第五回 手が教えてくれること


 あるギャラリーの民藝展でテーブルの上に置かれた竹籠のひとつに目が留まった。竹ひごを斜めに巻いた縁は、木に蔓[つる]が自然と巻き付いたかのような塩梅で、総じて凝った意匠はないものの、一切の手抜かりが見当たらなかった。ごく普通のなりは、ひとりでに編み上がってしまったというような淡々とした顔つきをしており、作り手の痕跡を感じさせなかった。
 そんなものを見てしまっては、是が非でも欲しくなるのは当然で、すぐさま財布をポケットから取り出す。と同時になんともムカつく気分に襲われた。なぜ「欲しい」という思いが「買う」という行為にただちに結びついてしまうのか。そんな自分をひどく浅ましく感じた。
 かつての暮らしでは欠かせなかったであろう竹籠は、いまどきの都会暮らしならば登場する出番などありはしない。ただし、果実や野菜を放り込み、無造作を装って部屋に置けば、ちょっとしたインテリアにはなるだろう。生活の実用には結びつかなくとも、インスタグラムで見映えするライフスタイルを演出することは造作もなくできる。ただ「すてきだから買う」ばかりで、「すてきだから作ろう」とは決してならない。自分の手は何も作り出すことがないのだ。
 手ずからものを作り出すことに憧れている。とはいえ、手首はひどく硬く、指の動きも滑らかではない。手仕事にはあまりに不向きだ。細やかな手の働きは、針に糸を通すくらいが関の山。固く締められた瓶の蓋を開ける。雑巾をきつく絞るといった、大雑把に力を出す分には長けている。
 日々を振り返ると、手の登場する出番でもっとも多いのは、キーボードを叩くかスマートフォンを握るかするときだ。そこではしなやかさや慎重さ、繊細さは必要とされない。手は目で情報を追い、脳で処理する際の補助としての役割しか果たしていない。気がつけば、手は目と頭の膝下に組みしかれてしまっており、そのことを特段不思議にも思わなくなっている。

 ギャラリーに赴いた数日後、鑿[のみ]と木槌を使って皿を作る機会を得た。そこで気づいたのは、手は目や頭に従属してはいない。まして手仕事とは手による思考とそれがもたらす知恵がないと成立しないことだった。
 鑿も木槌も一度手にしたことがあっただけで、まともに扱えるとは言い難い。まるで自信がなかった。そのため握った時、最初に脳裏に浮かんだのは、「正しい鑿と木槌の持ち方」についてのイメージと、その像に「鑿の刃先を木にしっかり当て、木槌をきちんと持ちましょう」といった、ナレーションのようにかぶさる取り扱い説明の言葉だった。いったい何をどうすれば「しっかり」と「きちんと」になるのか知るはずもないのに、なんとか言葉によって安心しようとする自分がいた。
 このように困惑して「どうすればいいのだったか」とあれこれ思う時、目は宙空を向くか、あるいはキョロキョロと左右に動く。誰しも馴染みのある、「えーっと」と思いあぐねる際のポーズだ。
 目の前に木と鑿と木槌という極めて具体的なモノがありながら、いまここではない過去に成功例はなかったかと頭の中で検索に励み、または、この先に思いをはせ、「どうすればうまくいくか」と考えると、体はそういう表情を浮かべる。
 ほとんど経験のないことだから過去を探っても仕方ないにもかかわらず、正解を参照し、なんとか言葉にして捉えようとする。そのとき脳は激しく動くかもしれないが、手は止まったままで、現実にはなんら変化は生じない。皿を作ることが置き去りにされ、言葉が生み出す現実感の方を重んじ、現実に対処することを忘れてしまう。
 脳裏に浮かぶ言葉の方を重んじるのは、頭で捻り出した結論を実行すれば上手くできるという、学習方法が身についているからだ。だから、とりあえず動いてみるのではなく、正しいモデルを見つけ、それを身につけるにはどうすればいいかを熱心に考える。
 「はっきり言って病だよ」と私が私に冷静に告げる声が聞こえる。その声は「やったことがないから自信がない。だからできない」と自動的に判断してしまうことには悪魔的な魅力があるのだと教えてくれる。
 「やったことがない・自信がない・できない」はそれぞれ別のことなのだが、それを「だから」で繋げてしまい、できない理由を自らに説明してみせる。その思考が曲者なのだ。そういう考え方をそのままにしておくと、できるようになるための手本を探し、誰かの見せてくれる正しさを真似ることに熱心になりはしても、「まず手を動かす」という誰でもできるはずの簡単なことを忘れてしまう。「作る」という行為が促す主体性を捨ててしまい、それをやがて不思議に思わなくなる。わざわざ自主性を放棄してまで他人の示す正しさを身につけようとすることは、あえて他者から評価される対象になろうとすることだ。

