第六回 前言語への志向

 ICG(国際作曲家組合)という試みを経て、ヴァレーズはさらに大きな展開を図ろうとしていた。40代という、一般的にいえば作曲家としてもっとも脂の乗った時期にあたる1930年代のヴァレーズは、しかし、破天荒なまでに自由で新しい作品を希求するがゆえに様々な壁にぶつかり、若い頃とは違った形の挫折をいくつも体験することになる。結果として、作品数は激減することになるのだが、他方で、こうした未完のプロジェクトの中にこそ、ヴァレーズという稀有な音楽現象を解く鍵が隠されているのも事実である。その鍵のひとつを「前言語への志向」と名付けて観察してみたい。

■イタリア未来派との関係
 そのまえにひとつ片付けておかなければいけない問題がある。しばしばヴァレーズと並べて論じられることの多いイタリア未来派との関係だ。
 未来派の活動が始まるのは、ヴァレーズがベルリンで右往左往していた頃にまでさかのぼる。1909年2月29日、詩人フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティがパリの「フィガロ」紙に「未来主義創立宣言」を電撃的に発表。「世界の華麗さが新しい美によってゆたかになったことをわれわれは宣言する。それは速度の美だ。爆発音をとどろかせる蛇のような太い管で飾られたボディをもつレーシング・カー……咆哮をあげて機銃掃射のうえを走りぬけるような自動車は『サモトラケのニケ』像よりも美しい」*1。機械を、速度を、都市を、そして戦争を熱烈に賛美する運動は、こうして始まった。
 運動は翌1910年にはトリノの「未来派画家宣言」に発展するが、この初期未来派は、もっぱら詩人と画家が中心になっており、当然ながら詩や美術作品がその成果として提出されていた。音楽における未来派が本格的に台頭するのは、1913年3月11日、ルイジ・ルッソロが論文『未来派騒音音楽宣言』を著し、そして同年6月2日、モデナのストルキ劇場で、騒音楽器であるイントナルモーリのお披露目を行ってからのことである。
 この「イントナルモーリ」にはいくつかのタイプがあるが、もっとも基本的なのは歯車状の回転物に板を押し当てるなどして、ガリガリ、ゴーゴーといった騒音を発生させる楽器である。この場合、当然ながら回転数が上がれば音高は高くなり、低くなれば下がる。また、全体のサイズが大きくなれば太く低い音を出すことが可能になる。ヴァイオリンからコントラバスまで様々なサイズの楽器が集まる弦楽合奏と同じように、彼はこのあと数年にわたって、様々なサイズ、様々なタイプのイントナルモーリを制作することになる。
 最初の正式な音楽会が催されたのは1914年4月21日。ミラノにおいて、ルッソロとマリネッティによる「未来派音楽会」で16台のイントナルモーリによる多彩な騒音が響き渡った。この演奏会はその後、ウィーン、ベルリン、パリなどへのツアーが計画されていたのだが、第一次大戦の勃発によって中止。それでも1915年2月、やはりミラノで開かれた演奏会にはストラヴィンスキー、ディアギレフ、マシーン、プロコフィエフらが顔を出しているから、既にこの楽器はヨーロッパ音楽界において一定の注目を集めていたことが分かる(もちろんロシア・バレエ団のディアギレフは、この新楽器を自らのバレエに組み込む可能性を考えて、偵察にきていたわけである)。
 この時期までは、未来派の音楽はイタリアのみにおいて「演奏」されていたわけだが、第一次大戦後の1921年6月17日、27日、28日には、ついに3日間にわたってヨーロッパの首都パリでイントナルモーリ29台による演奏会が開かれ、爆発的な話題をよぶに至った。演奏会のプログラムには、ルッソロ作品に加えて、その兄アントニオの作品や、ヌッチォ・フィオラの作品が含まれており、客席にはポール・クローデル、ミヨー、ストラヴィンスキー、ラヴェルなどの名士が顔を見せたという*2
 もともとは画家としてキャリアを出発させたルッソロは、マリネッティの未来派運動に共鳴するとともに、騒音楽器のイントナルモーリ、そして後にはノイズの出るオルガンである「ルモラルモニウム」を開発することになるのだが、してみると彼もまたバルザックの描く「ガンバラ」的な人物の一人といえるのかもしれない。
 ルッソロは「未来派騒音音楽宣言」の中で、次のように述べる。

今日、音楽芸術はきわめて不協和で、きわめて奇怪で、そしてはげしく軋るような鋭い音の混合をこころみている。こうしてしだいに騒音の音楽へとわれわれはちかづきつつあるのだ。音楽のこのような進化は、人間の労働とふかく関わりをもつ機械の増殖的な増加と平行しているのである。大都会の騒然としたアトモスフェアのなかにも、またかつては静寂のなかで眠っていた田園にさえも、今日、機械は無数の騒音を創りだし続けている。*3
 すなわちルッソロが「騒音」に着目するのは、それが未来派の賛美する「都市・機械・速度」と直接につながっているからということになろう。
 きわめて興味深いのは、ヴァレーズと同じく、このルッソロもブゾーニの思想に影響を受けていたふしがあることだ。田野倉稔は「……ルッソロはただ生活の中のノイズを再現して既成の音楽の内部に導入しようとしたのではなく、音楽として成立するノイズ、つまり音=ノイズを創造しようとした。ノイズの音色やリズムは無限であるし、音階も半音階以上に細分できると考えた。ブゾーニの1オクターヴ=36音音階の主張がこの背景にあると思われる……」と述べている*4。ルッソロがブゾーニの「新音楽美学試論」を読んでいたかどうかは不明であるが、マリネッティとブゾーニは1912年の5月にベルリンで直接会っているから、当然、ルッソロにもブゾーニの思想はもたらされていただろう。また、ブゾーニ自身も、未来派の絵画を所有するとともに、1912年9月には「音楽芸術の未来派」という文章を発表し、未来派の音楽家たちが微分音に興味を持っていることについて触れている。
 さて、サイレンの響きや打楽器の多用などによって、ヴァレーズは時としてこの騒音音楽の「追随者」、あるいは逆に「元祖」、あるいは精神的な「同僚」とみなされることがある。確かにその音楽はブゾーニという共通の根を持った、遠縁の親戚と言い得るかもしれないのだが、少なくともヴァレーズは未来派の音楽についてははっきりと否定的だった。
 例えば晩年の1955年になってから、ヴァレーズは「ミュージカル・クォータリー」誌のエディターに向けて、以下のような手紙を出している。これは、その前号においてヘンリー・カウエルが「ヴァレーズは未来派と1913年に共闘していた」と述べたことに対する補足的な反論である。

 1955年6月26日

 ……カウエル氏は不正確にも、1913年にミラノで書かれた未来派宣言と私の間に関連があるかのように述べています。私はいかなる意味でも未来派の運動と関わったことはありません。そして、マリネッティやボッチョーニの生気あふれる精神自体に敬意を表することはやぶさかではないものの、彼らの考えにはまったく反対ですし、「イントナルモーリ」なるものに関心を持ったこともありません。すでに私は1917年6月に、雑誌「391」の中で、以下のように書いています。「なぜイタリアの未来主義者たちは、単に我々の日常に転がっている浅薄でありふれたものばかりを、卑しく模倣するのだろうか。私は、斬新な音色を作ることが可能で、私の内なるリズムのいかなる結合にも役にたつような楽器をこそ、夢見ているのだ」。あなた方も知るように、電子楽器の進歩によって、私の夢は徐々に現実化されつつあります。あらゆる美学的な派閥とその命令を常に避けてきた身ゆえ、この訂正を掲載していただければ幸甚に存じます。*5

 この投書が掲載された1955年といえばヴァレーズが68歳を迎える年であり、既に未来派は影も形もなくなっている頃なのだが、おそらくは「未来派から影響された」と様々な場所で書かれることに、ほとほと嫌気がさしていたのだろう。そして実際、「391」よりもさらに前、アメリカに移住した直後のニューヨーク・テレグラフ誌1916年3月号のインタビューにおいても、ヴァレーズは未来派を厳しく批判し、次のように述べている。

