第三回 「現実らしさ」について


 数年前、老舗の洋画商のオーナーに絵画の真贋の見分け方について尋ねたことがある。インタビューを進める中で、藤田嗣治や佐伯祐三など、著名な画家の贋作を記録した資料画像を見せてもらった。業者から発注を受けたから適当に描いたと言わんばかりの、あまりにも本物と似ても似つかぬ作品はむしろ微笑ましい。中にはオリジナルを超えて大胆な筆使いを見せるものあった。凡百の描き手として埋没すまいとの自負に足る腕前を確かに知らしめてはいたものの、かえってそこに独自の絵をついぞ獲得できなかった恨みが滲んでいるようで、直視をためらわせる惨さがあった。
 想像していたよりも美術市場に出回る贋作が多いこともさることながら、絵を扱っていれば、鑑定眼を備えているものだろうという考えも勝手な憶測にすぎず、案外目利きは限られているという実情を知って驚いた。
 オーナーは真贋を見極める素地は「絵心だ」と説いた。

「絵心を養うには家に絵を飾ることですよ。小品でもいいですから。あなたもそうなさい」

 雑然とした画廊のバックヤードにはセザンヌの作品が、ずいぶん無造作に立てかけられていた。質の良い革張りのソファに腰掛け、脇に置いた数々の作品の額縁をふっくらとした手で撫でる彼の様子を見るうちに、確か実家には児玉幸雄のパリの風景を描いた作品があったなとぼんやり思い出す。あいにく私には絵心はない。児玉の贋作を見せられても真贋を見分けられる自信はない。

「明らかな偽物であれば、見た瞬間にわかります。サインや線の悪さは一目瞭然です。何せ作家の絶対的な雰囲気を持っていないものはすぐにわかりますよ」

 とはいえ、手の込んだ偽作となると作風もきちんと取り込んだ精巧なものになる。鑑定は難しい。

「見分け方の方程式なんかありません。“ほら、ここがおかしいでしょう”と、画商仲間にいくら教えたってわからないんだから。やっぱりいいものを数多く見て勉強する。それ以外ないですな」

――ポイントを抑えて見ればわかる。そう簡単なものでもないわけですね。

「そりゃそうです。真偽を見分けるのは、非常に難しい。そこのところは言葉じゃ言えません」

 だからと言って感性に任せておけば自ずと鑑定眼が磨かれるわけでもない。やはりカタログ・レゾネのような、デッサンも収録した全作品の目録、そしてあらゆる作家に関するデータが必要だ。オーナー氏がいうには、カタログ・レゾネを作れる立場にあるのは、作家としてスタートした時から契約し、ほとんどの作品を扱い、資料を持ち、またどこに売れたかも大抵は把握している者だ。当然ながら、カタログ・レゾネを手がけたところが鑑定を行うのがいちばん確実ということになる。
 では、本物に関するデータを集めた資料があれば、贋作者も手を出すのを控えるかと思いきや、カタログ・レゾネから模写して偽物をつくる手合いもいるというから恐れ入る。

――真贋を見分ける上での勘所はどこでしょう?

「よくできた偽物は本物よりもいい線を描くことがあるんです。作家もずっと調子いいわけではないですからね。とかくうまさで定評のある作家でもずれた線を描くことはありますよ。でも、トータルで見れば『これはずれているけれど本物』『これはうまいけれど偽物』とわかります。科学的な鑑定には限界がありますし、裁判所で争っても裁判官は判断できない。最終的には感覚的な判断で真贋はわかります。そう言えるのは作家の身近にいて、デッサンや筆勢を熟知しているからこそです」

 贋作はどのようにして作られているか、といった裏話もふんだんに聞くことができ、大変ためになった。ただ振り返ると、心に強く残ったのは美術界の実相ではなく、時に「よくできた偽物は本物よりもいい線を描く」という言葉だった。
 物事を本当に正しく理解するとはどういうことなのか?を考えるとき、私はこの言葉を決まって思い出す。単純に見えはしても、これを理解しようと思うと、たちまち壁に行き当たる。

 「よくできた偽物は本物よりもいい線を描く」としたら、偽物はその時期の画家よりも上手い筆致で、「作家ならでは」の、作家にしか描けない線を表しているわけだ。偽りの絵のほうが出来栄えが良い。だから画商も購入者も騙される。それを笑えないのは、何も絵画に限った話ではないからだ。
 本物ではないものに本物を見出し、リアルではないものにリアリティを覚えるなど、いたって普通のことだ。貨幣がいい例だろう。金に交換されることもない、ATMの画面に表示された数字の多寡に一喜一憂する。そういうふうに私は日々よくできた贋物に本物らしさを感じている。「偽物であるにもかかわらず」ではなく「偽物だからこそ」リアリティを見出している。本物よりも良く見えてしまうこの真実味はどこから来るのだろう。