 手に感じる鑿と木槌の確かな重さは、様々なことを教えてくれる。「やったことがないから自信がない」という考えは、思い込みで自分を行き止まりに追い込んでいるに過ぎないこと。その先には「だったらやってみればいい」という道が続いており、「ただやってみる」とき、うまくも正しくもやる必要はまったくないのだとわかる。
 作業を始めてしばらくすると、鑿を握る左手が痺れ、木槌を握る人差し指の付け根に早くも水ぶくれができた。しっかり握ることとぎゅっと力を入れてしまうことの違いがまるでわかっていないのだ。
 思えば料理をするときからしてそうなのだ。包丁が手から抜け落ちない程度に柔らかく、緩みなく握って、あとは引くか押すかすればいいものを、手に包丁を押し付けるようにして握り込んでしまうため、スパッと切るどころか、トントンと流れに乗った小気味よい音をまな板は立てることはない。そんな調子ではすぐに疲れることはわかっているため、「力を入れないでおこう」と言い聞かせ、慎重に臨む。すると今度は「力を入れない持ち方」をしようとしてしまう。それでは単に力が入らないし、手元はおぼつかない。
 気がつけば、菜や肉を切るために費やすべきエネルギーを包丁の持ち方に迷うことに注いでおり、「うまい切り方」を考えて、それを実行しようとしている。側から見れば、台所に立って食材を切っているように見えても、実は調理に似た、概念的な行為をしているだけなのだ。
 いつもなら、うまくやろうとしてへとへとに疲れて終わりを迎える。しかし、その日は違った。ぐっと力が入ってしまうから手は次第に引き攣[つ]れてはきたが、ただ彫るという原始的な行為にひたすら喜びと楽しさを感じて、あれこれ思う暇も惜しいくらい、ひたすら彫ることに集注した。うまく手が動かないことをさほどの障害とみなさなくなっていた。

 彫り進めるたびに楠の良い香りが鼻孔をくすぐった。鑿が穿[うが]った溝を指先でなぞれば、次にどう進めばいいかわかった。誰かの作った皿や手つきからではなく、自分の彫ったものがどこをどのように削ればいいか教えてくれた。考えずともそのことが自ずとわかる。自らの振る舞いからするべきこと、向かう先を教えられる。これは発見だった。
 そこには正解を求めようとする時の抜かりなく周囲を見遣ったりする様子や、「ちゃんとしないと怒られてしまう」というような、子供の頃から習い性になってしまった怖れや、物事に対しいつも受け身でいようする態度はなかった。
 いつの間にか正しさは私の内にはなく、外にあるものだと思い込んでいた。それは謙虚さではなく、自分でやってみることを恐れるが故の態度だ。恐怖を克服しようとすると、恐怖に目がいってよりそれを増幅させてしまう。そのことがよくわかった。恐怖にフォーカスするのではなく、ただ行ってみればよかったのだ。
 「ちゃんとしなければいけない」といった言葉に耳を貸す必要はない。ともすると、「これでいいのだろうか」と不安が心に兆す。その綻びを目ざとく見つけ、言葉はいつも「そんなことでは評価されないぞ」と私を脅し、他人の模倣を勧めてくる。その声に素直に従っても、うまくいった試しがない。私が自分の手を誰かの指示してくれた通りに動かそうとするという、とても複雑なことをしている限り、うまくいくはずはないからだ。

 板に張り付くようにして木槌で鑿をただ叩き、彫っていく。複雑なことは何もない。木と鑿と木槌を見ている。いつものように概念を通じてものを見てはいない。ただ見ているだけだ。だから迷う必要もない。ひたすら軽快な心持ちでいられることに驚く。同時に、頭で考えることを特権的に扱うことこそが、この身体を必要以上に重くさせていたのだ。それを既に知っていたのだと気づく。
 私の道具の持ち方はプロフェッショナルからすれば、まるでなっていないのかもしれない。熟達者からすれば彫り方は、見ていられないほどひどいかもしれない。できあがった皿は製品としては箸にも棒にもかからない代物かもしれない。そうであっても当初の困惑は消え失せ、自分の行為と結果に自信を持っていた。うまくやろうと一切しなかったからだろう。ただ行うという原始的な行為には、自己満足しかなく、他人の評価を期待する魂胆が入り込む隙がなかったのだ。

 「ただ行えばいいのだ」と言われると、どのようにすればいいかわからず迷い、言葉に手がかりを求めても得られず、途方に暮れる。そういう時に「途方に暮れる」状態に陥ってしまうことを常識だと思い込んでしまっている。そうではないのだ。言葉による明示を求めるから、暗示されている手がかりが見えなくなるのだ。
 水ぶくれができてしまったが、そのせいで木槌を強く握れなくなった。おかげでどういう風に握ればいいか適当な力加減を右手は教えてくれた。どの角度で鑿を当てればいいかは左手が導いてくれた。頭で考えることだけを思考と呼ぶのは、深い考えなしに済ませた態度でしかない。手が最適な解へと誘ってくれる。手の行為それ自体が思考なのだ。

  第四回へ 第六回へ  

ページトップに戻る

尹雄大(ゆん・うんで)

フリーランサーのインタビュアー&ライター。これまでに生物学者の池田清彦氏、漫才師の千原ジュニア氏、脳科学者の茂木健一郎氏や作家の川上弘美氏、保坂和志氏、俳優の田中泯氏、ミュージシャンの七尾旅人氏、川本真琴氏、大川興業の大川豊総裁、元ジャイアンツの桑田真澄氏など学術研究者や文化人、アーティスト、アスリート、ヤクザに政治家など、約800人にインタビューを行って来た。ライティングに関わった書籍多数。著書は『やわらかな言葉と体のレッスン』(春秋社)、『体の知性を取り戻す』(講談社現代新書)ほか。
http://nonsavoir.com/

Web春秋トップに戻る