我々の音楽のアルファベットはさらに豊かにならなければいけない。我々はまた、新しい楽器を痛切に欲している。この点において、イタリアの未来主義者たちは大きな間違いを犯している。新しい楽器は様々な結合を可能にするものでなくてはならず、単に日常的に聞こえる音を思い起こさせるものであってはならない。楽器というのは結局、表現のための手段にすぎないのである。音楽家たちは機械の専門家たちの助力を得ながら、この問題に深く熱心に取り組むべきだ。*6
 ヴァレーズ自身の言葉を引用するまでもなく、彼が未来派から何らかの影響を受けたという痕跡はほとんどない。
 確かにヴァレーズはサイレンを用い、打楽器のみによる曲を書いたけれども、彼はそれを「騒音」だとは露ほども思っていなかった。サイレンは危険のシンボルでも機械賛美でもなく、単に「純粋なカーヴを描く音のために」使われているのだから。また、そもそもヴァレーズの音楽は、最初期の消失作品を除けばほとんど標題性を持っておらず、ルッソロ作品の「自動車と飛行機の出会い」「都市のめざめ」といった類のタイトルと無縁であることも指摘しておかねばならない。そして、さらに想像をたくましくするならば、やがてはムッソリーニのファシズムの中に暗く沈んでゆく未来派の在り方に、ヴァレーズが当初からきな臭いものを感じ取っていた可能性もあろう。根本のところでは意外なほどにナイーヴな音楽観を持っているヴァレーズの場合(なにしろ生涯にわたってルネサンス音楽やドビュッシーを好んだ作曲家である)、ルッソロ流の騒音は取るに足らぬものとして映ったことは想像に難くない。
 もっとも、ユルグ・ステンツルも正しく指摘するように*7、そもそもヴァレーズは1916年から1917年という時点においては、さして未来派音楽について知らなかったはずなのだ。
 ヴァレーズが1913年にベルリンからパリへと移り住んだことは確かではあるし、おそらくはこの時にパリでルッソロの「宣言」に接したものと思われるのだが、しかしルッソロは第一次大戦が終わるまではイタリア国内で活動している*8。一方のヴァレーズは1915年にフランス軍に徴兵されて数ヵ月後には除隊、そして1915年の12月になるとニューヨークに渡ってしまう(彼が再びフランスに戻るのは1924年を待たねばならない)。この足取りを考えると、ヴァレーズが、アメリカに渡る前にイントナルモーリを聴くことは、何か特別に私的な機会がなかった限りはほとんど不可能なのである。してみると、ヴァレーズの未来派批判は、単にルッソロの「宣言」に対する批判と考えてよいだろう。
 その後、1928年10月から始まるパリ滞在の中で、ヴァレーズはルッソロと直接知り合うことになった。ヴァレーズの遺品の中には、1929年5月29日という日付の入った、ルッソロの献辞入りの「未来派騒音音楽主義宣言」が見出されるから、おそらくこの時に初めて二人は顔を合わせたのだろう*9。さらに同年の12月27日にパリで「未来派絵画展」が開催された際には、ヴァレーズ自身がルッソロによるイントナルモーリ演奏会の前に説明のスピーチを行っている。こうしたことを考え合わせると、この時点での二人はそれなりに友好的な関係ではあったと思われる*10
 さらに1930年、ルッソロは、ヴァレーズとオネゲルに新楽器「ルッソロフォン」の推薦を依頼する手紙を送っているが(この推薦が果たされたのかどうかは不明である)、いずれにしてもルッソロは1932年には音楽活動を完全にストップしてしまうから、両者が本格的に何らかの関係を結ぶには至らなかったと考えてよい。
 ちなみに、ヴァレーズの精神的な師といえるドビュッシーは、1913年5月というきわめて早い時期に、その評論の中で未来派について触れている。おそらくはこの年の3月に出た「宣言」を読んでの反応だろう。

未来主義の音楽は、現代の大都会のさまざまな騒音を、機関車のピストンから瀬戸物のかけつぎ屋 の鈴の音にいたるまで、大がかりな交響曲のなかに集めようとたくらんでいる。これはオーケストラの団員募集には非常に好都合なことだ。けれども操業中の冶金工場の音(それだけで申し分のない音である)に、いつか匹敵できるのだろうか。*11
 未来派の騒音音楽は、工場の音の美しさには達しないだろうというわけで、なるほど、いかにもこの作曲家らしい辛辣な批評というほかない。一方のヴァレーズは生涯にわたって、こうした皮肉な文章のセンスとは無縁だった。

■音の錬金術:アルカナ
 ICGが終息へと向かいつつあった1925年から1927年にかけて、ヴァレーズはアメリカにわたって2つ目にあたる大規模な管弦楽曲「アルカナArcana」に取り掛かっていた。
 記録が残っている限りにおいて、最初にこの曲の楽想が胚胎したのは1925年10月6日のことである。この日、ヴァレーズは妻ルイスに宛てて、「夢で聴いた」二つのファンファーレのスケッチを送っており、これらは後に「アルカナ」で使われることになったという(ただし、一体どの部分なのかは不明)。また、同じころ彼は、ルイスに次のような手紙を送っている。

アルカナ[当時の彼はArcanesと綴っている]、こんなに厚みがあり、喜ばしい音楽を今まで書いたことがない。力と活気と、そして太陽に満ちた作品。アルカナは今や新しい段階へと進んでいる。まだまだ完成までに時間はかかり、来年の2月には間に合わないだろうが。君に言いたいのは、この曲を作曲するのが本当に幸せだということだ。こんなことは久しくなかった。もうすぐ君に見せる私のアイディアについて、助言や刺激がぜひ欲しい*12
 文中にある「来年の2月」というのは、ICGの第15回演奏会(1926年2月14日)のことを指している。この回はレオポルド・ストコフスキーを指揮者に迎えた管弦楽の演奏会が予定されており、ストラヴィンスキーの「結婚」、バルトークの何らかの作品、そして「アルカナ」が初演されるはずだった。しかし、「アルカナ」の構想が膨らむにつれて、彼はこれをICGで演奏するのは不可能だという考えに傾いてゆく。「残念ながら、アルカナは大オーケストラのための作品になる。『アメリカ』ほどではないにせよ、かなりの大編成になるはずなのだ。ゆえにギルドの演奏会には向かないだろう。私はそれでも構わないと思っている」*13というのである。結局、この第15回の演奏会においては、カゼッラの「弦楽四重奏のための協奏曲」とストラヴィンスキーの「結婚」が演奏されることになった。
 このまま放っておいたら、例によって「アルカナ」もお蔵入りになってしまったかもしれない。しかし、またもやストコフスキーが助け舟を出してくれた。彼は1927年の4月に行われるフィラデルフィア響の定期演奏会の予定の中に、この曲の初演を組み込んでしまったのである。ヴァレーズとしてもこれに応えるほかない。かくして新作「アルカナ」は1927年4月8日と9日にフィラデルフィアで、そして12日にはニューヨークのカーネギーホールでお披露目が行われることになった。
 スコアが完成したのは初演ぎりぎりであり、ほとんどリハーサルの余裕がなかったという。これにはさすがに盟友ストコフスキーも少々気を悪くしたらしい。初演後には「我々はなんとか全部の音は鳴らしました。でも、まだ音楽にはなっていません」と語っている*14。不幸中の幸いといえるのは、フィラデルフィア響のメンバーが、前年に初演した「アメリカ」(初稿版)に比べれば、かなり演奏しやすいと感じたことだった。確かにあの不器用で巨大な「アメリカ」に比べれば、この新作はかなり滑らかで「音楽的」だ。
 また、ニューヨーク初演の2日前に、アンタイルの「バレエ・メカニック」(オーケストラ版)が同じカーネギーホールで演奏されているというのは、面白い偶然のように思われる。というのも、ルッソロの騒音音楽などよりも、むしろプロペラやサイレンが使われたアンタイル作品の方がはるかにヴァレーズ作品と直接的な関連を持っていると考えられるからだ(筆者は、この二人の間には様々な形で相互の影響関係があったものと想定している)。実際、ニューヨークの批評を見てみると、その多くが「バレエ・メカニック」と「アルカナ」を比較するものになっている。いわば、この二人は同じ程度に「ウルトラモダン」な作曲家として見られていたというわけだ。
 ニューヨーク・タイムズの批評家オーリン・ダウンズは「アルカナ」について「ジョージ・アンタイル博士が到達しようとしてもできなかった、十分な音の恐怖を達成したもの」だという皮肉、さらには様々な疑義や注文を述べたあと、しかし意外なことに次のような文章を、ニューヨーク初演の翌日(4月13日)に掲載された批評で綴っている。

ヴァレーズ氏は彼の作品を、古い対位法的原理のウルトラモダンな展開だと考えているようだ。11音からなる旋律が中心的なモティーフである。これが様々な着想を呼び込んでゆく。主要主題に関連したこれらの派生的な着想は、それにもかかわらず和声的、そしてリズム的な「面」の上で独立して展開するのである。しかし、統一と多様というコンセプトに従っていえば、作品全体は確かに中心楽想から生まれており、そしてその展開でもある。ざっくばらんにいって、我々はこの音楽の効果に関心がある。それはとても不格好だが、しかし興味深い。(中略)今までに聴いたヴァレーズ氏の作品では、もっとも面白いものだった。
 ダウンズという批評家は保守派として知られ、実際、初期にはヴァレーズ批判の急先鋒だったわけだが、しかしこの頃から少しずつ、その音楽に心を開いてゆき、最終的にはよき理解者としてこの孤独な作曲家の音楽を見守ることになる。そして、彼のヴァレーズ観が変化し始めるのは、まさにこの「アルカナ」からなのだ。
 もっとも、他の批評は相変わらずである。「サン」誌のJ・W・ヘンダーソンは「昨晩はシーッという不満の声の勃発が、それも断固とした拍手を上回る、本格的なシーッの勃発があった。『シーッ』というのは、この町ではめったに作曲家に対しては授けられない名誉である」といった類の嫌味に終始しているし、スロニムスキーの「名曲悪口事典」には、「ミュージカル・アメリカ」誌に載せられたオスカー・トンプソンの次のような批評が収められている。

