第四回


偶然性の二つの意味


 では早速、「一方は偶然性から可能性を導き出し、他方は可能性から偶然性を導き出す。その方向性の違いに応じて、「偶然」が(ある意味では)異なる二つの意味を持つことになる」から始めよう。このような捉え方をするためには、そもそも偶然性と可能性が対立していなければならない。この二つはどのように対立するのであろうか。そして、それらはどのように歩み寄りうるのであろうか。
 通常、様相論理学などにおいては、偶然は「可能であって必然でないこと」のように定義される。可能性には必然性が含まれる(必然であることもまた可能であることの一種である)から、可能であることから必然である場合を除いた残りがすなわち偶然である、というわけである。そうだとすると、可能なことは(必然である場合さえ除けば)すべて偶然である、ということになる。これを可能世界という装置を使って表現するなら、偶然とはどこか一つの可能世界で成立していることだ、ということになるだろう。
 偶然という語の通常の語感からすると、この捉え方は不自然に感じられるであろう。現実世界では起こっておらず、どこかの可能世界でだけ起こっているようなことは、(たとえ必然ではなくとも)たんに可能であるだけで、偶然の出来事であるなどとはふつうは言わない。偶然という語には、たしかに必然性の否定という含意があるが、それはたしかに「あらゆる可能世界において」成立することを否定しているとはいえ、だからといって「ある可能世界において」成立すると(だけ)言っているのではなく、もっと限定的に「現実世界において」成立すると言っている、と考えられるだろう。
 この考え方においては、たんに可能であるだけかそれとも必然でもあるのか(ある可能世界においてなのかそれともあらゆる可能世界においてなのか)という対立に、さらに現実である(現実世界においてである)というそれらとは異質の新たな観点が介入している。この考え方においてはしたがって、可能世界(現実世界以外の)においてだけ成立することは、たんに可能であるだけで偶然であるとは考えられない。
 これが「「偶然」が(ある意味では)異なる二つの意味を持つことになる」ということの意味であり、ここが出発点である。ここから出発して、「ある可能世界において」成立するという偶然観と、「現実世界において」成立するという偶然観の両方の側から、互いに他方を同化する道筋をさぐるわけである。
 というわけであるから、「一方は偶然性から可能性を導き出し、他方は可能性から偶然性を導き出す」という言い方は、それで意味は通じるだろうが、必ずしも正確だとはいえない。正確には、「一方は、偶然は現実世界にしかないという偶然観からあらゆる可能世界に偶然があるという偶然観を導き出し、他方は、あらゆる可能世界に偶然があるという偶然観から偶然は現実世界にしかないという偶然観を導き出す」と言うべきだろう。
 ところでしかし、それはすでになされているともいえるだろう。なぜなら、それぞれの可能世界にとっては、、、、(すなわちその立場に身を置けば)、それぞれの世界はそれぞれ「現実世界」であるから、他の世界からはたんに「可能な出来事」と呼ばれることはみな、それぞれにおいて「偶然の出来事」と呼ばれるだろうからである。このように、現実世界というあり方を固定せずに、それぞれの世界にとってのそれぞれの世界を「現実世界」とみなす考え方は様相実在論と呼ばれるが、様相実在論的に考えれば、可能性と偶然性は(必然性との関係以外では)区別できない。諸可能世界に偶然性が存在し、現実世界の偶然性もまたその一種にすぎないことになるからだ。

*それはつまり、それぞれの世界にとってはそれぞれその世界しか実在しない(その世界だけが実在する)ということである。現実世界もまたそのことの一例であるにすぎない。このような「それぞれ化」された「しかなさ(だけ性)」を認めることと一緒になって、諸世界の共在は実現しているわけである。

 もしわれわれが世界間で言語的交流をしているなら、しかなさの均等な配分としての様相実在論を採用せざるをえないだろう。私は他者と言語的交流をしているから、他者もまた(各々にとっては)「私」であると認め、逆に自分自身もまた「あなた」や「彼」であると認めざるをえず、現在は過去や未来と言語的交流をしているから、過去や未来もまた(各時点にとっては)「現在」であると認めざるをえず、逆に現在もまた「過去」や「未来」であると認めざるをえない。それと同じことである。現実には、われわれは世界間言語交流をしてはいないが、たんに可能性ではなく可能世界という考え方を採用する際には、あたかもそれをしているかのように(すなわち各世界ごとにそこだけが唯一の「現実世界」であるような主体が存在しているかのように)すべての世界を捉えるのである

