第七回 幻肢と義肢のあいだ


 今回は、腕を切断した方の記憶について考えます。第4回ですでに、身体の一部を切断した方に「幻肢」と呼ばれる現象が起こることについて触れました。幻肢とは、切断して存在しないはずの腕や脚を、存在しているかのようにありありと感じるという現象で、多くの場合、「幻肢痛」という痛みを伴います。
 第4回で触れたのは、左足膝下を切断したダンサーの大前光市さんのケースでした。大前さんは日常的に義足を使用し、さらには独自に開発した義足を器用にあやつって数多くの舞台に出演しています。
 それに対して、今回ご登場いただく倉澤奈津子さんは、2011年に骨肉腫で右腕を肩から切断し、そこから6年以上、基本的に義手をつけずに肩パットのみで生活してきた方。その倉澤さんが、義手を作ろうとしているタイミングでインタビューを行いました。
 義手をつけて暮らす新しい体に期待する一方で、倉澤さんは、「手の記憶をなくすようで寂しい」とも言います。幻肢と義肢のあいだで、手の記憶はどうなるのか。物理的な体の形状と記憶の関係について考えます。

胴の中に入った幻肢

 先述のとおり、幻肢とは、切断してないはずの腕や脚を、あるかのように感じることです。けれども、感じるのはあくまでその「存在」であって、幻肢が、もとの腕や脚と全く同じ形、全く同じ機能を持っているわけではありません。人によってはもとの腕よりも幻肢の方が短かったり(これはかなり気持ち悪いそうです)、動かせるけど指の本数が少なかったりする。結果として、幻肢の状態は人によってかなり多様性があります。
 倉澤さんは、右肩から先を切断しているので、それに対応する肩から先の部分全体の幻肢があります。ある程度、動かすこともできる。肩甲骨がなく鎖骨も半分切除していますが、筋肉が残っているので、幻肢の肩をいからせようとすると、実際に肩が上がる感覚があるそうです。肘も後ろに引くことができ、引いてみると肩甲骨を寄せている感じがある。ただし、肘を前や上に出すことはできないと言います。
 そんな一定の可動性を持つ倉澤さんの幻肢の中で、明らかに動きを制限されている箇所があります。それは「手」。つまり腕の先の、手袋をはめる部分です。倉澤さんの幻肢の手は、指だけでなく、手の位置そのものを自由に動かすことができません。というのも、手が「胴の中に入っている」から。イメージとしてはポケットに手が入ったまま身動きがとれない状態に近いでしょうか。「手の部分が体から出ない」と倉澤さんは言います。
 最初にこのことを聞いたとき、私はかなり驚いてしまいました。一般に、幻肢はもとの腕や脚の記憶と関係していると言われます。けれども倉澤さんの幻肢は、明らかに、もとの腕そのものからは逸脱しています。当たり前ですが、物理的な手を胴の中に入れることはできません。つまり、倉澤さんの幻肢は、もとの腕の記憶と異なるどころか、記憶していないはずの感覚までをも含んでいるのです。
 もっとも、倉澤さんは手術前の1ヶ月、折れないように腕を三角巾で吊っていたと言います。確かに吊っているときには手の位置が固定されているので、倉澤さんの言うように「最後の記憶」が反映されているのかもしれません。三角巾に覆われて外から手が見えないことも、一致しているように思えます。
 だとしても、「手が胴の中に入っている」状態は、もとの記憶以上の感覚を含んでいます。なぜなら、倉澤さんは、外から確認して「手が見えない」と感じているわけではなく、内側から「手が胴に入っている」と感じているからです。倉澤さんは言います。「埋まっているのかな……自分のボディを感じてみると、あ、やっぱり埋まってますね」。
 おもしろいのは、倉澤さんの幻肢の感覚に「胴(ボディ)」が含まれていることです。幻肢なのは肩までの腕であって、胴(ボディ)は元のままのはず。にもかかわらず、胴との関係で手の幻肢の感覚が成立しているのです。もっとも、幻肢が物理的な限界を超えることそのものは珍しくないようです。幻肢が自由に動く人で、「うつぶせに寝ると幻肢が床をつきぬけて床下を触っている」と言う人は多い。また、手が胴に入っている人の中でも、いつも入っているわけではなく、出ているときもある、という人もいるようです。
 倉澤さんの手も、胴からは出ないけれども、日によって位置が微妙に異なるそうです。「毎朝目がさめると、手の位置を確認して、その位置を楽しむ感じです。あ、今日はここにいる、みたいな。雨の時や台風が来ているときなどはビリビリして痛いのですが、日頃は、今日はここだな、と確認しています」。胴の中での位置を感じ分けられるということは、倉澤さんの幻肢の感覚が、かなり輪郭のはっきりしたものであるということを示しています。「手はどこだ」と探す意識。「手はここだよ」と答える感覚。実体を介さぬまま、レベルの異なる二つの働きの間で対話が成立しています。
 ちなみに「手が胴に入っている」と聞いて私がとっさに思い出したのは、新約聖書に登場する「聖トマスの不信」というエピソードでした。疑い深いトマスはイエスが復活したことを信じず、イエスの胴にある磔刑の傷跡に自分の指を差し入れて、ようやく「本物」であると納得したのです。しかし聖書の出来事ならいざ知らず、手が胴の中に入っている状態とは……謎が膨らみます。

