第五回 学び2.0としての「三田の家」、あるいは創造的なあわい/
乱交場の政治性(前編)


(1)創造的な「あわい」

 三田の家。それは、本当にただの家、大家さんには申し訳ないが、かなりの「ボロ家」だった、築40数年のごくありふれた木造二階建ての家。東京・港区、(私が当時教鞭をとっていた)慶應義塾大学の三田キャンパスから歩いて2分ほど、居酒屋などが所狭しと並ぶ「庶民」的な界隈に埋もれ忘れ去られていた空き家を借り受け、何ヵ月かかけ、内外装を自分たちの手で改め、再び社会に向けて扉を開いた「家」だった。
 教室、会議室、カフェ、食堂、宴会場、ギャラリー、映画館、コンサート会場、休憩場、道場……、ありとあらゆる場所になりうるが、いかなる場所でもない、「無目的」な場所。大都会の只中に開けたエアポケットのような、「あわい」註1の空間。それが、三田の家。
 2006年から2013年にかけて、その「家」は(ウィークエンドカフェが「奇跡」を起こす場だったように)東京という超資本主義的メガシティの中で、ひっそりと、ほとんど目立たない形で、だが数々の小さな「奇跡」を生み出していった。いったい、この年月の間、どれだけの、どのような人たちが出入りし、出会い、交わったのか。誰も、私も、知らない。でも、その「奇跡」を経験した幾人かは、そのかけがえのない体験の「種」を、各々の町に持ち帰り、蒔き、育てていった。ちょうど、私が、ウィークエンドカフェの「種」を東京に持ち帰り、蒔き、「三田の家」として育てたように。
 私は、その立ち上げに関わり、運営に携わり、この絶えず「発明」しつづけなくてはならない「創造的な欠如」註2の場を、他の有志たちと共に、作りつづけた。閉じてから五年ののち、振り返ってみるに、それは、藝術2.0の一つの試み――「学び」を原点まで問い直し、そこから全く新しい学びの風景を描こうとした、いや、「学び」を根底から問い直したからこそ、「学び」を大きく超え出てしまった、前代未聞の、未だかつてこの社会が知らなかった、いたって特異な社会的空隙、“時空−間”を創造しつづける無二の試みだったように感じられる。全くの「手前みそ」で恐縮だが、今回は、この三田の家という、私もその「醸造」に深く関わった「サムシング・スペシャル」な場について、渦中にいた者だからこそ見えていた(でも私なりの)実相、そして、それが秘めていた「藝術2.0性」、そしてある種の「政治性」にまで語り及んでみたい。

