第六回 月光の中、溺れるごとく


 わずか三十軒に満たない檀信徒が、力を合わせ、総坪数六十坪もの豪壮優美な本堂を完成させたのである。屋根には切妻破風を配し、向拝の左右には回廊をめぐらしてある。もう、雨漏りに泣かされることも、床が抜け落ちることもないのだ。

ヒマラヤへゆきたしあわれ雪渓を峰を越えゆく鳥に知らゆな
憂愁をぬぐわんとして拭わずにおり冷酒の露となるまで
往く鳥は悲しかりけりなにもせずなにもせずとぞ啼いて過ぎにき
ザック、柘榴と手斧をつめてさんさんと降る太陽の果つ処まで
裏山の檜を斬れば愛鷹[あしたか]の鋸岳こそかなしかりけれ

 そうだ、立松和平とインドへ行く約束をしていたのだった。あれはまだ、妻を迎えてほどない頃のことであった。君は書いている。
 「その時、ぼくらの心情には濃密な光が跳ね踊っていたのだ。安い切符を求めて、ぼくは船会社をまわりはじめた。だが福島さんは電話で行かないといった。本堂を造るのだと。少しの怒りをぼくは抱えこんだ」。
 君はそれから、インド行きの資金調達のためにアルバイトの汗を流し、その年の夏が終わりかかる頃、カルカッタへ向かって旅立って行ったのだった。
 「荒れ野をギラギラ巡り、ハシーシを吸いカレーを食べ、肝臓をこわした。水もない一週間の断食、日本山妙法寺で朝から晩まで太鼓をたたき、法華経を叫んできた。法華経の中に、福島上人の貌があった」。
 本堂再建のために、インド行きの夢は断念せざるを得なかったのだが、私もいまだ闇雲な青春という流れの中に身を委ねていたのであった。断ち切ろうとして断ち切れない夢の数々。断念の想いは鳥となって、ヒマラヤへも飛んでいったのである。
 歌とは不思議なものだ。いまこれらの歌を書き写していて驚いたのは、「ヒマラヤへゆきたし」と詠じた、その場所までもが鮮やかに思い浮かんでくるではないか。「憂愁をぬぐわんとして」然り、「往く鳥は悲しかりけり」然り。そうだ、富士吉原の中里登山口から須津川沿いを六キロほど登った愛鷹山中に、大棚の滝があった。落差は二十一メートル。壮観な眺めである。
 山道からそれて谿へ下る。渓流の岩陰にナップザックをおき、持参したビールと二合瓶を取りだし、流れの窪みに入れるのである。冷えるのを待って腰をおろし、峰を見上げた時だ、突如として歌が湧きだしたのである。手帖を取りだし、鉛筆を走らせてゆくのである。
 夏は、滝壺で泳ぎ、秋は、目が赤くなるまで紅葉を眺めた。東京から友人が来るとナップザックに酒をいれ、必ず此処へ案内した。立松和平も勿論、三枝昂之はしばしば訪ねて来てくれた。宮崎から伊藤一彦が来たこともあった。

草を焚き花をいぶして流れゆく煙ひとすじわが砦とや

 三十六、七年もの歳月を経て、いましみじみと思う。愛鷹山麓柳沢の小庵妙蓮寺は、歌を志[こころざし]とし、おのが情を抒[のべ]る詩型として選んだ男の砦でもあった。此処で私は、掃き集めた落葉や枯草に火を放ちながら、遙かなる時や場所や人々に、切々と想いを馳せたのである。

 柳沢に来て四度目の正月を迎えた。朝、お年玉をもって年賀の挨拶に来る、背広ネクタイの色めかした男衆を、私は、完成したばかりの本堂に招き入れた。須弥壇、前机のほか、いまだ仏具が収まっていない本堂は、がらんとしていた。天蓋、幢幡などは、新車が買えるほど高価なものなのである。仏具荘厳をして、落慶法要を迎えたい。勧進はいまだ終わってはいないのだ。
 外陣には真っ青な畳が敷き詰めてある。庫裡から運びこんだ宴会用の長い卓袱台が、いかにも不似合いだ。二人、三人、十人と賑わいを増してゆく。私は、薬罐にどくどくと酒を注ぎ込み、石油ストーブの上に乗せる。酔いがまわり歌が飛び出す。
 本堂には、音響装置を完備させ、川の縁に電信柱を設けスピーカーが村に向いている。マイクスタンドの前に気取って立つ人々。村中に歌声が流れるのである。亭主の濁声を聞き、慌てて迎えに来る女衆など、新本堂での元日は大いに賑わった。それはそうだろう、心をひとつにして、これだけのことをやり遂げたのである。

みぞれ降る ひとを想わば朝一合夜五合[ごんごう]の酒を飲むかも

 この人々と酌み交わした酒の量は計り知れない。オイルショックの余波を受け、セメントが入手できず工事が中断してしまったこともあった。
 老婆たちが、毎月百円づつ積み立てた基金から出発した本堂再建への道程は平坦なものではなかった。しかし、「なあに、一人が一坪造りゃあいいずら、後はお上人がなんとかしてくれるずら」。夜々の建築会議で、茶碗を片手に世話人の一人が、そう言った時、私は本堂再建を確信した。喜びにつけ、悲しみにつけ、よく酒を飲んだ。

