第六回 真っ直ぐに曲がった茶杓――ある木彫り職人のこと


 寒さにふさがれていた木々の芽が、次第に近づく春の訪れにつれ頭をもたげ始めていた。身をよじるように空に向けて己を押し広げようとする姿を認めると、つい嬉しくなってしまい、「ああ」と声が漏れた。
 感嘆の声にとどめておけば良いものを、悪癖がむくりと身を起こす。どうにかして、いまこの目の前で起きている出来事を言葉で描き出したい。感動にじゅうぶん身を浸す間もなく、そうした思いに衝き動かされる。
 こんなことは今日に始まったわけではない。そして誰に頼まれたわけでもないのだが、兎にも角にも世界の現象を言葉にすることが大事なのだ、といった切迫した気持ちに駆られる。

 ウグイスが啼くのどかな昼下がりでありながら、それとはまったく違う時が自分の中で流れ始める。動悸が激しくなり、額に汗が滲む。目前の萌え出ようとする新芽について過[あやま]たずたず言ってみせなければ、この世界での身の置き所を失ってしまう。そんな焦慮[しょうりょ]に襲われる。
 急いた気持ちのまま、何かぴたりと当てはまることを言おうと、唸りながら頭をひねってみたものの、ハッと我に返る。「いま・ここ」で起きていることを言葉で表すなど到底できないのだった。

 小さな葉の生命の勢いをありありと感じることはできても、尖った葉先に向けて薄緑色の脈がどのように走っているか、新芽をたたえた木が小川のほとりにどのように生えているか。いま・ここでの出来事について、どれだけ細かく説明しようと試みても、まるで言葉は追いつかない。生きているものの、まさに生きている様をリアルタイムで言うことなどできない。そのもどかしさに、知らないうちに足は地団駄を踏んでいた。

 自分の足の運びに驚き、まじまじと足下を見てみると、名も知らぬ小さな白い花が咲いていた。これについても言葉で言えることはないだろうかと、這いつくばってそれを見た。いくら目を凝らし仔細に眺めても、やはり花弁や萼[がく]を含んだ花ぜんたいがいま咲く様子をそのままに言うことはかなわない。「小さな白い花が咲いている」という、静止した姿として見て取れるほんのわずかなこと以外についての言葉を持たない。
 しかも、ただいまここに咲く花について言っているつもりでも、それは見たものであり、感じたことであり、全ては過ぎ去ってしまったことの記憶について語っているに過ぎない。記憶の中の花をいくら詳細に語ったところで、それは現実そのものではない。

 名も知らない小さな花についてすら、本当は何も言うことができない。それがこの世界について人間がまず弁[わきま]えておくべき事実なのだと知れば、生きていることや物事が存在していることに謙虚にならざるをえない。自然は人間に先立って存在しており、私たちがいくらそれについて知ったようなことを言ったところで、それは自然そのものではなく、人間があれこれ解釈した姿にすぎない。

 小川の水面に羽虫が舞い、繁茂の気配を漂わせる水際の緑の隙間に、冬枯れした小枝を川面に垂らす低木が見えた。いつも自分が「当たり前の現実」として見ている世界は、立ち上がった際に見える、ごく限られた風景でしかなく、足下の様子などほとんど見過ごしている。
 足で踏んでも、そのことに気づかないほど小さく弱いものたち。それらが刻々と変わり行く姿を含んで、この世界は成り立っている。
 たったいま、この場で遭遇した、季節の移ろいの中で自然が見せてくれる変化に対しては、体を横たえ、まじまじと見、ただただ身を震わせ心で感じ入り、それを言葉にしてしまわないでい続けることが最も誠実な態度であるのは間違いない。幼い葉や花びらと私とが向き合う瞬間にしか、それらの真の姿は現れないのだから。

 謙虚であるべきだと知りつつも、それでも言葉で描写したくてたまらない思いは止まない。それは他ならぬ「私にとって」の、純粋な一葉、花弁の本質や真実の美しさを語りたいという衝動であった。「なんのためにそれをするのか?」という問いにはうまく答えられない。
 そもそも私はなぜそのように美しさを感じているのかわからない。しかも、どうしてそれについて語りたがるのか。その目的が自分にもわからない。そのため「他人に共感してほしいからだ」という、納得しやすい答えに落ち着きそうになる。自分の行いが無目的に見えると、「止むに止まれぬ」としか言いようのない切実さは、駄々をこねる幼子をなだめるように手懐けてしまわなくてはならないように感じてしまう。

 だが、思う。古くから人が、この世の一切の現象を表すには、言葉は常に間に合わないと知りつつも謳い、詩を詠んできたのはなぜなのか。どれだけ言葉を彫琢しても花の美しさそのものを語ることはできない。川の流れに手を差し入れて、「この水は冷たい」と言ったところで、それは過ぎ去った流れでしかないように。
 それでも人は「いま・ここ」に迫ろうとする。その試みが真の美を束の間、描き出すことがあるとすれば、それをなし得るのは人間業ではないだろう。業を背負ったものしか果たせないのではないか。そう思い至ると、ある木彫り職人を思い出した。

 その人は「見たものを見たままになんでも彫れてしまう」という技をもっていた。尋常ならざるところは、それは求めているものの入り口に過ぎなかったということだ。彼の課題は「きれいを越えること」にあったからだ。
 
「きれいで止まっているのが美というならば形骸化した美しさでもいいのです。しかし、きれいを超えなければ、生きている美は彫れません。だから木で竹を彫ることにしました。たとえば、竹は尾形光琳の絵でもたくさん出てきます。光琳は生きている状態を描いたから“竹は生きている”と思っています。しかし、萎れてないからといって生きているというのはおかしな話です」

