第七回 「パン・アメリカン」という幻影

 「国際作曲家組合(ICG)」を1927年に解散したあと、ヴァレーズは1928年から1933年まで、およそ5年の長きにわたってパリに滞在した。ここで彼は電子楽器の可能性を探り、さらにはカルペンティエールやアルトーと共に「ひとりぼっち/天文学者」という作品を手掛けるが、結局、作品は完成をみないまま、失意のもとニューヨークへと帰還する。ただし、ヴァレーズがヨーロッパに滞在している間、アメリカでは彼の蒔いたひとつの種、「パン・アメリカン作曲家協会」という種が着実に育っていた。「前言語」的な何ものかに惹かれるヴァレーズにとって、アメリカの先住民、そしてとりわけ中南米という土地は破格のインスピレーションに満ちたものだったが、チャベスという触媒を通してその熱が頂点に達した時、この不思議な団体が誕生することになったのだった。前回の第6回は、30年代前半におけるパリでの共同作業について述べたわけだが、今回は同時期のヴァレーズをアメリカ側から照射してみたい。

■「ニュースクール」というトポス
 ヴァレーズはICGが解散した直後にあたる1928年初頭、アーロン・コープランドと共同で、現代音楽を紹介する演奏会シリーズを社会人学校の「ニュースクール・フォー・ソーシャル・リサーチ」において催している。コープランドはすでに1927年初頭から、批評家ポール・ローゼンフェルトの後を継いでニュースクールで演奏会を行っていたが、ここにヴァレーズが加わる形でシリーズが企画されたのだった*1。もちろんこれは、新しい団体を立ち上げたという類の大げさな話ではなく、6回の演奏会シリーズに関わったにすぎない。
 しかし、この「ニュースクール」という場所には象徴的な意味がある。
 ジョン・デューイ、チャールズ・ピアードほかのコロンビア大学教授によって1919年に創立されたこの私塾は(現在は正式な「大学」になっている)、第一次大戦後、アメリカのリベラルな知的環境を守るために設立された機関である。教授陣が大部の『社会科学事典』を刊行したことで一気に名が知られるようになった後、1933年にドイツでナチス政権が樹立されてからは、レヴィ=ストロースやハンナ・アーレントをはじめとして、アルフレッド・シュッツ、レオ・シュトラウス、ヴィルヘルム・ライヒといった亡命知識人の受け皿として飛躍的に発展する。ちなみに第二次大戦後には、あのジョン・ケージもこの学校の教壇に立った。
 ありていにいえば、この学校は、当時のニューヨーク知的左翼の拠点である(のちに触れるが、学校新館3階の壁面にはメキシコの美術家オロスコによって、赤旗、レーニン、スターリンなどが描かれていた)。決して学校全体が直接的な形で共産党ほかの政党にかかわっていたわけではないが、第一次大戦時から急速に進んだ愛国的なアメリカニズムに対して一定の距離を保ちながら、1920年代の「赤狩り」に関わるサッコ・ヴァンゼッティ事件の告発を行い、同時に黒人公民権運動の発信地となった点などにおいて、ニュースクールは設立から戦後にいたるまで左翼の牙城としての立場を保つことになる*2。結果として、1930年代初頭においては、この学校の講堂でアメリカ共産党あるいはマルクス主義者たちの団体とリンクした音楽活動が頻繁に催されていた*3
 大恐慌を経た1930年代以降のヴァレーズは、このニュースクールを作品発表の重要な場所として位置付けることになる。
 これはおそらく、単にグリニッチ・ヴィレッジの自宅と距離が近いという理由にとどまるものではないだろう。リベラルな思想、いや、もっとはっきり言ってしまえば共産主義・社会主義思想に対するシンパシーを、少なくともこの頃のヴァレーズははっきりと感じていたように思われる。これは、彼の30年代後半の作品プランもはっきりと示している(ちなみに、ニュースクールにおいて共同で演奏会を主催していたコープランドは1929年にソ連を訪問、そしてのちの1934年にはアメリカ共産党の機関誌「新しい大衆」に論文を寄せるなど、一時期は社会主義者の立場を明らかにしていた)。
 少年期にはジュール・ヴェルヌの革命譚「マルティン・パス」をオペラ化(?)し、長じては作曲家のための「組合」を組織し、パリではキューバの独裁政権から逃れてきたカルペンティエールと共同作業を行うことになったヴァレーズは、1930年代に入ると、さらに革命後のメキシコを代表する作曲家カルロス・チャベスという盟友を得る。かつてのICGがヴァレーズとサルセードの共同作業だったとすれば、彼が1928年に設立する「パン・アメリカン作曲家協会」は誰よりもまず、チャベスという人物とのコラボレーションであった。この時期のヴァレーズを考える上での最大のキーパーソンが、チャベスという特異な存在なのである。では、チャベスとは何者だったのか。

■メキシコ革命と「インディヘニスモ」
 チャベス、そしてこの時期のヴァレーズについて考えるためには、どうしてもメキシコという土地における革命以降の政治状況について触れなければならない。迂回するようではあるが、以下、少々お付き合いいただきたい。
 16世紀にエルナン・コルテスが上陸して以来、300年に渡るスペインの支配を脱してメキシコ国家が立ち上がったのは1821年である。しかしその後は、アメリカとフランスの干渉を幾度も受け、一時はオーストリア皇帝の弟マクシミリアンがメキシコ皇帝に就任するという事態まで至るのだが、アメリカの南北戦争が終結し、フランスの普仏戦争敗北が決まると、メキシコには一時的な無風状態が訪れる。
 この間隙を突いて、1867年に政権を奪取したのが独裁者となるポルフィリオ・ディアスだった。大統領に就任したディアスのもとで工業化は著しく進んだものの、その代償として国内の資源はごく一部の企業と外国資本による寡占を招き、多くの労働争議が噴出する。
 1910年に大統領選に出馬を表明したマデロは、反ディアス闘争を宣言。民衆の後押しもあり、翌11年にはディアスを辞任に追い込んだ。これが狭義の「メキシコ革命」とされるものである。
 メキシコ革命は、以上のようにあくまでも独裁政権に対する反発として起こったものだが、しかしこの革命が、政権に対する労働者の権利要求を背景にしていた点は重要である。しばしの内乱を経た後、1917年には新憲法のもとでベネスティアーノ・カランサが大統領に就任。この憲法は社会主義的な色彩がきわめて強く、労働者の基本権、最低賃金制度、女性や児童の保護、ストライキ権などを備えるものだった*4。さらにカランサは「世界労働の家」 と手を結び、労働者によって構成された「赤色大隊」を重要な支持基盤に据える。いわば、こうしてメキシコ革命は一種の社会主義革命の色彩を帯びることになったのだった。ロシア革命のルポルタージュとして世界的に知られた『世界を揺るがした十日間』の著者であり、アメリカ共産党の創立者の一人でもあるジョン・リードが、メキシコ革命のルポルタージュ『反乱のメキシコ Insurgent Mexico』(1914)で頭角をあらわしたことにも、それは象徴的だ。
 その後、政権を担ったオブレゴンはメキシコ労働者地域連合(CROM)との協調路線を敷き、かくして現在にいたるまで労組が政権の一部を担うという伝統がメキシコに定着することになった*5
 このオブレゴン政権下で教育大臣に就任したのがホセ・バスコンセロスである。バスコンセロスは、在任時に1000校を超える小・中・高校を開設し、徹底的な識字教育を施した。すなわちきわめて正統的に、知的なインフラ整備を行なったというわけだが、何より彼の政策の特徴は積極的な芸術奨励にあった。その著書『美的一元論』(1919)の中で「芸術活動は合理的な知識に優る。なぜなら芸術家は感覚によってすべての要素を結びつけるリズムを体得しているからだ」*6と述べるバスコンセロスは「インディヘニスモ」、すなわちスペイン征服以前にさかのぼる「真の」メキシコの姿を取り戻す運動を、具体的な政策として展開することになる。
 最初に華々しい成果を挙げたのは、ディエゴ・リベラ、ダビッド・アルファロ・シケイロス、ホセ・クレメンテ・オロスコの三大巨匠に象徴される壁画運動である。革命後の画家たちが、コルテス以前の古代文明を象徴する「壁画」というメディアを模しながら、メキシコ史を辿る大規模なフレスコ画を描くこと。何よりもこの分かりやすさにおいて壁画運動はインディヘニスモの中心を成す。当然ながら、この運動は公共の建造物の壁面が提供されなければ成立し得ないわけだが、バスコンセロスはメキシコの歴史的な建造物の壁面を次々と彼らに与えた。
 とりわけリベラの壁画に顕著なのだが、彼らはパリで流行していたキュビスムの画風を、一種の歴史的な立体性として再構築したといえる。すなわちアステカ文明、スペインによる植民地化、さらには革命以後の新しい社会という壮大な時間軸を、ひとつの壁画の中に封じ込めるわけである。この壁画運動は反カトリック(=反スペイン)、反植民地主義を掲げて古代に範をとるとともに、歴史的建造物を用いて文章を読めない庶民にメキシコ史を実感させるという点、そして明らかに革命的なモティーフを絵の中に織り込んだ点において、それ自体がすぐれて社会主義的な運動でもあった。
 ちなみに、リベラとオロスコは1922年にメキシコ共産党に入党しているが、その後彼らはシケイロス、そして画家のカルロス・メリダと共に「職人、画家、彫刻家連合」と名づけた組織を結成した。宣言文は以下のようなものである。