 ただ世間の留難[るなん]来るとも、とりあへ給ふべからず。賢人聖人も此事はのがれず。ただ女房と酒うちのみて、南無妙法蓮華経ととなへ給へ。苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦樂ともに思合[おもひあはせ]て、南無妙法蓮華経とうちとなへゐ(唱居)させ給へ。これあに自受法楽にあらずや。いよいよ強盛の信力をいたし給へ。恐恐謹言。

 年に何度かある法事などの席へ招かれると、私はよくこの一節を拝読し、講話の柱としたものである。法事の後の御供養の席は、すでに設えてあるから、酒好きの私にはまことに都合がいい御書であるのだ。さて、「四条金吾殿御返事」は、身延入山二年目の夏を迎えた日蓮が、四条金吾こと中務[なかつかさ]三郎左衛門尉頼基に送った手紙である。
 どのような世間の難が襲いかかってこようとも、心をお悩ましになられないように。この悪世末法の時代には、賢人聖人さえもその難から逃れることはできません。そんな時には、女房と酒を飲みながら南無妙法蓮華経とお唱えなさい。そうであるのか、これがいま私が直面する苦難であるのだ。これが喜びというものであるのか。苦は苦と心で悟り、楽は楽と心を開き、苦楽共に思い合わせて南無妙法蓮華経とお唱えください。これこそが、自受法楽という法華信仰の究極の境地でありますよ。ますます盛んで強い御信心の力を堅持なさいますように。恐れながら謹んで申し上げます。「ただ女房と酒うち飲みて」の言葉の中に、日蓮という人の悪世末法時を生きるわれらへのあたたかな慈悲の心がある。
 さて、四条金吾こと(中務三郎左衛門尉)頼基は、武をもって江馬光時、親時の二代に仕えた人。早い時期から日蓮に帰依し、日蓮を親のように慕い(年齢の差は兄のそれであろう)、諸事にわたり指導を仰いだ。その出会いのクライマックスは、この手紙が書かれる五年前、すなわち文永八(一二七一)年九月十二日、鎌倉刑場龍口[たつのくち]に出来[しゅったい]する。
 この日の夕刻、松葉谷の草庵を、侍所の所司(長官)平左衛門尉頼綱率いる数百人の武装集団が襲い、日蓮を捕らえた。容疑は、高僧と謳われた極楽寺の良観房忍性等の讒言[ざんげん]による。市中を引き回され、その後、佐渡流罪の刑が確定し、相模依智の本間六郎左衛門尉重連[しげつら]の館に預けられることとなる。
 ところが、由比浜を出て腰越龍口に着くと、日蓮は馬より下ろされる。公には佐渡流罪と決められていたが、ひそかに龍口の刑場で首を斬ろうとしていたのである。後に蒙古の使者が首を斬られたところでもある。
 日蓮は、お供の熊王(後の日法)という童子に命じて、長谷の四条金吾頼基を呼びにやる。急を聞いて駆け付けた頼基等に、日蓮は平然とこう言い放つのである。身延に入ってから書かれた『種種御振舞御書』と呼ばれる自伝的長文からその一節を引く。

 今夜頸切られにまかるなり。この数年が間願ヒつることこれなり。此娑婆世界にしてきじ(雉)となりし時はたか(鷹)につかまれ、ねずみとなりし時はねこにくらわれき。或はめ(妻)に、こ(子)に、かたきに身を失ひし事大地微塵より多し。法華経の御ためには一度も失ふことなし。されば日蓮貧道の身と生れて、父母の孝養心にたらず、国の恩を報ずべき力なし。今度頸を法華経に奉リて其功徳を父母に回向せん。其あまりは 弟子檀那等にはぶく(配当)べしと申せし事これなり、と申せしかば、左衛門尉兄弟四人、馬の口にとりつきて、こしごへ(腰越)たつ(龍)の口にゆきぬ。

  今夜頸を切られにゆくのである。この数年の間、願い求めていたものはこのことである。この娑婆世界に雉と生まれては鷹に捕まり、鼠に生まれては猫に食らわれる。あるいは妻や子のため、敵[かたき]のために命を失ったことは、数かぎりのないことであったろう。しかしこの法華経のために、命を失うことは一度もありはしなかった。「されば日蓮貧道の身として生れ、父母の孝養心にたらず、国の恩を報ずべき力もない。今度、頸を法華経に奉リて其功徳を父母に回向しよう。其あまりは弟子檀那等にお配りしよう」と、申し聞かせたのである。左衛門尉兄弟四人は悲嘆のあまり顔も上げることもできず、馬の口にとりついて腰越龍口に向かって行ったのである。
 此処で頸を刎ねられるのかと思っていると案にたがわず、兵士ども騒ぎながら日蓮を取り囲み首の座に付かせたのである。頼基は、「只今なり」と泣いた。日蓮は大音声を発し叱咤した。「不覚の殿原かな。これほどの悦びを笑えかし」。
 頼基は殉死をもって師に順おうとした。
 が、不思議が起こり、日蓮は佐渡へ流されてゆくのである。
 毎月、十二日の朝、『妙行日課』から、私は必ずこのくだりを拝読する。そして、問うのである。お前は、命を投げ出して何かを目指したことがあるか。命を投げ出してまでも人に仕えようとしたことがあったか。
 四条金吾は、海を渡り師を尋ね、供養の品々を使者に託し、佐渡の師を案じ続けるのである。後年、日蓮は切々たる心情を手紙に託している。「崇峻[すしゅん]天皇御書」(建治三年九月十一日)と呼ばれる頼基宛て手紙がそれである。

