第5回(木曜日)/すべては「ゆらぎ」の中に
★規則的なようで、規則的ではない
今日は木曜日。
時間、時間、……時間って何だろう……と考えているうちに、もう五日。
いつの間にか、考えている時間に、巻き込まれてしまったようです。
いま「考えている」と言いました。そして「考えている」のは脳です。
しかし、「この脳とは、何なのか、その構造はどうなっているのか?」ということを考えているのは脳なのですから、脳自身は、「脳である自分」を理解できるのか、という、どうどうめぐりの問題にぶつかってしまいます。
時間という魔物の本質も、そのあたりにありそうですね。
自分の顔を自分では直接見ることはできないというパラドックス(逆説)を思い出します。だって、鏡に映る顔は、上下はそのままでも左右は反対ですし、写真に撮ったとしても、その画像は、しょせん、小さな粒々の集合体でしかないのですから……。
さて、今までのお話のなかで、時間の本質にかかわっていそうなことをまとめてみましょう。
1)「“何物も存在しない、変化しない”という場合には、時間があるのかないのか、を考えることはむずかしい」ということ。
それに加えて、
2)「宇宙の究極は、完全なランダム(やさしくいってしまえば「デタラメ」)に向かっている」ということ。
そして、
3)「そのランダムに逆らって秩序に向かう営みが、何ものかを規則正しく刻む“リズム”というものであり、それこそが、“生きている”ということの証[あかし]になる」ということ。
以上、三つの重要な視点を紹介しました。
言い方を変えれば、少し、むずかしい表現になりますが、この現実の世界に起こる出来事は、ランダムに向かう性質と、規則に向かう性質とが、おたがいにからみあい、せめぎあって、独特の変化をしているらしい……ということです。
たとえば、そよ風の風速の変化を考えてみましょう。吹くかと思えば、吹かず、吹かないと思えば、吹いてくるというような変化をしています。
ここで、いま書いたこの文章をくわしく見てみましょう。
まず、「吹くかと思えば」ということと「吹かないと思えば」という表現の中には、「(そのように)予測できる」という気持ちがこめられていて、そこには何か規則があることを予感させます。しかし、その一方で、後に続く「吹かず」、と「吹いてくる」という表現は、予測に反して起こるできごとですから、デタラメに起こる現象だということを意味しています。
つまり、自然風の風速の変化は、ある程度は予測できて、ある程度は予測できない、という二つの相反する性質が、半分ずつ含まれているような変化をしているということです。
ところで、私たちは自然のそよ風を心地よいと感じますが、一定の風速で風を送りつづける扇風機の前にいると、やがて退屈になってきます。むしろ、不快感にかわってしまうこともあります。
ローソクの炎も、一定ではなく、自然風の場合と同じように、規則的なようで、規則的ではないという微妙なゆらぎ方をするからこそ、神秘的で美しいのです。これは、炎がまわりの空気をあたためることによって周囲に起こる風の対流によるものです。
星のまたたきも、そうですね。
ピカピカしているように目に映るのは、目に届く光の量が変化するからですが、その明るさや、それが変化する周期にも、音楽でリズムをとるときに使うメトロノームのような規則性はありません。
これも、大気の中には風がありますから、それによって空気の濃いところと薄いところ、つまり、物理の言葉を使えば、密度がゆらゆら変化しているために、星からやってくる光の方向が曲げられて(屈折ですね)私たちの目のところにやってくる光の量が変化しているからです。
ここで、余談になりますが、扇風機がつくりだす風の強弱を、自然の風のようにゆらがせてみよう、ということで、1980年代に、当時の松下電器(現パナソニック)の研究所が「ゆらぎ扇風機」を開発したことがあります。かなり好評で、今も市場にでていますが、私自身、その開発にかかわった一人として、なつかしい思い出です。
★「1/f(f分の1)ゆらぎ」とは
それでは、風について、もう少し、考えてみましょう。
風は、目に見えません。
しかし、風が、私たちの目に見えるものにあたると、それを動かしたり、渦[うず]をつくったりして音をだしますから、風そのものは目には見えなくても、音によって、風の存在を知ることができます。
また、飛行機を操縦するとき、とりわけ、熱気球やグライダーの操縦には、雲の動きや形など、周りの景色の見え方などから、「風を読む」能力が必要とされます。
「見えないものを見る」、ふと、岸田衿子[えりこ]さんのすばらしい詩を思い出しますね。
かぜに いろをつけたひとだれ
かぜに はねのあるのをみたひとだれ
かぜを みたいとおもったら
かざぐるまを みていてごらん
かざぐるまを ほしければ
かぜのなかを さがしてごらん
岸田衿子『あかるい日の歌』(青土社刊、1979)
話を、戻しましょう。
自然風の風速の変化、つまり強弱には、どうして半分予測できて、半分予測できないという二つの相反する性質があるのでしょうか?