*そうは言っても、現実にはそんなふうにはなっていないことを完全に忘れてしまうわけにはいかない。構造だけ捉えれば、他者の場合も過去や未来の場合も同じことである。

 では、前回の議論をそのような対立図式に従って解釈すると、どうなるだろうか。「偶然は現実世界にしかないという偶然観からあらゆる可能世界に偶然があるという偶然観を導き出す」に対応する前回の議論は、要約するなら「なぜか存在してしまっている前代未聞の唯一者からその同類を作り出す」ということである。「あらゆる可能性に偶然があるという偶然観から偶然は現実世界にしかないという偶然観を導き出す」に対応する前回の議論は、要約するなら「同じ種類の複数の者たちの存在から、そのあり方の本質を抉り出すことによって、前代未聞の唯一者を導き出す」ということである。(以下では、論点を明快にするために、「偶然は現実世界にしかないという偶然観」の偶然を〈偶然〉と表記し、「あらゆる可能世界に偶然があるという偶然観」の偶然を「偶然」と表記することにする。)
 どうしてそうなるのかは簡単にわかる。〈なぜか存在してしまっている前代未聞の唯一者からその同類を作り出す〉ことができるのは、この、、現実世界の〈偶然〉性を特権化せず、それをおよそ現実世界というものが持たざるをえない(という意味では必然的な)「偶然」性とみなすからである。そのことが偶然性を可能化するのである。〈同じ種類の複数の者たちの存在から、そのあり方の本質を抉り出すことによって、前代未聞の唯一者を導き出す〉ことができるのは、その逆に、およそ、、、現実世界というものが本質的に持たざるをえない「偶然」性から(ただそこからのみ)この、、現実世界の〈偶然〉性を導き出しうる、と考えるからだ。そのことが可能性を偶然化するのである。(前回論じたように、そして今回も論じるように、どちらの考え方にも、そのように考えるべき理由がある。)
 この機構は現実に、しかも成功裏に働いているのだが、じつのところは完璧に成功しているわけではない。おそらくここには、存在と無といえるほどの、考えられる最も巨大な落差が隠れているだろう。だから、この世界の成り立ちには巨大な誤魔化しがあるだろう。だが、それを抉り出して白日のもとにさらすのはそう簡単な仕事ではない。
 いいかえれば、欺く神は二重の意味で負けたが、創造する神は(負けるとしても)一重の意味でしか負けないかもしれない。欺く神とちがって、その一方の側は自らの支配下に置ける可能性は高い。しかし、それでもやはり、他方の側は支配下に置けない可能性があるのだ。(この問題については今回そこまで論じることができないので、手早くポイントを知りたい方は、マクタガート『時間の非実在性』(講談社学術文庫)の付論「端的な現在は語りうるか」の最初の二ページ(241-243頁)をお読みいただきたい。)
 以下では、ここまで論じてきた問題の射程の広がりを見るために、これと同型性が認められる問題のいくつかに、ここで一瞥を与えておきたい。いずれの問題も、後にさらに詳しくそれ自体として論じる可能性があるので、ここでは同型性が認められる観点の確認だけを目指す。

