第六回 フリーダイビングの旅と道―― 篠宮龍三


1.世界への挑戦 2011-2013

 2011年3月11日、東日本に大地震と大津波が襲った。千年に一度、そして未曾有の大震災となってしまった。自然を前にした時の人間の非力さは身に沁みて分かっていたつもりだが、海で生きてきた人間にとってもあの地震と津波による被害は想像を超えており、自然と海の真の恐ろしさをまざまざと見せつけられた思いがした。海におけるこれまでの経験など何も役に立たないのではないかと感じた。何もわかってはいなかった。打ちのめされた思いだった。

 都内の新木場にあるプールで講習を開始しようとした時にあの大地震が起きた。湾岸地域のためおそらく埋立地だ。これまで経験したことのない凄まじい揺れだった。外に飛び出すと地面は液状化現象を起こし、ひび割れた道路からは真っ黒い水が滲み出ていた。見上げると高速道路では火災を起こした車から煙が上がっていた。大変なことが起きたと身震いした。

 2011年9月ギリシャで世界選手権があった。出場することも、競技人生を続けることも悩んだ。しかし傷ついた日本のためになんとか優勝し金メダルを持ち帰りたいと思った。世界チャンピオンとなって帰国し、少しでも被災地の方々の励みになればと思ったからだ。また自分が競技活動の支援を受けているウエットスーツのメーカー、モビーディックさんは宮城県の石巻市に工場がある。震災当時は幸い工場内の従業員の方々には被害はなかったそうだが、ご自宅などを被災された方もいた。その石巻の方々のためにも頑張らなくてはと自分を奮い立たせた。この年は全てのスポーツの全ての日本人アスリート達にとって日の丸を背負って世界に出る意味合いが違っていたと思う。

世界記録への挑戦 一番大好きなコンスタント種目で。世界記録への挑戦 一番大好きなコンスタント種目で。

 実はこのギリシャの世界選手権では調整がうまく進まず、モノフィンを使用するコンスタント種目の自己ベスト115mを超えることはできなかった。それどころか105mが練習での最高記録だった。そのため申告深度は112mにして無理をしない作戦をとった。ところが試合での到達深度は105m。ペナルティーが課せられ97ポイント。結果的にはメダルには届かず、5位に終わった。
 最初から金メダルを狙い過ぎていたのかもしれない。それに、「いいところを見せてやりたい」という思いもあったのだろう。自分の心の中にある「最高のものが欲しい」「男なら一番を目指せ」というような欲望がその時の自分がとるべき戦略と判断を鈍らせてしまったのかもしれない。
 あとからは何とでも言えることだが、欲をかかず、最初から練習の時と同じく、申告105mにしておけばペナルティーはなく、105ポイントで銅メダルだったのだ。手ぶらで帰るよりも銅メダルでも何かしらのエールが被災地に送れたかもしれない。自分の欲との付き合い方を間違えて、世界への頂がまたしても遠のいてしまった。金メダルを持って帰り日本に元気を届けることを目標に掲げたが、自分はまだまだそこまでの器ではないのだと感じた。

 2012年11月バハマ大会へ出場。これまでバハマでは4回も出場しており、初めて水深100mを超えた相性の良い海でもある。ここでは当時の世界記録125mを超える狙いでバハマに入った。この時は初めてトレーナーさんを帯同させて、コンディション調整を万全の体制とした。トレーナーさんには潜る直前も直後にもマッサージしてもらった。これでダメなら、という思いだった。
 試合前までの調整は悪くなかった。しかしそれが仇となったのかもしれない。調子がいいばかりに、先を急ぎすぎた。一気呵成に世界記録へ、という思いが湧いてしまった。その思いはさて置いて、まずは目の前の1m、2mを確実にとること。世界記録よりもまずは日本記録、アジア記録をしっかり積み上げていくこと。いつも基本は変わらない。「ゆっくりと確実に」これはジャックの言葉だ。世界記録を目指すあまり、手元、足元がおろそかになってはいけないのだ。またライバルたちの動向も気になっていた。
 試合の直前から調子が下降し始め、結局、試合では105mが最高記録となった。自己ベストに10mも及ばない記録だった。一度は縮まったかに見えた世界への頂がまた遠のいていく。今回は意気込みも費用も大きく掛けた分、落胆も大きかった。どうしてもうまくいかない。何か根本的な間違いを犯しているのかもしれない。