これは、物理学の世界でも、とても難しい問題です。
しかし、このことから、風をつくっているのは、目に見えない小さな粒子の集団だということが推測できるのです。その粒子とは、もちろん、空気をつくっている窒素[ちっそ]や酸素の分子たちです。
その理由は、ひとことでいってしまえば、これらの粒子たちには、私たち人間のように、心がありませんから、あちらに行きたい、こちらには行きたくないというような動きはなく、デタラメに自由に動こうとします。 しかし、ひとつの粒子からみると、自分のまわりには、たくさんの仲間の粒子たちがひしめきあっていて、自由には動けないのです。 いま、たくさんの仲間の粒子たちといいましたが、私たちが生活している地上での空気を例にとれば、1立方センチメートル、すなわち、縦、横、高さがそれぞれ1センチメートルの立方体の中には、およそ10000000000000000000(=1019)個の粒子たちがひしめきあっています。ものすごい数ですね。
そこで、この「自由に動きたい」という気持ちと「自由には動けない」という制限が、たがいにせめぎあって、独特の変化をすることになります。
これが、半分デタラメで、半分規則的だという動きを引き起こします。となると、自然界にあるすべての物質は、原子分子というたくさんの粒々からできているのですから、自然風の風速変動に似た変化をする現象がたくさんあるといっても不思議ではありません。
これこそが、自然がもっている特有の性質で、物理学の専門用語では「1/f(f分の1)ゆらぎ」といいます。
それでは、この「1/fゆらぎ」の説明を、少しだけしておきましょう。
ここにでてくる「f」とは、ある変化の振動数[しんどうすう]、つまり1秒間に何回、変動を繰り返すかという数を表しています。ですから、ゆっくりした動きでは、「f」は小さく、せわしい動きでは「f」は大きいということです。
つぎに「1/f」という数を考えてみます。ここで「f」は分母なのですから、「f」の値が小さいゆったりした変化のときは「1/f」の値は大きく、せわしい変化のときは、逆に小さくなります。
ここで、「1/f」という値[あたい]そのものは、その変化の大きさを表しているのですから、ゆったりした変化の揺れ幅は大きく、せわしい変化の揺れ幅は小さいということになりますね。
もう一度、風速の変化におきかえて、考えてみましょう。
台風のときなど、弱い風が次第に強くなって最高潮に達し、そのあと、しだいに弱まっていくような変化幅の大きい風速変化は、比較的ゆったり起こっています。
つまり、これは「f」は小さいけれども「1/f」は大きいという変動です。
しかし、風速が小刻みに揺れている変化、つまり「f」が大きい場合の風速変動の幅は、「1/f」が小さいので、変化幅は比較的小さいということです。つまり、大きくゆったりした風速変化のうねりの上に、小刻みの小さな変動が重なっているということですね。
これが「1/fゆらぎ」の姿です。おわかりいただけましたか?