聴衆はヴァレーズの「アルカナ」によって、音楽とはおそらくほとんど関係なさそうな音の沼地に飛び込ませられた。(中略)この曲の不協和音には救いがなく、悲鳴と衝突と悲し気な不協和音の連続には慈悲というものがなかった。(中略)火薬の連続爆発によって耳は押しつぶされそうになった*15
 では、この「救いがなく、慈悲もない」とされる「アルカナ」とは実際にはいかなる作品だろうか。不思議なタイトルは、パラケルススの錬金術によって生み出される、神秘的な「元素」、「秘薬」、さらには抽象的な「奥義」といった意味を持つ単語である。パラケルスス(1543?-1591、本名はテオフラストゥス・フォン・ホーエンハイム)は、医療占星術に基づく治療法を唱えた医師であり、同時に錬金術に関する多くの書物を残した人物。その謎めいた生涯、そしてダ・ヴィンチ的な総合性は大いにヴァレーズをひきつけたらしい。スコアの冒頭にはパラケルススの以下のような文章が載せられている。

一つの星が、他の全てを越えて高みに存在している。これは予兆の星である。二番目の星は上昇宮。三番目は四大元素をつかさどる星々であり、かくして六つの星が輝いている。そしてさらにもう一つ別の星、想像の星があらわれる。この星はさらに新しい星を生み出し、新しい天国をも生み出すのである。
 この文言は、のちに観察する「ひとりぼっち/天文学者」のテキストを想起させる点で、なかなか興味深いものだ。楽曲は突然、低音から湧き上がるようにあらわれる11音のモティーフから始まる。7拍子→5拍子→7拍子→5拍子→3拍子→5拍子→6拍子という具合に1小節ごとに拍子が変化し、さらには強烈なシンコペーションを効かせたリズムの反復を金管楽器が担いながら、そこにティンパニを含めると6人の打楽器群が絡みついてゆく。ダイナミックで独創的、そして一度聴いたら忘れられない開始部といえようか。弦楽器はこの中心主題に独特の音色を足す役割なのだが、時には軋むような半音を従えた音型を自ら提出することもある。また、しばしば高音で「アンテグラル」冒頭とそっくりのモティーフが現れるあたりは、ヴァレーズのトレードマークである。
 何より驚くのは、そのオーケストレーションの洗練である。
 「アメリカ」における、いかにも不器用な(もちろん不器用ゆえの魅力があるとはいえ)音塊の連続とは異なり、この「アルカナ」においては、ティンパニのグリッサンドやライオンズ・ロアーといった打楽器の野卑な響きが、流線型を描く管弦楽にぴたりと調和している。また、先の批評でダウンズも述べていたように、冒頭の11音モティーフによって全曲が統一されている一方で、音型の多彩なヴァリエーションが実現されている点も見逃せない。まるで軍楽隊のように鳴らされる木管とシロフォンのアンサンブルは、形を変えながら11音モティーフと重ねられて不思議な音調を醸し出すし、後半部でのクライマックスの追い込みの緻密な設計も特筆に値しよう。
 そして、冒頭部と並んで、この曲でもっとも印象的なのはコーダかもしれない。スコアの最後に至って、ヴァレーズは突如として、調性的に響く悲劇的なファンファーレを置いた。おそらくは誰もが驚くような場面転換であり、異様にオリジナルなバランス感覚だ。
 一方で、この楽曲が他のどんな曲に似ているかと問われれば、多くの人はストラヴィンスキーの三大バレエを挙げるに違いない。実際、口が悪く自信家のストラヴィンスキーは、後に次のように述べている。

『アルカナ』の中にも、私自身が登場するところがいくつかあるな。練習番号9に『ペトルーシュカ』、練習番号5の3小節前に『火の鳥』、そして練習番号17の2小節前、練習番号24の1小節前、そして練習番号19の始まりは『春の祭典』……*16
 熱烈なヴァレージアンである伝記作家のウェレットは、このストラヴィンスキーの言いようにカンカンに怒っているのだが、冷静に聴いてみれば、確かにいくつかの箇所でストラヴィンスキー作品を思い起こすのは自然なことだろう(そもそも、冒頭の11音モティーフ自体が、『火の鳥』の「魔王カシュチェイの踊り」にかなり似ている)。筆者は、この「アルカナ」をきわめてオリジナルな傑作と考えているが、一方でその完成度と洗練は、ある程度、ストラヴィンスキー的な色彩感を錬金術的に変容させることによって得られたという意見にもいくぶんは賛同する。そして、もしかするとヴァレーズ自身もそれをいくぶんは自覚していたのかもしれない。このあとの彼は「アルカナ」の延長線上とは少々異なる方向に、自らを押し出してゆくことになるのである。
 ちなみにストラヴィンスキーとヴァレーズに関しては、「アルカナ」初演1年後の1928年4月13日、ICGから独立した「作曲家連盟」のバックアップによって「春の祭典」がフィラデルフィアで演奏された際にも、興味深い比較が行われているので紹介しておこう。この時の指揮者はかつて世界初演を行ったピエール・モントゥー。アメリカ初演はすでに1922年、ストコフスキーによって行われているのだが、これは世界初演を行ったモントゥーを招いての一夜だったから、いわば「本場の『春の祭典』」が聴けるというのが売り文句であった。
 翌日4月14日付のニューヨーク・タイムズの記事は、聴衆の多くがこの曲を理解しなかったようだったと述べたあと「過去6年間にわたってストコフスキーが新奇で『騒々しい』作品ばかり紹介してきたということに鑑みると、本日、この曲が敵意をもって迎えられたのは驚くべきこと」と続け、さらにある批評家の言として「例えばヴァレーズ氏の“貴重な”作品のいくつかと比べれば、『春の祭典』の方が柔らかく中庸に響く。一方でそのすばらしい独創性は、以前にこの曲が演奏されたときに比べて、さらに衝撃的に明らかになっている」と、あからさまにヴァレーズを引き合いに出してストラヴィンスキーを賞賛している。ヴァレーズはこの半年後から1933年までおよそ5年間にわたって、パリに拠点を移すことになるのだが、これはアメリカの市民権が得られたことに加えて(ゆえに長期の国外滞在が可能になったのである)、こうした批評家たちの無理解に辟易したからではなかっただろうか。
 かくして1928年の10月、ヴァレーズはストコフスキーから手渡された2000ドルの餞別(!)とともにパリへ向かった。彼は生涯にわたって、自らが生まれたパリへの嫌悪を公言していたが、しかし同時に生涯にわたって、ことあるごとにパリ滞在を繰り返した。晩年にいたるまでフランス訛りが抜けない英語を話していたヴァレーズにとって*17、おそらくパリは――本人は認めたくないまでも――こころやすまる場所でもあったのだろう。そしてニューヨークという都会に比しても、この時代のパリは様々な芸術家たちが覇を競う、圧倒的に刺激的な場所でもあった。

■「ひとりぼっち/天文学者」の構想とパリ帰還
 1920年代末から30年代にかけてのヴァレーズの動きは、パン・アメリカン作曲家協会の設立と運営、「ひとりぼっち/天文学者」の構想、メキシコとの交流、そして「空間」の構想といった様々なフェイズが混濁しながら進んでゆく。この連載では、基本的にはほぼクロニクルにヴァレーズの動きを追ってきたが、ここから30年代終わりまでについては、いくつかの系統を縦に分割して活動を見ていきたい。
 まず今回は、パリ時代に手掛けた「ひとりぼっち/天文学者」の経緯についてじっくりと観察したあと、次回(第7回)にパン・アメリカン作曲家協会およびメキシコとの関係について整理し、次々回(第8回)に彼のライフ・ワークといえる「空間」のプランの推移について考えることにする。
 さて、ヴァレーズがICG解散ののち、1928年10月のパリへの拠点移動を図る過程で構想された問題作が「ひとりぼっちThe One All Alone」である。最初のアイディアがもたらされたのは、妻ルイスによれば、以下のような経緯によるという。
 1927年のある日、ハリウッドの映画プロデューサーを務めていたトマス・G・パットンがヴァレーズ邸を訪れた際、アメリカ先住民についてのあれこれを熱心にヴァレーズに話した。これをきっかけに先住民の伝説や言語に興味を持つようになったヴァレーズは、スミソニアン博物館の書籍などを取り寄せて、その知識を深めていくことになった。以下、ルイスの日記から直接引用する*18