(2)運営する人たち・仕組み

 社会的な「あわい」、「創造的な欠如」であった三田の家は、しかし、単なる屋根つきの空き地だったわけではなく、具体的な人たちがある仕組みによって運営していた現実の場であった。
 それはまず、「大学」の枠組みとしては、「インター・キャンパス」プロジェクトという、ささやかながら「オルタナティヴ・ユニヴァーシティ」を作り出してみようという、いささか逆説的な「大学」の研究プロジェクトの実験であった註3。その趣旨に共鳴してくれる教員・学生、あるいは学外の賛同者を募り、探し出し、共に三田の家の基本的コンセプト(といっても、結局、「無目的」とか「あわい」「欠如」とか言語化不可能なコンセプト?に行き着くのだが)、その運営の仕組みなどを、ミーティングにミーティングを重ね、練り上げていった。
 それはまた、「無目的」であるとともに、いやそうであるからこそ、置かれる文脈次第で、当初から多面的な顔を呈した。それは「オルタナティヴ・ユニヴァーシティ」の実験であると同時に、当時ようやく少数の大学(人)が気づき、試み始めていた「大学と地域の連携」の可能性を探る先駆的な試みの一つとしても構想された。そこで「大学−地域交流ラウンジ」構想という顔をまといながら、大学が位置する三田界隈、特に三田商店街にアプローチしていった。戦前まで、慶應のお膝元の学生街として活気を呈していたこの界隈も(「銀ブラ」ならぬ「三田ブラ」という言葉さえあったという)、他の学生街の御多分に洩れず、戦後徐々に衰退し、さらに商店街の目抜き通りであった国道一号線(通称「三田通り」)の拡幅以降は、もはや「商店街」の体すらなさず、多くのチェーン店、フランチャイズ店の進出に、高齢化する店主たちは、大いに危機感を覚えていた。
 古の学生街としての賑わいから現在の衰退までを生きてきた店主たちに、私たちは、この「大学−地域交流ラウンジ」構想を提示し、共に「21世紀的学生街」を創出してみないか、と誘いをかけた。が、学生街、そして何よりも商店街の再生を図りたい彼らと言えど、学術的文言が散りばめられた企画書を携えた、いたってカジュアルな出で立ちの私たちの「誘い」に半信半疑であるのは致し方なく、しかし私たちも地道に粘り強く勉強会や飲み会などの付き合いを重ねて、「人間」としての信頼を得ながら、ようやくこの「ラウンジ」=「三田の家」の共同運営者として三田商店街振興組合が名実ともに参画してくれるところまでこぎつけた。
 こうして、大学人と商店主という「マルチカルチュラル」な陣営が運営に乗り出した三田の家の運営の仕組みとはいかなるものだったか。それは主に「マスター制」と「メンバー制」と呼んだ仕組みであった。
 「マスター制」——曜日ごとに原則一人ないし複数の「教員」が「マスター」を務める。「マスター」は、その曜日の「ディレクション」を行う。ゼミなどの授業、ワークショップから始まって、「何もしない」という企画なき企画に至るまで、ありとあらゆる出来事の可能性が「マスター」に託される。しかし、「マスター」と言いながらも、ほとんどの場合、場を「仕切る」「統制する」役割からはほど遠く、むしろディレクションなきディレクションとでもいうべき役回りに徹する者が多い。とは言っても、どのマスター(=教員)もそれなりの経験を積み、人脈ももっているため、その潜在的なプログラムが自然に作動して、人々が集まり、事が起こっていく。その色合い、風景が、自ずと各曜日の「カラー」を醸し出していく。
 「メンバー制」――サポーターたちが金銭込みで、この絶えずアドホックでありつづける場を支えてくれる。一番のサポーターは、何と言っても商店街の店主たち。振興組合として経済的に支援してくれる傍ら、その日に売れ残ったパンやら和菓子やらをふんだんに振舞ってくれたりする。他にも、三田の家の趣旨に賛同し、「会費」を払い込んでくれる(公式の?)「メンバー」が数十人いたが、彼らも含め実質の「メンバー」は、何よりもこの「家」を常連とする多種多様な人たち、およそここ以外の文脈では絶対に遭遇しあわない、ましてやコミュニケートしないであろう異種異様な人たちが、何故か、この「無目的」な「あわい」の魅力に惹きつけられ、同じ屋根の下、気がつくと言葉や盃を交わし、互いに聴き入り、あるいは調理に勤しみ、共に在ることに興じている。そして、夜が更ける頃には、誰ともなく片付けを始め、場が元に整えられ、去り際に各自「寸志」を小箱に入れ、帰途についていく。
 こうした「マスター」たちと「メンバー」たち、そして「マスター」でも「メンバー」でもない者たちが絶えず出入りし、仕組みなき仕組みに動かされ、都度即興的に作り出しつづけていた三田の家。それは、ともすると「同種」の人間たちで群れやすい、いまだに「鎖国」的な心性に浸されたこの国にあって、およそ(多くの外国人留学生が出入りしていたこともあってか)考えうる限り最も「コスモポリタン」な、「アナーキー」ですらある「社交」の場、いや「乱交」の場と言っても過言ではなかったろう。

