第三回 高みへ―― 戸髙雅史
はじめに
3月11日の東日本大震災の甚大な被害とその後の放射能に関わるさまざまな影響。
私は自らのよってたつ感覚と意識の世界の葛藤に苦しみました。
ひと月後、知床山脈を五日間歩きました。誰一人いない雪に閉ざされた世界。ヒグマの森に泊まり、道なき雪の尾根を一瞬の感覚にしたがって歩く。こみあげてくるなつかしい畏れの感覚。そして「いま」という瞬間に融けていくような体験。意識の世界が静まり、あらためて鮮明になってくるものがありました。
「私自身のいま、この瞬間がすべて」
「何があろうとも、いのちは“いま”という瞬間に存在をうたう」
私は、そこに未来への可能性をみます。
1:ヒマラヤ
ヒマラヤとはインド亜大陸とユーラシア大陸の衝突で隆起した東西に弧状に広がる山脈を表し、サンスクリット語で“雪の住みか”を意味します。
そこには地球上の8000mを超える十四座すべての山が含まれています。
圧倒的存在ゆえ、ふもとの人々からは神々の住む場所として信仰の対象になっているものが多く、集落から見える山はそれぞれの言葉で女神や豊穣、聖なる……などと呼ばれてきました。
タルンピーク カンチェンジュンガ山群 人類がヒマラヤへ登り始めたのはそんなに昔のことではありません。1786年のヨーロッパアルプスのモンブラン登頂を契機に生まれた近代登山の延長上にヒマラヤ登山は位置します。8000m峰では1895年、徒手空拳のように少人数でナンガパルバッ峰へ向かったアルバート・ママリが最初であり、やがて時代は移り、極点と同様に8000mの山々も国威発揚の場となりました。初登頂を目指して各国が国家的な登山隊を送り出したのです。
成功率を高めるため、酸素ボンベや固定ロープを使用し、高所に強いシェルパ族の人々のサポートも受けながら登る時代。当時は登頂を「征服」と表現していました。その後、国単位からやがて地域やクラブなどでの登山へと移っていきます。
そうしてラインホルトメスナーなどの優れた登山家が無酸素で、そして単独や少人数などのシンプルなスタイルで登ることに一歩を踏み出し、ヒマラヤ登山が個人のものとして開かれる時代に入っていきました。
私が登りだしたのはまさにそのようなときでした。
8000mを超えると気圧の関係から酸素量は平地の三分の一以下になります。森林限界をはるかに超えたその領域は、生命が長くは存在し得ない世界です。そのため登山家は幾度も途中までの上り下りを繰り返し、酸素の希薄な環境に身体を慣らした後、山頂に向かうアタックをかけます。
8000mから上の世界は死の地帯と呼ばれてきました。通常、私たちは疲れた時には休憩したりテントで休めば次第に回復し、元気になっていきます。一方、高所では酸素分圧の低さから脈拍も高くなり、消化能力が落ちたり、睡眠も十分にとれなかったりとさまざまな生理的な影響を受け、次第に消耗していきます。
休んで回復する速度とそこに居るだけで消耗してゆく速さが逆転する境。それが高度7000mであり、そこから上の領域をわかりやすく表現するために登山家たちは「死の地帯」と名づけたのです。
十八歳の頃、生きる意味を問い山に登りだした私にとっては、まさしくその領域こそが求めてやまない世界でした。
ヒマラヤに私は宇宙を感じます。高みへ登るにつれ、限りなく成層圏に近づいていく。
真白い雪と岩、藍の空。
一瞬、煌めく光。
そして唯一の、いのちある「わたし」。
初めてその領域に入ったとき、私は体内の細胞ひとつひとつがよろこんでいる感じを覚えました。それは重力と意識で封鎖された「いのち」本来のエネルギーが解き放たれた瞬間だったのかもしれません。
高峰に登り続けた年月は十六年。それは自らの意志を超えた大きな流れとともにあったように感じます。
2:初めてのヒマラヤ アンナプルナII峰