 彼は私にシナリオを書くようにすすめました。そしてひとつの神話を選んだのです。それは単にドラマティックで、宗教的で、スペキュタクラーというだけではなく、かなり哲学的なものです。テーマは二元論。当初のタイトルは、「ひとりぼっち、ひとつの奇跡[The One- All-Alone, A miracle]」でした。筋書きは、邪悪な矢の使い手あるいは魔法使いと、一人の神話的な英雄の対立を基にしたものです。この英雄とはヴァレーズにとっては、いわばニーチェの「超人」に他なりません。結局、このプランは放棄されたのですが、ヴァレーズはその後、先住民伝説の神話的人物を、現代の天文学者へと変更しました。この人物はシリウス星と交信するのですが、最初の構想における英雄の場合と同じように、大衆は彼を敵視し、ヴァレーズが「瞬間的抹消」と呼んだものによって、太陽ではなく、シリウスの中に引き込まれていくのです。ヴァレーズはこうして「天文学者[Astronomer]」と題したあらすじを書き、その後数年間にわたって、そのテキストをきちんとした形にしてくれる詩人を探すことになりました。これについては後にいろいろと語る機会があるでしょう。もちろん先住民のアイディアはヴァレーズにとっては、不条理で、倒錯的で、肯定的な歪みを成すようなものでした。ヴァレーズの音楽はフォークロアにはふさわしくありません、彼の音響の概念はあまりにも完全に20世紀のものです。ヴァレーズは、この曲の音楽について本格的に検討をはじめてすぐに、これに気づきましたが、しかしあまりにも先住民の神話に熱狂していたのです*19
 伝記作家ウェレットの記述によれば、この「ひとりぼっち/天文学者」の台本は、のちにはロベール・デスノスとアレホ・カルペンティエールに託され、言葉、ダンス、音楽などが融合した総合芸術的な作品が目指されていたという*20。それにしても、この制作メンバーはいろいろな意味で興味深いものだ。
 まず、ロベール・デスノスはフランスのシュルレアリスム詩人として名が知られているが、1928年にキューバに赴いてラテン・アメリカ・ジャーナリスト会議に参加した折にカルペンティエールと親交を結び、彼がフランスに亡命するのを手伝った人物でもある*21。デスノスは、ちょうどこの頃シュルレアリスムの首領であるアンドレ・ブルトンと決定的に袂を分かつことになるのだが、その直後にヴァレーズ・チームに加わることになったのだった*22
 一方、キューバ出身の作家カルペンティエールは、1927年にマチャド政権の圧制に抵抗して投獄されたのち、デスノスらの手引きでパリに亡命し、シュルレアリストたちと交際しながら、次々に「驚異的現実」「魔術的リアリズム」を扱う作品を発表。彼はチリ出身のウイドブロと共に1928年、ヴァレーズの「オクタンドル」が演奏された演奏会に出かけて感銘を受け、29年初頭からこの作曲家と親しく交際するようになったのだった。
 カルペンティエールの著書『生きているヴァレーズ』には、彼が1929年にヴァレーズから台本化の打診をもらったとあるが、ウェレットの記述とは多少異なり、その際にはデスノスのみならず、詩人リブモン=デセーニュもチームの一員として加わっていたとしている*23。毎週のように作曲家と詩人チームは検討会を開き、出来上がったテキストを少しずつヴァレーズに見せていたが、しかしこの共同作業は、最終的には1933年にヴァレーズがアメリカに帰国する前に、自然に消滅したという*24
 これらの記述は、参加メンバーや作品名などに関して、ルイス、ウェレット、カルペンティエールで微妙な食い違いを見せているのだが(たとえばカルペンティエールは、この作品を「ひとりぼっち」とのみ記し、「天文学者」とはひとことも書いていない)、どの文献でも、途中からはカルペンティエールとデスノスの二人が台本担当者となり、それが1933年頃からアントナン・アルトーへと変わったことを示している。
 では、詩人チームによる台本の基になった、ヴァレーズの「あらすじ」とはどのようなものだったのだろうか。ウェレットは著書の中で、最初期に書かれたとおぼしきメモ現物を写真で載せているので、以下に訳出しておく* 。

シリウス:その伴星、星座、シリウスの神話、古代を示すもの、そのための名前。
[判読不能]指揮者 エディントン*26 アレユニ(?)
[判読不能]
 2000年。
 瞬間的なエネルギー放射の発見。それは光の3千万倍の速度を持っていた。シリウスと同じサイズの伴星が出現し、新星となる*27。すべての天文学者たちはこの新星を調べる。どうやらここから信号音が発信されているのである。信号音を受信すると……素数1,3,5,7であった。天文学者*28はこれに対して11、13と返信するべきだと決定する*29。果たして、帰ってきた答えは17と19。その後にカタストロフが起こるが、その際に群衆の怒りは天文学者の決定へと向けられた。というのも、もしも彼が返信しなければ、シリウスとその伴星は地球を気にも留めなかったであろうから。
 シリウスからの定期的なメッセージ。神秘的な、音楽波(しなやかに、震えるような)。賢い人々はそれらについて考える。きっと、それはシリウスの音響的な言語なのだ。シリウスの光はどんどん増してゆき、そして伴星からは放射線がふりそそぐ。破滅が引き起こされる。爆発、暗黒、等々。

 同じメモの中に、ヴァレーズはシリウスと天文学者の主題らしき旋律とリズムを五線譜で記しているが、これはヴァレーズが唯一残した、この作品に関する音楽的素材である。「天文学者の主題」は、おそらくは打楽器のものなのか、リズムのみ。一方で「シリウスの主題」は短7度の音程が、装飾的に上下行するというもの。いずれも、いかにもヴァレーズらしい素材ではある*30
 そして、ヴァレーズはこの後、この単なる筋書きのメモを、より台本らしい形に書き直すことになった。このメモは数ページからなるものらしいが、ウェレットはその著書の中に最初と最後の部分のみしか載せていない。この2部分を以下に訳出する*31

1)冒頭部
 空。夏の夜。シリウスの光が光度を増してゆくにつれて、すべての星座は青く光りだす。天の川。
 塔の高さが如実に感じられる。低く遠い向こうに、町。合唱、声、天文学者。
 声:あの点が、あの点が、どんどん大きくなってゆく。
 叫び、円、水平線、赤道、世界の光。
  目! 眩暈! 赤! アルデバラン!
  すべて一緒に爆発する――シリウス!
                眩暈のする空間
 一筋の光のみが、存在するすべてのものに注がれる。
遠くからの声:我々は知っている。我々は知っている。
       シリウスとその伴星は輝いている。
       そしてその伴星は今や主人なのだ。
       そしてシリウスは従っている。
      (星が光る。最初の信号。素数が映し出される。1、3-1、3-1、3(間をおいて)
 破滅の後、茫然と怒りの洪水が訪れ、群衆は天文学者に復讐したいと考える。天文学者の死を求める声が群衆からあらわれる。塔は破壊され、我々はドリルの騒音を聴く。
 ドリルと叫びが止む。オーケストラの中の大きな鐘がゆっくり鳴らされる。そして天文学者の次の信号、そして星の答。驚愕するうめきが硬直した群衆から発せられる。

2)終結部
1.再びドリル、光線、そしてダンス。
 使者による、そして霊感を受けた黒人による演説、
 とても短く。短い沈黙。
2.オーケストラから二つ目の弔鐘。そして天文学者から星へのシグナル――彼らへの返答に失敗する。
  ひとりが叫ぶ:私は恐れている
3.脅迫的な叫び声とドリルの音が再び。群衆の怒り。
4.星からの光線が、突然、螺旋状に下りてきて、天文学者を突き刺し、粉々にし、彼を吸収してしまう。
5.合唱は奇跡が起こったのを見て叫び声をあげる。群衆は天文学者を罵るのを止める:態度は反転――彼は聖人となる。
6.群衆は石となる。スポットライトが客席に注ぎ、観客の目を眩ませる。
                  塔は空っぽに。宇宙的で硬直化した沈黙。
                  目を見開き、何も表情をもたない何体かの蝋人形が彼らの前にあらわれる。

 部分的かつ断片的ではあるものの、ヴァレーズのメモからは、物語の大枠が透けて見えよう。
 このプランによれば、かなり大規模な舞台作品ということになりそうなのだが、ヴァレーズは意外な場所でこの作品を初演したいと考えていたらしい。1931年にカルペンティエールがキューバのハヴァナで出版されていた「ソシアル」誌に載せた文章には「……作曲家はベルリンの聴衆に向けて、これを準備しているのです。クライバーが指揮をする予定です」とある。すなわち、当時のヴァレーズはベルリン国立歌劇場において、当時の音楽監督エーリッヒ・クライバーのもとでの上演を計画していたらしいのである*32。どの程度具体的な計画だったのかは不明ながらも、伝説的なベルク「ヴォツェック」初演(1925年)を同劇場で手掛けたクライバーは同時代の音楽にもきわめて意欲的だったから、作品が完成さえしていれば、このプランが実現された可能性は十分にあるだろう。
 さらにカルペンティエールは「『ひとりぼっち』は、ヴァレーズの美学の一種の神学的概説です。美術家ではなくエンジニアによる統合的な舞台装置が用意されるのですが、この装置は舞台上で電気を用いることによって様々な可能性を展開させるのです……」と述べている*33。おそらく、先のヴァレーズメモの終結部を見てもわかるように、ここでは当時の最新鋭のテクノロジーを投入するという形が想定されていることがうかがえる。