 2013年5月カリビアンカップ、ホンジュラスへ。コンスタント種目での世界記録のみに集中しすぎており、少しメンタルをリフレッシュさせる必要性を感じていた。リハビリ、と言ってもいいかもしれない。そこで「コンスタントノーフィン」というフィンを使用せず、平泳ぎのスタイルで潜る種目にチャレンジした。そこで56mという日本新記録をマークすることができた。実に、日本新自体は2年ぶり。世界記録と比較すれば大したことはないささやかな記録だがこれまで自信を失っていた心が少し上向いた。そして10月にはバリ島での大会へ。またトレーナーさんを帯同させて、万全の体制をとる。メンタル面でも共に戦う同士がいるだけで心強かった。世界記録はまた1m更新され126mになっていた。ロシアのアレクセイ・モルチャノフ選手が打ち立てた記録だ。ここからは127mが世界新記録となる。現実的にそこまで一気に記録を伸ばすのは厳しくなってきた。しかし少しでも自分の記録を伸ばし近づけたいと思っていた。できれば120mくらいまで持っていきたかったが、流れの強いバリの海に翻弄され、結果的にはコンスタントで106mとなった。とはいえこの種目で優勝することができた。自己ベストの更新はできなかったが、先へ向けてとてもいい感触をつかむことができた。結果オーライかもしれないが、勝利の味は何物にも代えがたい。

カリビアンカップ2013 コンスタントノーフィン種目で56mのアジア新記録達成。カリビアンカップ2013 コンスタントノーフィン種目で56mのアジア新記録達成。

2.撤退戦 2014−2016

 全てのことに始まりがあり、終わりがある。自分の残り時間はあとどのくらいなのだろうか。プロのアスリートは長くても20年前後の活動期間しかない。実に一般的な職業人生の二倍の速さで時間が過ぎることになる。この1日は2日分に相当する。そのことを思うと1秒たりとも無駄にはできない。そしてフリーダイビングは外洋へ出てトレーニングする必要がある。だがその日の気象、海象、自分の体調は一定ではない。つまり毎日トレーニグはできないのだ。海と自分のコンディションがバッチリ合っている時を狙ってトレーニングする。べた凪の日は値千金だ。荒れている日は絶対に無理はしない。焦る気持ちをおさえ「待てば海路の日和あり」とそんな気持ちで陸上やプールでトレーニングする。海で1m記録を伸ばすのはとても根気がいることであり、その1mはとても貴重な伸び幅だと言える。その1mは海からのプレゼントなのだ。

 2014年12月、バハマ大会へ出場。プロ選手として世界を舞台に戦い、表彰台に立ち続けること、そして自分の記録を更新し続けること。これができなくなったら潔くやめようと思っていた。だがまだその時ではない。少しでも長くプロ選手を続けるためには種目や戦略を変えることも時には必要だ。この大会では一番好きなモノフィンを使用するコンスタント種目ではなく、素手と素足の平泳ぎのスタイルで潜るノーフィン種目のみに集中した。この種目はこれまでおろそかにしてきたのでここでアジア記録を伸ばしたいという思いがあった。100mを超えるような大深度ではなく、この種目では60m前後からの調整となる。心もどこかリラックスしていた。100m付近にはやはり言い知れぬ恐ろしさがある。調整も試合も比較的順調に進んだ。まずは初トライで60mそして65m、最後に66mのアジア新をマークした。70mには届かなかったのが心残りだが、前記録に比べると10mの上乗せとなった。復調への手応えをつかみ始めていた。

バハマ大会の行われるブルーホールにて。バハマ大会の行われるブルーホールにて。

 2015年4月バハマ大会へ。年が明けてまたすぐにこの海に戻ってきた。今回もまたノーフィン種目での記録の更新を目指していた。そのため、一番好きなコンスタント種目で使用するモノフィンも日本から持ってこなかった。仲間たちからは「え? モノフィン持ってこなかったの?」と何度も聞かれた。
 競技会というのはいつも相対的な要素が絡んでくる。メダル候補のライバルやその総数。そしてこちらの戦略として、1種目での記録更新か3種目での総合得点ランキングで表彰台を狙うのか。エントリーした選手リストを見て、今回は総合で表彰台も狙えるかもしれないという気がした。また、当初はノーフィン種目のみに集中するつもりだったが、途中から自分のコンディションや戦況をみて3種目の総合にターゲットを変更することもありうると思っていた。
 まずは予定通りノーフィン種目にエントリーし、62mクリア。ライバルたちはあまり調子が上がっていない様子。そのため、次の種目として潜行ロープを腕で引っ張りながら潜るフリーイマージョン種目にエントリー。90mをクリア。やはりこのくらいの水深になると身も心も引き締まるが、通い慣れた道のような感覚があって親しみがある。深い海に帰ってきたのだ。心は踊る。調子は上がってきた。ここは3種目総合へのエントリーにチャレンジするべきだと思い、最後はコンスタント種目へ。

