第六回 読書と記憶


 いささか唐突ですが、今回は障害のある人の読書経験にフォーカスを当てたいと思います。なぜ「読書」か。それは、読書が二つの異なる体が出会う場だからです。
 ある人が書いた文章を、別の誰かが読む。はるか昔に書かれた文章を読むと、当時の風習や考え方に驚くことがありますが、同じことが障害者の読書に関しても起こります。つまり、文章を書いた人の体と、それを読む人の体が大きく違う場合、それらが互いに軋みあったり、あるいは逆に混じり合ったりするのです。異なる体という「異文化」との接触が、一方では違和感を生み出したり、他方では学びの機会になったりする。読書とは、正反対の方向に展開する可能性を秘めた、異なる体の接触なのです。★1

「席数5」のレストラン

 今回は、二人の読書家に登場してもらいましょう。まず最初は、中瀬恵里さん。中瀬さんは、先天的に全盲ですから、そもそも「見る」ということがどういうことかを経験的には知りません。それゆえ、目が見える人の文章を読んだときに、小さな違和感を感じることがあると言います。
 たとえば小説で、レストランの店内の様子が描写されていたとします。「店の扉をあけると、カウンターのほかにテーブル席が5つあった」。たとえばこんな何気ない描写であったとしても、中瀬さんにとっては、「細かい」と感じることがあると言います。「本を読むとすごく情報が細かい。ふだん知らないようなことも書いてあって、『へー、テーブルが5つ』みたいな(笑)。行きつけのお店でも数えたことないような情報が入ってくるから、細かいな、と思います」。
 「細かい」という反応は、中瀬さんが実際にレストランに行くときの経験の記憶と、本で描写されている情報を比較することによって、生じています。中瀬さんは、行きつけのお店であってさえ、わざわざ席の数を確認したことはない。ゆえに思い出そうとしても思い出すことができない。それは意識していない、記憶していない情報です。ところが、目が見える人が書いた文章には、席の数が「5つ」と明示してある。自分が意識・記憶していない情報が描いてあるがゆえに、中瀬さんはそれを「細かい」と感じているのです。
 注意しなければならないのは、この差異が、単純な情報の「量」には還元できないということです。確かに目が見える人の記述は、中瀬さんが意識・記憶していない情報も含まれているという意味で、情報量が多いように思えます。しかし「テーブルが5つ」という情報によって、目が見える人が何を伝えようとしているかを考えれば、そこに「質」の問題も関わっていることが分かります。
 目が見える人がレストランの席数を記述するとき、多くの場合それは「レストランの規模」を読者に伝えることが目的でしょう。もちろん、推理小説などでは「5」という数そのものが重要になる場合もありますが、たいていは数は手がかりにすぎません。「5席」であればかなり小さな、こじんまりしたレストランでしょうし、「100席」となればファミレスのような、店員さんが端末を持って注文を取りに来るような機械化された店をイメージします。席数という情報を手がかりに、目が見える人は、店舗の空間的な広さやタイプ、料理の価格帯、想定されるコミュニケーションなどについてのイメージをふくらませます。
 では全盲の方がレストランに行くとき、彼らはこうした「規模」に関する情報を得ていなかというと、必ずしもそういうわけではないでしょう。お客さんの会話のトーン、BGMや環境音が反響する具合、あるいは頰にあたる空気の流れを手がかりに、彼らは瞬時に「規模」を把握しているはずです。中瀬さんも言います。「たとえば初めてのレストランに行ったとしますよね。そうすると、広そうなレストランなのか、こじんまりしたレストランなのかは、なんとなく雰囲気で分かります」。ただ、それを「席数」という数では表現しないだけです。
 見える人が「席数」を描写するのは、レストランに入ったときに、「自分(たち)の席を選ぶ」意識があることとも関係しているでしょう。店のなかで、どこに空席があり、どこが人数にふさわしく、かつどこが最も居心地がよさそうか。つまり目の見える人の多くが、レストランに入った瞬間、「テーブル」に意識を奪われているのです。だからこそ「席数」の描写があっても不自然には感じない。これに対し、目の見えない人は、特に初めて入るレストランでは、自分で席を決めるのではなく、介助者や店員に案内されて席につく、という形になります。つまり、「テーブルの状況を把握しなくちゃ」という習慣がない。こうした意識の違いも、描写の違いの一因であると考えられます。

