折ったものの寝たきりになることなく順調に回復し、元の通り自分の足で歩けるようになったのだという。
 食後に出された枇杷の爽やかな甘さを味わいながら、私は二重被爆という想像するにあまりある体験を聞く上で、何から切り出せばよいのか考えあぐねていた。

 8月6日午前8時15分30秒。「完璧な照準点」と称されたT字形の相生橋に向け、B29爆撃機「エノラ・ゲイ」は原子爆弾を投下した。コードネーム「リトルボーイ」。全長3メートル、直径76センチ、重量4トンのそれは投下から43秒後、広島上空580メートルで爆裂した。
 爆発から1/10000秒後、火球は直径約30メートルに膨張、温度は30万度に達した。0.3秒後には直径200メートルを超え、表面温度は7000度。直下の人間は蒸発した。
 3秒後、地表は3000度から4000度に上昇し、爆心地から1キロ離れても1800度の熱風が容赦なく襲い、また爆風の圧力は爆心地から500メートルの範囲では1メートル四方あたり19トン。地上の建造物のほとんどが薙ぎ払われた。
 
 このような記述に出会うとき、広島に惨禍をもたらした原爆の実相を断片的であれ、知ったと思えてしまう。しかし、1/10000秒とはどういう時間なのか。私たちは、そのように細かく刻まれた時間を体感して暮らしてはいない。3000度を上回る世界とは、どういうものなのか想像もつかない。
 8月6日に地上から消えた人は、あれがリトルボーイと名付けられていたとは、知る由もなかった。では、その名をわかることは、何を知ることになるのか。
 何ひとつはっきりとわからないままでありながら、時間や距離、温度、固有名に触れると史実を知ったように思えてしまう。そのようなことは避けなければと思いつつ、さしあたり来歴を尋ねることから始めた。

 山口さんは戦前、長崎の三菱造船所に勤め、造機設計部で商船の設計を行なっていた。勤務地が長崎でありながら、なぜ1945年8月6日に広島にいたかといえば、その年の5月上旬より「戦時標準船」の設計応援のため、広島への出張を命じられていたからだ。戦時標準船は、作業の工程数を少なくした、効率の良い造船を目的としていた。戦争末期の物資と人員が極度に不足する中では、標準船建造の意味するところは「動きさえすればいい」という程度の船舶の濫造に成り果てていた。
 話が戦争に及ぶと自身の体験について、山口さんは極めて慎重に話そうと努めた。戦争を後世に伝えていく責任を強く感じていただけに、上手に語ることを戒めていた。巧く語られたことは、「本当の自分の真実ではありません」とはっきりと話した。
 良くも悪くも、筋道立てて体験を語るようになると、いつしか記憶は整えられた言い方に引っ張られ、その力動に飲み込まれてしまう。山口さんはそれを自覚していた。本当のことを語るにあたって、福田須磨子の詩「ひとりごと」を引き合いに出した。

 何も彼も いやになりました 
 原子野に きつ立する巨大な平和像
 それはいい それはいいけど 
 そのお金で何とかならなかったのかしら
 “石の像は食えぬし腹のたしにならぬ” 
 さもしいといって下さいますな 
 原爆後十年をぎりぎりに生きる 被災者の偽わらぬ心境です

 ささくれ立ち、飲み込みにくく、共感を寄せ付けない。生きることを難儀にさせる原爆をもしも巧みに語れば、「語りきれない」「本当の自分の真実」はいつしか摩滅していくだろう。それで聞きやすくなりはしても、耳を傾けるものの肺腑を抉[えぐ]るような鋭さはやがて失われる。
 では、本当のことを聞くにはどうすればいいだろう。「いつ・どこで・誰が・何を・どのように・していたか」といったように、事実をひとつひとつはっきりと尋ねる。そのことで記憶の全容を明らかにしていくというのが正攻法だ。順を追って話を聞こうとすれば、それ以外にないだろう。
 だが、具体的に事実を聞いていけば、山口さんが言いたいことを理解できるはずだと確信しては、「本当の自分の真実」という言葉に込めた切実さに迫りきれない。
 相手の話す内容が私にとって明らかになれば、理解に一歩近づいたと言える。しかし、それはあくまで「私にとって明らか」であっても、相手の言わんとすることとずれているかもしれない。そこに思い至らず、うかつに「わかった」と思えば、話の表層を撫でることにしかならない。
 言葉が耳に届き、理解へと進むとき、聞き取れない音が潜んでいることを忘れがちになる。音とは心のことだ。心という無形から生じる思いが言葉という形を通じて表出する。私たちが他者に伝えたいのは、この無形のところだ。そうであれば具体的なことを尋ねるのは、それ自体が目的ではなく、形のない心への端緒を開くためであるはずだ。