我々はいわゆる額縁絵画、並びに超知的階級の中から生まれる一切の芸術を拒否する。それはその本質が貴族的だからだ。われわれは記念碑的作品を賞揚する。それは公共の財産だからだ。われわれは宣言する。老朽化した秩序から新しいそれへの社会的移行のこの機にあって、美の製作者は民衆のために美の貴重品を製作する目的に向かって最大限の努力をなすべきだ。美術は今日、個人の喜びのための表現としてあるが、われわれの究極の目的はすべてひとのための美、戦いを指導し、それを鼓舞する美を創造することである*7
 この一文からも彼らの政治的な立場は明らかだろう。
 1920年代にはメキシコ国内で活動していたリベラとオロスコは、20年代後半から1930年代初頭にはアメリカで大規模な壁画運動を展開する。これはニューディール政策化において一種の公共事業として壁画運動が勃興していたことと関連しているのだが、当然ながらアメリカにいたってはメキシコ的な題材ばかりを描くことはできない。この時、かわりに前面にあらわれたのが社会主義イデオロギーだった。いわばインディヘニスモという衣服をまとっていたメキシコの革命画が、そのひとつの本性をあらわした瞬間だったともいえる。
 オロスコは、1927年制作のダートマス大学の壁画で「アメリカ文明の叙事詩」と銘打ってアメリカの歴史を壮大な筆致で描いた後、1930年には、ニューヨークの「ニュースクール」新館3階の壁画を制作する。彼は「民族の連帯、理想的労働、芸術、科学達成への人類の願望」をテーマに掲げて、ソヴィエト連邦の赤旗とレーニンの肖像、さらにはスターリンの姿を描いた。戦後の米ソ関係を知る我々にとっては意外な感があるけれども、当然のことながら、この時にはまだ冷戦は存在しない。
 一方、リベラは1931年、ニューヨーク近代美術館で大規模な回顧展を開いた後、1932年にはデトロイトのフォード工場に招かれて「デトロイト産業」と題された壁画を製作。「私は完全に満足だった。かなり以前パリで、私は立体派絵画によってそれ相応の生活をしていたが、壁画こそ未来の産業社会の芸術形式だという考えからそれを投げ捨てた。デトロイトの労働者たちの私の壁画に対する圧倒的な賛成は、私の信念への支持であるだけでなく、私の生涯の夢の実現の第一歩のように感じられた」*8というリベラの言葉からは、この時代ならではの熱気が感じられる。
 さらにリベラは1933年、ニューヨークのロックフェラー・センターからの仕事を受諾する。ロックフェラー側はピカソ、マチス、リベラの3人に壁画を依頼したが、結局先の二人が断ったためにリベラが単独で仕事にあたった。この選択はしかし、大きなスキャンダルを巻き起こすことになる。リベラが壁面でのびのびと展開していた社会主義思想は、1930年代半ばのアメリカにおいては徐々に危険思想とみなされるようになっていたのである。1933年5月4日、センターの壁画の中にレーニンの姿が描かれているのを発見したロックフェラー側は、即座にその消去を要求。しかしリベラが拒否したために作業は中断させられ、最終的に契約は解除されたうえに、壁面も完全に破壊された。
 結局、このロックフェラー壁画をめぐる騒動は、壁画運動の政治性を計らずもアメリカ全土に示すことになり、リベラとオロスコは相次いでメキシコに帰国することになる。

■音楽におけるインディヘニスモ:カルロス・チャベス
 実は音楽面において、バスコンセロスの政策に呼応して頭角をあらわしたのが、カルロス・チャベス(1899-1978)にほかならない。
 『ニューグローブ世界音楽大辞典』のチャベスの項目には「……メキシコ土着のインディオ文化、殊にスペイン人の征服以前の文化に最大の力点が置かれるようになった。それをインディヘニスモと呼び、一方の旗頭が積極的にその主張に基づく壁画運動を推進した画家ディエゴ・リベラで、もう一方がチャベスであった」と記されている。また、研究者ジェラール・ベハーグも簡潔に次のように述べる。

カルロス・チャベスは1910年代のメキシコ革命に続く、新しいメキシコ主義の主唱者として知られている。彼や彼に続く人々によって、かつての芸術のエリート主義を疑問視し、ナショナルな文化のより包括的な概念を掲げる「革命的な」ナショナリズムのイデオロギーが現れた。それはメスティソやインディオの国家を認識し、イメージする試みであった。メキシコの芸術史における「アステカ・ルネサンス」が起こった時期である*9
 前回の連載で見たように、ヴァレーズもまた、アメリカ先住民やグアテマラの神話を通して「前言語」的な何ものかを探求することに必死だった。彼がチャベスの姿勢と共鳴するのも当然のことだったろう。そしてやはり前回に触れたように、あのアントナン・アルトーも、やがてはメキシコのインディヘニスモにひとつの夢を見ることになるのである。
 インディオを母方の家系にもつチャベスは、幼い頃からインディオ文化に親しんでいたが、初期の作風は新古典主義的、あるいは近代フランス的なものだった。しかし20年のオブレゴン政権成立以降、彼は意識的に古代のメキシコを題材に用いた作品を書くようになる。とりわけ重要な作品が、アステカの神話を題材としたバレエ音楽「新しい火」(1921)である。この作品は他ならぬバスコンセロスによって題材が提示され、それに応えたものだった。
 チャベスがメキシコの民俗的な題材を用いた曲はその後枚挙に暇がないのだが、そうした作品においては社会主義的なモティーフもしばしば前面化している。先の二曲に続くバレエ音楽「馬力」(1927)は現代の工業社会とメキシコの民俗を対比的に描きながら、前者の罪と後者の美徳を綴ってゆくもの。ここではメキシコの舞曲形式(ウアパンゴとサンドゥンガ)がモダニズム的な文脈で用いられることによって「ラテンアメリカの熱帯での暖かく官能的な生活と、北アメリカの工業社会が対比させられる。そして北の資本主義が南の隣人を搾取しているというメッセージは、振り付けや、音楽と美術によって象徴的に表現される」というわけである*10
 まさにこうした時期、チャベスとヴァレーズは邂逅した。
 最初にチャベスがアメリカに渡るのは1923年12月(翌1924年3月まで滞在)だが、彼はまずここでカウエル、ヴァレーズ、ストコフスキーという3人の人物と運命的な出会いを果たす。カウエルは出版社コス・コブ・プレスにチャベスを紹介し、ヴァレーズは彼をICGのメンバーへと誘い、そしてストコフスキーはのちに演奏会で彼のオーケストラ曲を取り上げることになるのである。
 ヴァレーズのアドバイスによって、チャベスは以前に書いた声とピアノのための「3つのヘキサゴン」(1923)を声と室内楽の編成に直して、1925年2月8日のICG第11回演奏会においてアメリカ初演した。その返礼というわけではないのだろうが、同時にチャベスも同年の12月18日、メキシコ国立高等学校において、リベラの壁画の前でヴァレーズの「オクタンドル」を指揮している*11
 チャベスは1926年9月から1928年夏まで、再度ニューヨークに住んでいるが、この時期はちょうどICGが解散で揺れるさなかにあたる(ICG最後の演奏会は1927年4月)。おそらくはヴァレーズとも様々な話し合いがあったのだろう。ヴァレーズはICGの重い負担から逃れるや否や、今度はチャベスと共に1928年に「パン・アメリカン作曲家協会」を立ち上げるのである。この団体については後で詳述することにして、もう少しだけチャベスの軌跡を追っておこう。
 ニューヨーク滞在を終えて1928年夏にメキシコに帰ったチャベスは、メキシコ音楽家ユニオンが初の交響楽団設立を決定した際に、音楽監督に就任する。そして以後20年間にわたって、彼は世界の作曲家の作品155曲とメキシコの作曲家の作品82曲を初演しながら、メキシコ各地を定期的に巡演したのだった。言うまでもなく、まさにこれはメキシコにおけるチャベスなりの「ICG」の展開に他ならない。
 また同じく1928年の12月、チャベスはメキシコ国立音楽院の院長に任命された。すなわち、アウトロー的な壁画運動の3巨匠とは異なり、チャベスの場合には指揮者・教育者として、社会主義化したメキシコ国家と深く関わることになったわけである。33年の3月までの4年半、さらに34年には再度8ヵ月間、この職を務めたチャベスは、音楽院のカリキュラムを改革するとともに、民俗音楽や大衆音楽,音楽史および民族音楽学(当時の呼び名は「比較音楽学」)」のための「調査研究アカデミー」を創設する。これを教育面からのインディヘニスモ運動と呼び得るかもしれない*12
 ちなみにチャベスと壁画運動、そしてチャベスとICGの関係がダイレクトにあらわれた例として、先にもあげた「馬の火」の初演(1932年3月31日)を挙げることができよう。この初演が行われたのはフィラデルフィア・オペラ・ハウスであり、指揮は当然ながらレオポルド・ストコフスキー。そして美術を担当したのがディエゴ・リベラだった*13
 ちなみに、音楽におけるインディヘニスモに関しては、しばしばシルヴェストレ・レブエルタス (1899-1940)の名も挙げられる。レブエルタスは祖国メキシコで学んだ後、テキサスとシカゴで教育を受けた作曲家で、後にはチャベスの助手としてメキシコ交響楽団の指揮者を務めた。さらにレブエルタスはスペイン市民戦争に際しては義勇軍に参加し、現地で演奏会を開くなど活発な文化闘争を展開。研究者キャロル・ヘスによれば、レブエルタスは30年代に何度もソヴィエト連邦行きを計画していたが、経済的な理由によって断念したのだという*14。ちなみに彼の代表作「センセマヤ」(1938)はキューバの共産主義詩人ニコラス・グイレンの詩を用いたもの。
 ここにもやはり、インディヘニスモと社会主義・共産主義の密接な関連が見て取れよう。

■エイゼンシュテインのメキシコ
 そして、この時期のヴァレーズもまた、メキシコおよび中南米のみならず、ソ連という新しい国に大きな関心を示していた。
 冒頭に記したニュースクールでの演奏会のおよそ一ヵ月後、1929年4月7日付のニューヨーク・タイムズ紙に掲載された「アメリカにおける、ロシアとの芸術的結束の発展」と題された記事は、近年、ヨーロッパのみならずロシアの芸術が積極的に紹介されていることを伝えた上で、ヴァレーズが「アメリカ・ソヴィエト文化交流協会」の委員の一人であると記している。そもそもヴァレーズは1909年頃にパリでレーニンと出会い、さらに1915年にはパリの文化サークルの中でレオン・トロツキーとも直接知り合っている*15。彼らがどのような会話をしたのかは全く分からないが、ソ連という新しい国家を立ち上げた中心人物たちとの交流は、おそらくは社会主義思想に対するゆるやかな共感を生み出しただろう(他にも1920年代のヴァレーズは、詩人のマヤコフスキイや神秘思想家のグルジェフなど多くのロシア人と交流があった)。
 そして、やや周辺的ながらも、ヴァレーズとロシアが間接的に関わったエピソードとしては、エイゼンシュテインのアメリカ・メキシコ訪問が挙げられよう。
 1930年3月21日付のニューヨーク・タイムズは、その前日に行なわれた、映画監督「セルゲイ・エイゼンシュテインを囲む会」の実行委員にエドガー・ヴァレーズが含まれていることを記している。ヴァレーズは当時パリに居を移していたものの、依然として「アメリカ・ソヴィエト文化交流協会」の一員であり、フランスからソ連の文化活動を支援する企てを継続的に行っていた*16
 エイゼンシュテインは、「戦艦ポチョムキン」(1925)で一躍名が知られるようになった後、1917年革命を扱った「十月」(1927)、そして集団農場を描いた「古きものと新しきもの」(1929)を発表したばかりの新進気鋭の映画監督であり、次の大作「メキシコ万歳」のために現地を訪問する途中で、アメリカを経由したのだった。この時期のエイゼンシュテインといえば、政治的には微妙な位置にある。もともとソ連当局に全面的な信頼を受けて出発した彼は、1920年代末にスターリンが権力を握るようになると、その映画製作に微妙な圧力がかけられるようになっていた。例えば、トロツキーが国外追放となった1929年に彼が完成した新作「前線」は、大きなカットを余儀なくされて「古きものと新しきもの」というタイトルで公開されている。エイゼンシュテインは既に、スターリニズムに対する危機感をはっきりと感じていたに違いない。
 かくして不幸なことに、1933年に未完のままエイゼンシュテインの手を離れる「メキシコ万歳」は、以下のような構成を持っている。