★近すぎても遠すぎてもキャッチボールはできない
さて、もういちど、星がまたたく様子を思い出してくださいね。
星の光は、小刻みにピカピカ揺れていますが、大きく明るさが変るような変化は、比較的、ゆっくり起こっていて、わずかな明るさの変化は、かなりせわしく起こっていることは、みなさんもご存知ですよね。
海辺に打ち寄せる、潮騒[しおさい]の音も同じです。
大きくザブーン、ザブーンと打ち寄せる波は、大きな音で、ゆったりとしたリズムでくりかえしています。しかし、さざ波のように小さく打ち寄せる波は、小刻みにジャブジャブと小さな音を立てています。
これも、きちんと調べてみると、「1/fゆらぎ」をしていることがわかります。
それだけではありません。
私たちの心臓の鼓動も、メトロノームのように、規則正しく打っているわけではありません。たとえ、目をつぶって心静かに黙想[もくそう]にふけっているときでも、わずかですが、速く打ったり、遅くなったり、ゆらゆらしています。
脳波も同じです。脳でつくられる電気信号の大きさが、大きくなったり小さくなったりゆれているからです。
実は、健康な人の体の中で繰り返されている生体信号は、健康状態がよくて、心がリラックスしているときには、ことごとく、「1/fゆらぎ」をしていることが確かめられています。
なぜでしょう? もう、おわかりですね。
それは、いうまでもなく、生体信号をだしている大本[おおもと]は、脳にありますが、その脳の中にある細胞をつくっているのも、たくさんの原子分子だからです。
不思議ですね。神秘的な生命の鼓動です。
さらに、原子が集まって分子をつくったり、その分子が集まって物質ができるためにも、この「ゆらゆら」が必要なのです。
たとえば、私たちが、キャッチボールをしているとき、おたがいの距離はおおよそきまっていて、近すぎても遠すぎても、キャッチボールはできません。しかも、キャッチボールをしている間は、二人はボールを介して結びついていて、離れることはできません。
なにか、おたがいの間に引力が働いているかのようですね。
実は、原子や分子の世界でも、まったくこれと同じことが起こっています。
ある粒子[りゅうし]と粒子が結びつくためには、もっと小さい粒子をキャッチボールしていると考えることによって説明できる現象がたくさんみつかっています。
たとえば、原子の中心には、原子核[げんしかく]がありますが、その中で陽子[ようし]という素粒子[そりゅうし]と、中性子[ちゅうせいし]という素粒子は、たがいに中間子[ちゅうかんし]と呼ばれる、さらに小さい粒子を交換することによって結びついているのではないか――という、大胆な予言をした日本の理論物理学者がいました。
湯川秀樹博士で、1935年のことです。
そして、その2年後の1937年に、アメリカの物理学者、アンダーソンとネッダーマイヤーによって、宇宙から降り注ぐ宇宙線の中にこの粒子が発見され、1949年、湯川博士の日本人として初のノーベル物理学賞の受賞につながりました。
このように考えてみると、大自然の中の現象から、私たちの体の中のこと、さらには、目には見えない原子や分子の世界にいたるまで、ゆらゆらゆれる「ゆらぎ」が基本になっていることがわかるでしょう。
そう、何もないところから宇宙が、突如[とつじょ]生まれたのも、この「ゆらゆら」が原因だったことは、一昨日火曜日にお話ししたばかりでしたね。
もちろん、これらの「ゆらぎ」のすべてが、「1/fゆらぎ」だとは限りませんが、しかし、私たちの体や、日常生活の中で見られるような変動の大部分は、「1/fゆらぎ」です。
私たちの生体信号の中にも、この「ゆらゆら」があるということは、とても不思議なことですが、逆に考えれば、だからこそ、人間も、自然の一部だといってもいいということになりそうですね。
そうです。「自分」とは「自然」の「分身」という二つの言葉を合わせたものだと考えるとすっきりしますね。
となると、自然の一部である人間が、自然界の根源的な「1/fゆらぎ」という刺激を外からうけたとき、何が起こるのでしょうか?
その答えは、なんとなくすぐ近くにあるような気がしませんか?