同型の問題1――相対主義


 まずは相対主義という問題だ。これは比較的簡単である。プラトンの『テアイテトス』の最初のほうは、ずっと相対主義批判が展開されている。その際、相対主義は「それぞれの人が感じることや考えることがそれぞれの人にとってそのまま真理である」というような考え方だとされている。感覚や感情にかんしては、これはほぼ正しいだろう。多くの人が暖かいと感じる部屋の中にいても、「ここは私には寒い」とか「私には暑い」と感じることはありえ、事実そうであることが認められもするだろう。料理の味のように価値判断が入る事柄ならなおさらで、多くの人が美味しいと感じる料理であっても、不味いと感じる人はいるであろうし、その人にとっては不味いという事実は認められるであろう。どう感じるかは人それぞれで、どれもその人にとっての真理であろう。ただし、このような場合でさえ、一方ではやはり、客観的に暖かい部屋の存在や、客観的に美味しい料理の存在は、認められていはする。「この机の上には二冊の本がある」などになれば、各人の主観的知覚を超えた客観的事実の存在を認めるのは当然のこととされる。
 たとえば、なぜ客観的に美味しい料理などというものがありうるのか、という問題は議論する価値のある十分に興味深い問題ではある。しかし、そうしたことはここでの主題ではない。ここでの主題は、客観的な真理があるという立場に対立するのは本当に相対主義という立場であろうか、という問題である。一歩譲って、かりにその対立はその対立で存在するとしても、その外に、なぜかプラトンはまったく問題にしない、しかしじつはそれこそが問題の出発点であったはずの、もう一つの別の立場があるのではないだろうか、という問題である。それは、「ここは私には寒い」を「現実に存在するのはこの寒さだけである」と捉え、「この料理は私には不味い」を「現実に存在するのはこの味のこの不味さだけである」と捉えて、そのことを決して相対化などしない立場である。つまり、「それぞれの人にとって、それぞれの感じ方や好みがある」などとは決して考えない立場である。すなわち、それぞれの人の立場などというものへの安易な超越を(客観主義への超越をゆるさないのと同様に)決してゆるさない立場である。少なくとも、「各人それぞれ」という立場への移行を(客観的真理への超越と同様に)そこからの超越の一歩と捉える立場である。
 客観的な真理が存在するという立場から見れば、この二つは同じ穴の狢で、本質的に同じ主観主義的な立場に見えるかもしれない。しかし、この第三の立場から見れば、その絶対主義的な客観主義と相対主義的な主観主義こそがじつは同じ穴の狢で、本質的には同種の超越的な客観性の見地なのである。ただ超越の仕方が、いわば縦に(すなわち客観的な真理の視点へと)超越するか、横に(すなわち同格とみなされるそれぞれの視点へと)超越するか、という点で異なるだけなのだ

*さらに、相対主義の立場から見ると、他の二つが同じ絶対主義的な立場の二つの変種に見える、という点も重要である。今後の展開によってはそのことが主題になる可能性もあるが、現在の主題からは少し外れるのでここでは詳述しない。