背中で思い出す記憶

 このように、目の見えない人と見える人では経験のパターンが違っており、だからこそ、「自然だ」と感じる描写のパターンも違ってきます。そのギャップが「細かい」というような量的な多少として感じられたとしても、その背後にあるのは、経験の質的な差異です。
 実際、中瀬さんは、見える人が行う描写について「落ちている」と感じる情報もあると言います。中瀬さんの経験の記憶からすれば「あって当然」の情報が、書き込まれていないのです。中瀬さんは言います。「本の描写では、椅子が何脚で机が何脚で、ということは書いてあるんですが、材質や座り心地はあんまり書いていない。テーブルも、四角いか丸いかはあんまり書いてない。触覚とか匂いとか、そういうものは見える人の書く本からは落ちている気がします」。
 近代以降の文学において、描写とは基本的には「視覚的な描写」を意味します。絵画のように、あるいは演劇のように、場面や人の行為を、読者の目の前にありありと見せること。これが描写の役割とされてきました。それゆえ、触覚や嗅覚の情報は、相対的に「落ちやすい」。もちろん、「鼻をつく匂いが漂ってきた」のように、描かれることもあるでしょう。しかしそれはあくまで視覚的な描写に対しては補足的な位置にとどまります。一方、中瀬さんの場合は違う。とらえるのは、触覚や嗅覚の情報によって構成される世界です。「自分の場合は、ベンチに座ったら、お尻がくぼんでいるなとか、ずいぶん柔らかいなとか、どういう座り心地なのかは意識する、というか勝手に入ってきちゃうんです」。
 ちょっと極端な言い方をすれば、言葉の定義そのものが違っている、とでも言えばいいでしょうか。「椅子」と言われたときにイメージするものが、見える人と見えない人では違っているのです。「あの行きつけのレストランの椅子」と言われたら、見える人であれば、椅子の色や形、素材を思い出すでしょう。しかし中瀬さんは違います。「椅子の背がカクカクしていたかとか、椅子を引いたときの重さとか、思い出しますね」。「あとは手触り。木って言ってもトゲが刺さりそうなやつなのか、山小屋みたいな凸凹のやつなのか、ニスっぽいきれいなやつなのか、そういったことは手触りで覚えていますね」。
 このような触覚的な記憶についての話を聞くと、「そもそも記憶とはどこにあるのか」という哲学的・脳科学的な大問題に迷い込みそうになります。視覚的な記憶を思い出す場合、少なくとも私たちの実感としては、「頭に思い浮かべる」のであって「目で思い出している」わけではありません。一方、触覚は全身に広がっており、「どこで感じたのか」(手のひらなのか、背中なのか、足裏なのか)という位置の情報も、そこには含まれています。となると、記憶に関しても、位置の情報が何らかの形で再生されるのではないか。中瀬さんも言います。「椅子の触感とかは、座ったときの感覚がよみがえる感じですね」。それはまるで、「背中で思い出している」ような記憶のあり方です。