 オーナー氏は感覚が真偽の見分け、物事に正しい理解をもたらす上での最後の決め手になる、といった。よくできた紛い物の見栄えの良さに、「確かに本物だ」と手応えを感じるとき、私は誰にでも備わる、真贋を見分けられるはずの感覚に従ったにもかかわらず誤ったのだろうか。そうだとすれば、「やはり感覚はあてにならない」と思いそうになる。どこかの誰かが言っていた正しさ、理解の仕方に引きずられているせいだとも感じられてしまう。みんなの認める「本物らしさ」に私の感覚はどこかで引きずられている。自ら判断する自信がないから私はまやかしに騙されたがっているのかもしれない。そう判じることにすら自信が持てない。
 ひとつ言えるのは、私の感覚は、そのとき実際に感じているものとは違うということだ。本当に知ることなど叶わない他人の感覚の引き写しを瞬時のうちに行ってしまっていて、それをもって物事の理解に勤しんでいる。

 思えば、私は進んで他人から評価されようとして来た。親や教師に誉められたい。テストで上位を目指す。他人から賞賛されるような振る舞いをする。友人や恋人が自分を誉めるのを聞くと嬉しくなる。社会でよしとされ、正しいとされている価値の中で位置づけられるよう大いに努力してきた。その代わり、自分本来の感じ方を発揮することは徹底して怠って来た。その習い性となった怠惰さが、私の感覚を他者に引きずられるようにセッティングしてきた。
 この習慣は、いつしか「他人に共感を覚える」という都合のいいストーリーにすり替わってしまった。「あなたに共感した」と言うことは、信頼の気持ちの表れでもある。それと同時に自分も人の共感を得たいと思ってしまう。
 共感されないと不安になってしまうのはなぜだろう。相手に不信感を抱かれることへの恐れだろうか。おそらくは相手に寄りかかれないから不安になるのだ。
 間違ったことを言うのが恐い。自分でいちいち真偽を判断する自信がない。だから誰かが言っていた「あれは確かだ」「これはすばらしい」という評価に共感し、それに依存すると安心が得られた。社会の構成員としてカウントされるに値する自分になっていると確認できるからだ。

 それにしても「間違ったことを言うかもしれない。自分の理解に自信がない」というような心の働きは、よく考えると奇妙なものだ。間違いかどうかは実際に言ったりやってみないとわからない。そもそも誤りだったとしても、それは誰にとって問題になるのか。他人ではなく自分にとってである。例えば間違った包丁の使い方をすれば、自分の手を切る。行って初めて誤りを知ることができる。
 だが、私は、きちんと他人のように包丁を使えているかどうかに目を凝らし、ジャッジすることによって、間違いを回避しようとしている。
 間違いは結果としてわかることだ。自分で試してもいないのに、その行為が間違いかそうでないかなどわかるはずなどない。ただし、他人のようになりたがる時のみ、間違えないように正しく行うことはできる。
 それに自分に自信があろうがなかろうが、間違える時は間違える。しかも間違えたことをしたところで自信を失う必要もないはずだ。それにもかかわらず、おっかなびっくりな態度を崩さないとしたら、私は今なお誰かに叱られることを恐れ、誉められることを期待し、自分の言動を決めているということになる。

 なぜか他人になりたがるという、自らを損なう分断を懸命に行って来たわけだ。そうして私が私でなくなる努力をすれば、必然的に自己への不信は募る。自己不信の穴埋めとして、共感という道筋を通って、他者の価値観に依存しても、それは私の自信を高めることに何ら寄与しない。自信は自らの内から湧き出るものだからだ。
 共感によって手に入れようとした安心には、根が何ひとつない。それでも互いに「わかるよ」と頷きあっている関係さえあれば、たとえ中身が紛い物であっても「孤絶していない」手応えは確かに感じられる。私は現実ではなく、現実らしさが欲しいのだ。

 現実はいつも現実と寸分たがわぬ見え方で存在している。ハンドルに遊びのない車の運転が難しいように、現実はあまりに現実すぎて思い入れを差し挟む余地などない。それに比べて観念はよくできている。ありもしないことをあるかのように見せ、あったことをなきものに塗り替えられる。
 だから破れかぶれに「一期は夢よ ただ狂え」と言い、それが自由だと観念的に捉えることもできてしまう。その自由の地盤が言葉でしか保てない、現実に根ざしていないものであっても、それを唱え続ければいつしか現実味を帯びてくる。私はそうして唱えられた言葉の数だけ現実らしさを感じ始める。「それが自由なのだ」と口にし始めた人に共感を覚える。
 
 私の他者から影響を受けたがる癖は、ノーではなくイエスを言うことをよしとする、この国の風土に由来しているところは大きいだろう。
 私は私であることを恐れ、常に何者かになろうとする。自己実現とは、ありのままの自分になるという意味ではなく、常に評価される何者かになろうとして今の自分を越えようとする。その何者かとは、「理想」でありやがて達成されるであろう自己だ。いずれも像でしかなく、現実ではない。よくできた贋物でしかない。