■奇才アントナン・アルトーとの協同
 カルペンティエールは先の著書の中で、この後のヴァレーズの構想が、やがて一種の原点回帰を示していったことを伝えている。ヴァレーズはニューメキシコ州の先住民の間に伝わる、太陽が人々から崇拝されなくなり輝きを止めるという伝説を知った際に、彼の「ひとりぼっち/天文学者」とのユング的な共通性、深層を見たというのである*34。この時期からヴァレーズは言語以前の生々しい力、そしてこの現実世界を軽々と超越する魔術を求め始める。
 おそらく、ヴァレーズが1932年11月に詩人・劇作家・俳優であるアントナン・アルトーに新しい台本を委嘱することになったのは、アルトーこそが、この思いにもっともふさわしい形を与えてくれると考えたからに違いない。
 ギリシャ人の両親のもとに1896年、マルセイユに生まれたアルトーは、幼少時に患った脳膜炎に由来する身体の痛み、そして鬱病に起因する精神の苦痛から逃れるために、阿片をはじめとする麻薬を常用しながら詩を書き始める。1920年、23歳のアルトーはパリに出て、本格的にシュルレアリスム運動に参加することになるのだが、たとえば初期の詩にはこんな一節がある。

 おお、音楽、引き裂く音楽
 おまえの和音の大理石で
 凍った空を砕いてしまう*35

 ヴァレーズが求めていた何ものかが、ここにはあるように感じられないだろうか。
 ブルトンらを中心とするシュルレアリストのグループから徐々に距離を置き始めたアルトーは、やがて演劇方面に自らの進路を定めてゆく。単に戯曲を書くだけではなく、自分自身がアベル・ガンスの「ナポレオン」(1926)やカール・ドライヤーの「裁かるるジャンヌ」(1927)で俳優を務め、さらにはアルフレッド・ジャリ劇場を創設。さらに演劇や映画のための試論を次々に発表するとともに、1929年には当時開発されたばかりであったトーキーのための会社設立を企ててもいる。
 こうした「演劇人」としての側面も、オペラ的あるいはマルチメディア的な作品を手掛けようとしていたヴァレーズにとって魅力的に映ったに違いない。さらには1931年にパリで行われた国際植民地博覧会において出会ったインドネシアのバリ舞踊に衝撃を受け、言語を超える身体性の奪回をはかる「残酷劇」を提唱することになるアルトーに対して、同じころにヴァレーズもまた、弟子であったコリン・マクフィーからバリ島の音楽や芸能についての情報を得ていた*36。こんなところにも二人の不思議な共通点があろう。先のカルペンティエールらのチームがどのように解消されたのかは不明だが、ともかくヴァレーズは最終的にはアルトーのみに「ひとりぼっち/天文学者」の制作を任せることになったのだった*37
 おそらくは1932年の終わりにヴァレーズと直接会ったアルトーは、翌33年に台本の執筆を始める。
 しかしアルトーの仕事は麻薬中毒による重度の体調不良のせいもあってなかなか捗らなかった。さらに1933年9月、ヴァレーズがパリ滞在を引き上げてニューヨークに帰ってしまったことも事態を悪化させたはずだ。
 そしてもう一つ、そもそもアルトーがヴァレーズの音楽をまったく聴いたことがなかったというのも、もしかすると筆が進まない原因だったかもしれない。古代ローマの皇帝にして、14歳で即位し18歳で斬殺されたヘリオガバルスを描いた『ヘリオガバルス あるいは戴冠せるアナーキスト』(1933年のアルトーは、もっぱらこの本にかかりきりだった)が1934年に出版された際、アルトーがニューヨークのヴァレーズに送った本には、以下のような献辞が見られる。

親愛なるエドガー・ヴァレーズ様、私はまだ聴いたことのないあなたの曲を愛しています。というのも、あなたが音楽について語るのを聞けば、私はその曲を夢見ることができるのです。そして私は、革命的なあなたの音楽によって、我々が世界の新しい形を再び希求し得るということを知っているからです。愛情をこめて。アントナン・アルトー*38
 ちょっとばかり滑稽で不思議な気もするけれども、これはアルトーの怠惰によるものではない。なにしろヴァレーズ作品の場合、ほとんど再演はなされないし、レコード録音もまだ存在しないのだから、聴こうしても方法がないのだ。パリとニューヨークという大西洋の両端に離れ、しかも肝心の作曲家の音楽もよく分かっていないのでは本格的なコラボレーションは難しいだろう。一向に完成しない台本に対して、徐々にヴァレーズはいら立ち始める。考えてみれば、カルペンティエールらが台本に取り組み始めてから、すでに長い年月が経過していた。1935年12月28日付の手紙で*39、ヴァレーズはこのようにアルトーを非難している。

あなたからの便りがないことに驚いています。仕事は進んでいるのでしょうか? とりあえず終わった部分だけでもいただければありがたいです。我々がパリで一緒に作った草稿のままであっても構いません。ここから去る前に、そして私の脳がまだそれをきちんと覚えており、作品化できるうちに、手もとに置いておきたいのです。これからテキストに施さねばならない数々の変更や、こうした手紙のやり取りで浪費される時間のことも考えていただきたい。実際、私はメキシコに滞在している春の間に、この仕事に真剣に取り組みたいと思っているのです*40
 ヴァレーズは焦っていた。さらに手紙は次のように続く。

私が作ろうとしている新楽器の制作が可能であることは、既に話した通りです。それから、しばらく前に、あなたの仕事に対して大変に関心を持っている人々に渡すために、「残酷演劇宣言」を送ってほしいといったのを覚えておられるでしょうか。あれから何も返答がありませんね。まったく残念。アメリカでは物事はどんどん流れていきます。失った機会は決して戻ってきません。彼らは物事を蒸し返されるのを好まないのです*41
 アルトーはこの手紙を受け取った後、おそらくはその直後に、あわてて全5部からなるテキストのうち、3部までをタイプで打ってヴァレーズに送った。催促に従って、ともかくはできたところまでの草稿を送ったのだろう。
 果たしてアルトーの台本は「もう大空はない」という、奇妙なタイトルのものであった。以下、内容を概観してみたい*42。第1部の冒頭はこのようなものだ。

 暗闇。暗闇の中での爆発。すっかり失われた調和。無機的な音。音の不明瞭さ。
 遠いかなたの大異変の印象を与える音楽が、まるで目まいのするような高さから落ちてきて劇場を包み込む。天空の中で、和音が極端から極端へと移りながら生じ、且つ散逸する。音は非常に高い所から落下して来て突然止まり、蒼穹やパラソルの形を型どりながら、ほとばしって響き渡る。音の階段。

 なるほど、ここには明らかに音楽に対する強烈な言及がある。しかも、きわめてヴァレーズ的な表現によって。おそらくはヴァレーズがアルトーに伝えたイメージをもとにして文章が作成されたのだろう。宇野邦一は、「もう大空はない」について「この記述の中で音は炸裂しては中断し、響きを消し、落下してはまた拡がり、さまざまな重層や形態を描きだす。(中略)そして音は、何らかの風景を模倣し再現するのではなく、それ自体で風景を生み出すのである」と述べているが*43、確かに、ヴァレーズ的であると同時に、この部分は先に引用したアルトーの初期の詩の一節(「おお音楽、引き裂く音楽……」)をも思い起こさせるものだ。
 テキストの第一部では、やがて群衆が天からの奇妙な声を聴き取るにいたる。

 皆様にお知らせします……
 お伝え致します……
 これが、私がお伝え……
 大きな、大きな、大きな、非常に、非常に大きな……

 この吃音的なナレーションは、しかしひたすら夢の中のように響き、群衆はただ不安になってゆく。
 続く第2部ではやはり異常気象に不安に駆られた群衆が右往左往する中で、再び空から声が響きだす。

 偉大なる発見、偉大なる発見を求めよ……官報!混乱に陥った科学。官報!もはや大空はない。もう大空はない。
 ここに至り、「もう大空はない」というタイトルが、一種の地球の破滅を示していることが明らかになる。やがてこの声は「シリウス」という言葉をつぶやきはじめ、さらに「大発見。天空は確実になくなる。地球はシリウスのすぐそばにある。もう大空はない」と、少しずつ具体的なものに変化してゆく。同時に人々は放射線が放出され、物質が変質していることを語り始める。
 そして第3部では、「インターナショナル」の歌声が遠くから聞え、なにやら革命のような雰囲気が漂いはじめる。この部分はきわめて音楽劇的な構成を持っている。
騒ぎの中で、太鼓が二つ鳴り出す。ひとつは低くて鈍い音がし、もう一つは非常に鋭く、調子があっていない。太鼓のリズムにのって、すばらしいコーラスが聞こえてくる。次第にそれが大きくなり、次のように言っているのがわかる。
――立ち上がったやつらすべてを打ち倒そう。
  立ち上がったやつらすべてを打ち倒そう。