 返す返す今に忘れぬ事は頸切られんとせし時、殿はとも(供)して馬の口に付きて、なきかなし(泣悲)み給ひしをば、いかなる世にか忘れなん。設ひ殿の罪ふかくして地獄に入り給はば、日蓮をいかに佛になれと釈迦仏こしら(誘)へさせ給ふにも、用ひまいらせ候べからず。同しく地獄なるべし。日蓮と殿と共に地獄に入るならば、釈迦仏・法華経も地獄にこそをはしまさずらめ。暗[やみ]に月の入るごとく、湯に水を入るゝがごとく、氷に火をたくがごとく、日輪にやみ(暗)をなぐ(投)るが如くこそ候はんずれ。

 いまに忘れぬことは、文永八年九月十二日相州龍口にて頸切られようとした時、私の馬の口に取り付いて、泣き悲しみ後を追おうとされた御志は、未来永劫忘れられないことであります。殿の罪が深く地獄に堕ちるようなことがあるならば、この日蓮を仏になれと釈迦仏が誘ってくださっても、殿と一緒に地獄に参るでしょう。もし、日蓮と殿とが共に地獄に入るならば、必ずや釈迦仏、法華経共々地獄に在らせられるでしょう。そのようなことになったら、地獄の闇は、釈迦仏と法華経との月光に照らされ寂光の浄土し化し、地獄の熱湯は冷水にさまされて清涼の池水とることでありましょう。
 どのような想いで、頼基は、師からの手紙を読んだことか。ここに人生の苦楽を思うては涙し、地獄の底までも門弟の行く末を想ってやまない、人を愛し、その心根を慈しみ、共に吼え、共に哭く、日蓮という人がいる。

 台風八号が接近。七月七日午前から八日未明にかけて太平洋側の三重、愛知、静岡、神奈川の各県で集中豪雨による洪水、地滑りを引き起こし百五十名もの死者を出した。集中豪雨は静岡県西部から県下を縦断した。世に言う七夕豪雨である。
 前夜から雨は切れ目なく降り続いた。篠突く雨は、屋根瓦を叩き、庭土を掘る勢いで降り続けた。風も勢いを増し、裏山の木々は荒れ狂い、庭の銀杏がきゅうきゅうと悲鳴をあげている。寺の前には、愛鷹山を水源とし、柳沢の村落に注ぎ青野[おおの]の田圃を流れ、浮島原から千本浜へ至る高橋川が流れている。私が大切にしている昭和三十七年に吉原市教育委員会が編纂した『愛鷹山』には、「高橋川は常に枯沢で、豪雨の時は小河川であるのに濁流が土砂を流し、しばしば堤防を決壊して、莫大な被害を及ぼすことがある。これは山頂付近の降雨量が意外に多いのと、この雨量を一時保有する森林が少ないこと、それに急流であるためだと思われる」とある。過去帳を開けてみると、山津波と洪水の悲惨な記録がしるされている。
 寺の前には「報恩橋」が架かっている。三代前の芹沢智要上人が、苦労を重ねて建築した鉄筋コンクリートの堅固な太鼓橋である。昭和六年、「宗祖日蓮大聖人六百五十年遠忌」を慶讃して発願しての建立だ。
 柳沢のゆるやかな傾斜をくだった流れは、妙蓮寺本堂前で大きな曲線を描いてカーブする。早瀬を一気に受け止めるその地点は淵となり、一昔前の村の子供たちは、此処で泳ぎを覚えたという。橋がない時代、寺の入口は飛び石のように点在する浅瀬の岩を渡ったところにあった。水嵩が増すと飛び石は渡れず、寺を訪ねる人々は、村内に架かる橋まで引き返し、山沿いの繁みを縫い寺を往き来したという。
 篠突く雨はいっこうに止みそうにない。ついに避難警報が発令、妻は、生後二ヶ月の陽子を連れて公民館に避難した。公民館は、忠魂碑のある社に併設され高台にある。八月十五日には、忠魂碑前に祭壇を設け日露戦争、大東亜戦争、村内戦没英霊の慰霊祭が開催される。
 庫裡の雨戸はすべて閉めてある。電線が切れたのだろう、昼だというのに部屋は真っ暗となる。水嵩が気になって何度かおもてに出る。新築なった本堂は頼もしく、暴風雨を受けてもびくともしない。風雨が小気味よく屋根瓦を洗っている。橋の向こう、雨に煙って人々の姿が見える。びしょ濡れになりながら男衆が、川の要所要所に土嚢を積んでいる。
 水かさは益々増し、濁流となって橋を洗っている。背負い籠に鉈と鋸を入れ、私も男衆の中に加わる。山の竹を切り、川に運びこむ。「お上人、大丈夫ずら」。男衆の声を背に、黙々と運ぶ。すでに川は氾濫し、道路の上を水が流れてゆく。土嚢を積み、繁った竹を川に流しこむのである。激流となった川面を根をつけた木が流れてゆく。橋に引っ掛かれば、橋も流されてしまうという。作業は八日の明け方まで続いた。ようやく雨が小降りになり、水が引きだしたのである。
 「お上人さん」
 振り向けば、世話人の小野秀夫さんだ。戦時、ニューギニアでの悲惨を話してくれたことがあった。温厚実直の人である。見れば、目に涙を浮かべているではないか。
 「東京から来た、お上人が…」
 ようやく村に溶け込んでくれたのか、と言いたかったのかもしれない。
 夜が明けて寺に帰った。寺の裏山には、わずかばかりの平地があり。本堂の裏手一杯に、墓場があり、石塔が林立している。庫裡の裏手の道を登った私は、その場に立ち尽くしていた。山津波が起きていたのである。
 墓標は倒壊し、墓場は泥に埋まり、薙ぎ倒された樹木が墓を覆っている。
 墓石の何基かは、山津波に投げ飛ばされ、本堂の外壁にぶつかり、跳ね返されて、石垣下に落下していた。
 もし、旧本堂のままであったなら、墓石は、屋根を突き破り土砂とともに内陣を破壊していたであろう。開山日信上人が笈に負い、京都から捧持した三寶諸尊、宗祖木像、草創以来の総檀信徒中各家先祖代々之諸精霊を収めた位牌はどうなっていただろうか。本堂再建の浄業が、御本尊と脈々と連なる御先祖の魂をお救いしたのであったか。宗祖日蓮大聖人が『報恩鈔』でおっしゃった「時のしからしむるのみ」とは、このことをもさしておられるのか。
 本堂は山津波の被害を受けることはなかった。しかし、墓は倒壊してしまった。これも寺を護る住職の責任であろう。至心にお詫びしなければならない。
 庫裡から本堂に駆け込み、驚愕した。激流は本堂にまで及んでいたのであったのか。サッシの窓ガラスと内側の障子を突き破り、丸太が外陣に飛び込んでいたのである。引き戸を開けて見下ろすと、土手は抉られ向拝に張り巡らしたコンクリートが剥き出しになっている。護岸の石垣はすべて抉られ、からくも鉄筋コンクリートの土台が、護岸の役割を果たしていたのである。新本堂が建っていなければ、激流を食い止めるすべはなく、土台を抉られ旧本堂は倒壊の危機に曝されていたかもしれない。
 山津波と洪水の恐怖を、二つながらに体験していたのであった。
 翌日から、寺の復旧作業が始まり、ほどなく河川の本格的護岸工事が開始された。