 「生きている状態」を表すのではなく、生き生きと「生きている」そのものを彫れない限り、美に届いているとは言えない。死んだ木材を使って「生きている竹」が彫れたと得心した時、さらに次の段階を目指した。そのひとつが「真っ直ぐ」を彫ることだった。

 「テーブルや障子の桟の直線はつくられた真っ直ぐです。木は放っておくと曲がります。それを捻じ曲げるから真っ直ぐになる。そうではなく私は真っ直ぐをつくりたかったのです。そこで真っ直ぐな茶勺を彫ることにしました」
 
 利休の高弟、蒲生氏郷の手になる茶杓を見ても「真っ直ぐにしている」としか思えなかった。それは彼の言う、「ひたすら真っ直ぐ」ではなかった。

 そのことについてしばらく考えあぐねていた。台風一過のある日、庭に出ると欅[けやき]の枝が落ちていた。枝を見ていたら、その中に「真っ直ぐの線が突き抜けていた」のを発見した。それを茶杓にしようと思いたった。茶杓には適度な長さや掬[すく]う働きが必要となる。そこに技が、人為が加わる。作為と自然の美は成り立つのか?という難問を越えるのが、「つくる」という行為の骨頂だ。
 彼のいう人為は、考えたデザインを素材に反映し、加工することではなかった。生きている人間が携わることで自然の美が示顕[じげん]することを人為と呼んでいる。ここで言う「生きている」とは、ひたすら生きているのであって、ただ漫然と生活していることを意味しない。

「ものが存在するというのは貴重なことです。色や距離、位置があるのもすばらしい。人間はそれらを何ひとつつくり出せません。そんな貴重品が充満しているところに生きているのだから、あだや疎[おろそ]かにものを使ってはいけない。『さあどうだ』とか『我ここにあり』といった気持ちでものをつくってはいけない」

 だから「誠実に生きなくてはならない」という。それは社会を生きる上で評価される徳目とは無縁だ。

「誠実を良い言葉として取られると困ります。そうではない。修羅場です。誠実に生きれば経済的にも不利になります。この世で損するだけでちっともよくない。しかし、たったひとつ他に変え難い、良いことがあります。それはものの本体が見えて来ることです。これは要領よく生きていたのでは、絶対に見えてこない。
 あなたはどちらを取りますか? 誠実を選ぶならまじめに生きなさい。それが嫌で人とお酒を飲んだりカラオケをやりたいなら、それも素晴らしいからそちらを選びなさい。真実を捨てた、おもしろくて楽しいのもまた人生です」

 私はその問いに答えられなかった。つくることは、ただただ生きることと切り離せないのだと思い知らされた。

 記憶の中の青々とした竹、白い花。過去を振り返れば見出せる「生きている状態の美」は私たちを感動させ、そして安心させる。
 しかし、そのとき果たして本当に生きていると言えるだろうか。心が感じ動くのは、想起の中においてではなく、たったいまに起きる。一方、安心できる美とは過去の記憶との照らし合わせで生まれているのではないか。
 この世に存在するあらゆるものは変化している。私を含むすべてが変化しているのであれば、おいそれと物事を固定的に語ったり、特定の像にすることはできない。
 たいていの芸術は変化の一瞬を形にとどめようとする。そこから離れ、語れないものを語り、形にできないものを形にしようとするならば、飛んでみせなくてはならない。  
 彼の彫った真っ直ぐな茶杓の見た目は曲がっていた。だが手に取ると真っ直ぐで端がなく、向こうもこちらも突き抜けていた。そうとしか感じられなかった。真っ直ぐという形に止まることのない運動が一本の茶杓にはあった。

 「私には、これは真っ直ぐでした。目に見えない真っ直ぐです。果てがない。突き抜けている。手に持つと真っ直ぐなんです。曲がっていることは皮膚感覚ではわかりますが、そう感じている中に真っ直ぐを感じるのです」

 彼は渾身の作をある目利きに「よろしかったらお使いいただきたい」と贈った。相手は茶杓を手にとるや静かに「真っ直ぐだ」と言った。
 彼は「それではない何か」で“それ”をつくったのだ。形によって形にならざる生命の運動を浮き彫りにした。
 言葉で同様のことは可能だろうかと考えて、はたと気づいた。私は「花が咲いていること」を正確に言いたいのではなく、「花が咲いている」を表現したい。つまり、花の咲く様子の説明ではなく、花を咲かしめる、見えない働きを「花が咲いている」と言わずして表したいのだ。
 この世の出来事をどう言おうとも、言葉にする限り、静止した形として描かざるを得ない。だが、その中の決して止まることのない運動をなんとか表したい。
 刻々と変化する生命は「いま・ここ」にあり続けている。「いま・ここ」について語られた言葉は過去についてであり、「いま・ここ」は言葉では決して言えない。固定化と変化、過去と「いま・ここ」の汀[みぎわ]に私は存在し、そのせめぎあいの中で生まれる言葉を探している。

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尹雄大(ゆん・うんで)

フリーランサーのインタビュアー&ライター。これまでに生物学者の池田清彦氏、漫才師の千原ジュニア氏、脳科学者の茂木健一郎氏や作家の川上弘美氏、保坂和志氏、俳優の田中泯氏、ミュージシャンの七尾旅人氏、川本真琴氏、大川興業の大川豊総裁、元ジャイアンツの桑田真澄氏など学術研究者や文化人、アーティスト、アスリート、ヤクザに政治家など、約800人にインタビューを行って来た。ライティングに関わった書籍多数。著書は『やわらかな言葉と体のレッスン』(春秋社)、『体の知性を取り戻す』(講談社現代新書)ほか。
http://nonsavoir.com/

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