 なぜこの第三の立場が安易に相対主義と同一視され、早々にプラトン的な対立図式に組み込まれてしまうのか、という問題は議論する価値のある十分に興味深い問題ではある。しかし、そうしたこともここでの主題ではない。ここでの主題は、この第三の立場には前節で論じたことに対応する二面性がある、ということなのである。
 単純に考えて、相対主義という立場が主張されるのは、客観的な学説としてか、あるいは利害の調整の文脈においてであって、ものごとが最初から相対主義的な主張によって始まることはまずありえない。ものごとが始まるのは、たとえば「私は寒い」という端的な主張から、であろう。実情に即せば、端的に寒い、とか、端的に暑い、とか、……といった事実があるだけであって、暑かったり寒かったり暖かかったり……する、とか、寒い人もいれば暑い人もいて人それぞれである、などという事実はまずは与えられていない。各人それぞれであるという視点に移るには、客観的真理への移行と同じく、最初に与えられた事実からの超越が必要なのだ。
 にもかかわらず、客観的真理が存在するという立場に対立するのは相対主義という立場である、と容易に考えられてしまう理由は何であろうか。各人に相対的な真理という捉え方を念頭に置きさえすれば、主観主義的な発想のすべては考慮に入れられた、と考えられがちな理由は何か。それはおそらく、「各人」という捉え方の中に「可能な私」を読み込むという、じつはきわめて高度な発想が、そこに最初から内在していることによるだろう。この考え方においては、寒い人もいれば暑い人もいて人それぞれであるとしても、そもそもそういう発想に進む手前に歴然と存在する、しかし端的に、、、感じられているのは寒さなのか暑さなのか、つまり自分自身は寒いのか暑いのか、いいかえれば各人の中のどれが自分であるのか、という最も乗り越え困難な巨大な問題が、なんと、すでにしてその内部に内在化されて、いともやすやすと乗り越えられてしまっているのだ。
 この発想が「あらゆる可能世界に偶然があるという偶然観」(すなわち「偶然」の立場)に対応することを見て取ることは容易であろう。先ほど私は、この発想を疑問視する文脈において、「実情に即せば、端的に寒い、とか、端的に暑い、とか、……といった事実があるだけであって、……」と言った。しかし、この言い方はすでにしてこの発想法に汚染されているだろう。もっと実情に即せば、「端的に寒い、とか、端的に暑い、とか、……といった事実」などありえないともいえるからだ。端的さは一つしかありえない。端的に寒いことと端的に暑いことは、決して両立しない。しかし、そのことを逆から見れば、「実情に即せば、端的に寒い、とか、端的に暑い、とか、……といった事実があるだけであって、……」という無意識に相対主義に譲歩した語り口の中にも、すでにして唯一の端的な事実の存在が主張されている(そこに内在している)、ともいえるわけである。
 端的さを強調する立場は、「偶然は現実世界にしかないという偶然観」(すなわち〈偶然〉の立場)に対応する。これによれば、唯一現実の端的に与えられたものがあるだけである。ここからは、客観的に存在する真理が導き出せないのと同様に、各人各様の真理があるという事実もまた導き出せない。ここには、相対主義から要請される各人の個別性という事実とは別の事実があるのだ。個別的なその各人たちのうちのある一人がなぜか私である(その他は他人である)という事実である。ここでのポイントは「このこと自体が各人に成り立つ」のではない、、という点にある。しかしもちろん、とりわけ問題の伝達の場面では「このこと自体が各人に成り立つ」と読み換えられて伝達されることになる。端的さの語りの内に、他者における端的さ、あるいは可能的な端的さ(「実情に即せば、端的に寒い、とか、端的に暑い、とか、……といった事実があるだけ……」、といったような)の容認がすでにして含まれていることになるのだ。実際、そのような容認をいっさい拒絶できる語法は存在しない。
 だから、相対主義という考え方はここで述べてきたような問題まですでに考慮に入れたうえで成り立っているのだ(むしろそうでしかありえないのだ)と見ることもできはするのだ。もしそうであるとすれば、各人の個別性という問題とは別の問題だと見えたもの(すなわち端的な〈私〉の存在という問題)のうちにのみ各人の個別性という捉え方の根源があって、その可能性の源泉はじつはそこにしかない、と見ることもできることになるだろう

*カント倫理学に代表される古典的な倫理学文献において、客観的な義務論や正義論の立場から、功利主義と利己主義(という対極にある立場)がしばしば同一視される、という問題もこの節で論じてきた問題と関係している。論脈的には本質的とはいいがたいので、残念ながらここでは論じられないが、いずれ機会があれば論じたい。

同型の問題2――ルイス・キャロルのパラドクス


 次は、ルイス・キャロルのパラドクスである。これは、事柄自体はさほど難しくはないとはいえ、これまで論じてきた問題との関連をそこに読み取るには、洞察を必要とするだろう。まずは要点を簡略化して紹介するが、もとの内容を知りたい方は『不思議の国の論理学』(ちくま学芸文庫)をお読みいただきたい。
 アキレスが亀に対して、次のような推論を提示し、(A)と(B)を真であると認めるなら、論理必然的に(Z)も真であると認めざるをえないのだ、と言うところから話は始まる。

(A) PならばQである
(B) Pである
(Z) Qである


しかし亀は、(A)と(B)を真であると認めているのに、(Z)を真であると認めようとない。アキレスは、(A)と(B)を真だと認めたなら、論理必然的に(Z)は真だと認めざるをえないのだ、と亀を説得する。すると亀は、「認めるにやぶさかではないが、そうであるなら、あなたのおっしゃるその論理必然性それ自体を、前提に加えなければなるまい」と言う。アキレスはしかたなしに、