初めてのヒマラヤは二十三歳のアンナプルナII峰(7937m)でした。ネパールにあるアンナプルナ山群(豊穣の女神の意)で二番目に高い山で、山頂部は台形の岩壁となっています。ネパール第二の都ポカラから秀麗なマチャプチャリ峰の隣に眺められる大きな山です。
アンナプルナII峰 6000m付近にて 九州の社会人の山岳会に所属し、八人のチームで南壁からの登頂を目指しました。若き憧れと情熱で臨んだアンナII峰。しかし実際のヒマラヤ登山は生易しいものではありませんでした。
登山期間の前半の一か月は仲間と二人で登山をリードしていきました。6000m地点でキャンプ中、テントごと雪崩に流されましたが小さい規模だったため無事に脱出。気持ちを切り替えてさらに登山を続行。毎日くたくたになりながらも高所で存分に体が動き、少しずつ山頂に近づいてゆくよろこびに満たされていました。
期間の後半。いよいよアタック段階に入り7000m付近を登っているときでした。突然、前方の雪斜面に「ピシッ」と線が入り、雪面全体が広範囲にわたって滑り出しました。
「雪崩だっ!」
あっという間に雪に巻き込まれ二転三転。パニックになり、吸い込んだ粉雪で意識が遠くなっていきます。短い人生が走馬灯のように頭のなかを巡りました。最後に自分の家族が泣いているシーンが出てきて「いやだ!」と力を振り絞りあばれました。そのおかげか、上半身が雪の表面に出て止まりました。
雪崩の末端におり、200mは流されていました。
「こんなに命を危険にさらして、一体何の価値があるのだろう? 日本に帰ろう。みんなのもとに帰ろう」
登ることの意味がわからなくなっていました。気持ちを切り替えることは、もうできませんでした。
ヒマラヤの大きさと美しさ。厳しさ。そこで十分に動けたよろこび。そして自分の未熟さ。生の輝きと死の闇は隣り合わせであることを身を持って教えられました。いま振り返れば、二十三歳の若き日にアンナプルナII峰という素晴らしい山に全力でふれられた体験こそが、なによりの宝物だったと感じます。
3:再起の山 デナリ
もうやめようと思った高峰登山。それでもこころのなかに抑えられない思いがありました。このまま止めたらきっと一生後悔する。自分が高所の世界に通用するのか否か。無理ならきっかりとあきらめよう。そのためには単独で入り、自分を問うしかありません。
二十五歳になった私は、アラスカのデナリ峰(イヌイットの言葉で偉大なる山)に一人、向かいました。
世界三位の高峰 カンチェンジュンガ峰(8,586m)にて8000mでの一人の夜。不退転の決意で闘うものだと思っていた。
力みが抜けてゆく……。
セスナで2100mの氷河上に降り、登山を開始。人生をかけるほどの思いでアラスカに来ながら、いざ山に入ると怖くてしょうがありません。あれこれと考え、引き返す口実を探しながら歩いている自分がいました。
四日目。テントの外は吹雪でした。もし停滞(天候や体調が悪いときなどは無理に動かないで回復を待つこと)していたら、おそらくこの登山は終わっていたでしょう。自分でもそれは十分に感じていました。
「今しかない」
テントを撤収し、思いきって吹雪のなかを登り始めました。厳しい状況のなかでは余分なことは考えず、一瞬一瞬登ることに集中していきます。いつの間にか山と自分を隔てていた境は消えていました。不思議です。
そうなると、ちょっとした風の変化もわかるし、なによりひとりでいることが楽しくなってくるのです。その薄い一枚のベールは実は私の意識が作り出しているものでした。
もうひとつ、印象に残っていることがあります。
荷物を上部に荷揚げして下のテントに戻る途中、ホワイトアウトになり空間も雪面も白一色の世界に包まれてしまいました。足跡は風で消えてしまっています。もし、テントに戻れなければ夜は氷点下三十度くらいまで冷え込む世界です。