 そうだ、餅付きなどに使う土間の上には、秘密の中二階があった。竈屋の障子を開けると急勾配の小階段があり屋根裏の小部屋となっていたのである。江戸・明治を思わせる長持のような箪笥や長火鉢が鎮座しているところからみると、誰かがひっそりと隠れ住んでいたのかもしれない。

還らざる人らよ空よ春風よ屋根裏部屋より眺めておるよ

 部屋には汚れたガラス窓があった。ここから眺める風景が好きであった。春は、川辺の土手に咲く痩せた桜を楽しんだものである。秋は、黄ばんだ野の涯に荒涼を夢想したものである。窓から差し込む月光はたまらなく切なかった。
 春から秋へ、たくさんのエッセーの依頼をこなし、たくさんの歌を作った。

君去りしけざむい朝[あした] 挽く豆のキリマンジヤロに死すべくもなく
一期は夢なれどくるわずおりしかば花吹雪せよ ひぐれまで飲む
あわれ初夏の雪渓よりも花よりも熱き酒より孤独を愛す
望郷のこころはあまくくるしきを流れよう どこまでも雲と水われも
釘を打ち錠を差し込みこぼれくるあかるい秋の陽は遮断する

 愛鷹山麓の村での日々が、抒情させてくれたのである。それにしてもいったい、何に向かって呼びかけようとしていたのであろうか。ロマンチシズムの気質をもつ作家立松和平は、この頃の私の作が好きだったようで、二人で酒を酌み交わしていると突如、「吹雪せり窓の外にも情[こころ]にも愛しておるよ酒をくだされ」などと朗唱、私を当惑させるのであった。「あの頃、お上人は、本当の歌人だったよ」。作家の声が、耳朶を揺るがす。
 墓場の復旧工事も終り、高橋川の護岸工事も完了した。
 一九七四(昭和四十九)年十一月七日、宗祖日蓮大聖人御生誕七五〇年慶讃・妙蓮寺本堂落慶大法要の日を迎えた。完成から一年、建築委員会結成から二年半、旧本堂解体法要から二年、入山してから四年の歳月が経過していた。快晴の空に花火が上がり、稚児行列が村を練り歩き、柳沢村内は大いに賑わった。
 大導師は、大本山光長寺の森日行猊下。宗門からは、宗務総長福島日陽台下。他に執事長久保木完秀上人、門末総代蓮池日東上人、宗務所長川口善教上人等の臨席を得、司会を森智洪上人が引き受けてくださった。式衆には組内寺院の諸上人。
 檀信徒、十二日講の婦人たち、新本堂は立錐の余地もない。来臨影向知見照覧の御宝前において、私は万感をこめて「報告文」を読み上げ、檀信徒への謝意を表した。
 宗門を代表して師父日陽が祝辞をくださった。食道癌の大手術から一年二ヶ月が経過している。師父は、宗祖遺文から「異体同心事」を引かれ、心を一つにして浄業を達成した檀信徒の功績を称えた。