(3)「美学特殊C」

 その「家」は、しかし、少なくとも私にとっては、「学び」というものを突き詰めていった結果、「学び」のいわば“ゼロポイント”から立ち上げていった場であった。だからこそ、通常理解される「学び」の概念・領野から大きくはみ出る特異な場を生み出し続けていた。「学び1.0」を「学び0.0」まで掘り進めた結果、知らぬ間に「学び2.0」へと突き抜けていた、そんな感覚があった。
 また、その「学び0.0」への掘削は、二重の位相をもっていた。一つは、「学び」という、おそらくは「火」の使用とともに古いかもしれない原初的社会行為の原点までの遡行。もう一つは、その遡行を潜在的に可能にしたであろう、私自身の実存の零度への冒険と、そこからの帰還。そうした二重の「学び0.0」への掘り下げ、「原点回帰」から、この「家」、この上なくアナーキーで特異な「あわい」が励起していった。と、少なくとも「私」という文脈を通して見た時、思うのである。
 ではまず、一つ目の位相から見てみよう。
 私は、7年に及ぶフランス留学から1991年に帰国し、翌年から母校、慶應義塾大学で教鞭をとり始めた。担当科目は、フランス語、文学、芸術学、現代思想などだった。
 学生時代、大学のあまりの不毛さ――「知の砂漠」に思えた――に辟易していた私は、逆に自分が「教える」立場になった今、その「砂漠」に少しでも「潤い」をもたらそうと四苦八苦したが、しかし、熱情は空回りするばかりで、最初の5、6年は「革命」的なことは何もなしえなかったように思う。
 大きな転機は、2年間のニューヨーク滞在から帰国してしばらく経った2002年。文学部美学美術史学専攻の「美学特殊C」という授業を担当したことだった。おそらくは通常なら美学の特論的科目であろうに、私はなぜか、青天の霹靂のごとく、「学び」を根本から捉え直してみたい欲望に駆られた。自分=教師が1年間の授業を(当時はまだ通年制であった)プログラムし、それに学生たちを従わせるのではなく、学生たちが自らの手と頭で、自分たちの学びたいことを学びたいように学ぶ。つまり、学生たちが、机や椅子の配置などの教室の使い方から始まって、はたしてこの牢獄か病室のように無機的な空間に90分間座り続けるということが自分たちの本当に学びたい環境であるのか、今自分たちはいったい何をどのように学びたいのか、それを実現するにはどのような工夫・努力が必要なのか、このように自分たちが「つくる」授業に参加する者たち=自分たちに「ABCD」のような成績で評価するとはいかなる事態なのか、に至るまで、ふだん学生たちのみならず教員ですら問おうとしない自分たちの「学び」の自明そして根本を問い直し、そこから自分たちにとって最も望ましい「授業」を立ち上げ直していく、そんな「学び」の原理論的実践を、この「美学特殊C」で実行しようと、突如思い立ったのだった。
 そうしたメッセージを伝えるだけの「講義要綱」(当時はまだ文部科学省からの「シラバス」の指導はなかった)を読み、なぜか文学部の一専攻の「特殊」な科目であるにもかかわらず、他専攻他学部・大学院から総勢60人もの学生が集まった。
 そして、文字通り、私と学生たちは、自分たちの「学び」を“ゼロ”から立ち上げ直すという、おそらく前代未聞の冒険に乗り出した。そうして、本人たちにも意想外な企画が数々生み出され実行に移されていった。その中でも、のちに三田の家に流れいたることになる二つの企画があった。「京島編集室」と「萬来喫茶イサム」である。
 前者は、東京の下町に空き家を借りて住み込み、しかしあえてイベントやワークショップなどの仕掛けをすることなく、“素”で住んでみて、いったいどんな出来事が生起していくかを体験し記録するというプロジェクトなきプロジェクトだった。その場にたまたま居合わせた人たちから自ずと生まれるアイデアに即して「室」は変幻自在に使われていく。明らかにここに三田の家の原型の一つが伏在している。
 「萬来喫茶イサム」。彫刻家イサム・ノグチが、第二次世界大戦直後、焼け野原になったキャンパスを見て、そこに新たな知と文化の再生を強く願って、教職員・学生分け隔てなく集うために、建築家谷口吉郎とコラボレーションした「新萬来舎」。その、ノグチのキャリアにおいても最重要の作品のコンセプトを裏切るように、大学は(私の知る限り)長きにわたって、「千客万来」のはずの空間を封印してきた(学生のほとんどがその存在すら知らなかった)。挙げ句の末、ゼネコンが新たに建てる校舎により駆逐される危機に及んで、学生たちが立ち上がり、解体される前にノグチのオリジナルのコンセプト・思想を真に実現すべく、「千客万来」の「カフェ」(もちろんウィークエンドカフェ的意味で)的空間にしようと、大学当局と粘り強く交渉した末、実現できたプロジェクト。「フェスティバル/トウキョウ」の前身「東京国際芸術祭」のコミュニケーション・プログラムとも連携したことから、国内外のアーティストたちが気ままに訪れ、舞い歌い、あるいは学生たちとおしゃべりする傍らで、ギフトエコノミー的な贈りあいの経済が繰り広げられていた。ここに、もう一つの三田の家の原型が潜在していた。