 だが自分のモノフィンはない。そこでアメリカ王者のロバート・キング選手に相談すると快く自らのモノフィンを貸してくれた。長年ともに世界の海で戦ってきて、彼の人となりを分かってはいたが改めていいやつだなと感じた。ライバルが有利になってしまうが自分の器材を何のためらいもなく貸してあげるのだ。フリーダイビングの世界のコミュニティーにおいてこのような助け合う精神は珍しいものではない。お互いに命を預け合う大切な仲間であり「困ったときはお互いさま」という精神性があるスポーツなのだ。これこそが勝ち負けを超えた価値なのだ。このスポーツの原点と言える。

 ロバートのおかげでコンスタント種目で95mをマークした。そして強豪が集うバハマ大会で初めて3種目総合でメダルを獲得した。銀メダルだ。この大会で銀、というのは実質的には最高位に値すると言われている。なぜならこの島には絶対的な王者であるウィリアム・トラブリッジ選手が10年ほど前に母国ニュージーランドから移住し試合会場のブルーホールで毎日のように潜っている。彼は大会主催者でもあり、当然のように金メダルを独占しているからだ。なので、狙うのは銀か銅か、というのが現実的な戦略となる。この大会は地形的にも最も記録が出やすい大会で、競泳やスピードスケートで言えば高速プールや高速リンクのような会場なのだ。したがって世界各国の猛者たちが集まってくる。
 この大会でアジア人初の総合種目のメダルを獲得した。バハマ大会に出場し始めてこれで7回目。ようやく掴んだメダルだった。3種目ともに自己ベストには及ばない記録だったので記録自体は満足いくものではないが、戦況をみながらフレキシブルに戦略を変えて、最後は「借り物競走」までしてフィニッシュできたのが自分としては満足だった。単独種目での記録更新にばかり目がいっていたらこのような結果にはならなかった。視点を変え、そこにある欲を捨てることによって新しいステージが見えた。なにものにもとらわれない自由な発想で戦略を変えて最後は表彰台に立つ。これまで力で押してきた戦い方から脱却し、少しは成長できた気がした。「モノフィンを持ってこない」=「コンスタント種目には出ない」と思わせておいて、最後に借りたモノフィンで潜る。ちょっとトリックスターみたいだが、うまく戦略がハマって勝てて、言い過ぎだがまるで諸葛孔明にでもなったかのような気分だった。

バハマ大会2015 総合準優勝バハマ大会2015 総合準優勝

 2016年4月バハマ大会へ。前年のバハマ大会では総合で銀メダルを獲得し、ビジター参加者としては実質的なトップとなった。運も大きく味方してくれた。もうこれ以上できることはなにもないだろう。美しいバハマの海、陽気なローカルたち、世界のトップダイバーたちにお別れを言おう。自分の力の限界を自分で認めよう。その時が来たのだ。
 
 かつての師匠で元世界王者のウンベルト・ペリザリが開会式に来てくれた。引退後も多忙を極める彼は数年前から開幕宣言のオファーを受けていたそうだが、ようやく今回来島が実現した。ウンベルト師匠にこの大会で引退することを告げた。「なぜ、まだできるだろ?」と言ってくれたが、「自分には待っている人がいる。娘のためにこれから頑張る」と伝えた。「自分の現役時代には家族はいなかったから想像するしかないが、待っている人がいると難しいだろうな」「思うようにしなさい。自分の瞬間を追いかけるんだ」と最後に言ってくれた。いつも彼は大きな節目の時に現れて背中を押してくれる。師の一言はいつも偉大だ。

 そして現役最後の大会、最後の10日間が始まった。今回はあらゆる戦況を想定した。もちろんモノフィンも持ってきた。3種目総合か単独種目か。ライバルの出方を見ながら柔軟に戦略を変えていこうと思った。もはや何の欲をかく必要も、カッコつける必要もない。勝機の流れを読み、3種目のうちで最も表彰台に上がりやすいものをまずはターゲットにしようと思った。選手は10日間の大会期間中6回潜ることができる。若手の選手は最後まで調子や記録を伸ばし続けることもできるが、自分はもはやその年代ではない。調整期間中にある程度まで仕上げ、疲れが出始める前に、前半であらかた勝負をつけた方が良いと判断した。今回はライバルの潜りを見ていると、フリーイマージョン種目に勝機があると感じた。この種目の自己ベストは104mなので105mを目指す。