1.プロローグ:ユカタン半島のマヤ遺跡。
2.サンドゥンガ:民謡サンドゥンガの流れるもとでの結婚式。植民地以前のメキシコ。
3.お祭り:グァダルーペの聖処女の祭り。コルテスに占領された植民地時代のメキシコ。
4.竜舌蘭:竜舌蘭の農場で働く農奴の物語。ディアスの独裁時代。
5.エピローグ:伝統的行事 「死の日」のカーニバル行進。1931年のメキシコ。

 一見して分かるように、この映画の展開はまさにリベラらの壁画、そしてチャベスの「馬力」に通じるものであり、いわばロシア人のエイゼンシュテインによるメキシコ・インディヘニスモの実践であることは容易に理解されよう。
この「エイゼンシュテインを囲む会」の委員の顔ぶれはきわめて興味深い。例えば左翼作家として名を成し、その後「新しい大衆」にたびたび寄稿することになるフロイド・デル、「インターナショナル・マガジン」を編集していたノーマン・ハプグッドの夫人、そして女性の権利確立と社会主義運動において大きな功績をなし、後に赤狩りの被害を受けることにもなるリリアン・ウォールドなどが名を連ねており、アメリカの芸術界における重要な左翼人脈が含まれていることがうかがえる。
 ヴァレーズがこうして社会主義思想と関係を深めてゆく過程で、チャベスの持つメキシコ人脈は重要な鍵になった。実際、ヴァレーズはチャベスを介してディエゴ・リベラと知り合い、急速に親交を深める*17。その信頼関係は深く、のちの1933年9月、ヴァレーズが5年に及ぶパリ滞在を終えた際に、リベラは次の移住先として、彼自身と妻フリーダ・カーロの住むメキシコシティの自宅を提供したいとヴァレーズに申し出たほどだった。ヴァレーズ自身もこの提案に強く心を動かされたものの、結局、彼は住み慣れたニューヨークへと戻ることにした。これは正解だったのかもしれない。というのも後の1937年、他ならぬこのリベラ邸で、メキシコ亡命中のトロツキーが、スターリンの刺客によって暗殺されることになるからである。

■「パン・アメリカン作曲家協会」の結成
 複数形の「Ameriques」という作品タイトルからも明らかなように、ヴァレーズはもともと中南米に強い興味を持っていたが「パン・アメリカン」を謳う団体を作るという発想は、チャベスとの関係を抜きにしてはあり得ない。いわば二人の出会いによって、このアイディアは立体的な造形を与えられたのだった。
 「パン・アメリカン作曲家協会 Pan American Association of Composers(以下、PAAC)」は、その名が示すように北中南アメリカ各地のナショナリズムを一つの「パン・アメリカ」という語の中に統括し、新たな同時代音楽運動を展開しようとするものである。
 ちなみに、先のメキシコとの関係でいえば、1928年から34年というPAACの活動時期は重要な意味を持っている。これはチャベスがメキシコ政府とかかわりあう形で音楽活動を開始した時期であるとともに、壁画運動の作者たちがアメリカを舞台にして多くの問題作を問うた時期でもあるからだ。すなわちインディヘニスモ運動の最盛期に、チャベス(そしてレブエルタス)はヴァレーズの手によって設立された団体で活動していたことになる。以下、音楽学者ディーン・ルートの研究を基にしながら、団体の成立と展開について述べてみたい。
 最初に団体を立ち上げたのはヴァレーズ、チャベス、そしてヘンリー・カウエル(1897-1965)である。カウエルはアイルランド系アメリカ人だが、カリフォルニア大学では民族音楽学者チャールズ・シーガーに師事し(1931年と1932年には、ベルリンのホルンボステルのもとで当時の最先端の民族音楽学を学んでもいる)、さらには自ら創設した「ニュー・ミュージック・エディション」から多くのアメリカ音楽の楽譜を出版していた。中南米に興味を持つフランス出身のヴァレーズ、メキシコのインディヘニスモを体現するチャベス、そして民族音楽学のパースペクティヴを持ったカウエルという3人が、「南中北アメリカ」の現代音楽を扱う新しい作曲家集団の構想を得たというのは、なるほど道理が通っていよう。もちろん当時の3人が社会主義へのシンパシーという点でも共通していたことは言うまでもない。
 1928年2月にニューヨークのスタインウェイホール508号室において最初の発足会がもたれたが、ヴァレーズはこの際に以下のような声明を発表している。

 このパン・アメリカン作曲家協会は、北アメリカ、中央アメリカ、南アメリカの作曲家によってのみ構成された団体である。
 この協会はひとつの地域だけによる活動に制限されるものではなく、これら南北アメリカの様々な都市における協会員の作品発表を促進することを目的としている。
 大きな関心を喚起する作品に対して再演の機会さえ与えないような組織とは異なり、ここではできる限り多くの演奏によってすぐれた作品群を提供する妥当性と必要性が強調されることになる。
 北アメリカの作品を中央・南アメリカで演奏すること、南アメリカの作品を合衆国で演奏することによって、異なったアメリカの地域における幅広い相互理解が進むはずだ。そして西半球[南北アメリカ大陸とその周辺]のすぐれた音楽を作り出すための刺激を作曲家に与えることだろう。
 数年前には、この協会を構成するために、新しい音楽の理想を持った十分な数のアメリカの作曲家を探すことは難しかったが、今日においては進歩的な男女によるかなりの数のグループが存在している。彼らは異なった傾向を示してはいるが、アメリカにおいて書かれている全てのすぐれた音楽へのまじめで誠実な関心を通して結び付けられているのである。

 現在の協会メンバーは以下のとおり。カルロス・チャベス[メキシコ]、アカリオ・コタポス[チリ]、ヘンリー・カウエル[アメリカ]、ルース・クロフォード[アメリカ]、エドゥアルド・ファビーニ[ウルグアイ]、ハワード・ハンソン[アメリカ]、ロイ・ハリス[アメリカ]、チャールズ・アイヴズ[アメリカ]、コリン・マクフィー[カナダ]、シルベストレ・レブエルタス[メキシコ]、ディーン・ルディヤー[アメリカ]、カール・ラッグルス[アメリカ]、カルロス・サルツェド[アメリカ]、ウィリアム・グラント・スティル[アメリカ]、エドガー・ヴァレーズ[アメリカ]、アドルフ・ワイス[アメリカ]、エマーソン・ウィットホーン[アメリカ]
 委員会は以下のメンバーで構成されている。代表:エドガー・ヴァレーズ、副代表:エマーソン・ウィットホーン、ヘンリー・カウエル、カール・ラッグルス、カルロス・サルツェド*18

 まず、この宣言は明らかにICG(国際作曲家組合)での失敗を踏まえて書かれている。かつては頑なに「再演」を拒んだヴァレーズは、ここではそのようなリゴリズムから離れて北・中・南米の作曲家が自らの作品を発表する場として、この団体を位置付けているからだ。また、ニューヨークのみで演奏会を行い続けたICGとは異なり、このPAACはさまざまな土地に巡回することを最初から謳っており、実際、およそ6年の活動期間の中でニューヨーク、ハヴァナ、パリ、ベルリンで演奏会を持つことになった。
 設立時のメンバーのほとんどは合衆国の作曲家であるが、チャベスやレブエルタスといったメキシコの作曲家のほか、チリ、ウルグアイ、カナダの作曲家が含まれている。少なくとも中米・南米の作曲家が複数含まれていなければ、「パン・アメリカ」という名称を付けることはできないだろう。
 ただし、冒頭にも述べたように、この団体を結成した直後の1928年10月、主宰者のヴァレーズはパリへと拠点を移してしまう。一見すると無責任なようではあるが、ヴァレーズにとって大事なのは、自分の発表の場ではなく、パン・アメリカの作曲家が自らの作品を発表する場を整備すること、とりわけ若手の作曲家に活躍の機会を与えることだった。実際、パリ時代の彼は、計4回にわたってPAACのパリ公演を手配しているのである。
 ヴァレーズが不在になったため、翌1929年には、カウエルが代表代行および北アメリカ支部代表を務めることになった。さらに南アメリカ支部代表としてアルゼンチンのホセ・アンドレ、中部アメリカ支部代表としてチャベス、西インド諸島支部代表(キューバ、ジャマイカ、ドミニカ共和国など)にアメデオ・ロルダンが就任。正確な推移は不明ながらも、設立時から年毎にメンバー数は拡大し、最終的には1934年の終結時までに60人の作曲家の作品が演奏されるに至った。
 最初の演奏会は、1929年3月12日に開かれた。ヴァレーズは既にパリにいるので出席していない。プログラムは以下の通り。

 1929年3月12日、ニューヨーク、バーチャード・ホール

 アレハンドロ・ガルシア・カトゥーラ(キューバ):「2つのキューバ舞曲」
 カルロス・チャベス(メキシコ):「ソナチネ」「36」
 エイトール・ヴィラ・ロボス(ブラジル):「小さなピエロの子馬」「赤ちゃんの一族(第1番)」
 アメデオ・ロルダン(キューバ):「2つのキューバの大衆歌」「3つの歌」
 ラウル・パニアグア(グアテマラ):「マヤの伝説」