(4)「インター・キャンパス」、「オルタナティヴ・ユニヴァーシティ」

 「美学特殊C」による、「学び」のゼロポイントからの立ち上げ直しは、その「革命」的快感を伴って、さらなる展開へと、私、そして「同志」たちを突き動かした。
 一「授業」から、今度は「大学」全体を根底から問い直し、21世紀という人類史的文脈にふさわしい大学とはいかなるものか。それはそもそも「大学」なのか。もしもはや「大学」でないとすれば、それはどのような学びの場なのか。そうした根源的問いを自分たちに課し、しかしその問いかけを存分に楽しみながら、次なる展開・行動に出た。それが、三田の家へと直接つながっていく、前述の「インター・キャンパス」プロジェクトであり、「オルタナティヴ・ユニヴァーシティ」プロジェクトであった。
 やや長いが、三田の家の根幹なき根幹に強く響く思想が込められているので、二つのプロジェクトのコンセプト文の枢要部分をここに引用したい。まず(時系列的には逆だが)後者から。

 今、日本の大学は大きな転機を迎えています。
 近代の知に基礎をおいたそのシステムは、世界の歴史・知の現在にうまく適応できぬまま懊悩しています。確かに、今、全国の大学で改革の試みがなされていますが、それらはほとんどすべて「教える」側からの提案であり、「学ぶ」あるいは「学びたい」者たちの意見が直接反映されているとはいいがたい状況です。
 そこで、私たちは、学ぶ者の視点から、「大学」を根本的に考え直してみたいのです。現在の、そしてこれからの社会にとって、本当に必要な大学とはどんなものなのか、大学とは本当に必要なのか、ゼロから考えてみたいのです。何を学びたいのか?誰から学びたいのか?どのように学びたいのか?どんな場所で学びたいのか?一緒に考えてみたいのです。そして、考えるだけでなく、ささやかながらも、自分たちの手で、自分たちが学びたいと思う「場」――オルタナティヴ・ユニヴァーシティ――を実験的に作ってみたいのです。
〔…〕
 それはいったい、どんな場になるのでしょうか?

そして、「インター・キャンパス」プロジェクト。

 そこで我々は、そのような大学の知の自閉的状況を打開するため、オンキャンパスとオフキャンパスのインター・フェイスとして機能する学習の場、「インター・キャンパス」の創造を提案する。大学と非営利な組織・ネットワークの協力により、東京の某所にこのインター・キャンパスの拠点となるようなコーディネート組織=サイトの創設を目指す。それは、従来の学校、シンクタンク、ギャラリー、カフェ、スタジオ等の機能の一部を転用しながらも、そのいずれにも特化しない、ある未知な場となることだろう。そこでオーガナイズされる様々なオフキャンパス・プログラムに、学生はインターンシップの形で参加し、現場で様々な実践を試みることになる。そしてオンキャンパスでは、それと並行して、その現場での体験に理論的に考察を加えるような授業プログラムを展開していく。こうして、体験(オフキャンパス)と理論(オンキャンパス)が絶えず相互作用するようなリベラルアーツ・カリキュラムの創造を目指す。