背後に感じる気配

 このように読書は、ときとして、書き手と読み手のあいだの体の違いを、明瞭にあぶりだす機会になります。それは小さな違和感を生み出しますが、中瀬さんにとってこの違和感は、「自分に合っていない」という嫌悪につながるというよりは、見える人の世界と自分の世界の違いを発見し、探求するきっかけになっています。本稿では描写の違いに注目しましたが、点字や音声で「読む」のか、目で「読む」のか、といったメディアの違いが反映する場合もあるでしょう。
 一方で読書は、書き手の体と読み手の体を、「混じり合わせる」場にもなります。自分と違う体について知る経験が読み手に蓄積された結果、その体が「インストール」されるようなことが起こるのです。
 ここでもう一人、ご登場していただく読書家は、木下知威さんです。木下さんは生まれつき耳が聞こえません。しかし聞こえる人とともに育ち、生活してきた方であり、そしてとりわけ多くの本を通じて、聞こえる人の文化に精通されている方です。そんな木下さんと話していると(といっても筆談ですが)、「あれ、この人聞こえるんじゃないのかな?」と思えるような不思議なエピソードが出てきます。★2
 たとえば、木下さんは、「背後から何かが近寄ってくる気配」を感じることがあるといいます。こうした「気配」は、通常、足音や衣摺れのような「音」を通して感じられるものです。論理的に考えれば、音を聞くことがない木下さんは、こうした気配を感じないはずです。ところがそうではない、と言うのです。「わたしの怖いものはいろいろですが、後ろからの怖さはあって、それがわたしと他人でどう違うのかは分からない。背後の気配を感じるには、小さな物音や足音なり何かの『しるし』がありますが、わたしにとってそういう音は感じられなくて、でも、何となく何か怖い気持ちがあって、振り返ったら何もないや、というのは一、二回ではありません」。
 耳が聞こえないにもかかわらず「背後の気配」を感じる木下さん。そのような感覚を持つに至ったきっかけとして、木下さんは、推理小説を読んだ経験をあげています。「たとえば、推理小説、ポオの『モルグ街の殺人』やドイルの『まだらの紐』では、音が犯罪に結びつくシーンがありますよね。そこはどきどきしながら読んだのを覚えていて、なんだか後ろが気になったりする。音の主が何者か見えないことの怖さはわたしにもあるのではないか」。
 つまり木下さんは、読書の経験を通じて、「耳が聞こえる人が、背後の音を怖いと感じるシチュエーション」のパターンを知り、実際に、そのようなシチュエーションに置かれたときに、怖いと感じるようになった、というわけです。そのシチュエーションとは、具体的には、「音の主が何者か見えない」こと。この点に関しての木下さんの分析は驚くほど詳細です。「なんだか後ろが気になる」とき、二つ前の引用にあるように、木下さんは実際に振り返って「音の主を探して」います。面白いのは、この振り返りによって、聴覚的な情報が視覚的な情報に置き換えられていること。「音に耳を澄ます」が「目で探す」に重なる地点において、木下さんは「聞こえる人の感覚」に接近しています。生理的な聴覚は持たなくとも、文化的に構築された「耳」を、木下さんは後天的に獲得したかのようです。


 読書等を通じて獲得されたこの「耳」は、木下さんにおいては、単なる知識であることを超えて、かなり「感じる」レベルに接近しています。その不思議さを感じる出来事が、ある絵画を見たときに起こりました。その絵画とは17世紀オランダの画家ウィレム・ファン・デ・ヴェルデの『砲撃』。戦艦が砲撃を受け、すでに人びともボートで逃げ出している様子を描いているらしい作品です。★3
 この絵を見たとき、木下さんは、「耳の奥がかすかに振動しているのを体内で感じ」たと言います。「わたしの耳、正確には鼓膜のあたりには残響が残る。聴者でいえば、轟音で耳がしびれたような感じと似ているかもしれない」。そう、大砲が発砲される状況を視覚的に見たことが、木下さんの耳にしびれたような感覚を生み出したのです。後天的に獲得した「耳」が、ほとんど生理的な耳のように、「生き」始めているのです。
 ここで重要なのは、「振動」の存在でしょう。中瀬さんの「視覚」とは異なり、木下さんの「聴覚」は、それに隣接する「振動」という刺激を持っています。聞こえない人でも、振動は感じることができる。すると、「この先に音という領域があるのだな」という推測が可能になるのです。木下さんは、こう語ります。「いまのわたしが何かを知覚するときは、主に振動と視覚を使っていますね。コーヒーカップをこうやって置いてみると、ソーサーとカップがぶつかりあう、カチッという振動があります。音はしません。その手に伝わる振動が、音の代替みたいなものです」。
 ソーサーとカップのぶつかる感触を「振動」と呼んでいるのが面白いところです。おそらくそれは、「音」と結びついているから「触覚」ではなく「振動」なのでしょう。木下さんは言います。「異質なものどうしが触れ合ったときに、かすかな振動が生じうると思っています」。実際、木下さんの「接触」の記憶は非常に敏感です。「肩をたたいて呼ばれるとき、その人の独特の強弱のあるたたき方、リズムを記憶しています。たたかれて、あ、○×さんかな?と予測できるレベルです。それに、美容院で美容師の手が頭にあたるときの感覚も覚えているものです。逆に、ボールペンで肩を叩かれたときやいきなり殴られるような叩き方といった、不快な感触とリズムも忘れることができない」。