 異体同心なれば万事を成じ、同体異心なれば諸事叶ふ事なしと申す事は、外典三千餘巻に定リて候。殷[いん]の紂王[ちゅうおう]は七十万騎なれども、同体異心なればいくさにまけぬ。周の武王は八百人なれども、異体同心なれば勝ちぬ。一人の心なれども二ッの心あれば、其心たがいて成[じょう]ずる事なし。百人千人なれども、一つ心なれば必ス事を成ず。日本国の人人は多人なれども、同体異心なれば諸事成[じょう] ぜん事かたし。日蓮が一類は異体同心なれば、人人すくなく候へども大事を成じて、一 定[いちじょう]法華経ひろまりなんと覚へ候。

 配流の日々を過ごすこと二年五ヶ月、文永十一(一二七四)年三月、佐渡流罪赦免の報に接した日蓮は、鎌倉に向かった。「さればつらかりし国なれども、そりたるかみ(髪)をうしろへひかれ、すゝむあし(足)もかへりぞかし」(「国府尼御前御書」)。後に、日蓮は、佐渡の国を離れる心情を、このように綴り書き送っている。阿仏房夫妻、国府入道夫妻、これらの人々が身の危険もかえりみずに命を救ってくれたからこそ、迫害流罪の死地は思想熟成の生地と化したのである。死人を捨てる雪原、塚原の三昧堂では徹底した自己省察の末、人開顕の書『開目抄』を、一谷[いちのさわ]に移ってからは、「日蓮当身の大事」たる法開顕の書『観心本尊鈔』を生み、曼陀羅本尊図顕に至るのである。
 四月八日、幕府は日蓮を召喚した。平左衛門尉頼綱の会見の狙いは、蒙古襲来の時期を聞き質すことにあった。「他国侵逼」の預言が適中しつつあるいま、それを防ぐ手立てを求めたのである。これに対して、日蓮は、今年を過ぎることはないであろう、と応えた。さらに、諸宗は法華に帰一すべきである、真言で蒙古調伏の祈祷をするなら、国滅ぶべきことを諫言した。文応元年の『立正安国論』の呈上、文永八年佐渡流罪の折、三度に及ぶ諫暁であった。
 「王地に生れたれば身をば随へられたてまつるやうなりとも、心をば随へられたてまつるべからず」(『撰時抄』)、日蓮は蹶然としてこう語った。そして、「三度[みたび]国をいさむるに用ひずば、山林にまじわれ」(『報恩抄』)という故事にならい、身延に入ることを決意するのである。
 五月十二日、日蓮は鎌倉を発った。由比ヶ浜から海岸沿いを歩き、その夜は酒匂(小田原)の宿に、十三日は足柄峠を越え富士の麓に連なる竹の下に宿し、十四日は黄瀬川の流れに沿って車返[くるまがえし](沼津)に出、十五日は浮島ケ原をたどって大宮(富士宮)に宿した。足柄から車返にくだり、茫々たる湿原(浮島ケ原)を抜ける道、それが鎌倉時代の方途であった。であるからこの時、日蓮は、愛鷹山の裾を抜ける箱根道(根方街道)を歩いている。柳沢赤野[あけの]観音堂の本尊、十一面観音像は天平三年の行基作と伝わっているから、日蓮の時代、柳沢はすでに集落をなしていたことであろう。
 旅の終りを日蓮は、下総の大檀越富木常忍にこのように報告している。「けかち(飢餓)申すばかりなし。米一合もうらず。がし(餓死)しぬべし。此の御房たちもみなかへして但[ただ]一人候べし」。「十六日なんぶ(南部)、十七日このところ。いまださだまらずといえども、たいし(大旨)はこの山中心中に叶て候へば、しばらくは候はんずらむ。結句は一人になりて日本国に流浪すべきみ(身)にて候」。
 日蓮は、衣食乏しい身延山中に一人で死ぬことを思い、従者たちを送り返したのであろうか。ゆくゆくは、日本国中を流浪することを願っていたのである。ともかくも三度[みたび]は諫めたのである。いかんともし難い敗北感が、漂泊の想いを胸中ふかく吹雪かせていたのであろう。だが、日蓮は身延に留まった。五月二十三日には、佐渡以来の懸案を「法華取要抄」と名付け、「一天四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑ひ無き者か」と結び、門弟に与えている。
 七月には富士郡上野郷の南条時光、下総の富木常忍夫妻から供養の品が送られ、八月六日には、下総の檀越太田左衛門尉乗明[のりあき]から供養の品が送られてきた。その礼状が「異体同心事」である。
 白小袖ひとつ、厚綿の小袖と、伯耆房[ほうきぼう](日興)に託された銭一貫文の礼を述べ、次いで日蓮は、富士方面で布教に専念する伯耆房や佐渡房(日向)、それを援助する太田氏の志が稔って、熱原[あつはら]の農民たちが法華信仰に励んでいることを賞賛、「異体同心」の一節となるのである。
 一人の心でも二心あるならば、心と心がぶつかり合って成就することはない。百人千人であろうと、一つの心に結集するならば必ず事は成就する。日本国の人々は多人数ではあるが、心が一つでないから、諸事成就することは難しい。日蓮の一門は異体同心であるから、人数は少なくとも大事を成就して、必ず法華経は広まってゆくことを確信する。
 さらに蒙古のことにふれ、「蒙古国は雪山[せっせん]の下王のごとし。天の御使として法華経の行者をあだむ人人を罰せらるるか」と、法華経帰依の絶対性をあげておられる。
 師父日陽の祝辞は続く。
 「大聖人の御聖訓は生きておりまして、異体同心して本堂建立に立ち上がった建築委員各位の御法労は、絶讃に価するものでございます。二十八軒の檀徒が、これだけの立派な本堂を建立し、しかもこの仏具荘厳が完備したこと、これはまことに檀信徒各位の偉大なる護法愛山の精神の顕れであろうと讃嘆するものでございます。この偉大なる護法愛山の精神は永く永くこの妙蓮寺の歴史の上に、その名をとどめることであると存ずると同時に、宗祖日蓮大聖人、歴世の上人方が、この二十八軒の檀徒の方々を讃嘆あそばされておられることと拝察するものでございます。
 住職の法労を讃え、檀信徒各位の偉大なる異体同心の力を讃え、宗門は皆様方の法勲を記録いたした次第です。宗門のため、本山のため、この妙蓮寺のため、お骨折りいただきまして、有り難うございました。感謝の言葉とともに、お祝いの粗辞とさせていただきます。おめでとうございます」。