さらに注目されるのはそのあと、台本が合唱と独唱のやりとりを明確に記しているところだ。

 コーラス(速いリズムにのって、言葉を韻律的に拍子をつけて発する)「感知者よ、何が見える、感知者よ?」
 偉大なる感知者「私には間抜けどものひどい恐怖と、つむじまがり達が見える」
 コーラス「感知者よ、お前には何が聞こえる、感知者よ?」
 偉大なる感知者「雷鳴と逃げ出す地球の軋みの音が」
 コーラス「感知者よ、お前には何が感じられる、感知者よ」
 偉大なる感知者「強盗、強姦、病気、血、わいせつ、噴火が!」
 コーラス「感知者よ、お前には何が見える、感知者よ?」
 偉大なる感知者「空白、欠如、むなしさ、そして有産者階級の逃亡が」

 これはきわめてオペラ・オラトリオ的な感覚であり、合唱と独唱がダイナミックに呼応する様が、容易に想像される。そして第3部の最後の部分は以下のようなト書きである。

 歌が唱和され、言葉を運ぶ。叫び声の協和がおこる。そこには飢えと寒さ、激痛が感じられ、情念や満たされぬ感情、悲しみなどの観念が往きかい、嗚咽や獣の瀕死の息の音、動物の呼び声が現れる。この協和の中で群衆は動揺し、声や明かりや楽器の闇に徐々に戻って行く舞台から立ち去る。
 こちらはきわめてアルトー的な世界というべきだろうか。
 結局ヴァレーズが受け取ったのはここまでである。この後、ヴァレーズがこれをどのように感じたのか、いったい良いと思ったのか不満だったのかなどの記録は、筆者の知る限りは残されていない。ここまでを読んでがっかりして放置してしまったのか、あるいは第4部以降を待ちわびていたのか、それともヴァレーズ自身も抱える鬱病のせいで作曲にとりかかれなかったのか……。ともかく二人の応答に関する情報は、これ以降は残っていないのである。
 ただし、アルトー自身はこの後の第4部に関して、手書きの草稿を残している。もう少し先まで書き続けるという意志はあったのだろう。これはアルトー側の資料から追うことができるので、紹介しておきたい。
 混乱の後の第4部では科学者たちが登場し、この奇妙な現象を解析しはじめるが、結果は芳しくない。

「ともかくシリウスは応答したのだ」
「だが、そうすりゃ世界の終わりだ。こんな風に形を壊して、すべてをごちゃごちゃにしてしまう。それはまさに罪悪だ、犯罪だ。でもすでに始まってしまったんですよ」
「彼はもうどうでもよいと言っているんですよ。とりわけ科学などにはね」

 かくして最終的に学者たちは「この二つの力、我々の力と、彼らの力を連絡させねばならない、私はすでに信号を打ちはじめた。これだ。」といった後、第4部最後の場面になる。

 学者は自分の機械に向かって突き進む。
 夜になる。幕が降りる。
 荒々しく吹き出す空気の轟音が起こり始める。数多くの汽笛によってひきおこされる音が、ピューという音の極限に達する。激しい衝突音が起こる。
 冷たい閃光が至る所にあたる。
 すべてが止まる。

 そして台本はこのあと「第5部」とだけ書かれて突然に中断してしまう。おそらく、ヴァレーズの構想に従えば、第5部では、この科学者たちが最後には一種の「犠牲」になるということなのだろう。
 それにしても、全体を通してうかがえるのは、アルトーがヴァレーズの当初の構想をかなり尊重していることだ。おそらくここにいたるまでには綿密な相談がなされたに違いない。もちろん完成には程遠い段階だったとはいえ、アルトーは楽曲を聴いたこともない作曲家のために、麻薬中毒に苦しみつつも、それなりの力を傾注しながら台本を書いたように思われるのである。しかしともかく、我々が追い得る作品の経緯は、ここでぷつりと途切れてしまい、このテキストとほんの二つの旋律のみが、大作の残骸として残されることになった。
 もしもアルトーとヴァレーズの共作による「ひとりぼっち/天文学者」あるいは「もう大空はない」が完成していたら、それはかなりユニークな、後世の我々にとっても興味の尽きない問題作になったに違いなく、ただ残念というほかない。ちなみにアルトーは、ヴァレーズとのコラボレーションが失敗に終わったのちの1935年、彼としては二番目の戯曲「チェンチ一族」を完成させている。この中には「自由だと? 空がいままさにわれわれの頭上に降ってこようとしているときに、自由などという言葉を口にしてどうなるというのだ」というチェンチ伯爵のセリフがあるのだが、ここには「もう大空はない」のはるかなエコーが見て取れよう。

■「エクアトリアル」と前言語への志向
 ヴァレーズはしかし、パリ時代末期からアメリカ帰還後にかけてきわめてユニークな作品をひとつ作曲した。
 1933年に作曲が開始され、1934年4月15日にスロニムスキーの指揮でニューヨークにおいて初演された「エクアトリアル」である。この作品の作曲時期は、完全に「ひとりぼっち/天文学者」と被っているだけでなく、そもそもの「前言語」的なコンセプト、および文学者との緊密な関係という点においても大きな共通点がある。想像の域を出ないことではあるが、ヴァレーズは遅々として進まないコラボレーションの中で、むしろ類似した構想の「エクアトリアル」に積極的に興味を移動させたのかもしれない。となれば我々は、「ひとりぼっち/天文学者」と双子の作品という可能性が十分にある、この「エクアトリアル」についてもここで見ておかねばならないだろう。
 作品の成立は、作家ミゲル・アンヘル・アストリアスとの出会いが直接的なきっかけになっている。アストリアスはデスノスの親しい友人だったのみならず、キューバ出身のカルペンティエールやチリ出身のウイドブロと共に、パリにおける南米出身の文学者たちのサークルの一員だった。言うまでもなく、彼は「ひとりぼっち/天文学者」チームと密接にかかわっており、当時のヴァレーズと出会うのも当然のことであったろう。
 1899年、グアテマラに生まれたアストリアスは、大学では医学と法学を修めながらも、当時のカブレラ軍事独裁政権に対する反対運動によって数度投獄されたのち、身の危険を感じて1924年にフランスへと渡る。パリではソルボンヌ大学に学ぶことになるが、マヤ文明を講ずる人類学の教授ジョルジュ・レイノーに薫陶を受けるとともに、当時花ひらいていたシュルレアリスムの運動に触れて、グアテマラの古い伝説を、文学として昇華する術を身に着けることになった。彼の仕事は、レイノーがフランス語に訳したマヤの聖典「ポポル・ヴフ」を、さらに原典に精密な改訂版として1927年にスペイン語で出版したことに始まり、1930年には「グアテマラ伝説集」をスペイン語で発表*44。ヴァレーズが手に入れたのはこの「グアテマラ伝説集」初版である。現在、ザッハー財団に所蔵されている、ヴァレーズの所持していた初版本には、おびただしい下線や書き込みがなされており、彼がかなり熱狂的にこの書物を読んだことが分かる*45。また、アストリアスもヴァレーズの作品に強く興味を持ち、「アルカナ」が1932年3月にパリで演奏された際には、グアテマラの新聞に批評を寄せている*46
 ヴァレーズは、アストリアスの「伝説集」から、物語的な部分や記述的な部分ではなく、ほとんど祈りといってよい、一種の根源的な力を賛美する呪術的な部分を選んで、自作のテキストとして用いることになった。
 何度も繰り返すようになるが、20年代末からアメリカ先住民の伝説に惹かれ、続いて「ひとりぼっち/天文学者」の台本を多くの文学者たちに担当させながら、マヤ文明の古い物語をテキストに選んだヴァレーズの意図はきわめて明快だ。彼が欲していたのは単なる民族的・民俗的なモティーフではなく、むしろ言語以前の人間のコミュニケーション、その根源的な力の探求と考えれば、その姿勢はきわめて一貫している。言語によって言語を越えるシュルレアリストたち、キューバの「魔術的リアリスト」カルペンティエール、そして「言葉」を中心にして展開してきた西洋戯曲を批判し、バリ島にモデルを見出しながら肉体が言語を凌駕する「残酷劇」を提唱したアルトー。彼らの起用はすべて同列に論じることが可能だ。また、一見SF的な設定の「天文学者」の場合も、そこで問われているのは言葉なきシリウスの民とのコミュニケーションだと考えれば、これらの作品の同質性はもはや明らかといえる*47
 とするならば、アストリアスの「伝説集」から奇怪な祈りの言葉ばかりを抜き出すヴァレーズの手つきは必然なのだ*48。実際、「おお、創造に幸いあれ! おお、形成者に幸いあれ! みそなわし給え」と始まるテキストは、ひたすらにマヤの神を讃え「日々があり、曙がある限り、われらに子孫を与え、われらを存続せしめ給え」と懇願を繰り返す(また、どこかこの詩句はアルトーの台本をも思い起こさせる)。面白いことに、ヴァレーズは「赤道」を意味する作品タイトルを、当初はフランス風に「Equatorial」とつづっていたのだが、その後、スペイン語の「Ecuatorial」へと変更した。おそらく彼にとって、この「赤道」はフランス語による赤道ではなく、スペイン語が喚起する南アメリカ的なものでなくてはならなかったのだろう*49
 ヴァレーズはスコア序文に、以下のような文章を載せている。