甘えん坊な音

 つまり、木下さんにおいては、読書などで知った「聞く」をめぐる知識が、「振動」の具体的な経験に補完される形で、「後天的な耳」という不思議な現象を生み出していると考えられます。ただし、振動を通して想像する「音」は、そうはいっても文字どおりの「音」とは違っていて、木下さんもそのことを自覚しています。その違いを、木下さんは「甘えん坊な音」と表現します。
 なぜ音が「甘えん坊」なのか。音を振動として感じるということは、音を触覚的に感じるということを意味します。つまり音を、自分の体そのものの震えとして感じることになるのです。たとえば打ち上げ花火を例にとってみましょう。その「ドーン」という音は、聴者にとっては「花火の、、、音」として、つまり対象に属するものとして感じられる情報です。ところが自分のお腹にずしんとやってくる衝撃は、原因が花火だと分かっていたとしても、あくまで「私のお腹の、、、、、震え」として感じられます。振動の知覚は、私の体から離れることがないのです。
 木下さんは言います。「音は母親から手を離さない甘えん坊のように、片時も離れることなく常にわたしの身体にぴったりとくっついているがゆえに、空気のなかに音が躍動して消え去っていくことをわたしは追認することができ」ない。なんとも面白い表現です。「聞こえない」という意味では、音は、木下さんにとって「疎遠なもの」であるはずです。けれども、振動の特性によって、かえって音と「一体化」している。遠いが故に近い。何ともアンビバレントな関係です。
 この関係が特に際立つのは、聞こえない木下さんが声を発するときです。声を出すとは、言うまでもなく、ある音を相手にとどけることです。その一方で、木下さんにとって自分の声は、喉の振動に他なりません。それゆえ、自分の声を想像的に「聞く」ためには、甘えん坊の音=振動を、自分から引き剥がすような感覚が必要だと言います。「まとめていえば、聾の身体は自ら発声しても、それを自分の身体から引き離すことができない。ゆえに、わたしはなにかと対峙したときに、その世界に入り込むために自分の身体から声を剥がすという行為をおのれに求めている。一生、おのれの耳で音をきくことはないであろう身体からすれば、耳で聴くことは夢や想像の世界でしかなく、自分に寄り添おうとする声を引き剥がさなければ、耳で聴くことを想像することができないからである」。★4
 感覚は純粋に生理的なものではありません。文字を含め、人類が生み出した技術は、人間の生理的な能力を拡張するためにあると言われます。本を読めば、自分が経験したことのないことを擬似的に経験することができ、その知識はその人の感じ方、世界の捉え方を変えます。障害と読書というと、「情報保障」のような福祉的な視点が中心になりがちですが、「異なる体の出会い」としてそれを捉えてみることも、多くの発見をもたらしてくれます。

★1 なお、以下では「健常者が書いた文章を障害のある人が読む」というケースのみを扱い、「障害のある人が書いた文章を健常者が読む」というケースについては扱わない。後者に関して補足するならば、「障害のある人が書いた文章」と言っても、それが純粋に障害のある人の体を反映しているとは言えないという問題の複雑さがある。障害のある人といえども、文章を書く時点で、語彙やその意味、文法、流通の制度など、健常者の体を基準に作られた文化全体に組み込まれることになるからである。
★2 木下知威さんの「耳」についての分析は、以下の原稿をもとにしています。
http://www.bonus.dance/essay/06/
★3 《砲撃》のエピソードは、木下さん自身が文章に記しており、以下で読むことができます。
「声を剥がす」『共感覚の地平』所収(pp. 61-72)
https://researchmap.jp/mutejxh5p-17185/?action=multidatabase_action_main_filedownload&download_flag=1&upload_id=27231&metadata_id=9940[PDF]
★4 「甘えん坊な音」に関する言葉も、上記文章から引用しています。

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伊藤亜紗(いとう・あさ)

東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授。専門は美学、現代アート。もともとは生物学者を目指していたが、大学三年次に文転。2010年に東京大学大学院博士課程を単位取得のうえ退学。同年、博士号を取得(文学)。著書に『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』(水声社)、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社)、『目の見えないアスリートの身体論』(潮出版)がある。同時並行して、作品の制作にもたずさわる。

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