 ピアノ2台とソプラノ1名による、ごく小規模な演奏会ではある(パニアグアの「マヤの伝説」は管弦楽曲だが、この日は作曲家自身がピアノ版を演奏した)。それでも、敢えて北米を避け、中米から南米にかけての様々な国の作曲家が並んだ選曲からは「パン・アメリカン」の気概が感じられよう。ただし、かつてのICGに比べると、モダンな色が後退していることも明らかではある。
 このあと、1934年までにPAAC主催の演奏会は19回を数えるが*19、そのすべてについて詳述するスペースはないので、重要と思われる演奏会をかいつまんで紹介していきたい。
 まず注目されるのが、1931年3月10日にニュースクールで行われた第3回演奏会である。アドルフ・ワイスの指揮によるこの演奏会では、北アメリカの3人(ディーン・ルディヤー、ワリングフォード・リーガー、アドルフ・ワイス)、そしてキューバの2人(ペドロ・サンファン、アメデオ・ロルダン)による作品が紹介されているのだが、この日の最後に演奏されたのがロルダンの「リトミカ」だった。実はこの曲は、後述するように、おそらくヴァレーズにきわめて大きな影響を与えた点で大変に重要である。また、指揮のアドルフ・ワイスはアメリカ人作曲家だが、父親がブゾーニの弟子、そして本人はベルリンでシェーンベルクに師事したという経験をもつ人物。彼はこの時期から長く、PAACの書記を務めることになった。

■「ヨーロッパ・ツアー」
 1931年と32年には、2年連続でパリでの演奏会が組まれた。いわば「ヨーロッパ・ツアー」というわけだが、これはもちろん主宰者のヴァレーズが当時はパリに拠点を置いていたからにほかならない。ただしツアーといっても、音楽家は指揮者のスロニムスキーひとり。あとの演奏家は全て現地で調達するという形である。スロニムスキーは当時を回想して、次のように述べている。

パン・アメリカン作曲家協会は、チャールズ・アイヴズほかの資金援助を受けて運営されていましたが、私をヨーロッパまで送り、アメリカのモダニストたちの管弦楽作品を指揮させてくれたのです。ちょうどヨーロッパに比べてドルの価値が高かったこともあり、比較的安い値段でパリ、ベルリン、そしてブダペストでオーケストラを借り、特別演奏会を開くことができたのです*20
 あの大恐慌の後においても、ヨーロッパ通貨に比べてドルは有利な条件にあり、これを背景にして「ツアー」が可能になったというわけである。ちなみに、通算としてはPAACの第4回演奏会にあたるパリ公演から大きな役割を果たすようになったのが、指揮者・作曲家・批評家と多才な顔を持つ、このニコラス・スロニムスキー(1894-1995)である。
 ロシアのサンクトペテルブルクに生まれたスロニムスキーは、1923年にアメリカに移住。ボストン交響楽団でクーセヴィツキ―のアシスタントを務めたのち、1927年にボストン室内管弦楽団を組織し、同時代音楽を積極的に取り上げた。そして「パン・アメリカン作曲家協会」と出会い、アイヴズやヴァレーズの初演を次々に手掛けるようになる。これは双方にとって幸せな出来事だった。協会側にとっては、信頼し得る「(事実上の)常任指揮者」がいることは心強いし、一方のスロニムスキーもPAACの仕事を通じて現代音楽指揮者としての地位を確立していったからだ。ICGの守護神がストコフスキーであったとすれば、PAACを演奏面で支えたのがスロニムスキーだった。
 パリにおける1931年6月6日の第4回演奏会ではスロニムスキーの指揮によって、ワイス「アメリカン・ライフ」、アイヴズ「ニューイングランドの三つの場所」、ラッグルス「人間と山」、カウエル「シンクロニー」、ロルダン「レバンバランバ」といった楽曲が紹介された。もちろん、全てがパリ初演である。
 そして5日後、6月11日の第5回演奏会は、やはりスロニムスキーの指揮でペドロ・サンファン(キューバ)、チャベス(メキシコ)、サルセード(アメリカ)、カトゥーラ(キューバ)といった中米の作曲家の作品、そしてワリングフォード・リーガー(アメリカ)、そしてヴァレーズの「アンテグラル」が演奏された。果たして批評はどうだったか。
 パリの批評家ヴュイエルモーズは「エクセルシオール」誌で、以下のような批評を綴っている。

……そしてついに――それは2夜の演奏会の頂点といえる瞬間だったのだが――我々は、ヴァレーズの「アンテグラル」を聴くことができた。これは新しい管弦楽法の問題、そして論理的な作曲のあり方を問う作品である。……科学的なタイトルにも関わらず、この作品は決して不可解ではなく、純粋に知性に訴えるものだ。今回我々に与えられた曲の中でも、これはおそらく、もっとも深く人間的である。実際、この作品は純粋な音色の中で本来的な抒情を解放しているのである。とてつもない可能性がここにはある。エドガー・ヴァレーズは、新しい芸術に関する予言、そしてまだ知られていない表現のモードを我々に教えてくれる*21
 アメリカ時代には「犬の鳴き声や夜中の猫の喧嘩」「動物園」「路面電車」などと評された作品が、絶賛されているではないか。しかもヴュイエルモーズだけではない。ボリス・ド・シュレーゼルは「『アンテグラル』によって、音楽はいわば空間的なリアリティを獲得したのである。それは時間の中で展開するのではなく、空間の中に存在しているというべきだろう」と述べ、さらにアレクシス・レミゾフは「私を最初から最後まで圧倒したのは、ヴァレーズの幾何学だった」と言う*22
 全てがこうした反応ばかりではなかったのだろうが、1930年代のパリという、新しい芸術にきわめて寛容な土地は、このようにヴァレーズを評価する余地があった。作曲家自身、評価に我が意を得た思いだったに違いない。
 翌1932年のPAACパリ・ツアーは、2月(第7回、第8回)に行われた。
 この2回もスロニムスキーが指揮しているが、会場はサル・プレイエル、演奏はパリ交響楽団(パリ管とは異なる団体、1938年に消滅)のメンバーという、なかなかに贅沢かつフォーマルなものである*23。実際、これは華やかな演奏会だった。第7回(2月21日)にはバルトークが登場して自作の「ピアノ協奏曲1番」を演奏し、さらに第8回(2月25日)にはヴァレーズの「アルカナ」が演奏されたほか、どういう事情かは不明ながらもアルトゥール・ルビンシュタインが登場してブラームスの協奏曲(1番か2番かは不明)を演奏しているのだ。この第8回にはPAACのメンバーではないミヨー作品も取り上げられているから、かなり異例といってよいのかもしれない。
 残念ながら、この際のハインリヒ・シュトローベルによる「アルカナ」評は、ニューヨーク時代のそれを思わせるものである。「……誰の耳も、もはやこの音楽にこれ以上耐えることはできなかった。これは音楽とは何の関係もないシロモノだ。驚きもないし、喜びもない。単に意味がない作品だ」*24。先には珍しく好評を紹介してみたが、当然ながらヨーロッパといえども、大多数の反応はこちらの方だったと見た方がよいのだろう。
 パリ公演のあと、1932年3月5日にはベルリンで演奏会が行われており(第9回)、やはりスロニムスキーの指揮でサンファン、リーガー、ルース・クロフォード、ロイ・ハリス、チャベス、カトゥーラらの作品が紹介された。
 そしてなんといっても注目されるのは翌1933年の4月、キューバのハヴァナにある国立劇場で2度の演奏会が行われていることである。ここにいたって「パン・アメリカン」という名前は本質的な意味を持つにいたる。
 しかし、まず4月23日(第13回)、スロニムスキー指揮で紹介されたのは、なんとモーツァルト(セレナード)、シベリウス(エン・サガ)、ガーシュイン(キューバ序曲)、ロイ・ハリス(アメリカ序曲)、そしてムソルグスキー(ラヴェル編「展覧会の絵」)というプログラム。つまりはまだ現代音楽に慣れていないキューバの聴衆に、まずは名曲コンサート風のものをあしらったということなのだろう。一週間後の4月30日(第14回)の演奏会は、これよりは進化しているものの、やはり折衷型で、以下のようなラインナップである。

1933年4月30日、ハヴァナ、国立劇場

バッハ:管弦楽組曲第2番
シェーンベルク:映画の一場面への伴奏音楽
ヴァレーズ:オクタンドル
アーサー・ブリス:「会話」からの3楽章
レブエルタス:コロリネス
コープランド:劇場のための音楽

 「パン・アメリカン」という性格は薄くなっているものの、それなりにモダンな作品が並んでいることが分かる。やや不思議なのは、これまで頻繁に演奏されてきたキューバ人作曲家カトゥーラやロルダンの作品が入っていないことで、この選曲から判断するに、ハヴァナの演奏会は中南米の作曲家の作品よりも、ともかく最先端のモダンな音楽を紹介するという点にアクセントが置かれていたのかもしれない。
 この時点で、既にPAACのメンバーとしては、ウンベルト・アジャンデ(チリ)、ホセ・アンドレ(アルゼンチン)、ジョン・ベッカー(アメリカ)、ヘンリー・ブラント(アメリカ)、アルフォンソ・ブロッカ(ウルグアイ)、アレハンドロ・カトゥーラ(キューバ)、リチャード・ドノヴァン(アメリカ)、エイトール・ヴィラ=ロボス(ブラジル)、ラウル・パニアグア(グアテマラ)、カルロス・ペドレル(ウルグアイ)、ワリングフォード・リーガー(アメリカ)、アメデオ・ロルダン(キューバ)、ペドロ・サンファン(キューバ)などが正式に加わっており、開始時に比べても、さらに中南米の作曲家が増えていることが分かる。
 ところで、こうした「汎アメリカ主義Pan Americanism」は、当時の「善隣外交Good Neighbor Policy」と結びつけて考えられることもある*25。善隣外交とは、1933年に成立したローズヴェルト政権が打ち出した、ラテンアメリカ諸国との国際協調、安全保障などの政策である。この意味でPAACは当時のアメリカの政策と呼応するものだったが、善隣外交がやがて中南米に傀儡政権を作るための方便となっていったのに対して、当然ながらPAACとそうした考えは無縁だった。
 さて、当然ながら、これら「外国」での演奏会の合間にはニューヨークで演奏会が行われている。基本的な場所となっているのは相変わらずニュースクールであるが、時にはカーネギー・ホール(1933年2月6日、第11回)、スタインウェイホール(1933年3月6日、第12回)、タウンホール(1934年4月15日、第18回)なども使われた。
 かくしてPAACは1929年に1回、1930年に1回、1931年に3回、1932年に5回、1933年に7回、と順調に演奏会の回数を増やしてゆき、1934年に2回の演奏会を開催して終焉することになる。