しかし、自分でも驚くほどに落ち着いていました。じっと動かず佇んでいます。一瞬、風が吹き視界がわずかに広がります。その瞬間に目指す方向を見極め、見えたポイントまで歩く。それを何度も繰り返す。誰に教えられたものでもなく、ただ直感的に状況をつかみ、そうした行動をとっていました。
「ああ、僕は大丈夫だ!」
それは自分への大きな信頼を得た貴重な体験となりました。
十九日目、ついに登頂の日。雪稜に抜け50mほど先に山頂が見えたとき、もう小さな子供のように泣きじゃくりながら走っていました。
「デナリ峰よ、ありがとう。僕はもう迷わない。全力でヒマラヤを目指すよ!」
4:魔の山 ナンガパルバット峰
1990年、私は標高8125mのナンガパルバット峰(ウルドゥ語で裸の山)を目指そうとしていました。多くの登山家が命を落としているこの山は別名、魔の山とも呼ばれています。この山に行くと決めたとき、本当に死ぬかもしれないと感じました。
「何があっても悔いのないよう、最高の準備をしていきたい」
郷里大分での高校講師をやめ、富士山のふもとの自動車工場に入りました。週末毎に富士山に登り、自分の身体を高所向きにするためひたすら山頂の御鉢を回り続けました。
最後のトレーニングを終え山を下りた時、富士山に向かって自然に頭を下げていました。
「三か月間、ありがとう。精一杯、頑張ってきます。」
氷河の海:カンチェンジュンガ峰(8,586m)にてナンガパルバット峰での登山活動は順調に進み、最終段階を迎えようとしていました。九人のチームのなか、ふたりで最終キャンプからアタックをかけることになりました。選ばれたのは私とNさん。Nさんは私と同じ28歳。お互い、ナンガパルバット峰への登山を通して精神の高みへ向かいたいとの強い思いでこの登山に賭けてきました。
八月十六日、決意を胸にアタックに出発。これから四日間の長いアタックになります。まずは稜線は難しいため側面の雪壁を進みます。しばらくして直上。
一日目は強風のため無理をせずに7600m付近でビバーク(簡易なテントをかぶったり、張ったりして朝を待つこと)しました。翌日は稜線に出た7800mの岩の間で風をさけてのビバーク。
三日目、夜明けとともに行動を開始。手先・足先がジンジンするほどに冷え込んでいます。気温は氷点下三十度以下。厚いダウンジャケットを着こんでいても芯まで冷え込んできます。酸素が少なく体内からの熱量が低いのも影響しているのでしょう。
雪稜をしばらく進むと衝立のように立つ岩壁に出ました。ナンガパルバット峰の奥津城、高さ200mほどの頂上台座です。
8000mの高さで岩を登るのは大変なこと。ここにきて、ふたりの登行スピードには大きな差がでていました。Nさんは高度の影響に苦しんでいるようです。登頂をあきらめて一緒に引き返す選択もあります。しかし、私には引き返すことは考えられません。彼に時間や状況から一緒に登ることは難しいことを伝え、岩壁の基で待っていてくれるように頼みました。そして下部で見守ってくれているリーダーに単独で登りたい旨を交信し、岩に取り付きました。
九州にいる頃からヒマラヤではいつかこのような日が来ることを感じ、200m近い岩壁をロープを付けずにひとりで登ってきました。いま、まさにその体験がいかされようとしています。しかし実際に登りだしてみると思った以上に壁の傾斜はきつく、その大きさと迫力に精神的に押され気味になってきました。
「このままではとても頂きへはゆけない。もう、下りのことも、いのちのことも考えることはやめた。頂上に立つ!これだけだ」
「先のことを考えて不安がるよりも、目の前のひとつひとつの動きに集中しよう。そうすればきっとこの壁を抜けられるはずだ」