(C) PならばQでありそしてPである、ならばQである

を前提に加えて、「これでどうだ、(A)と(B)と(C)を真だと認めたなら、君は論理必然的に(Z)も真だと認めざるをえないはずだ」と言う。すると亀は、「認めるにやぶさかではないが、そうするためにはさらに、そのことを、すなわち、

(D) PならばQでありそしてPである、
    そして(PならばQでありそしてPである、ならばQである)
    ならばQである


ということを、やはり前提に加えて、(A)と(B)と(C)と(D)を真だと認めたなら……、としなければなるまい」と言う。アキレスはしかたなしに……
 という話である。亀の要求を吞み続ければ、いつまでたっても「Qである」という結論に行きつけないことは言うまでもない。この話は、ここで現に働いている論理必然性そのものを他の命題と同種の一つの命題として同じレベルに並べてしまうことはできない、という教訓として捉えられることが多い。(A)や(B)は偽であることもありうるが現実にたまたま真であるような命題を表現しているが、(C)はそうではなく、およそこの種のことを考えるためには真でなければならない推論規則を表現しているのだから、それを(C)のような形で(A)や(B)と並べて付け加えることはできないのだ、と。
 しかし、ここにはその切断とは別の種類の切断を読み取ることもできる。いや、それをこそ読み取るべきだろう。亀の提示する(C)とはそもそも何なのであろうか。それは、(A)と(B)から必然的に(Z)が帰結するというアキレスの主張と、まったく同じことを繰り返しているだけだ、ともいえるだろう。その証拠に、アキレスの主張そのものを、最初から(C)のように書くこともできた。それならば、亀はいったい何を主張したのだろうか。まったく同じことをあらかじめ言っても仕方なくはないか。実際、先ほど提示したような「ここで現に働いている論理必然性そのものを他の命題と同種の一つの命題として同じレベルに並べてしまうことはできない」という教訓をここに読み取る立場からすると、亀はアキレスが言ったことと同じことを、そこで現に働いている論理形式を、そのまま明示化して提示した、とされる。
 しかし、アキレスの主張する(C)と亀の主張する(C)とは違うだろう。アキレスの主張する(C)は、「現に「PならばQである」ということが成り立っていてそして現にPであるのだから、どうしたって現にQである」ということだ。しかし、亀の主張する(C)はそうではなく、「もし「PならばQである」ということが成り立っていて、そしてもしPでもあるのだとしたら、どうしたってQでなければならないことになる」ということである。
 (C)を記号化して、

(C❜) ((P → Q)∧ P)→ Q

とすると、最後に出てくる「→」は、先ほどはどちらも「どうしたって」という日本語にしたが、その「どうしたって」の意味は異なっている。アキレスにおいては、それは「→」の左側((A)と(B)に相当する)が現実に成立している(真である)ことを前提にして、だから、、、Qであるということになるのだ、と言っている。しかし亀においては、「→」の左側((A)と(B)に相当する)がかりに成立している(真である)ことを仮定して、そうであるならば、、、Qであるということになる、と言っている。アキレスが「風が吹けば桶屋が儲かるという法則があって風が吹いているのだから、桶屋が儲かっている」と言っているのに対して、亀は「風が吹けば桶屋が儲かるという法則があって風が吹いているのならば、桶屋が儲かっている」と言っている。アキレスは現実世界の話をしているのに対して、亀は可能世界の話をしているわけだ。(もちろん、いかなる可能世界も、その世界にとっては現実世界ではあるのだが!)
 亀の表向きの主張は、(C)のアキレス読みに到達するためには(C)の亀読みを介在させることが必要だ、というものだが、そう言いながらじつは((D)(E)……を繰り出しつづけることによって)その到達を妨害し続けている。現実世界における到達そのものを次々と一つの可能世界におけるそれに変換していくのである。ゼノンのパラドクスでは、前方を走る亀をアキレスが追い越せないが、キャロルのパラドクスでは、前方を走るアキレスに亀がつねに追いついてしまう。アキレスは亀をどうしても引き離せない。なぜなら、その表向きの主張に反して、実のところは亀は暗に「現実世界の現実性自体はいったいどこから出てくるのか(どこからも出て来ないではないか)」と言っている(言わずに示している)のだから