 「インター・キャンパス」プロジェクトの開始が2001年4月、美学特殊Cの開講が2002年4月、「オルタナティヴ・ユニヴァーシティ」プロジェクトの始動が2004年6月、そして三田の家の仮オープンが2006年9月。4年半もの歳月の間、「家」、この創造的な「あわい」は、関係した者たちの中で、間で、少しずつ「発酵」していった。「学び」のゼロポイントからの問い直し、立ち上げ直しは、そうして、通常の「学び」を大きく超え出しながら、しかし、ここかしこと、小さい学びの「奇跡」――学びがいわば裸形になり、その魅惑と危険を、教える者/学ぶ者が自らを賭してしか体験しえない、そうした「奇跡」としての学びを、沸々と生起していった。
 その「奇跡=賭け」としての学びについて語る前に、「学び」の掘り下げのもうひとつの位相、私自身の実存の零度への探索とそこからの帰還について語りたい。そして、その二つの位相の関係性––いかに後者が前者の必須条件となるかについて語りたい。

(5)「最初の先生」

 教育学者矢野智司は、教育には、質も素性も異なる2つのものがあると言う。「交換としての教育」(ないし「発達としての教育」)と「贈与としての教育」(ないし「生成としての教育」)である。前者は、通常の教育(学)界で前提とされるもので、ある共同体において、その未熟な成員が成熟した成員となるよう身体と知能の両面で段階的な発達を促す教育で、それは畢竟、その共同体が自らをふさわしい形で再生産できるよう、その成員をも再生産するシステムであり、したがって、教師も生徒も交換可能な構成要素として機能する教育の在り方である。それに対して、後者の「贈与としての教育」は、共同体の内部ではなく、外部からやってきた異邦人が、共同体の者たちに「共約不可能な異質性をもった体験」を「一切の見返り」を求めることなく「純粋贈与」としてもたらす類のものである註4。そのような自らの異質な体験を純粋贈与する異邦人を、矢野は「最初の先生」と名づける。そして、「最初の先生」の具体例として、ソクラテス、ブッダ、イエス、あるいは宮沢賢治、ニーチェのツァラトゥストラ、夏目漱石(の『こころ』の「先生」)を挙げる。

 最初の先生は純粋贈与をすべく共同体の外部からやって来る。ソクラテスやニーチェの想像したツァラトゥストラがそうであるように。そしてこの先生は「ほんたうは何か」という問いを極限にまで推し進め、パラドキシカルな対話を通して、ときには笑い弾けるユーモアを交えながら、共同体の道徳で固定した対話者の解釈枠組みを揺さぶり破壊し、そして対話者に共同体(意味の体系)の外部を指し示す。それは死と再生というイニシエーションと同じ構造をもっている註5