肩と腕の違い

 このように「手が胴に入った」幻肢とともに6年間をすごしてきた倉澤さん。ここで気になるのは「腕」と「肩」の関係です。というのも、倉澤さんは肩には基本的にパッドをつけて生活しているにもかかわらず、腕には義手をつけていないからです。もちろん義手も試したことはあるのですが、ふだん使うようにはならなかったそう。それで基本的に肩パッドのみで生活しています。
 「肩から先がない」というと、指先までを含むひとつの全体が不在であるように感じます。確かに幻肢としては繋がっている、と倉澤さんも言います。痛みが全体に走るからです。けれどもそれを補う「義肢」という観点からすると、「腕」と「肩」の性格の違いが際立ってくる。「腕」と「肩」はどう違うのか、そしてそもそも義肢と体はどのような関係にあるのでしょうか。
 倉澤さんはこれまでに数種類の肩パッドと、そのパッドに取り付けられる布製の装飾義手(動作ではなく見た目のための義手)を製作しています。ところが、肩パッドは「あると便利」なのに対して、布製の義手はどうしても「じゃまになる」ことがあったそう。倉澤さんは言います。「肩は、ないと洋服が落ちてしまって気になります。だから、肩パッドがあると、やるべきことに集中できる。今着けている肩パッドは首回りからパッドが少し見えてしまってもデザイン的に大丈夫なので、それほど気になりません。腕は、義手があるとどこにいっちゃったかなというのが逆に気になってしまいます」。
 ここには肩と腕、それぞれの機能の違いが反映しています。肩は、それ自体の可動性は少なく、むしろ服などの重さを支えることが重要な役割になります。指のような細かい動作を行うわけではなく、どっしり土台のように安定しているのが肩の仕事です。だから、動きのない肩パッドでもかなりの仕事を代用することができる。むしろ、それがないと服がずり落ちないかと気になってしまう不便さがあります。
 「あまり動かないこと」は、感じ方にも影響します。指のような操作性を持たない肩は、そもそも、意識して動かそうとしたり、皮膚感覚に集中したりする機会が非常に少ない部位です。そして、内側から意識する機会が少ないということは、相対的に、外側から視覚的に知覚する対象になりやすい、ということを意味します。つまり肩は、「感じるもの」ではなく「目に入る」ものなのです。だからこそ、服を着てさえいれば、じかに、あるいは鏡を通して視界に入っているのが「パッド」だったとしても、それを自分の肩だと思い込みやすいのです。
 倉澤さんは肩を指して言います。「ここに肩があるという感じはします。触ると感じないだけで、視覚効果で、肩パッドの肩を自分の肩だと意識していると思います。肩はもともとそんなに動くパーツじゃないので、感覚とか操作性があまり問題にならないのかもしれません」。しかも倉澤さんの場合には、鎖骨が半分まではあり、肩甲骨の筋肉が残っているので、先にも書いたように幻肢の肩をいからせようとすると、実際に肩パッドが上がる。上下運動程度の操作性であれば、自分の肩であってもパッドであっても違いが生まれません。
 もちろん、自分の肩とパッドと肩のあいだに全く違いがないわけではありません。たとえばショルダーバックをかけているとき。触覚がないがゆえに、肩ベルトのずれを感じられず、無意識的なフォローができないと言います。「ショルダーバックを肩パッドをした右の肩にかけるのですが、落ちたときに気がつかないんです。肩に感覚があれば、落ちそうになった段階で直すと思うのですが、気が付かずつるんと落ちてしまう。あ、感じないままなんだよねって」。