 私はいつも今の自分を超えようとした。それを努力や能力の向上と呼び、私なりの完成された自己を目指して来た。つまりは社会の準備した秩序、他者の用意した価値観を体現した人間になろうとしてきた。
 それは現実を生きることではなかった。現実を受容する感覚を変容させることで、現実的に生き延びようとして来たのだ。「自分ではない自分」という他者に同質化しようとする熱情にかられ続けて来た。それは私らしい私、よくできた偽物になろうとすることでもあったのだ。
 リアルとリアリティを見分ける必要のない人生を送って来たのだとすれば、自分がよくできた観念の方に現実らしさを感じるのも無理はない。都合のいい現実を夢見ることもクリエイティビティなのだと思いさえする。
 だから私は独自の理解よりも観念によって構築された思想を好むのだろう。思想は貨幣のように、より多くの見ず知らずの他者と共感できる関係をつくってくれる。それがクリエーションだと錯覚できる。
 そのことで私の中の恐怖と不安の穴を埋め、現状の自分を超えられるよう強化してくれる。私は「おまえは間違っていない」という言葉を聞けば聞くほど、勇気づけられる。もはや現実よりも言葉が描き出す現実めいたものの方が重要なのだ。

 東欧のある詩人は「思想と思想の戦いで 人間が戦死する」と言った。一読すれば滑稽だと思うだろう。しかし、実際に人間はそのようにして争いの中で死んでいる。戦死することよりも思想を体現できないことを恐れる。他人から拒絶され、孤絶に陥ることを恐れ、リアリティを求める戦いでリアルに死んでいく。
 私は戦場で死なないまでも日々、リアリティを巡る争いの中で暮らしている。「あいつよりも私の方ができる」「今よりももっと理想的な生活を目指す」といったように、他者や現時点の自分を相手に争い、疲弊している。他者の評価をよすがに嘘でもいいから本当だと信じさせてくれる何かを願っている。私の現実理解は、そのような生き方を続けることで日夜磨かれていく。

 他者や理想に引きずられて傾いている感覚設定は、自分が自分でいられなくする方向に力を発揮する。理想も他者もただいま現在の出来事ではない。理想を掲げて進むことがよしとされる時、私は自分の足元を見失う。他者は本来は未知の存在だが、私が求める、自分を評価してくれるはずの他者は既知である。私は過去に縛られることをよしとし始める。
 目利きの鑑定家は理想の線でも、過去の出来栄えでもなく、いまここにある絵と向き合う。それが物事を真剣にわかろうとする姿だ。私もまた現実をわかろうとするならば、これから先でもこれまででもなく、今をただ生きる等身大の歩みに戻らないといけない。それがわからないことには、世界をわかることはできない。

 「これが私だ」と素朴に感じる自分は、他者に評価を委ねた存在でしかない。ありのままの、等身大の私とは、どこにいるかもわからない存在だ。未知の場所をここだと言葉で指し示すことはできない。
 他者の評価に従ったまま自分を探ったところで、その場所は見つからない。私が私と世界を理解するために立ち返る場所は、自分自身でしかない。
 そこでは私は自らを分断させることもなければ、不安を埋めるべく共感を求めることもない。私が私であることを恐れず、私を拒絶しない。疑心暗鬼に他人の振る舞いに気を取られるという、今ここをおろそかにするようなこともしなくていい。私の中に起こる不安は、私と私であろうとする隙間に生まれる。現実と現実らしさの間に恐怖の根は広がる。

 よくできた贋物が私に共感を求めてくる。それを拒絶することは孤絶をもたらすだろう。私はそれを恐れている。しかしその孤絶は、静けさを意味しているのかもしれない。「おまえ自身であってはならない。何者かであれ」。私を怯えさせる他者の声が聞こえない静寂さを、つい不安に感じてしまうだけのことかもしれない。

第四回へ  

ページトップに戻る

尹雄大(ゆん・うんで)

フリーランサーのインタビュアー&ライター。これまでに生物学者の池田清彦氏、漫才師の千原ジュニア氏、脳科学者の茂木健一郎氏や作家の川上弘美氏、保坂和志氏、俳優の田中泯氏、ミュージシャンの七尾旅人氏、川本真琴氏、大川興業の大川豊総裁、元ジャイアンツの桑田真澄氏など学術研究者や文化人、アーティスト、アスリート、ヤクザに政治家など、約800人にインタビューを行って来た。ライティングに関わった書籍多数。著書は『やわらかな言葉と体のレッスン』(春秋社)、『体の知性を取り戻す』(講談社現代新書)ほか。
http://nonsavoir.com/

Web春秋トップに戻る