■PAACの終焉
 ヴァレーズは1933年10月、足掛け5年のパリ滞在を終えてニューヨークに帰還した。
 代表の帰国をきっかけにして、PAACは33年の11月から12月にかけて、ニュースクールにおいて矢継ぎ早に3回の演奏会を行ない(このうち12月11日に行われた第17回の演奏会では、フリッツ・ライナーが指揮者として登場している)、さらに翌34年の第18回演奏会(1934年4月15日)では、「エクアトリアル」を初演するとともに、前年に作曲した「イオニザシオン」を再演するなど、ヴァレーズ作品を急遽取り上げるようになる。
 団体は設立者ヴァレーズという確固とした核を得て、ますます発展を遂げるかと思われた。
 そうならなかった第一の原因は、ヴァレーズ自身がアルトーとの共同作業(「ひとりぼっち/天文学者」)で頭がいっぱいだったことにある。彼はただひたすら、アルトーの台本を待ちわびていた。この1934年2月にアンドレ・ジョリヴェに送った書簡の中には「パリは今や遠く、死んだ街のように思えます。私はアルトーが私のことを忘れていないことを望んでいます」という一節がみられる*26。さらに、ヴァレーズ自身の鬱状態が徐々に深刻化したこと、大恐慌時代下という背景の中で団体の経済状態が悪化したこと、なども理由だろう。先のスロニムスキーの述懐にもあったように、アイヴズ(よく知られているように、彼は自ら友人と興した保険会社の副社長を務めていた)の豊富な資金援助があったことは間違いないものの、他のスポンサーの状況は不明で、おそらく「ヨーロッパ・ツアー」を終えてからは、この団体は資金的に楽ではなかったはずである。
 かくして1934年4月22日の第19回演奏会がPAACの最後の演奏会になった。もっとも、この最終回は通常とはまったく異なり、モダン・ダンスの祖のひとりマーサ・グレアムとその劇団による、ダンスと音楽のコラボレーションが行われた点で興味深い。
 コラボレーションがどのような経緯で実現したのかは分かっていない。しかし、マーサは1931年に発表した「原始的神秘Primitive Mysteries」の振り付けで高い評価を得てから、徐々にアメリカという土地、それも先住民を始めとするプリミティヴな素材に惹かれるようになっており「パン・アメリカ」というコンセプトとはきわめて相性がよかったことは間違いない。当日は、以下の全ての曲にマーサらのダンスが付された。

 1934年4月22日、ニューヨーク、アルヴィン・シアター

ヘンリー・カウエル:4つのカジュアル・デヴェロップメント
リーマン・エンゲル:エクスタシス―二つの抒情的断片―
ルイス・ホースト:原始的神秘
エイトール・ヴィラ=ロボス:原始的カンティクル
ワリングフォード・リーガー:熱狂的なリズム
エドガー・ヴァレーズ:アンテグラル―先祖代々の奇跡の形―

 まず気づくのは、ブロードウェイの作曲家でもあったリーマン・エンゲル作品、そしてマーサ・グレアムのパートナーであるルイス・ホースト作品が入っていることである。つまりこれらはもともと、マーサのためのダンス作品ということになろう。
 しかしそれ以外の作品は、まさに「現代音楽」とダンスのコラボレーションであり、とりわけヴァレーズがわざわざ「先祖代々の奇跡の形」というサブタイトルを「アンテグラル」に与えている点が注目される。果たして、このあとマーサ・グレアムは、たびたび「アンテグラル」を自らのリサイタルでとりあげることになるのである*27。さらに1930年代後半になると、同じくモダン・ダンスのハンニャ・ホルムがヴァレーズの「イオニザシオン」をとりあげて好評を博すなど、ちょっとした現代音楽とモダン・ダンスのコラボレーション・ブームがアメリカに訪れる(実際、1930年代のアメリカの新聞でヴァレーズ記事を見てゆくと、30年代後半には新作がないこともあって、ほとんどがダンス関係の記述になってしまう)。
 かくして、PAACの歴史は幕を閉じた。全19回の主催演奏会の中で、取り上げられた作品が多い作曲家を挙げれば、以下のようになる。

9回:アイヴズ
8回:ロルダン
7回:カトゥーラ、チャベス
6回:ヴィラ=ロボス、カウエル、リーガー、ヴァレーズ

 アイヴズの演奏回数が多いのはやや意外だが、これは何よりもカウエルとの密接な関係によるものであり、さらには先述したように、財政面でパトロンとして援助を為していることにもよるだろう。他はキューバのロルダンとカトゥーラ、メキシコのチャベス、ブラジルのヴィラ=ロボス、そしてアメリカのカウエル、リーガー、ヴァレーズという具合に続く。とりわけロルダンとカトゥーラにとって、このPAACという場は作曲家として広く認知されるための絶好の舞台だった。
 では、PAACとはヴァレーズにとって何だっただろうか。
 そもそも自ら立ち上げたとはいえ、すぐにパリへと拠点を移したこともあって、ヴァレーズはこの団体とそれほど密接には関わっていない。もちろん4度のパリ公演においては主導的な役割を果たしたはずだが、その他の演奏会では選曲にもさして関わってなかったはずだ。そしてまた代表代行のカウエルも、1931年と1932年にはそれぞれ8か月をベルリンのホルンボステルのもとで過ごしているから、つまりこの団体はほとんどの場合には、若手から中堅の作曲家による自主的な活動に近いものだったと考えられるのである。そして、ヴァレーズもチャベスもカウエルも、むしろそれを望ましいことだと考えていたはずだ。何よりもPAACは北中南アメリカの作曲家たちが活動するためのプラットフォームとして設立されたのだから。
 他方、ヴァレーズは、PAACという場において、少年期からはぐくんできた中南米への想いにひとつの形を与え、さらには「イオニザシオン」と「エクアトリアル」という中期の重要作品を発表することができた。これらはいずれも、主にパリで作曲されたものではあるが、グアテマラの神話を用いた「エクアトリアル」にも、そして打楽器のみによる「イオニザシオン」にもPAACの影がはっきりと刻印されている。
 このうち、後者における「PAACの影」については詳しく説明しなくてはならないだろう。先にも少し触れたが、「西洋音楽最初の打楽器のみの作品」と紹介されることの多い「イオニザシオン」には、明らかにひとつのモデルが存在する。というのもヴァレーズは、キューバの音楽、とりわけ作家アレホ・カルペンティエールの盟友アメデオ・ロルダンの作品から、直接的な着想を得ていた可能性が高いのだ。

■剽窃か影響か:ロルダンの「リトミカ 第5番」という先駆
 1928年のフランス亡命時、ヴィラ=ロボスを介してヴァレーズと知り合ったカルペンティエールは、その後「ひとりぼっち/天文学者」の制作を共同で試みるに至るわけだが、のちにノーベル賞を受賞することになるこの作家は、音楽学者・音楽評論家としての顔も持っている。
 彼は音楽を能くする家系に生まれ(父はカザルスにチェロを師事したこともあったという)、幼いころからピアノを学ぶとともに、後にはパリで音楽理論を学んだ。1920年代に入ると文学活動のかたわら、音楽評論を開始。ラヴェルやストラヴィンスキーなどのモダニズム音楽について論じた書物の中では、「春の祭典」をキューバ音楽のナショナリズムの理想として掲げている*28。また、カルペンティエールは1926年に「新しい音楽Musica Nueva」と名付けた、キューバ初の現代音楽団体を結成し、ドビュッシーやスクリャビンなどの「現代音楽」をハヴァナで演奏することに尽力した(このグループの活動はヴァレーズのICGに影響されたものではないだろうか)。いずれにしてもこうした中で、やがて彼はキューバの音楽の独自性とは一体何なのかについて深く考えるにいたる。このあたりは、日本を含む西洋音楽「後進国」が必ず通る道といえようか。
 キューバ独自の音楽を考えるにあたって、彼がパートナーとしたのが作曲家のアメデオ・ロルダン(1900-1939)だった。『ニューグローブ音楽辞典』にも名前が記されていないマイナーな作曲家ではあるが、その軌跡はなかなかユニークだ*29。キューバ系の母親とスペイン人の父の間にパリで生まれ、音楽教育はスペインのマドリード音楽院で受けた。その後、作曲家を志す一方でヴァイオリニストとしても活躍し、ヨーロッパ中で演奏を行う。彼は1919年には祖国キューバに移住し、ハヴァナ管弦楽団のコンサートマスターを務めるとともに作曲家として作品を発表するようになった。カルペンティエールと同じくロルダンも、やはりこの20年代にはハヴァナで西洋音楽とキューバ音楽の接点を見出そうと奮闘努力していたわけである。
 これはもちろん、キューバの真の独立を目指す努力でもあった。長い間、スペインの植民地であったキューバは、1902年には一応「独立」を遂げるが、それは同時にスペインからアメリカの保護下に入ったことを意味していた(1903年にはグアンタナモに、現在に至るまで存在するアメリカ海軍基地が建設されている)。カルペンティエールは1925年に大統領に就任したマチャドの独裁と対米従属政策に反対する運動を繰り広げており、その結果、政治犯として逮捕されて刑期を過ごすことになるのだが、その後フランスに亡命してヴァレーズと出会ったわけである。
 重要なのは、カルペンティエールとロルダン、そしてPAACのメンバーであるカトゥーラがこの時期のキューバで興隆しつつあった「アフロ・キューバ運動」の中心人物であったことだ。これは1920年代から30年代にかけてのキューバにおける、ナショナリスティックな芸術運動である。音楽の分野においてはタンゴ、コンガ、コンパルサ、ルンバといった黒人音楽、大衆音楽を積極的にクラシック音楽に取り込もうとする運動でもあり、つまりこれは、メキシコの壁画運動やチャベスの音楽活動に対応する、いわばキューバの「インディヘニスモ」運動なのである。やがてカルペンティエールは、その名も『キューバの音楽』という書籍を著して、この国の音楽文化の独自性を強く主張するようになるだろう。
 ロルダンが1928年に作曲し、のちにPAACの第4回演奏会(1931年6月)で取り上げられた「レバンベランバ」は、カルペンティエールの台本に作曲された「アフロ・キューバン・バレエ」のための音楽である(他にも二人のコラボレーションには、アメリカ支配を揶揄した「アナキージェの奇跡」1929がある)。こうした劇作品の延長線上で、やがてロルダンはキューバの民俗音楽を取り入れた「リトミカ」のシリーズを手掛ける。このシリーズは、1番から4番までがピアノと木管五重奏、そして5番と6番がパーカッション・アンサンブルのために書かれており、いずれも作曲は1930年。ヴァレーズが「イオニザシオン」を発表する3年も前のことである。
 このうち問題の「リトミカ第5番」は、1930年10月15日、サンフランシスコのYMCAで開かれた「ニュー・ミュージック・ソサエティ・コンサート」で、ペドロ・サンファンの指揮のもとで初演されている。メンバーから見ると、この演奏会は実質的にはPAACの共催に近い形だった可能性が高いが、ただし他のプログラムはシェーンベルク「月に憑かれたピエロ」、そしてカール・ラッグルス作品とペドロ・サンファン作品だから、どう考えても当夜の中心は「ピエロ」にあったはずだ。
 それでもわずか3分足らずの「リトミカ第5番」は評判がよかったものと思われる。クラベス、マラカス、ボンゴなど13の打楽器が必要という面倒な作品にも関わらず、翌年の1931年3月10日のPAAC第3回演奏会(ニュースクール)で、ルディヤー、リーガー、ワイス、サンファンの作品と共に取り上げられているからだ。もちろんヴァレーズはこの時、パリにいるために実演を聴くことはなかった。しかしパリにはロルダンの盟友カルペンティエールがおり、ヴァレーズと密接なコラボレーションを続けていた。カルペンティエール自身は、のちに次のように述べている。