 矢野は、さらに「最初の先生」の特性を描き出していく。矢野は、作田啓一の「個人(主義)」の誕生の理論を援用しつつ、「最初の先生」もまた作田の言う「個人」、「世俗外個人」の典型であると言う。「なによりも重要なことは、個人となるためには、世俗的秩序の外部に出て(抽象的にいえばこの世界の外部)、超越的存在と交わるという溶解体験を必要とすることである。註6
 「贈与としての教育」を為しうる「最初の先生」への「再生・変容」を可能にする実存的転回点としての「超越的存在と交わるという溶解体験」。私は、その体験を、文学の探究、ブランショの言う「死」の空間としての「文学空間」の探究、なかんずくマラルメの「虚無」への沈潜を追体験しながら、深め、実存的に「死」して、辛うじて「再生」していた。その体験は、マラルメのそれの宇宙的とも言える熾烈さに比べるべくもなかったが、しかし、「自分」をそれまで形作っていた生の諸条件(「世俗的秩序」)をことごとく解体するには十分に過酷なものだった。
 私は、渡仏前からその「溶解体験」の只中にあり、渡仏後は、そこからの「再生」に、心身が深く病むまでに手こずりながら、文字通り満身創痍で帰国した。
 その姿が、当時の学生たちにどのように映ったかわからない。だが、少なくとも言えることは、マラルメを通して、そして他の真摯な芸術家、思想家を通して、私は、全身全霊を賭して、Artに取り組み、思想に取り組んだ。いや、それは「取り組み」という生ぬるい言葉では到底かなわぬ、むしろ「取っ組みあい」、血みどろの「格闘」であった。
 おそらく、そうした全身全霊を張り、賭する格闘を長年経験したがゆえに、その闘う相手が「学び」「大学」であっても、同様の身構え心構えで臨めたのであろう。その、「学び」を、「大学」を、「ほんたうは何か」と全身全霊で問い、その問いの本質的起爆力を体現していたであろう私の姿は、もしかすると彼らにとって「最初の先生」のそれに見えたかもしれない。私の全身全霊を賭けた「贈与」を、受け取ろう、「学ぼう」としてくれたのかもしれない。その「贈与=賭け」としての学びが、「美学特殊C」を可能にし、三田の家を可能にしたのかもしれない。

註1:武山政直「あわいを求めて」(熊倉敬聡・望月良一・長田進・坂倉杏介・岡原正幸・手塚千鶴子・武山政直編著『黒板とワイン——もう一つの学び場「三田の家」』、2010年、慶應義塾大学出版会、198-211頁)。なお、同著には、三田の家に関する(といっても2010年までだが)詳細な記録、(以下に紹介する)各「マスター」、「メンバー」そしてスタッフによる論考が収録されている。ぜひ、参照されたい。
註2:坂倉杏介「創造的な欠如をめぐって」(同書、78-102頁)。
註3:正式には、文部科学省「私立大学学術研究高度化推進事業:学術フロンティア推進事業」に選定された「超表象デジタル研究センター」の一環である「インター・キャンパスの創出による多文化共生の可能性」(2001年度〜2004年度)として行われ、その後、同学術フロンティア推進事業「超表象デジタル研究」の一研究グループ「インター・キャンパス構築」に受け継がれた(2005年度〜2007年度)。
註4:矢野智司『贈与と交換の教育学——漱石、賢治と純粋贈与のレッスン』、東京大学出版会、2008年、18頁。
註5:同書、19頁。なお、引用文中の「ほんたうは何か」という問いは、宮沢賢治『銀河鉄道の夜』の冒頭で、「先生」が生徒たちに向かって投げかける問いである。「『ではみなさんは、さういふふうに川だと云はれたり、乳の流れたあとだと云はれたりしてゐたこのぼんやりと白いものがほんたうは何かご承知ですか。』先生は、黒板に吊した大きな黒い星座の図の、上から下へ白くけぶった銀河帯のやうなところを指しながら、みんなに問をかけました。」
註6:同書、36頁。

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熊倉敬聡(くまくら・たかあき)

1959年生まれ。慶應義塾大学経済学部卒、パリ第7大学博士課程修了(文学博士)。Ours lab. 共同代表。元慶應義塾大学教授、元京都造形芸術大学教授。フランス文学 ・思想、特にステファヌ・マラルメの貨幣思想を研究後、コンテンポラリー・アートやダンスに関する研究・批評・実践等を行う。大学を地域・社会へと開く新しい学び場「三田の家」、社会変革の“道場”こと「Impact Hub Kyoto」などの 立ち上げ・運営に携わる。主な著作に『瞑想とギフトエコノミー』(サンガ)、『汎瞑想』、『美学特殊C』、『脱芸術/脱資本主義論』(以上、慶應義塾大学出版会)などがある。http://ourslab.wixsite.com/ours
タイトル絵:熊倉百香

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