従来の扇風機ではえられない自然のそよ風の心地よさ。
やさしい子守り歌のような潮騒[しおさい]の響き。
神秘の世界に吸い込まれてしまいそうな星のまたたき、ローソクの「ゆらゆら」。
そして、心静かに瞑想しているときの心拍や脳波の「ゆらぎ」……。
自然界の「ゆらぎ」と、私たちの心の状態は深くかかわっています。
つまり、人は、「1/fゆらぎ」をしている外部刺激に対しては、心地よいと感じているといってもいいでしょう。だって、繰り返しになりますけれど、私たちは自然の分身、自然によってつくられた存在なのですから……。
★人類は大震災によって生み出された
さて、話題を本来の時間にうつしましょう。
時間は目には見えないけれど、何かを区切るということのなかに見え隠れしているらしいことは、昨日水曜日にお話ししたとおりです。
その基本は、生きていることの証[あかし]としての、生体のリズムにあります。
ところで、人間が自分を表現する方法として作り上げてきた芸術の中で、リズムといえば、まず、思い浮かぶのは音楽です。絵画、書道、彫刻のような芸術にも、抽象的なリズムの動きはありますが、音楽ほど、はっきりしたものではありません。
舞踊[ぶよう]そのものの動きにも、リズムがありますが、ほとんどは、音楽をともないますから、音楽のリズムに支配されます。そして、無音のパントマイムのようなものであっても、踊り手の心の中では、音楽に似たリズムを感じているといいます。
人間の創造活動として大きな力をもつ音楽の魔法です。見ることよりも、聴くことの方が、人間に大きな影響を与える不思議については、昨日お話ししたことを思い出してくださいね。
それにしても、音楽はどうして、このような力をもっているのでしょう?
その秘密は、すべて地球の歴史、人類の進化の歴史の中にあります。
そこで、本年(2011年)3月11日に、東日本で発生した地震のことを思い出してください。実は、想像を絶する災害をもたらした地震が、音楽と関係していたのです。
そのことを考えるために、まず、地球の上に住んでいる私たちにとっては、地震は、つねに私たちとともにある自然現象だ、ということを理解しておかねばなりません。
少しだけ、地球の構造を考えてみましょう。
実際の地球は、直径がおよそ13,000kmの大きな球体ですが、これを直径1mのボールの大きさに縮めて考えましょう。すると、大気圏の厚さは、1mmくらい。海の平均深さは1mm以下、そして、その下には厚さ数ミリメートルのプレートという10数枚の岩盤[がんばん]があり、どろどろに溶けたマグマの海の上に浮かんでいて、動いています。ちょうど、熱い味噌汁のおわんの中を見ると、お味噌が、ぐるぐる対流で動いているのがわかるでしょう。
極端にいえば、それと同じように、マグマも動いているのです。
つまり、私たちは、そんなに頼りない地球の薄い皮の上に住んでいます。そして、その薄い皮のようなプレートがぶつかりあって、そのエネルギーがたまると、地震になって、エネルギーが開放されます。ですから、地球の上に住んでいる私たちすべてにとって、地震は、地球のダイナミックな営みの中のひとつであり、そういった意味からいえば、今回、被災された多くの人々は、被災しなかった私たちの身代わりになられた、という認識がぜひとも必要です。
いつでもどこでも、地震は、起こる可能性をもっている自然現象なのです。
このように、地震は、私たち人類にとって、計り知れない恐怖をもたらす災害です。
しかし、そもそも地震があったからこそ、人類が誕生したともいえる、といったら、みなさん、驚いてしまうかもしれませんね。でも、本当のことなのです。
はるか大昔のことです。とてつもなく大きな巨大地震が、アフリカ大陸を襲いました。そして、先ほどお話ししたようなプレートが大陸の両側からせめぎあって、山ができました。その山と山のあいだには、平原ができました。
山にぶつかる湿った空気は空に上がって雲をつくり、雨を降らせ、豊かな森をつくりました。しかし、平原には、乾燥した風ばかりが吹いて、大きな木は育たず、草原になったのです。サバンナです。
そこで、困ったのは、このサバンナに取り残された私たちの祖先です。
それまでのように、高い樹木に登って、食べ物のありかを探したり、遠くからおそってくる猛獣たちの行動に目をこらすことができなくなりました。