 一九七五年一月、詩人清水昶と「週刊読書人」誌上で対談(「白夜の時代と挽歌の時代」)している。私の処女歌集と同じ一九六九年に刊行された清水の処女詩集『少年』は、全共闘の学生たちによって迎えられた。闘う学生たちの心情(言葉)を先行させていたのである。清水昶は、私がひそかにライバル意識を燃やした詩人であった。七〇年代を称して清水はしらじらとした「白夜の時代」と称し、私は「挽歌の時代」と名付けたのだ。神楽坂の日本出版倶楽部で対談を終えた時には、サントリー「ダルマ」が一本空になっていた。対談を企画した後の文芸評論家小笠原賢二に連れられて、私は初めて新宿ゴールデン街「ナベサン」に案内されている。すでにして七〇年代も半ばに達していたのである。

東京に未練はなきを肩に降る九段の櫻 白山の雪

 この冬、私はこんな歌を作っている。三十二歳を迎えようとしていた。
 三月二十九日、思想家(文芸評論家)村上一郎が白昼自室で自刃した。日本刀で右頸動脈を切断したのである。短歌を近代現代文芸の主軸に置き、現代短歌を熱く鼓吹してやまない人でもあった。数日前、私は月刊誌「現代の眼」に載った氏の評論を読んだばかりである。そこにはこう書かれていた。

 バリケード戦から山の中の住職になったとかいう、さして珍しくもない履歴で虚名を得た福島泰樹のその後を考えると泪がしみてくる。わたしは、彼の知らないうちに彼と「同志」的かかわりをもったこともある。

 氏が亡くなられる少し前、手紙をくださった。前年十一月に刊行した第三歌集『晩秋挽歌』への鄭重な礼状であった。そこには、こんなことが書かれていた。要約するなら、あなたの年齢を私は、正確には知らない。しかし私とは二十歳は違うはずである。四十歳を過ぎると歌に余分な肉が付いてくる。それを防ぐには、三十代のうちに出来るだけ多く歌を作っておかれるように。最後に、「お大事に」と書かれたあったのが、妙に気になっていた。
 人が生きてゆくための精神の基底をなしているのが時代であるならば、その時代が、一九七〇年を境に変容をきたしはじめていた。そんなことが死の引き金となったのではないのか。元海軍主計大尉村上一郎にとって、時代とは、むろん精神、志[こころざし]の謂いである。
 私の中に挽歌の風が吹きまくっていた。この春、私は、「風に献ず」五十一首を一気になしている。

絢爛と散りゆくものをあわれめば四月自刃の風の悲鳴よ
その人のやさしさゆえに昂りて「志気と感傷」薄明に閉ず
この辛き時代にありて志を問わば君を真紅に染めしものはも
桜三分窓より眺め刈られおる一厘五毛の電気バリカン
切り捌[さば]く切首切肉[きりじし]霧時雨 霧籠む男の春の夕暮
思想的変更変節 引越をするまたわれを蔑むな風

 この頃、報恩橋の西側の空地にプレハブの書斎を建てている。東側の窓からは愛鷹山を臨み、西側には、二反歩ほどの妙蓮寺の原野、その向こうには広大な田圃が連なっていた。川に面したこの書斎で私は、思い出深い作品の数々を書き殴っている。六月、東洋大学で講演の後、処女歌集の朗読を試みている。ベートーヴェン「熱情」をテープに吹き込み、ワルター・ギーゼンキングのピアノ演奏で、朗読したのであった。秋には早稲田祭で朗読。そしてこの年の冬、シンガーソングライター龍と出会っている。岡井隆を豊橋に訪ねたのも、この年のことである。話は、浜松の村木道彦を入れて東海道の三人で同人誌「IF」を作ろうということに及んだ。十一月、次女朋子が誕生している。
 本堂落慶を成し遂げたという安堵ゆえであろうか。