 確かにこのような違いがあるとしても、倉澤さんは、肩に関しては、おおむねパッドの肩を自分の肩だと感じることができています。ところが腕に関してはそうはいかない。倉澤さんは布製の義手をつけたときの感覚を、こう話していました。「腕は、義手があるとどこにいっちゃったかなというのが逆に気になってしまいます」。つまり、肩パッドは「ないと気になる」のに対して、義手は「あると気になる」のです。
 「義手が気になる」というのは、第5回で扱った、下半身の感覚がないかんばらけんたさんにも通じることでしょう。たとえば混んだ場所にいるとき、すれ違う人に義手がぶつかっていないかどうか。あるいは腕ならばありえないところに義手が行ってしまっていないかどうか。内側から感じられないからこそ、視覚的に常に確認する必要が生じます。かんばらさんは「脚に意識を置いておく」と表現していましたが、倉澤さんの感覚も、「義手に意識を置いておかなければならない煩わしさ」ということでしょう。
 いろいろな特性の体を持った人に話を聞いていると、「腕や脚がぶらぶらすること」は、私たちの運動や感覚にかなり大きな影響を与えているな、と実感することが多々あります。たとえば大前さんは、片脚を失ってから連続バク転ができるようになるまでに苦労したと言います。脚のぶらぶらがなくなったことによって、利用できる反動の力が弱くなってしまったのです。ふだん意識していませんが、私たちは運動するためには適度な体の重みが必要です。
 あるいは自身も当事者で幻肢痛緩和ケアにとりくむ猪俣一則さんは、切断していないが腕に麻痺のある患者の手をテーブルなどに固定して、腕がぶらぶらしないようにすると、安心感が高まると言います。腕や脚というと「意識的に動かすもの」というイメージが強いですが、人間の動きの中には「物理的にそうなってしまう動き」が含まれています。動かす機能のない装飾義手の場合は、「意識的な動き」がなくなり、結果として「物理的な動き」だけが残ることになる。これが倉澤さんが義手を煩わしいと感じる根本の原因だと考えられます。
 ちなみに、倉澤さんの現在の肩パッドは、試行錯誤の末に3Dプリンターで作られたものを使用しています。人間の肩にはよく観察すると微妙なへこみや出っ張りがあります。布製のものを使っていたときは、その微妙な形がうまく再現できませんでした。逆に義肢装具士さんに作ってもらったときは、左肩を壁におしつけて型をとったので、緊張した状態の肩になってしまい、つけていると力を抜いても前に丸まらない。常に作り物であることを意識していたそうです。
 3Dプリンターで作るようになったきっかけは、倉澤さんが理事をつとめるNPO法人Mission ARM JAPANに、デザイナー/リサーチャーの竹腰美夏さんが加わったこと。竹腰さんが作ったパッドは、左肩の形をそのままスキャンしてデータ上で反転させ、出力したもので、柔らかく、しかも中が中空なので軽い。それを左の脇にかかるようにバンドで止めています。もっとも倉澤さんと竹腰さんは、すぐにこの形に到達したわけではなく、すでに7つのパッドを作っていると言います。アイディアがあれば形にして、少しずつ改良しながら開発を進めていく。当事者もニーズが分からないことが多い。だから作って見て、選択肢を増やすことが重要だと竹腰さんは言います。