そこで、それまでの四足歩行[しそくほこう]から、立ち上がって二足歩行[にそくほこう]になったというのです。
立ち上がることによって、両手が自由に使えるようになりました。道具を発明して進化していったのです。しかも、からだは、背骨の上に頭がのる形になりますから、大きく重い脳をもつことが可能になりました。“考える”ことができる人類への第一歩です。
しかし、その反面、立ち上がることによって骨盤[こつばん]の間隔[かんかく]がせまくなり、人類のメス、すなわち女性は、大きく完成した頭を持った状態のままでは、赤ちゃんを産めなくなってしまいました。そこで、人間のお母さんは、赤ちゃんの頭が未熟な状態で自由に変形できるうちに、出産しなければならなくなりました。未熟児出産ですね。
だからこそ、人間だけが、教育されなければ一人前になれない唯一[ゆいいつ]の哺乳類[ほにゅうるい]ということになったのです。
みなさんが、学校に行っている(あるいは、行った)理由はそこにあります。犬でも馬でも、生まれたばかりの赤ちゃんは、自分の足で立ち上がり、お母さんのお乳をのむことができますが、人間はできません。一人では生きていけないのが人間なのです。
ここで、立ち上がるということがもたらした、もうひとつの重大なことがあります。
それは、地球の引力で、喉[のど]の構造が下にのびることによって、いろいろな音がだせるようになったことです。
そこから、言葉がしゃべれるようになりました。
逆に他の四足の動物たちが、人間のような言葉をもたない理由は、ここにあります。つまり、言葉よりも先に音によるおたがいのコミュニケーションがあったということですね。ネコやイヌは言葉をもちませんが、鳴き声や、ほえ方で、自分の気持ちを表現しています。
もういちど、繰り返しましょう。
たがいに自分の気持ちを表現する方法の中で、いちばん根源的なものは、言葉でもなく、文字でもなく、音だったのです。
音楽が言葉を超えて、直接、人間の心に響く力をもっている理由は、まさにここにあります。そして、同じ言葉であっても、その声色やトーン、強弱などによって、大きく意味が違ってくるということにもなったのです。
たとえば、「いらっしゃいませ、ようこそ!」という言葉でも、そのテンポ、抑揚[よくよう]、間のとり方などでつくられるリズムによって、相手に与える印象は大きく変るでしょう。メールでは、気持ちをごまかせても、デンワでは、ごまかせないということですね。
音をともなった“言葉”をもつ人類という存在を生み出したのは、まぎれもなく地震だったのです。
★最初に体でおぼえ、最後に残るのはリズム
さて、いよいよ音楽のお話です。
昨日もお話ししましが、耳からの情報は、人間にとって、いちばん根源的な力をもっています。そして、音楽は、音の高さ、長さ、強さ、リズムなどが変化することによって成り立っています。それを示した図表が楽譜でした。
実は、この「変化」の部分に、「ゆらぎ」が関わっています。
そこで、たとえば、すばらしい演奏を録音して、その音の成分やリズムの動きを数学的に分析してみると、ほとんどの場合、「1/fゆらぎ」の傾向を示しています。
音楽だけではありません。聞きやすい話し手のしゃべり方を分析してみても、同じです。
つまり、音楽でも会話でも、耳に心地よく感じる条件は、ある程度、つぎの音が予測できることと、その反面、予測を超えて、意表をつくような新鮮さがあることです。
まさに「1/fゆらぎ」です。
メロディを考えてみても、つぎはこういう音になる、あるいはこういう強さになる、というような予測が、半分あたって、半分はずれるような構成でないと、コンピューターが自動的につくりだすような、機械的で、無味乾燥[むみかんそう]な音の配列になってしまいます。
楽譜は変化しませんが、それをどう「音楽」として演奏するかによって、心に響く割合が違ってくるのは、まさに、この点にあるわけです。楽譜はデジタル、演奏はアナログといってもよさそうですね。演奏されることによって、はじめて「音楽」になるということですね。
それでは、今日のお話のしめくくりに、音楽療法のことを少し、お話ししておきましょう。
音楽療法とは、ひとことで言えば、障がいをもつ、もたないにかかわらず、その人の潜在能力をひきだして、体のいろいろの機能を改善したり、活発にしたりして、より豊かな生活へと導く手法です。