ヴァレーズはラテンアメリカの作曲家、それもとりわけキューバの作曲家を気に入っていたのですが、私が台本を書いた「アナキージェの奇跡」と「レバンベランバ」のスコアを見て、特にロルダンに興味を示していました。彼はロルダンの音楽を本当に愛していたのです。ただしヴァレーズが、キューバの民俗音楽に影響を受けたかといえば、それは疑問です。ヴァレーズにとって、こうした音楽は「かわいらしい」ものだったのだと思います。彼は単に、様々な打楽器の使用に魅了されたのでしょう。これはすなわち様々な「音色」の動員ということです。ギロ、クラベス、マラカス、ボンゴ、こうした打楽器群は彼を驚かせましたが、それ以来、現代の管弦楽の中に標準的に装備されるようになりました。当時のヴァレーズは図形による打楽器のための記譜法を研究していました(右手でマラカスを振る、左手でマラカスを振る、ティンパニの様々な用法についての記号など……)*30
 この記述を信じれば、ヴァレーズはロルダンの音楽をよく知っており、とりわけその打楽器用法に注目していたことになる。また、カルペンティエールは別の場所でも、ヴァレーズが「ロルダンの驚異的な打楽器用法」について述べていたと証言している*31。とするならば、PAACが絡んだ二度の演奏会で取り上げられているロルダンの「打楽器アンサンブルのみによる」作品をヴァレーズが知らなかったとは、到底考えられないのである。少なくとも彼は、PAACの第3回演奏会があった1931年には、既にこの作品についてかなりの情報を得ていたと想定してよいのではなかろうか。
 もちろん、上記の引用でカルペンティエールが慎重に語っているように、ヴァレーズがロルダンの音楽そのものに直接影響を受けたとは考えられない。「リトミカ第5番」は、あくまでも「アフロ・キューバン運動」のひとつの形として提出された作品であり、拍節は最後まではっきりしているし、民俗音楽、とりわけルンバやソンのアレンジといえるような音楽ではあるのだから(実際、冒頭には「ソンのテンポで」とある)。あれだけモダンかつ破壊的な音楽をものしてきたヴァレーズが、これに影響を受けることはないだろう。
 しかしそれでも、打楽器のみ、という極端な編成はヴァレーズにショックを与えたはずだ。
 青年期から打楽器を偏愛し、その作品の中で常に打楽器の可能性を開拓してきた作曲家だけに、隙を突かれたような思いがしたのではないだろうか。実は、筆者がここまで想像をたくましくするのはヴァレーズ周辺の人物がみな、なぜか「イオニザシオン」の作曲年、そして打楽器アンサンブルという着想がいつ生じたのかについて、奇妙なほどのこだわりを見せているからでもある。
 例えば晩年のヴァレーズと数年を共にした伝記作者ウェレットは著書の中で「イオニザシオンは1929年に着手され、1931年の11月13日に完成した」と、他の曲では例がないくらい、細かい日時を記している(ロルダンの作品は1930年作曲なので、ヴァレーズが1929年に着手していれば、その影響はないことになる)。その上で、ロルダンの作品は確かにヴァレーズに先行するものではあるが、しかし「リトミカ」はキューバの民俗音楽、とりわけルンバに立脚した軽い作品であるから、やはり西洋シリアス音楽の中で最初に「民俗音楽に立脚しない」打楽器アンサンブル曲を作ったのはヴァレーズに他ならないと主張する。さらに、そもそも民俗音楽的な打楽器作品でもよいのならば、中国でも日本でもインドでもジャワでも、もっと古い例はいくらでもあるではないかと、続けるのである*32
 しかし重要なのは、民俗音楽に立脚しているとはいえ、現代作曲家のロルダンが五線譜でそれをあらわし、明らかに「現代音楽作品の発表」というコンテクストの中で提出していること、そして事前にヴァレーズがこの作品を知っていたらしいこと(少なくともロルダンの打楽器用法に着目していたこと)ではなかろうか。
 一方のヴァレーズも、晩年のインタビューで次のように述べている。

私は、徐々に内的なリズムと拍の関係について興味を持つようになりました。まさに「イオニザシオン」で示したように。私はまた、構造的、建築的要素としての打楽器の音響アスペクトに強く惹かれていたのです。ただし、「イオニザシオン」は私の最初の打楽器作品ではありません。私は既にその類の作品のいくつかをベルリンとパリで試みていました。とりわけ私がベルリンで指揮していた合唱との関連においてね。これらの楽曲では、私自身が集めた特殊な打楽器群が使われており、合唱団員は時にそれを演奏するという具合だったのです*33
 ヨーロッパ時代のことを語りだすと、もはやほとんど証人がいないこともあって、途端に話が大きくなるのがヴァレーズの習性だと言ったら、意地悪に過ぎるだろうか。
 しかし、ベルリンで組織していた合唱団(「交響的合唱団」)において、そのようなことがなされていたという記録は、筆者の知る限りどこにもない。そもそも合唱団において、ヴァレーズ自身の作品を演奏したという記述さえないのである(実際、彼はなぜかひとつも合唱曲を書かなかった)。もちろん嘘だと決めつけるわけにはいかない。合唱団に打楽器を持たせて演奏したことがあったとしてもおかしくはないだろう。しかし、仮にそうだとしても、それを「イオニザシオン」以前の「打楽器作品」として勘定するのは強弁にすぎる。
 そして弟子のチョウ・ウェン・チュン。彼は自らが全面的に校訂に関わったリコルディ社の「イオニザシオン」楽譜のスコア最後に、小さく「Paris, November 13, 1931」と記している。筆者は自筆譜のマイクロ・フィルムを所蔵しているのだが、この文字はもともと書かれておらず、すなわちこれはチョウが後に書き込んだものなのだ。もちろん初版以来の他の社からの「イオニザシオン」にはこうした記載は一切ないし、リコルディ社のシリーズにしても、作曲完了の日付が入っているのは、この曲のみなのである。日付が事実だとしても、いかにも奇妙ではないだろうか。
 作曲終了を「1931年11月13日、パリ」と細かく記すのは、初演された1933年3月のはるか前に、しかもアメリカから離れたパリで作品は既に完成していたということを強調したいものとも考えられる。実際、1931年12月17日付のサルセード宛の手紙で、ヴァレーズは「イオニザシオン(私の打楽器作品のタイトルです)はうまく行きました。謎めいており、統合的で、強力、そして簡潔です。構造についていえば、驚くほどにメカニカルです。私が自ら愛する美点といえば、節度です」*34と書いているから、この頃に完成していたことは確かなのかもしれない。しかしそれでも、ロルダンが「リトミカ第5番」を完成してから1年以上、サンフランシスコで初演してから10ヶ月以上が経過している。
 ちなみに、1931年11月に完成していたとすれば、初演まで2年弱を要したことになるが、ヴァレーズの作品の中で、完成から初演までこれほどに間が空いている作品は、初期の巨大な「アメリカ」(初稿完成1921年、初演1926年)を除けばひとつもない。

■「イオニザシオン」の音響世界とサイレンの使用
 しかしながら、筆者は「イオニザシオン」の独自性や前衛性に水を差そうという気は全くない。
 むしろ逆に、この作品はヴァレーズの稀有な想像力とオリジナリティが結晶した、まぎれもない傑作だと考えている。彼がロルダン作品に「西洋音楽史における初の打楽器アンサンブル作品」という称号を譲ったとしても、そしてそこから大きなヒントを得ていたとしても、まったく些事にすぎない。何よりこの2作品は、音楽としてはまったく異なった相貌を持っているからだ。  
 「イオニザシオン」は、よく知られているように13人の奏者が打楽器を演奏する6分ほどの作品である。平均律を越える音楽を長い間構想していたヴァレーズにとって、打楽器のみで作品を構想するというアイディアは(それがロルダンからもたらされたものであったとしても)心躍るものだったに違いない。ちなみに、ヴァレーズ作品の打楽器パートが、1920年代後半に急速に拡大していることは念のために指摘しておいてよいだろう。「アメリカ」初稿(1921)でティンパニを含めて6人ほどを要した打楽器パート(ただし指定がないので楽団によって人数の判断は異なる)は、「アルカナ」(1927)で7人の指定がなされ、「アメリカ」改訂稿(1929)ではティンパニ含めて10人に膨れ上がっている。とりわけ「アメリカ」の改訂稿は、管弦楽の人数を大幅に減らしたスリム版であるにも関わらず、打楽器パートだけが逆に増えているのだ。これらを考えてみると、ロルダンの作品と出会わなかったとしても、ヴァレーズが打楽器のみによる作品を構想するのは必然だったのかもしれない。
 全部で37種に及ぶ打楽器は、およそ次のように分類され得るだろう。