 出張を命じられ、同僚ふたりとともに広島行きの列車に乗り込んだくだりに話が差し掛かると、山口さんはこう述べた。

 「広島に向かう途中に徳山があります。ここには海軍の燃料廠がありました。私の知っている徳山と言えば、精油塔がたくさん並んだ、迫力のある町でした。けれども車窓から見える徳山は、全部爆撃でやられてしまって焼け野が原でした。バラックの駅がぽつんとあるだけ。あとは目に痛いほどの初夏の空の青ばかり」

 「あとは目に痛いほどの初夏の空の青ばかり」を耳にしたとき、いま何かとても大事な局面を迎えているように思えた。焦土と化した徳山の惨状をつぶさに述べるのではなく、バラックを点景に「空の青」で結んだのは、山口さんが短歌をたしなんでいたからかもしれないが、何かを伝えようとする思いが「空の青」に滲み出ていた。
 ここで思いの意味を尋ねても心を知ることにはならない。意味を問うとは、例えばボールを投げた際のスピードや放物線を描く軌跡を計算するようなものだ。それらを知っても「なぜいま投げようとしたのか」「どういう気分であちらに向けて投げたのか」というような、行為の根底にある心の働きは伺えない。
 「あとは目に痛いほどの初夏の空の青ばかり」と言わしめるような心の働きを、意味に還元することなく理解する必要が私にはあった。

 8月6日、午前8時を少し過ぎた頃、山口さんは終点の江波でバスを降り、通勤ラッシュ後のひっそりとしたまっすぐな道を造船所に向けて歩いていた。路傍の芋の葉の乾ききらない露に朝日が光るのを認めた。はるか上空にB29のエンジン音が聞こえた。そして辺りは白光に包まれた。
 どれくらい意識を失っていたのかわからなかったが、山口さんは内耳まで破壊された痛みから目を覚まし、とろけた顔でよろよろ歩き始めた。まず目に留めたのは、こちらに向かって歩いてくる、2メートル近い上背の仁王のような体つきをした男だった。

 「体格のよさからすぐに朝鮮人だとわかりました。このあたりは徴用され、造船所関係の仕事をさせられていた朝鮮人が住むバラックの多い地帯でした」

 太陽を失った空は冬のように暗かった。男は首から鍋と釜を振りわけにして縄でぶらさげ、腰には数珠つなぎにしたカボチャを巻き付け、両手はだらりとうなだれた鶏をしっかりと握り締めていた。顔面は熱線で焦げ、朱色に染まっていた。だが眼は爛々と光っていた。
 辺りの風景が一変し、自身も重篤な火傷を負った身でありながら、山口さんは「バイタリティのひとつの典型をまざまざと見たように思い、まったく威圧されてしま」い、男の生命力に魅入られ、目を背けることができなかった。虐げられた暮らしの中でも「彼らの宿していた生命力はまったく損なわれることなく、ここに来てその原点が燃えているように思えた」。

 あらゆる人間的な暮らしが焼き尽されてもなお人間である男の姿に目を見張ったのは、そこに自身の生命観に強く響くものを見て取ったからだろう。無残な死を間近に捉えた生者の眼には、何が焼き付けられたのか。私は山口さんの足取りにしたがって、その眼に映じた景色を自分に移し替えるようにして次々と尋ねた。

 千田町の寮に帰るべく、宇品の波止場から歩き出すと、放心状態の人々が川面を照らす炎を見つめていた。「広島は火中に自らを投じて燃えていた」と形容するように、町のいたるところに火竜が幾条も首をもたげていた。その時、川岸を歩いてくる一群がいた。ひとりの大人を先頭にした子供の集団だった。小学校の教師と生徒たちだと思われた。