流浪とや悲しかりける同胞[はらから]よ一期を燃えてゆきたかれども
雨の朝 過ぎし時間の千の束ガラスの窓に折れて散りゆく
夏は草 冬は紅葉をかき集め感傷なれど生きてゆかんよ
西へゆく新幹線もありたるに一日雨と向い合いたる
雨はやんだ やがておもたい夕暮が提灯もさげずまたやってくる

 プレハブの窓からは、遙かに陸橋が見えた。みどりに煙る田圃の上を、新幹線がこうこうと灯を点して通過して行った。この心騒ぎはなんであろうか。「悲しみの連帯」はどうしたのだ。墓守人としてこの人たちをしっかりと看取り、引導をお渡しするのではなかったのか。私の中でそんな自問が続いた。一九七六年二月、私は、第四歌集『転調哀傷歌』(国文社)を纏め、その想いを跋文でこのように綴った。

 一九七四年春から七五年春に至る、ほぼ一年間の作品をまとめて、正直、東京への思慕はつのるばかりです。もしかしたら、東京は雪かもしれない。朝、いまにも時雨れそうな庭に出て、ふとそんなことを想った。東京を離れ六度目の二月、愛鷹山の頂に雪の積もることはあっても、この山麓の村に雪の降ることはなく、過ぎにし方に、きさらぎの雪をたむけたいという願望は、叶うことはない。

 処女歌集の端緒となった早大闘争から数えて十年、愛鷹山麓の村に移り住んで六年。一つの時代への別れ、そんな感慨が、私の中に確かに在った。思い起こして、一九七六(昭和五十一)年は、私の中でこれまで、うごめき蓄積されてきたのが一挙に噴出した年であった。
 シンガーソングライター龍との邂逅は、やがて「短歌絶叫コンサート」というステージ活動へと発展していった。文芸評論家磯田光一が「中也詩〈短歌変奏〉の試み」と命名してくれた「中也断唱」は、一人称詩型短歌の超克を問う「非人称のエレジー」という文体を生むに至った。それはやがて、短歌絶叫コンサートと競合しつつ、寺山修司、たこ八郎、中原中也、磯田光一、坪野哲久、石原裕次郎、美空ひばり、木村三山、村山槐多、中上健次、高橋和巳、宮沢賢治、石和鷹、萩原朔太郎、石川啄木、春日井建、渡辺英綱、小笠原賢二、塚本邦雄、菱川善夫、バトルホーク風間、長澤延子ら「死者との共闘」(菱川善夫)へと発展してゆくのである。
 『転調哀傷歌』『風に献ず』と二册の歌集を手がけてくれた田村雅之を通し、国文社に「現代歌人文庫」の企画をもちこみ、その編纂に着手し始めたのもこの年のことであった。
妙蓮寺内「反措定出版局」は、三枝昂之、伊藤一彦歌集の後、浜田康敬『望郷篇』、三枝浩樹歌集『朝の歌』、賀村順治歌集『狼の歌』と陸続と処女歌集を刊行し、解説付き新鋭叢書の典型をつくりあげた。
 秋になって音楽雑誌社から、LPレコード『キングクリムゾンの宮殿』他が送られてきた。これを聴いて短歌を作れという注文である。すでに、この夏、「ニューミュージック・マガジン」からの依頼で『ビートルズ全集』を聴いて「Hell0,Goodbye」十九首をなしている。ビートルズにも出会うことなく過ごしてしまった青春であった。三十三歳になって、初めてその歌声にこころ打たれたのであった。
 キングクリムゾンは、一九六九年に結成され、七四年に解散した英国のロックバンドである、ということを初めて知った。プレパブの書斎で聴いた。体中に衝撃が走った。時代への哀切きわまりないエレジーではないか。私は、苦悩を吐きつけるように、自己を断罪し、ノートにペンを走らせていた。

    夕暮

    キング・クリムゾンを聴きながら

この秋は紅葉黄葉ふらしめて掃くこともなく過ぎゆきにけり
    風に語りて I talk to the wind
俺もついに口惜しみの灯を燈しけり暗澹ランタンカンテラを提げ
愚かしや愚かしけりやと呟いて過ぐる今年の秋の日暮は
葦原を駆けてくる風こうこうと無念拭わず冬に入り来も
万物は冬に雪崩れてゆくがよい追憶にのみいまはいるのだ
ああなにもなにもなければ沢に立ち万巻の書をなど想いけり
    闇黒 Starles
時はいま 晩秋にして祈れるははれるや晴れぬ永遠の闇
苦悩から逃れるために人の死を願いてわれの寒[さぶ]き唇
死を賭して詩を書く者を肉叢[ししむら]の傷みもせぬに救えと言うや
せめて死者から直[すぐ]なる精神[こころ]まなびなん村上一郎高橋和巳
まさに肺腑に沁みるという表現が適切なりき酒に溺れて
    赤色 Red
吾はわが口惜しき砦なるゆえに炎の語彙も吐き捨てずおり
    月光の娘 Moon Child
村人を欺き親を裏切って月光の中溺れるごとく
    墓碑銘 Epitaph
この秋は紅葉黄葉ふらしめてただ過ぎゆけと祈るばかりよ
予定調和観念調和を唾棄しつつ静かに聴けり俺の「墓碑銘[エピタフ]」
音楽の終りし頃に女三人従えわれは夕餉にむかう
おんなおみなおなごはいかがききと啼く尾長さびしき夕べとなりぬ