・膜質打楽器:小太鼓、大太鼓、ボンゴなど(ライオンズ・ロアーもここに含まれるだろうか)
・木質打楽器:クラベス、ギロ、チャイニーズ・ブロック、カスタネット、鞭など
・金属打楽器:トライアングル、タム・タム、グロッケンシュピール、シンバルなど
・その他:ピアノ、サイレン

 このうち、ピアノは打楽器として、主に終盤における低音部クラスターを担当する。
 多くの分析者が指摘するのは、ヴァレーズがこの音色グループを明確に意識しており、それぞれを交互に、あるいは重層的に使い分けているということである。ジャン=シャルル・フランソワは、このグループ分けを念頭に置いた上で、打楽器が醸し出すテクスチュアを3つに分類している。

 第1構造:ゆっくりとした、そして単一のリズム型が二つの対照的な音色で扱われる(例えば低音の膜質楽器と金属楽器)。その背景で混合した音響が響く(サイレンと金属楽器や膜質楽器のロールなど)。
 第2構造:二つ、あるいは三つ、あるいはそれ以上のポリフォニックなリズム型、それも素早くシャープで輪郭のはっきりしたリズム型が、短い音価の範囲で輪郭づけられ、対照的な二つの(のちには三つの)音色を交替させる(スネアの響線あり、響線なし、木質楽器、そして後には高音の金属楽器など)。
 第3構造:モノフォニックなトゥッティが合唱のような大音量ではっきりと立ち上がり、音色が混合される(木質、金属、膜質など)*35

 フランソワの分析によれば「イオニザシオン」全体は、これら3つの構造が入れ替わり、さらには重ねられる過程として解釈できる。つまり4種の楽器分類と3つのテクスチュア構造が「メカニカル」に絡み合いながら進んでいくというわけである。そしてリズム・モティーフの点からみると、チョウやスロニムスキーが述べているように、楽曲全体のフォルムは明らかにソナタ形式的な第1主題、第2主題とその展開や再現として捉えることができる*36。となれば、まさにここでは音色・リズム・テクスチュアの様々な組み合わせが披露されているということになろう。ヴァレーズはこうした仕掛けを生かすために、ジュリアード音楽院で打楽器を教えていたモリス・ゴールデンバーグに助力を乞い、もっとも効果的と思える楽器配置をスコア序文で提案している。
 先のサルセード宛の書簡のなかで、ヴァレーズは自らの「節度」を好んでいると述べているが、これはおそらく「イオニザシオン」が打楽器のみによる作品であるにも関わらず、リズムの原初的な推進力に頼った民俗的作品ではなく、微細な音色やリズムの差異による織物であることを示すものといえる。この意味でヴァレーズ作品は、ロルダン作品や、のちにロルダン/ヴァレーズの影響で書かれたと思われる、チャベスの「6人の打楽器奏者のためのトッカータ」(1942)とは本質的に異なった性格を持っているといってよい。
 もうひとつ、実際の聴覚的印象として、ロルダンやチャベスの作品とヴァレーズ作品をまったく異なったものにしているのが、サイレンの使用である。様々な音色とリズム型をたたき出す打楽器の間を、まるで蛇のようにうねうねとサイレンの響きが遊歩してゆく音風景は、「イオニザシオン」を決定的に特徴づけるものだ。そして面白いことに、ヴァレーズのサイレンに対する考え方は、20年代から30年代にかけて徐々に変化していったようなのである。
 サイレンは1819年、フランスの物理学者カニヤール・ド・ラ・トゥールによって開発された音響機器である。後にヘルムホルツなどによって改良が重ねられると(ヴァレーズはヘルムホルツの書物において、サイレンの非平均律的な性格に惹かれるようになった)、その特徴的な音色、そしてコンパクトでありながら強力な音響を発生させることができるという性格によって、周知のように時報や警報などに用いられるようになった。しかし当然ながらヴァレーズはサイレンを、警報のコノテーションとしてではなく、あくまでも非平均律の領域を横断する音のカーヴのために「アメリカ」(1922)、「ハイパープリズム」(1924)、「イオニザシオン」(1931)の3曲で使用した。これらのスコア序文の楽器編成では、Sirenの項目に以下のような指定がある。

① Amériques(1台)
 「ニューヨーク消防庁で用いているのと同じようなもの」(1921初稿)
 「深く、とてもパワフルな音を持ち、瞬時にストップできる機能があるもの」(1929改訂稿)
② Hyperprism (1台) ※特に指定なし
③ Ionisation(2台) sirène clare, sirène grave
 「Sterling Type H (Part No.73 PU, PB) 、手で操作でき、親指でストップの操作ができるもの。もしも用意できない場合にはテレミンで代用可能」

 すなわち「アメリカ」を書いた当初、単に深く大きな音を発するサイレンを求めていたヴァレーズは、その後、この「イオニザシオン」に至ると明るい音(高音)、重い音(低音)の二種類のサイレンを必要とするに至るのである。スコアには「スターリング社のH型サイレン」という指定がみられるが、1934年に「イオニザシオン」が再演された演奏会(4月15日、PAAC第18回演奏会)の直前に、おそらくはサイレンのレンタルを求めたヴァレーズに対する、スターリング社(The Sterling Siren Fire Alarm Company, Inc)からの3月15日付の返信が残っている*37

 エドガー・ヴァレーズ様
 当社のH型サイレンに関する、3月12日付の手紙を拝受しました。私どもは現在、この型については一種類のみを製造しています。これはもちろん親指によって音を止めることができるものです。
 サイレンはハンドルを回すスピードによって様々な音の高低を得ることが可能です。早く回せば高くなりますし、遅く回せば低くなります。この調整によって、どのようなお好みの音高も得られるのです。当社からこのサイレンを二台お貸しいたしますが、必ずやお役にたつものと信じております。ご質問がありましたら、いつでも喜んで伺います。
敬具
M.C.アームストロング



 文面から察するに、おそらくヴァレーズはH型サイレンの「明るい高音」と「重い低音」の二つを求めたのだろう。しかしメーカー側にしてみれば、音高はハンドルのスピードによって決定されるわけだから、ヴァレーズがこの二種を求める意味が理解できなかったに違いない。結局、こうした楽器の調達を含めて、その後のヴァレーズにとって、サイレンはきわめて不安定な楽器となっていった。
 ここで注目されるのは、先の「イオニザシオン」のスコアに「もしも用意できない場合にはテレミンで代用可能」と記されていることだ。この1930年代、電子楽器は徐々に発展の段階を迎えており、ヴァレーズも徐々にその可能性に自らの想いをたくすようになる。こうして、きわめて中途半端なサイレンという楽器を、その後ヴァレーズは「イオニザシオン」を最後に放棄することになったのだった。

■モダニストとしての交感:「新しい音楽に向かって」
 これまで、ヴァレーズがチャベスや中南米の作曲家から様々な影響を受けたことを記してきたが、逆に彼らはヴァレーズからどのような影響を受けたのだろうか。その一例として最後に、30年代の盟友チャベスによって書かれたひとつの不思議な本を取り上げて紹介したい。
 PAACの運動を終えたチャベスは、1937年初頭にアメリカの出版社ノートンから『新しい音楽に向かってToward a new music』と題された書物を出版する*38
 この書物は、サブタイトルの「音楽と電気music and electricity」からも察せられるように、大部分が1930年代の新しい音響テクノロジーに対する考察で占められている。インディヘニスモ作家としてのチャベスからは想像し難いものといえるが、実はこの書物はスペイン語で書かれた草稿を訳者が英語に直し、アメリカのみで出版されている。すなわちメキシコでは知られていない、チャベスのもう一つの顔がここにあるとも考えられよう。
 8章からなる書物の冒頭、チャベスは現代を科学文明の時代だと位置づけた上で、第2章「音楽と物理学」では、20世紀に入ってからの科学の発展が、いかなる形で音楽に新しい局面をもたらすのかについて論じている。この過程で提示されるのが電子(電気)楽器の可能性である。続いて第3章「音楽の生産と再生」では、最初に声楽から器楽への発展が音楽を変化させたことが指摘され、続いて後半で音楽を再生するアナログな装置としての記譜法について触れられる。この思考の経路はなかなかユニークだ。
 そして第4章「音楽再生における電子楽器」では、広義での電子楽器が二つに分けて考察される。第一はいわゆる電子楽器について、そして第二は録音機をはじめとする音響機器についてである。まず前者の歴史が自動ピアノも含めて詳述された後、後者の説明が1857年のレオン・スコットの「フォノトグラフ」 にまでさかのぼって為されているのだが、とりわけレコードに関する説明は詳細で、当時、このテクノロジーがまだ新鮮な感覚で迎えられていたことが伺える。
 そしてこの後に初めて、メキシコの音楽について言及がなされる。世界各地にそれぞれ固有の音楽があり、しかもそれらが日々変化していると述べた後で、チャベスはこう綴る。