腕の記憶のゆくえ

 肩パッドを愛用してきた倉澤さんですが、インタビューをしたときには、ちょうど新しい義手を作る準備に入っていたところでした。うまく「自分の手だ」と思える義手を手にいれることができれば、痛みの原因でもある幻肢とさよならできるかもしれないからです。
 これまでの研究で、幻肢がなくなるためには、義肢、鏡像、イメージなど「これは自分の体の一部だ」と思えるような対象を獲得することが有効であることが知られています。ところで、すでに肩と肘の違いを通してお話したとおり、目の前にある物体を「これは自分の体の一部だ」と感じる方法には、二つの回路があります。ひとつは、主に操作性に依存する「内側からの感覚」を通じて、もうひとつは主に視覚に依存する「外側からの知覚」を通じて。これらのいずれか、ないし両方が、「これは自分の体の一部だ」と思うためには必要です。
 筋電義手が有効なのは、このうち前者の「内側からの感覚」を補完するからです。筋電義手とは、筋肉が収縮するときに出る微弱な電流をキャッチして動く義手のこと。動かそうと思うと実際に義手が動くので、たとえそれが義手であったとしても、私たちは手のように感じるのです。けれども倉澤さんの場合には、この「内側からの感覚」は利用しにくい。というのも、肩からの離断だと、筋電義手があまり使えないからです。したがって、このうち後者の手段、つまり視覚的に「これは自分の腕だ」と感じる方法を手掛かりにすることになります。
 そこで倉澤さんは、まずは幻肢を形にしてみたい、と言います。義手をただつけただけでは、右肩に腕が二本ついている感じがして、幻肢とひとつに重ならない。そこで幻肢にあわせる形で義手を作り、まずは二つを重ねて一体化する必要があるのです。そして、その一体になった状態から、少しずつ義手の位置を変え、前に出していってみたい。「とりあえず幻肢の手を体の外に出したい」と倉澤さんは言います。いわば義肢をおとりにして、それに乗せて幻肢を外に誘い出すようなアプローチです。
 似たアプローチは、先述の猪俣さんが実践している、VRを用いた幻肢痛の緩和でも用いられています。VRでも、最初は、当事者が持っている幻肢にあわせたイメージを見せます。たとえば幻肢の腕が短い人なら、ヘッドマウントディスプレイをかぶったときに、その短い腕のイメージが見えるようにします。その状態から、少しずつ腕のイメージを伸ばしてあげる。そうすると5分か10分程度の短い時間で、自分の幻肢も伸びてくると猪俣さんは言います。
 とはいえ、実際に義手をつけたら幻肢はどうなるのか、こればっかりはやってみないと分かりません。ただ、倉澤さんは期待する反面、「複雑な気持ち」だと言います。「それ〔義手〕ができたら視覚効果で幻肢はなくなっていくのかなと思います。自分の中での手の感覚がなくなり、触ったときも感覚がなくてただの物体になったときに、どういう感じなのかな、と思います。喪失感みたいなものがあるのか、それとも見た目の手ができてうれしくなるのか。複雑になるかもしれない」。
 確かに幻肢痛はなくなってほしい。倉澤さんの幻肢はインタビューのあいだにも、意識したために1.3倍くらいに腫れてしまい、以前は弾けて肉片が飛ぶんじゃないかと思うことがあったといいます。けれども、幻肢そのものを失うことは、手があったという存在の記憶を失うことを意味します。義手という別の対象に置き換えられることによって、手があったときの感覚が失われていく。身体のイメージによって、記憶が上書きされていきます。
 記憶は、現在の体と無関係に、どこかにタイムカプセルのように保存されているわけではありません。それは、本人が現実の自分の体をどのように感じているかに大きく左右され、変質していくのです。

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伊藤亜紗(いとう・あさ)

東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授。専門は美学、現代アート。もともとは生物学者を目指していたが、大学三年次に文転。2010年に東京大学大学院博士課程を単位取得のうえ退学。同年、博士号を取得(文学)。著書に『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』(水声社)、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社)、『目の見えないアスリートの身体論』(潮出版)がある。同時並行して、作品の制作にもたずさわる。

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