「エクアトリアル」のテキストはマヤの聖典である「ポポル・ヴフ」から採られているが、これは「豊かな都市」を離れ、山の中で滅びた種族の祈祷文の一部である。タイトルは単に、コロンブス到達以前における芸術が繁栄していた地域を示している。私は音楽というものを、それらの奇妙で原初的な作品群と同じように荒々しい強度を持った何ものかだと考えている。作品の演奏は、テキストの嘆願するような熱情に合わせて、劇的で祈りのようでなければならない。スコアの強弱記号は遵守されねばならない。*50
 この文章からもヴァレーズの意図は明らかだろう。言語をさかのぼった粗野で原初的な強度を音楽に与えることが、この時期の彼の最大の目的だった。そしてヴァレーズの求めた前言語的な世界は、言語と無意識、そしてテクノロジーと古代の伝説をつなぐという大胆な試みでもあった。アストリアスの次の言葉は、こうしたヴァレーズの試みを見事に代弁していよう。

 シュルレアリスムは、われわれがすでに裡に持ち歩いていたものに生気を与えてくれた。なぜなら、「ポポル・ヴフ」や「シャヒル年代記」などの、マヤ族に関する古いテキストは、それ自体すでにシュルレアリスムのそれであったのだから*51
 ただし、ヴァレーズが抜き出したテキストは、厳密には「ポポル・ヴフ」の中にあるものではない。この点に関して、多くの研究書はヴァレーズの言葉をそのまま鵜呑みにしているが、実際に「ポポル・ヴフ」を調べてみても、ヴァレーズが歌詞として選んだ部分はそのままの形では見当たらない。実は、彼がテキストを抜き出したのは、アストリアスの「グアテマラ伝説集」に収められた「『金の皮膚』の回想」という、伝説を土台にしつつ書かれたアストリアスの小説の一部からなのである。もちろん、小説の中で唱えられるこうした呪文を、アストリアスは「ポポル・ヴフ」を参考にしながら作っているわけだから(確かに「ポポル・ヴフ」の最後の部分には、この呪文にかなり近い文言が出てくる)、まったくの間違いというわけではないのだが*52
 また、きわめて興味深いのは、ヴァレーズがこの「『金の皮膚』の回想」の後半部分であらわれる母音による叫び声「アーエーイーオーウ!」を、のちに未完の大作「空間」のテキストの中で用いていることだ。「空間」は彼が30年代後半にもっとも没頭することになる作品だが、その中にもこのアストリアスのテキストはこだましている。
 「エクアトリアル」に話を戻そう。ヴァレーズは、古代マヤ文明を用いたこの作品の中で、初めて電子楽器テレミンを用いた。そもそもパリに滞在した理由のひとつは、電子楽器の開発者ルネ・ベルトランと共同作業をすることにあったから(これはうまく実現しなかった)、この時期のヴァレーズが新しい電子楽器を使おうとするのはよく分かる。パリからニューヨークに帰った後、彼はさっそくレフ・テレミンとコンタクトをとり、特注の「テレミン」を作ってもらうことになる。

1927年には、私は「ダイナフォン」 の発明者であるベルトランからエレクトロニクスを音楽媒体として使う可能性について学んだ。そして1934年には、やはりこの分野の開拓者であるレフ・テレミンが私の「エクアトリアル」のために12544.2ヘルツまで発することのできる2台の楽器を作ってくれたのだ。*53
 ちなみに、スコアのテレミン・パートを見ると、ヴァレーズの理想からは少々離れていることが分かる。まず音域に関しては最低音が「h3(123.471Hz)」、最高音は「e8(5274.041Hz)」*54で、不思議なことにヴァレーズがこの楽器に求めた「12544.2ヘルツ」の1オクターヴ下までしか出てこない。実際には、この音域までが余裕を持って出せる音だったのではないだろうか。また、さらに問題なのは楽器の用法で、ここでのテルミンは多少便利なサイレンといった領域を出ない形で、すなわちかなり単純な音型がポルタメントを伴いながら上行、下行するといった形でのみ用いられている。おそらく、その構造上どうしても音程が不安定なテレミンの場合、オクターヴの自由な分割や新しい音階の構成に対応する十分な能力を持っていないとヴァレーズは考えたのだろう*55。結果として、後にこのパートは1961年の改訂版ではオンド・マルトノに変更されることになったのだった。
 曲はこれまでのヴァレーズの楽曲と比べても、きわめて「野蛮」な色彩を持っている。マヤの神を讃える声楽パートは、通常の記譜に加えて、リズム譜のみのシュプレッヒ・シュティンメ、さらには「しゃがれ声で」「ハミング」「打楽器的な声」など様々な指定がなされるとともに、時に微分音を交えながら始原的な声の可能性を存分に展開する。このパートは初稿および初演はバス独唱によって担われているが(ヴァレーズは当初、名バス歌手シャリアピンを初演者として想定していたという)、その後、改訂版ではバス合唱に変更された。
 晩年に至ってからの改訂ではあるが、このバス合唱版の効果は面白い。たとえば練習番号5の途中ではバス合唱が二声に分かれ、一方は「曖昧なイントネーションで」としてリズム譜のみが示され、一方はきっちりとした五線譜で書かれている。これらがユニゾンで重なることによって、奇妙に曖昧なにじみを伴ったヘテロフォニーが現出するのである。こうした用法はそれまでほとんど誰も試みたことがなかったのではなかろうか。曲中では、この野蛮な声の連鎖が、テレミン(オンド・マルトノ)の宇宙的なサウンド、オルガンの奇妙に宗教的なサウンドと相まって、実に不思議な立体感を醸し出すことになる。
 また、練習番号7の後半でバスが「Oh, Maestros Gigantes(おお、偉大なる師よ)」と語り始める部分の効果も独特だ。ヴァレーズはここで、伴奏部の打楽器にp、トロンボーンにpppという弱音のダイナミクスを要求する一方で、バスに全曲でも最も高い嬰へ音をフォルテシモで歌わせる(スコア序文で「強弱の指定を遵守」するようにと書かれていたことを思い起こされたい)。研究者のリヒテンハーンは、この光にあふれたような強い響きは、まさにテキストを音楽的に解釈した証だと指摘している*56
 ただし、あえていえば曲全体は、「神秘的」「原始的」「呪術的」という要素を露骨に強調しすぎるあまり、形式的にはやや硬直しているような印象をも受ける。少なくとも筆者の眼からみると、初期作品の粗削りな豪快さや「アルカナ」の緻密さと比べたときに、どこかこの「エクアトリアル」は単調さを免れていないようにも思えるのだ。古代と未来を調停しようとする大胆な試みはそれほど簡単ではなかったのかもしれない。
 ちなみに、この作品が再演されるのは1961年5月。すなわち27年間にわたって「エクアトリアル」は陽の目をみないまま封印されることになった。もちろんこれはヴァレーズ作品にはよくあることなのだが、それでも「エクアトリアル」が「アメリカ」初稿のような大管弦楽作品ではないことを考えると、やはりヴァレーズ自身もこの作品には十分に納得しておらず、必然的に再演の機会も減ったということなのかもしれない。

■メキシコへ
 自信作「チェンチ一族」の公演が失敗に終わり、パリにおける残酷演劇の可能性が途絶えたアルトーは、翌1936年には大西洋を横断してメキシコへと向かう。彼は、1910年から11年にかけての革命によって、メキシコがスペイン征服前のインディオ文明を復活させ、新たな神話的段階に突入しているのではないかと期待したのだった。その期待のありかたは「エクアトリアル」を貫く精神と共通するものだ。そして実際にヴァレーズもまた、ほぼ同じころ中南米に、とりわけメキシコという土地に特別な意味を見出すようになる。神話的世界と革命が交錯するこの場所は、以後、30年代のヴァレーズに決定的な影響を与えることになるだろう。次回の連載では彼が設立した「パン・アメリカン作曲家協会」、そしてメキシコとのかかわりについて、できる限り多面的な解読を施してみたい。