……それはまさにメキシコの場合に顕著なのである。伝統的な音楽は失われかけており、現在のメスティソ音楽は新しい混合へと進んでいる。レコードは、継続されてきた伝統音楽の実像を保持することができる。レコードによって、我々は全ての国の音楽を保存しておくことができるだけではなく、あらゆる時代の音楽を保存できるというわけである。こうした偉大な音楽遺産は国から国へと拡がって行くべきだろうし、それは遠い人々を結びつけることにもなるだろう。音楽のすばらしい拡散、すなわち地理的・歴史的という二重の意味での拡散は、レコードによってのみ可能になる*39
 ここでのチャベスの見解には、インディヘニスモ/社会主義的な志向とモダニズム/テクノロジーへの希求という、一見すると相反する要素がひとつに融合していることが見て取れよう。続く第5章は「サウンド・フィルム」と題されて、映像と音楽のシンクロナイゼーションが語られた後に、第6章「ラジオ」では、演奏会におけるラジオの使用法、そして音楽の普及における役割が語られる。今から見れば、どうということのない議論だが1937年という時代を考えれば先駆的な論考に数えることもできるだろう。
 そして次回の連載で詳しく触れることになるが、実は驚くべきことに、これは同時期にニューヨーク・タイムズに発表されたエドガー・ヴァレーズの述懐とほぼ同じなのである。ICGおよび、パン・アメリカン作曲家協会での共同作業を思えば当然ながら、両者の思考はいたるところで交差している。そして書物は終盤に至って、さらにヴァレーズ的な課題を扱うに至る。第7章「音響生産のための電気装置」では電子的な音響合成の技術に加えて、平均律に制限されない音高と新しい音色(周波数の合成)への期待について述べられ、最後の第8章「新しい音楽に向けて」では、未来への夢想におぼれることなく、現在の音楽状況を変革してゆく希望が述べられて閉じられるのである。
 こうしてみると当時のチャベスの芸術観は、革命後のメキシコのインディヘニスモと1930年代のテクノロジーを背景にしたモダニズムを内包した点において、きわめて独特な様相を呈している。本質的にはこの二つの思想は相容れないはずだ。当然ながら、インディヘニスモは歴史を遡行しながら国家や民族のアイデンティティを確立しようとする試みであり、一方でモダニズムは未来に向けて国家の壁を取り払う運動と言えるからである。しかしチャベスの場合には、社会主義思想という大きな時代の流れと、そしてエドガー・ヴァレーズという触媒に触れることによって、不思議な形でこの二つが共存することになった。この二面性は、他の芸術ジャンルにおけるインディヘニスモ運動には決して見られないものであろう*39

■空白の12年間へ
 こうして、ICGに続いてヴァレーズがかかわったパン・アメリカン作曲家協会も終焉を迎え、ふたたびヴァレーズは自らの創作に孤独に対峙することになる。しかし1936年にフルートのための「比重21・5」を発表したあと、ヴァレーズはなんと12年という長きにわたって、ひとつも作品を発表せずに沈黙する。この沈黙は、実はひとつの未完作品と密接にかかわっている。「空間」と名付けられたその作品は、これまでのヴァレーズの経験と理想の全てを注ぎ込んだ大作になるはずであり、この時期のヴァレーズはただひたすらこの完成を夢見ていた。次回は、この知られざる未完作品に、未公開の一次資料を駆使しながら迫ってみたい。

*1 この時期のニュースクールにおける音楽活動に関しては、以下の文献にきわめて充実した記述がある。Sally Bick, “In the Tradition of Dissent Music at the New School for Social Research, 1926–33”, Journal of the American Musicological Society, Vol. 66, No. 1 (Spring 2013).
*2 この間の経緯については、紀平英作『ニュースクール:二〇世紀アメリカのしなやかな反骨者たち』(岩波書店、2017年)に詳しい。
*3 Bick, p.131
*4 鈴木康久はこの憲法の独自性を(1)土地収用と資源ナショナリズムに関する第27条、(2)反教会主義に関する第3、24、130条、(3)労働基本権を規定した第123条、の3点にみる。ちなみに最初の(1)は土地の所有権は国家にあると規定したもの。(2)は教会が教育に介入することを厳しく禁止したもの。そして(3)は8時間労働、最低賃金制度、女性や児童の保護、組合組織権、ストライキ権などをうたったものである。以下文献を参照。鈴木康久『メキシコ現代史』明石書店、2003年。
*5 1918年に発足したCROMはメキシコ初の全国的な労働組織であり、全国150万人の繊維労働者、港湾労働者、農民組織を従えていた。注目されるのは、この組織がアメリカ労働運動においてもっとも過激な闘いを繰り広げた世界産業労働者連盟(IWW)と連携をとっていた点である。連載の次回で触れるように、ヴァレーズはのちにIWWのテキストを作品内に用いようと画策することになる。
*6 田中敬一「1920年代メキシコの文化ナショナリズム:バスコンセロスと壁画運動」『紀要:言語・文学編』第38号、愛知県立大学、2006年、125頁。
*7 中原佑介『1930年代のメキシコ』メタローグ、1994年、29頁。
*8 同書、20頁
*9 Gerard Behague, “Indianism in Latin American Art-Music Composition of the 1920s to 1940s: Case Studies from Mexico, Peru, and Brazil” in Latin American Music Review Vol. 27/1, pp.28-37, 2006, p.31.
*10 Gerald Behague, Music in Latin America; An Introduction, (Prentice-Hall, 1979), p.42.
*11 Fernand Ouellette, Edgard Varèse (English translation, DaCapo Press, 1981), p.80.
*12 おそらくこうした点もあって、彼の軌跡を音楽家としてよりも政治家として捉えるゴロスティザは「……私は実際には作曲家としての彼が好きではないし、指揮者としての彼にも特に興味がない。しかし率直に言って、彼は扇動者として私を魅了する。私は彼を扇動者そのものと信じているのだ。音楽による、あるいはそのまま政治になり得るような扇動者だと」と述べている。しかし扇動者としての資質は、いかにもヴァレーズに似ている。以下を参照。Alejandro, L. Madrid, Sounds of the Modern Nation, music, culture, and ideas in post-revolutionary Mexico, Temple University Press, 2009, p.51.
*13 Aurelio De la Vega, “Latin American Composers in the United States” in Latin American Music Review vol.1/2, 1980, p.166.
*14 Carol A. Hess, “Silvestre Revueltas in Republican Spain: Music as Political Utterance” in Latin American Music Review vol.18/2, 1997, p.289.
*15 Ouellette, p.42.
*16 ジョリヴェとの往復書簡では、30年代後半に至るまでソヴィエト連邦という国名が頻出する。以下の文献を参照。Edgard Varèse, Andre Jolivet, Correspondance 1931-1965 (Contrechamps edition, 2002).
*17 ヴァレーズとリベラの交友はこの後も長く続き、1950年代になってもリベラはヴァレーズ邸をしばしば訪れている。ヴァレーズは後に次のように述べている。「彼は死ぬ前に一度ここへ来たんです。私が《ほら、芋虫がいるよ》と言ったら、彼、どうしたと思いますか? それを口に放り込んでたべちゃったんですよ」。以下文献を参照。M・ブルーメ「エドガー・ヴァレーズ:新しい音楽の古い人」『音楽芸術』1962年10月号、39頁。
*18 Deane L. Root, “The Pan American Association of Composers (1928-1934)” in Anuario Interamericano de Investigacion Musical, Vol. 8 (1972), pp.50-51.
*19 主催以外にも、ISCMやアメリカ各地の現代音楽組織との協同による演奏会がいくつかあり、それらを含めると倍近くの回数になるだろう。
*20 Root, p.54. ちなみに、ここでスロニムスキーが「ブダペスト」と述べている理由はよく分からない。少なくとも筆者が調べた限りではPAACはブダペストで演奏会を行っていないが、おそらくスロニムスキーが個人でブダペストに赴き、何らかの指揮をしたものと想定される。
*21 Ouellette,p. 107.
*22 Ibid.,107.
*23 当時、パリ交響楽団を振っていたのはピエール・モントゥーであり、またこの楽団の設立者のひとりはアルフレッド・コルトーであるから、ヴァレーズはこれらのコネクションからオーケストラを借りることができたのかもしれない。
*24 Root, p. 58.
*25 Hess, p.197およびJohn Haslins, “Panamericanism in Mexico”, Notes Vol.15/1, pp.43-49, 1957.
*26 Edgard Varese, Andre Jolivet. Correspondance 1931-1965 (Contrechamps edition, 2002), p.82.
*27 彼女はその後、ニュースクールの講師も務めている。
*28 Caroline Rae, “In Havana and Paris: The Musical Activities of Alejo Carpentier” in Music & Letters, Vol. 89, No. 3 (Aug., 2008)
*29 ロルダンの軌跡については、上記のRae論文に加えて、以下の文献も参照している。 Latin American Classical Composers:A Biographical Dictionary, (compiled and edited by Miguel Ficher et al.), The Scarecrow Press,1996.
*30 Alejo Carpentier, Varèse vivant. le nouveau commerce, 1980, p.21.
*31 Rae, p.391.
*32 Ouellet, p.108.
*33 Guther Schuller, “Conversation with Varèse” in Perspectives of New Music, Vol.3, No.2 (Spring-Summer, 1965), p.35.
*34 Chou Wen-Chung, “Ionisation: The Function of Timbre in Its Formal and Temporal Organization,” in The New Worlds of Edgard Varese: A Symposium (edited by Sherman Van Solkema), Institute for Studies in American Music, 1979, p.74.
*35 Jean-Charles François, “Organization of Scattered Timbral Qualities: A Look at Edgard Varèse's Ionisation” Perspectives of New Music, Vol. 29, No. 1 (Winter, 1991), pp.49-52.
*36 Nicholas Slonimsky, “Analisys” in Preface of Ionisation (Ricordi, 2000).
*37 現在、ザッハー財団に所蔵。
*38 Carlos Chavez, Toward a New Music: Music and Electricity, trans. H. Weinstock (New York, 1937)
*39 Chavez, pp.76-78.
*40 だからこそ、チャベスに対する評価は大きく揺れることになる。多くの論者(例えばリタ・ミード)がメキシコ革命後のインディヘニスモ作曲家としてチャベスを描く一方で、アメリカ音楽研究者のキャロル・オジャは著書の中で、チャベスを遅れてきた新古典主義者とみなす。さらにアレハンドロ・マドリッドはチャベスをウルトラ・モダニストとして論じる。これらは全て、当時のチャベスが持っていた多面性ゆえと考えれば、納得がいくのである。

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沼野雄司(ぬまの・ゆうじ)

1965年東京生まれ。桐朋学園大学教授。東京藝術大学博士後期課程修了。博士(音楽学)。2008年から2009年にかけてハーヴァード大学客員研究員。おもに20世紀音楽に関する研究・評論を中心に活動。著書に「リゲティ、べリオ、ブーレーズ 前衛の終焉と現代音楽のゆくえ」(音楽之友社)、「光の雅歌 西村朗の音楽」(春秋社、共著)、「日本戦後音楽史 上・下」(平凡社、共著)、「楽譜を読む本」(ヤマハ・ミュージックメディア、共著)、「ファンダメンタルな楽曲分析入門」(音楽之友社、近刊)など。
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