*たとえばフレーゲの判断線からアイデアを借りて「現実性記号」のようなものを作ってみても無駄であろう。亀はそれを可能な現実性として読みつづけるであろうから。

 これは、少しもふざけた話ではなく、実際に起きていることではないか。先ほどの話とつなげるなら、唯一端的に存在する(実はそれしか存在しない)この〈端的〉な寒さの存在が一般的に存在しうる(各人がそれぞれ持ちうる)「端的」さの一例として読み換えられる際に。しかし、そう読み換えられざるをえないだろう。少なくとも他者が(異時点の自分でもだが)その種の(=端的さの)主張をしたら、そう読み換える以外に理解する方法がない。もちろん、そこに〈端的〉さがあるのだろうという了解を含んだうえでだが、それがすぐさま一般化されねばならない。〈私〉と〈今〉の意味理解にかんしては、それ以外の理解の仕方があるとは思えない。キャロルのパラドクスは、そんな読み換えをしなくても理解できるはずの(何しろ話ができる相手はみんなそこにいるのだから)端的な〈現実〉の存在にかんして、それと同じことを言ったところに隠されたポイントがあるのではあるまいか。〈私〉や〈今〉の現実性において最も先鋭な形で顕れる問題が、それ以前に〈現実〉そのものにおいて提示されているところに隠れた意味があるのではなかろうか。
 ここで例にとったのは前件肯定式といわれる論理形式だったが、もとのキャロルの例は全称例化といわれるそれであった。しかし、私の解する意味では、同じ趣旨の問題は、さまざまな形を取って現れうる。もっとも代表的なものは、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」そのものの解釈であろう。
 デカルト自身はもちろんアキレスである。彼は「もし我が思っていれば、それゆえにその我は存在することになる」などと言ったのではない。「我は現にこのように思っているから、我は現にこのように存在している」と言ったのだ。だから、「我思う、ゆえに我あり」とは、じつのところは最初からいきなり「我思う、だから我あり」であり、そうでなければならなかった。だが、ホッブズを皮切りに――そしてもちろん当のデカルト自身を含めて――無数の亀読みが登場することになった(最も洗練された亀読みは、J・ヒンティッカの遂行論的亀読みだろう)。
 思っている者は存在せざるをえないと同時に現に存在もしている。だが、それは別の二つのことではないのだ。なぜなら、思っている者は現に、、存在せざるをえない、、、、、、からである。そして、それにもかかわらず、そこで主張されている「現に存在せざるをえない」ことと、現に「現に存在している」ことは別のことでもあるのだ。(これは『時間の非実在性』でしつこく書いた、A事実(端的な現在の存在)とA変化(出来事は〈未来→現在→過去〉と変化する)の相互的な組み込み合いと同じことである)。
 神の存在にかんするいわゆる存在論的証明は、一転がぜん亀が有利に見えるようになるとはいえ、本質的に同じ問題である。現実の百ターレルと可能な百ターレルは事象内容的な差異はないとは、アキレス読みと亀読みには違いがない、という意味である。この議論の内部にとどまるかぎりその通りなのであって、われわれはどこまでも現実性に出ることができない。(現実であることと可能であること(可能であるにすぎないこと)との差異でさえ、現実のその差異ではなく可能なその差異へと、どこまでも亀化できる)。どの場合にも、〈神〉の存在を主張する側は、最終的には無内包の現実性に至らざるをえないのだ

*これまた何度も書いてきたことだが、ウィトゲンシュタイン『哲学探究』の261節で言っている、人が哲学をする際についには到達する「いまだ不分明な音声だけを発したくなる段階」とは(おそらくはそこでのウィトゲンシュタインの主張に反して)ここでなければならない。

 今回は、ここまでの議論と、D.ヘンリッヒが剔抉した「フィヒテの根源的洞察」とを、最後に関連づけて閉める予定であったが、そうすると長くなりすぎるようなので、ひとまずはここで区切ることにした。
(続)

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永井均 (ながい・ひとし) 

哲学者。1951年、東京生まれ。日本大学文理学部教授。

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