 この村に来て七回目の正月を迎えた。二十七歳で単身赴任した私も、二女の父親となり三十四歳の春を迎えようとしていた。しかし私の胸は鬱々として晴れることはなかった。この人たちになんと伝えたらいいのだ。歳晩、東京下谷法昌寺住職露木泰隆(和光院日輝)上人が遷化され、その後任にという話が舞い込んでいたのである。空襲で寺を焼け出された寺族が身を寄せた寺でもある。思い悩んで総代小野祐男さんに相談した。

村人を欺き親を裏切って月光の中溺れるごとく

 の一首は、プレハブの書斎で、キングクリムゾンを聴きながら書き上げた「夕暮」四十四首中の一首である。柳沢で最後に書いた作品である。この月は、かって「村の灯もやがて消えなむ月光にしたたか濡れてわが寺はある」と歌った同じ月である。月は見る者の心によって、どのようにでも容量を変じるのである。
 五月になって、宗務院から辞令が発令された。「沼津妙蓮寺住職福島泰樹/任東京下谷法昌寺住職」。露木上人は、長く病床に臥しておられた。東京の法昌寺を復興せよ!という宗命であった。
 私は大いに揺れた。私を信頼し、わずかな檀徒で本堂建立という大浄行を成し遂げてくれた村の人々に何と言ってお詫びしたらいいのだ。親身になって世話をやいてくれたオマッちゃん、操さん、菊江さんら村のお婆さんたち。夕暮、ぶらりっと立ち寄っては、庭の剪定を黙々とやってくれた、飲み友達の御老人マンちゃん。そして、檀家総代の祐男さん、鈴木秋男さん、鈴木千秋さん、世話人の小野秀夫さん、小野利夫さん、小野定雄さん、小野吾作さん、檀徒の杉沢光雄さん、小野豊さん、古谷英一さん、そして毎月二度の題目講、寒行、施餓鬼、御会式と、ことあるごとに寺に参集し、忙しく立ち働き、世間話に花を咲かせた初枝さん、道江さん、弘子さん、里子さん、共に修行をつんできた女衆の人々。
 入山の一九七〇年晩秋から数えて七年の歳月がたとうとしていた。
 死病を克服し前々年秋、大本山に晋山した師父日陽上人の奔走で、後任には太田晴道師が決まった。太田師は、私と学林の同期、しっかりバトンをタッチしてくれることであろう。
 七年前、私が入山した日も村はどんよりと時雨れていた。荷造りは済んだ。
 夕刻、霧雨の中を仕事を終えた人々が三々五々、餞別をもってやって来る。私はといえば、玄関の板の間に詫びるように両手をついたまま、顔を上げることもできずに、涙の雨をぼとぼとと滴らせていた。十数年前に刊行した『弔い―― 死に臨むこころ』(ちくま新書)の頁を開くと、こんなふうに書かれている。

 こんなに可愛がってくださったのに、お別れしなければなりません。身勝手をお許しください。どうぞお元気で一日でも多く長生きしてください。私もまたいつの日か遺骨となって柳沢に帰ってまいります。私もまた歴代住職として分骨され、裏の山の墓地に眠ことになっているからです。そうしたら、また一緒に楽しい時をもちましょう。それまで私も頑張ります。声にならない声を呑み込み、板の間の上に滂沱の雨を降らせていた。

 村の人々を前に、顔を上げることができずに、私はぽたぽたと涙の雨を滴らせていたのである。今までに、こんなに涙を流したことがあったであろうか。
 今朝、矮鶏は鳴いたのであろうか。敬愛してやまない歌人塚本邦雄から「Orange bantam」と命名された夏蜜柑の大木の樹上に睡る矮鶏たちである。羽を窄[すぼ]めて雨に打たれているのだろうか。午前三時半というと、きまって時を告げる矮鶏[とり]たちの鶏鳴に、目を覚ますことももうないのだ。
 一九七七年六月十八日早暁、篠突く雨の中、柳沢を後に東京へ向かった。

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福島 泰樹(ふくしま・やすき)

1943年東京下谷に生まれる。早稲田大学文学部卒。歌人、評論家。歌謡の復権、肉声の回復を求めて「短歌絶叫コンサート」を創出、海外をふくむ1200ステージをこなす。第25歌集『無聊庵日誌』(角川書店)、『福島泰樹全歌集』(河出書房)の他、評論集に『祖国よ!特攻に散った穴沢少尉の恋』(幻戯書房)、『誰も語らなかった中原中也』(PHP新書)、絶叫版CD『福島泰樹短歌絶叫/中原中也』(東芝EMI)、DVD『絶叫總集編/遙かなる友へ』(QUEST)など、著作多数。毎月10日、東京吉祥寺曼荼羅(TEL 0422-47-6782)で、月例「短歌絶叫コンサート」を開催中! 法昌寺住職。

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