 大会初日は緊張感もあるのでまずは96mの申告。無事にクリア。そして2本目は体調が思わしくないのでキャンセル。2日間の休みを入れて再チャレンジ。3本目、99mへチャレンジするも耳抜きがうまくできず87mで引き返した。4本目は、ここで気分を変えようと思い、モノフィンを履いて大好きなコンスタント種目にエントリー。101mへのチャレンジだったが、耳抜きがうまくいかず82mでターン。島で流行りの風邪をもらい調子の波が崩れてきた。疲れも出てきた。ここで焦らずにまたフリーイマージョン種目に戻す。5本目98mクリア。そして最終日は100mの申告。最後は大台で終わらせようと思った。しかしコンディションは戻らず94mで引き返した。
 浮上中は「あーやっぱりダメだった」と思いつつもなぜか幸せな気持ちに包まれていた。いつもより海が優しく感じた。「これで全てが終わったんだ」「生きて娘のもとに帰れるんだ」と水中で思った。失敗したけれど、最後までこの海の感触を味わいたい、ずっと忘れまいと思った。結果はこのフリーイマージョン種目で銅メダルとなった。ギリギリかもしれないが結果が残ったことに安堵した。リスクを最小限に減らし、今できることで結果を最大化することができたと思う。

 過去の記録や自分を捨て、欲も捨て、はじめて立つ瀬もあるんだと知ったこの3年間だった。それまでは積極的、能動的な戦術の立て方で、力技でガツガツ猪突猛進する時もあった。しかしこの3年ほどはそのやり方では自分の年齢とコンディションで戦えないと判断し、現場の戦況に合わせていく方針になった。消極的で受動的かもしれないが、それでもこれまでの経験と知恵を絞って勝機を見出すことができるんだと実感した。フリーダイビング競技の奥深さをまた一つ垣間見た思いがした。最後にまた成長させてもらった、ありがたいと思った。

3. 引退

 怖いけどそこに行きたい。行きたいけど怖い。記録を追求し始めてからずっと、そんな恐怖と欲の間を行ったりきたりしながら18年間潜ってきたような気がする。目標と恐怖は表裏一体で、大きな目標を追い求めれば必ず大きな恐怖がやってくる。あそこまで到達したい、と大きな野望を抱けば、やっぱりできないかもしれないと尻込みして逃げたくもなる。そんな怖がる自分を否定して見ないようにしてきたのかもしれない。そのうち次第に恐怖が澱のように心の底に溜まっていきうまく代謝できなくなっていった。

 海は予断を許さない。人知を超えた何かがある。例えどんなに厳しく安全管理を徹底していてもわからないことだらけだ。致死的なアクシデントに繋がりかねない場面をいくつも体験してきた。たくさんの仲間たちが海で命を落とした。帰って来なかった仲間もいる。その度に、もう会えない寂しさと、もっとこうしていれば、という思いに駆られた。そしていつも言いようのない不安感に襲われた。次は自分の番なのではないかと。その度に競技を辞めたくなった。

潜る前のコンセントレーション。潜る前のコンセントレーション。

 若い頃は死を恐れることは弱気なことだと思っていた。ずっと自分の中の不安や恐怖と戦ってきたのだと思う。そして蓋をしてきたのかもしれない。そしてもうこれ以上あの怖さと向き合わなくて済むのだと思うとホッとする。今はもうそんな弱い自分を受け入れようと思う。そんな自分もまた自分の一部。弱くて小さな子どものような自分を許そう。受け入れよう。もう良いんだよ、よく頑張ったねと。もうこれ以上追求するものはない。競技人生の最後の方は潜りながら心の中で「もうやめても良いよ」と声が聞こえていた。自分の限界までチャレンジしたじゃないか。生きて終えることができて良かった。