 「体には服と呼べるようなものはなく、布切れがまとわりついているのみで、幽霊のように手の甲を向けた先からは腕の皮膚が手袋のように垂れ下がり、性別も定かではなかった」

 「定かではなかった」と言い終えたのち、「かろうじて膨らんだ胸で女の子だとわかった」と続けた。そのとき私は山口さんの瞳の奥に少女の姿をはっきりと認め、怖気をふるった。
 恐ろしいことに彼女たちは「一言も話さず。悲鳴も漏らさず」幽鬼のような格好で、山口さんの右側を静かに過ぎ、暗がりの中へ去って行った。左手の川は燃える町の灯りに照らされていた。「熱い」「助けて」と叫ぶ人たちが水中へ次々と没し、やがてぷかりと浮かび、筏のように流れていく。
 「恐ろしいことに」と私が感じたのは、教師と児童の集団が不気味に沈黙していたからではない。山口さんは被爆した際、左耳が聞こえなくなっていた。左手の川から聞こえた悲鳴は、もしかしたら右側をすれ違う一群の声だったのかもしれない、という憶測をまったく許さないことに気づいたからだ。
 山口さんが眼にした「一言も話さず。悲鳴も漏らさず」の光景は、疑いようのない事実だった。その時、その場にいたのは、世界でたったひとり、山口さんだけだったからだ。
 彼の心に映じた以外の世界は存在しなかった。客観的な事実として語りようのない恐ろしい事態が広島で本当に起きたのだと、そのとき私は初めて理解した。
 それは人類史上例のない悲惨な出来事という意味を、私は認識したのではない。山口さんの心が描き出した世界の姿に対し、怖気を振るうという身体の応えで理解したのだ。

 心を言語によって定義づけ、知的に理解しようとすれば必ず惑う。わかろうとするのではなく、心には心を以[も]って「応じる」という身体による行為しかありえないのではないか。例えば、心づくしの料理を味わうことは食材の理解ではなく、食べるという行為であるように。供された料理を食べてみる。応じることがすでに理解なのだ。つまり以心伝心とは忖度ではなく、互いの身体の応答のことだ。
 心を以て心を伝えるとは、黙っていても心が自ずと通じることを意味しない。形のない心をいかに我が身に映すか。それは確答に至ることはなく、「いかに我が身に映すか」という終止しない問いであり続ける。

 山口さんの経てきた壮絶な体験は、私の中には見当たらない。想像力では決して埋められない。だから言葉の意味を知的に理解するのを諦めた。その代わり、彼の心の働きを我が身に照らした。すると心象が私に映った。
 「映るとも月も思はず 映すとも水も思はぬ 広沢の池」という歌がある。水面は月の動きを理解した上で映すわけではない。ただ照応しているだけだ。

 知的な読解が尊ばれても、その人の存在を我が身をかけて理解しようという姿勢が見失われている。
 「夏雲は私の墓標であり、赤い夾竹桃[きょうちくとう]の花は、私への供華である」と山口さんは手記に綴っている。もうこの世にはいない彼に供える花があるとすれば、それは弔の言葉になるだろう。そのとき、私の心に山口さんの面影が月のように映し出される。生死の隔たりを超えて、彼の声をいま聞き取っているように感じる。それは私が身体で死者に応じ、彼岸を我が身と心に照らすことになり得ているとは言えないか。

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尹雄大(ゆん・うんで)

フリーランサーのインタビュアー&ライター。これまでに生物学者の池田清彦氏、漫才師の千原ジュニア氏、脳科学者の茂木健一郎氏や作家の川上弘美氏、保坂和志氏、俳優の田中泯氏、ミュージシャンの七尾旅人氏、川本真琴氏、大川興業の大川豊総裁、元ジャイアンツの桑田真澄氏など学術研究者や文化人、アーティスト、アスリート、ヤクザに政治家など、約800人にインタビューを行って来た。ライティングに関わった書籍多数。著書は『やわらかな言葉と体のレッスン』(春秋社)、『体の知性を取り戻す』(講談社現代新書)ほか。
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