その基本にあるのが、「同質の原理」といって、相手の心に「寄り添う」ことが重要になります。
つまり、音楽を一方的に与えて「さあ、うたいましょう」ではなく、相手の「いまの状態に、どのような音やリズムがぴったりするのか」を見極めることが第一歩になります。
そのためには、すでに存在している音楽を使うだけではなく、相手の心に響くような音楽を、即興で演奏しながら、相手の反応を確かめるという高度な技術が必要になります。
その基本が、実は「リズム」なのです。
人には、すべて、“自分のいまの状態にピッタリ”のリズムがあります。
話のリズムも同様です。高齢者に話しかけるときも、話すスピード、リズムが、相手のリズムにあっていないと、聴きとってもらえないことがわかっています。
ですから、自分のリズムだけで相手と接することは、ただのおしつけであって、コミュニケーションはまったくとれないということになります。
これが、「寄り添う」ということの意味ですね。
私たちが年を重ねていくと、歌を例にとれば、最初に忘れるのが、歌詞です。次がメロディー。しかし、人生の終焉[しゅうえん]のときまで、残っているのがリズムなのです。
幼少のころ、お母さんが、赤ちゃんをねかしつけるときに、とんとんと体をやさしくたたいたり、ゆすったりするでしょう。そのときのリズムを人は一生、忘れません。
同じ音楽でも、会話でも、体の状態によって、相手に聞きとりやすいリズムがあるということが、最近の研究でわかってきました。ということは、そのリズムを知ることから、病状の進行状態がわかるのだそうです。これを「固有テンポ」といって、最近になって、日本の音楽療法士が、純粋な音楽学、演奏、そして心理学や脳波の精密な測定といったような高度な先進医療との共同研究で見つけています。
すべては、まずリズムありき。リズムがあることは生きていることの証[あかし]。
リズムによって何かを刻む、その背後にあるのが、時間の気配……だということになりますね。
いつのまにか、今日も時間がたってしまったようです(ほんとうに時間の経過は不思議です)。
月明かりの中から、能楽の調べが立ち上り、翁[おきな]の舞いがはじまりそうな夜です。
月今宵[こよい] あるじの翁 舞出[まいい]でよ(蕪村)
実際に、お能をご覧になった方なら、おわかりでしょう。お能の舞台に流れる時間は、日常の時間と違っているように思えませんか。
それは、能楽に中で流れている独特のリズム感に理由がありそうです。
基本的には、ゆったりした「ゆらぎ」ですから、時間の流れもゆったりしていて、見慣れない人にとっては、退屈きわまりない舞台になります。しかし、いったん、演者も観客も、その時間にのまれてしまうと、すべてが一体化して、そこにあるのは、永遠としかいいようのない世界になってしまいます。
その先に広がる世界こそが「幽玄[ゆうげん]」という不思議な世界なのでしょう。
お能では、観客席からみて左手に、橋(「橋かがり」といいます)を渡って行った先が、おそらく“あの世”につながっています。そして、そこから「シテ」と呼ばれる主役が、舞台の正面にしつらえられた“この世”にでてきて、「ワキ」と呼ばれる現世の人に、恨みや苦しみ、忘れえぬ思い出などを語り、やがて救われて“あの世”に戻るというお話が、主流になっています。
こうしたお能独特の構成も、ゆっくりしたリズムから生まれる“時間のとどこおり”、さらに、そこから生まれる“永遠なるなにか”へのあこがれが根底にあるのでしょう。
夜も更けてきました。
ふと、心の中に、時空を超えた物語として有名なお能の名曲「菊慈童[きくじどう]」の素謡[すうたい]が、よみがえってきます。
それは、私が国立能楽堂での初舞台で、はじめて演じた演目でしたが、当時は冷や汗ものだったその経験を、いま、思い起こしていると、「過ぎ去った時間」の魔法にかかったかのように、いつのまにか、心に羽が生えて、時間も空間もとび越えて、どこかに飛んでいきそうな気持ちになります。
どこかで、あなたにも会えるかもしれませんね。
おやすみなさい。
以上、第5回 木曜日の授業。
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