 1976年11月、ジャック・マイヨールが人類初の水深100mダイブを達成した。1976年11月生まれの自分は勝手に運命を感じ、彼のフォロワーとしてアジア人で初めて100mに行こうと決心した。競技を本格的に始め、その冒険は10年かけて2008年に100m、101mへ。そして2009年に105m、ついにジャックの記録に並んだ。同年には107mへ。2010年には108m、115mと続き、その先の世界記録まで繋がると思っていた。時間と努力を積み重ねれば乗り越えられないものはないと無邪気に思っていた。しかしそれだけでは達成できないものもあるのだと知った。
 また、ジャックを心から尊敬し彼の記録を目標としたことと、世界記録へチャレンジすることは別の目標として捉えるべきだったのかもしれない。ジャックか世界記録か、どちらかをまず最初に決めて人生を掛けるべきだった。憧れのジャックの記録に並び、越えた先に世界記録が見えたような気がした。しかしもうそこに行くだけの力は残っていなかった。もう遅かった。だがジャックの記録を無視するかのように踏み越えることはどうしてもできなかった。今はそれで良かったと思っている。

 いま、海が好きでたまらない、競技者として海と接していた時よりも。穏やかな気持ちで海と向き合っている。もっと海を知りたいと思う。世界の海は広い。七つの海を全て潜りたい、フリーダイビングで。同じ哺乳類の仲間たちであるたくさんのイルカやクジラたちに会いに行きたい。海に沈んだ遺跡や洞窟を探検しに行きたい。これまで追求してきた世界とはまた違う何かがある気がしている。

世界の海でイルカやクジラたちと泳ぎたい。世界の海でイルカやクジラたちと泳ぎたい。

 上り坂だけが競技人生ではない。下り坂にも心豊かな時間があると知った。上り坂には上り坂の戦略があり、下り坂にも下り坂の戦い方がある。足りない何かを補える経験知も生まれてくる。足りない力を知恵で補い、戦略通りに勝てた時は軍師にでもなったようで痛快だった。新しい世界だった。上り坂と下り坂を経験し、競技人生は実際の人生の予行演習のようだと思った。

 あらゆる方法を試し、人生をかけて何度も世界へ挑戦してきたが、世界記録保持者となることはできなかった。もう手が届かないものの後ろ姿を見送ろう。夢の背中を笑顔で見送ろう。最後のダイブで全てが終わったと思った時、目に見える景色がとても優しく見えた。人も海も。そんな気持ちで競技を離れることができてとても幸せだと思う。

 来し方を振り返ることは決して悪いことではない。競技人生の最後はむしろ本当の自分に出会える。本来の姿が見えてくる。それはとても貴重な時間だ。ひとつの旅は終わってしまったけれど、全てが終わったわけではなく、これからが本当の道の始まり。別れが与えてくれるものもある。ゲームは終わっても海から学ぶ旅に終わりはない。これからが私にとって本当のフリーダイビングの道が始まる予感がしている。

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リレー連載著者略歴一覧

井上ウィマラ(いのうえ・うぃまら)

1959年山梨県生まれ。京都大学文学部宗教哲学専攻中退。日本の曹洞宗とビルマのテーラワーダ仏教で出家して、瞑想と経典研究に励む。カナダ、イギリス、アメリカで瞑想指導をしながら心理療法を学ぶ。バリー仏教研究所客員研究員を経て還俗。マサチューセッツ大学医学部で瞑想に基づいたストレス緩和法の研修を受けて帰国。現在は高野山大学で人生全般に応用できるスピリチュアルケアの基礎理論と援助法の構築に携わっている。

篠宮龍三(しのみや・りゅうぞう)

1976年11月11日、埼玉県出身。法政大学卒業後、東京で会社員をしながらフリーダイビングの競技を続ける。現在はヨーロッパを中心に数々の国際大会を転戦。2008年にバハマ バーティカルブルーにてアジア人初の水深100m越えを達成。史上7人目となる100mダイバーとなる。2009年の世界選手権期間中に107mのアジア記録を達成、ジャック・マイヨール越えを果たした。2010年4月、バハマで開催されたバーティカルブルーにてアジア人未到の115mの大記録を打ち立てた。2010年6月には、アジア初・日本初の世界選手権を大会オーガナイザーとして開催した。

戸髙雅史(とだか・まさふみ)

1961年、大分県生まれ。登山家、野外学校FOS主宰。1996年オペル冒険大賞受賞。ヒマラヤに宇宙を感じ、山との融合を求め、高峰に登り続ける。標高8,611mのK2峰単独登頂(’96,世界第2登)など八千メートル峰四座に無酸素登頂。’98年、チョモランマ峰北西壁にてビバーク中、生きるべき世界はいのちのつながりのなかにあると直感。過去や未来(意識)の介入しない現在[いま]…そこにいのちの本質をみ、瞬間性に満ちた自然という場での体験活動や、即興の音やリズムを交えた講演・ライブなどを通して参加者の方と体験を分かち合っている。

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