*1 引用文は塚原史「言葉のアヴァンギャルド ダダと未来派の20世紀」(講談社現代新書、1994年)、59頁より。ちなみに、日本において、この宣言は早くも発表から3ヶ月後の1909年5月に雑誌「スバル」第5号において森鴎外訳で紹介されている。
*2 Jurg Stenzl,“Daily Life, Slavishly Imitated: Edgard Varese and Italian Futurism” in Edgard Varèse: composer, sound sculptor, visionary, The Boydell Press, 2006), p.143. なお、田野倉稔は以下文献の中で、このコンサートにヴァレーズも居合わせたと書いているが、これは誤りであろう。この時期にヴァレーズはパリを訪れていないはずである。田之倉稔『イタリアのアヴァンギャルド』(白水社、2001年)、136頁。
*3 秋山邦晴「騒音の思想の先駆者 ルイジ・ルッソロ」『音楽芸術』1968年9月号、44頁。
*4 田之倉稔『イタリアのアヴァンギャルド』(白水社、2001年)、125-126頁。
*5 The Musical Quarterly, Vol. 41, No. 3 (Jul., 1955), p. 574.
*6 Fernand Ouellet, Edgard Varèse (English translation, DaCapo Press, 1981), pp46-47.
*7 Stenzl, p.143.
*8 ちなみに、ロシアでは、アルトゥール・ルリエーが1914年2月に、早くもサンクト・ペテルスブルクで、イントナルモーリに触れつつ、未来派に関するレクチャーを行なっている。ルリエーは「未来派宣言」の協力者の一人であり、マリネッティがロシアでレクチャーのツアーを行なった際に直接会ってもいる。
*9 Stenzl, p.147.
*10 ザッハー財団が所蔵しているこの演奏会のプログラムには「エドガー・ヴァレーズによる事前の説明がある」旨が記されている。Stenzl, p.147.参照。
*11 ドビュッシー『音楽のために ドビュッシー評論集』(杉本秀太郎訳、白水社)、235頁。なお筆者の趣味で、若干ながら勝手に訳文の語句を変更している。
*12 Louise Varèse. Varèse: A Looking Grass Diary Volume 1:1883-1928 (Eulenburg Books, 1973), p.239.
*13 Ibid., p.239.
*14 Ibid., p.253.
*15 ニコラス・スロニムスキー『名曲悪口事典』(伊藤制子他訳、音楽之友社、2008年)、382頁。
*16 Ouellet, p.109.
*17 筆者は作曲家のクリスチャン・ウルフとの会話の中で、いかにヴァレーズのフランス訛りが強かったかを教えられた。
*18 Louise, p.260.
*19 Ibid., p.260.
*20 Ouellet, p.115.
*21 カルペンティエールだけでなく、もうひとつデスノスがフランスにもたらしたものがキューバの民俗音楽ルンバだった。
*22 ヴァレーズがパリへと拠点を移した1928年は、シュルレアリスムの運動が共産党からトロツキズムへと急転換を図る最中でもあり、様々な争いが絶えなかった。ちなみに運動の中心人物であるブルトンは33年にフランス共産党から除名された後、1938年にメキシコ亡命中のトロツキーを訪問し、リヴェラ邸に滞在しているのだが、この直前にヴァレーズも同じ邸宅に泊まっている。
*23 Alojo Carpentier. Varèse Vivant (Le nouveau Commerce, 1980) , p.9.
*24 しかし、これはやや奇妙な理由だ。というのも、ヴァレーズが最終的にニューヨークへ帰国するのは1933年であるが、それ以前の1932年にヴァレーズはアルトーに新しい台本を委嘱しているからである。
*25 基本的に、この文章はウェレットの「図7」および116頁、さらには、以下の書籍の220-221頁に依っている。Malcolm Macdonald. Varèse : Astronomer in Sound (Kahn&Averill,2006)。ちなみに筆者は「図7」のメモ現物をザッハー財団で閲覧している。
*26 このエディントンとは、マクドナルドも指摘するように、おそらく20世紀前半の代表的な天文学者アーサー・エディントンSir Arthur Eddington(1882 -1944)を指している。
*27 実際、おおいぬ座のシリウスは、シリウスAと呼ばれるA型主系列星と、シリウスBと呼ばれる白色矮星から成る連星である。これは19世紀後半から知られていた。
*28 この部分は、もとは「政府」と書かれていたのが、消されて「天文学者」となっている。確かに、そうしなければ話がつながらない。
*29 ウェレットの著書では、ここは「12」になっているが、マクドナルドも指摘するように、これは「13」のミスであろう。ヴァレーズの自筆メモも「13」のように読める。当然ながら素数ならば11の次は13でなくてはならない。MacDonald, p.220参照。
*30 ちなみにウェレットは、「シリウスの主題」はオンド・マルトノを想定したものではないかと記しているが、マクドナルドは懐疑的である。MacDonald, p.221参照。
*31 残念ながら、筆者によるザッハー財団の調査では、この2番目のメモ原本を見出すことができなかった。ゆえに、ここに訳出しているのはOuellet, pp.116-117.に掲載されているものである。
*32 ちなみにクライバーはナチスから逃れるためにドイツを離れてから、ハヴァナで指揮活動を続けた。不思議な因縁といえようか。
*33 Ibid., p.227.
*34 Carpentier, pp.11-12.
*35 宇野邦一『アルトー 思考と身体』(白水社、1997年)、23頁。
*36 ただしガムランと現代音楽を融合させようとするマクフィーの方法論にはヴァレーズは否定的だったという。以下文献を参照。Lichtenhahn,Ernst “A New Primitiveness: Varèse’s Equatorial in its Parisian Surroundings” in Edgard Varèse: composer, sound sculptor, visionaly, (The Boydell Press, 2006), p.196.
*37 スティーヴン・バーバー『アントナン・アルトー伝――打撃と破砕』(内野儀訳白水社、1996年)、86頁。
*38 Ouellet, p.117.
*39 ウェレットはこの手紙の日付を「1935年」と書いており、ゆえに他の伝記もこの年号を踏襲している。しかしアルトー側の資料と照らし合わせると、この手紙は「1933年」に出された可能性が高いようにも思われる。とすれば、アルトーがヴァレーズに草稿を送ったのは1934年初頭ということになろう。実際、ヴァレーズがパリを離れてアメリカに帰国するのが1933年の9月だから、その年の12月に催促の手紙を送るというタイミングはごく自然だ。また、「エクアトリアル」が手掛けられるのは1934年であるが、そのきっかけがアルトーとのコラボレーションの断念にあったと考えると、きわめてわかりやすい。
*40 『肉体言語11』(1983年)の62頁には、この手紙の日本語訳が掲載されているが、短い抜粋であるのに加えて若干の意味の取り違えがあるのでOuellet,117-118.から訳出した。
*41 Ouellet, p.118.
*42 基本的に当該テキストの翻訳は上野陽一によるものを引用している(「もう大空はない」『肉体言語11』1983年)。ただし、以下の文献の坂原眞里訳も適宜参照した。『アントナン・アルトー著作集Ⅲ《貝殻と牧師》』、白水社、1996年。
*43 宇野邦一『アルトー 思考と身体』(白水社、1997年)、114頁。
*44 フランス語版は1932年に出版されているが、その際に序文を担当したのがポール・ヴァレリーだった。
*45 Lichtenhahn, p.197参照。
*46 Lichtenhahn, p.195注11参照。
*47 アンドレ・ジョリヴェは、ヴァレーズのパリ滞在時代の弟子にあたる。彼の作風は、いわばヴァレーズのこうした「前言語的」志向をそのまま受け継いだものといえよう。また、彼はアルトーと同じく1931年のパリにおける「国際植民地博覧会」に大きな影響を受けた一人でもあった。
*48 ヴァレーズはこの時期、かつての弟子であったコリン・マクフィー夫妻から、バリ島の音楽や芸能について知識を得ているが、しかしガムラン音楽と現代音楽を融合させるというマクフィーのやり方には納得していなかった。ここからも単なる民族音楽に対する興味ではないことがうかがえる。Lichtenhahn, p196. 参照。
*49 また、リヒテンハーンは、このタイトルはウイドブロの1918年の書物と呼応しているのではないかという説を唱えている。きわめて興味深い指摘だ。Lichtenhahn, p.201参照。
*50 Colfranc 版スコアの序文から。
*51 M・A・アストゥリアス『グアテマラ伝説集』(牛島信明訳、岩波文庫、2009年)、269頁。
*52 『マヤ神話 ポポル・ブフ』(A・レシーノス原訳、林家永吉訳、中公文庫、1977年)参照。
*53 1959年、サラ・ローレンス・カレッジにおける講演“Spatial Music”より
*54 ちなみにこの音は、一般的なピアノの最高音「ラ」の完全5度上の「ミ」にあたる。
*55 ただしヴァレーズがこの頃に用いていたのは、通常の形態よりも音程をとりやすいフィンガーボードを伴うテルミンである。
*56 Lichtenhahn, p.199.

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沼野雄司(ぬまの・ゆうじ)

1965年東京生まれ。桐朋学園大学教授。東京藝術大学博士後期課程修了。博士(音楽学)。2008年から2009年にかけてハーヴァード大学客員研究員。おもに20世紀音楽に関する研究・評論を中心に活動。著書に「リゲティ、べリオ、ブーレーズ 前衛の終焉と現代音楽のゆくえ」(音楽之友社)、「光の雅歌 西村朗の音楽」(春秋社、共著)、「日本戦後音楽史 上・下」(平凡社、共著)、「楽譜を読む本」(ヤマハ・ミュージックメディア、共著)、「ファンダメンタルな楽曲分析入門」(音楽之友社、近刊)など。
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