左右の手で交互に岩をつかみ、足を上げる。氷の部分にはピッケル(鎌みたいな道具)を打ち込み、アイゼン(靴底につける爪)を蹴り込む。
なにもかも忘れ、ひたすら登る。
8000mの高みで凝縮した時間[とき]が過ぎていきました。
「私はこのためにナンガパルバット峰にやってきたのかもしれない」
あんなに上部に見えていた岩峰がすぐ目の前に近づいてきました。もう少しでこの岩壁を抜けられそうです。そのとき、下からNさんの声が聞こえました。
「とだかぁ、俺もゆくぞー!」
それは彼の決意のあらわれのような叫びでした。時計をみると取り付いてからなんと四時間が過ぎています。そんなにも私は夢中になって登っていたのです。その間、彼は取り付きで自らに問いかけていたに違いありません。悔いはないかと……。
「わかりましたぁ!岩の部分は大変ですが、ここで岩壁はおわりです。あとはやさしい雪稜ですからー!」
Nさんに声をかけ、先に山頂に向かいました。雪壁を右上し、頂上へ続く雪稜に出ました。頂までピークが二つあります。眼下に緑にあふれる谷間がみえています。
「ここからはナイフリッジの雪稜をたどるのみ。あわてることはない。一歩、一歩だ」
ひとつ目の小ピークを越えました。
右側は何千メートルも切れ落ち、左側も台座の基部まで急雪面が続いています。滑ったら終わりの世界です。
ふたつ目のピークも越えました。
ナンガパルバット峰の山頂。昔から憧れ、夢にまでみた頂。
あと十メートル。
五メートル、三メートル……ゆっくりと右足を出す。
そして両足で踏みしめる。
私にとって初めてとなる無酸素での8000m峰登頂。
アンナプルナII峰から五年の歳月が過ぎていました。うれしさはもちろんですが、なによりほっとした気持ちが一番でした。それは自分へ課した大きな課題が終わった安堵感のようなものかもしれません。山頂からはこの後通い詰めることになるK2峰をはじめとしたヒマラヤ山脈西方のカラコルムヒマラヤの山々もみえていました。
記念に幾つかの石と雪を集め、ザックに詰めました。前年まで勤務していた学校の教え子たちの顔が浮かびます。学校を離れたにも関わらず、贈ってくれた応援のメッセージに随分、勇気づけられました。
「ありがとう、みんな。おかげでナンガの山頂に立つことができたよ!」
写真を撮ったり、山頂からの光景をゆっくりと味わったりしている内に一時間は瞬く間に過ぎました。Nさんを待ちましたが現れないので午後四時に下山を開始。
雪稜を慎重に下り、岩壁の下降点に来ました。下の取り付き付近に彼の姿が見えます。
「あきらめて下で待っていてくれたんだ」
「早く降りて山頂の話をしたい」
うれしくなり、「トーウッ」とチームの合図のコールをかけました。しかし、いくら声をかけても返事がありません。
「もしや…」
「下向きの斜面なのに頭が下になっている。」
よくみると岩壁から落ちたような跡がありました。「落ち着け」と自分に言い聞かせ、そこからは太さ六ミリメートルのロープにぶら下がりながらのアクロバチックな下降を繰り返しました。暗くなる前になんとか岩壁を下り終え、彼のもとへ駆けつけました。
「無念……」
まるで眠っているかのような安らかな表情です。
彼の前に跪き、山頂で集めてきた石と雪を捧げ、遺体が動かぬようピッケルで固定しました。
あたりはすでに暗闇となり、星が輝き始めています。ナンガパルバット峰の頂上台座のふもと、限りなく宇宙に近い高みにふたり。
私は空を見上げ、星に向かって話しかけました。それはとても自然な感覚でした。
「Nさん、あなたの目指したナンガの山頂の石と雪だよ。ごめんよ。一緒に登れなくて」
「山頂からの光景は素晴らしかったよ。K2峰も、ブロードピーク峰もみえたよ」
「もう立って歩くのもやっとなんだ。ここに残してゆくけど、許しておくれ」
「どうぞ、やすらかにお眠りください」
周囲はいつの間にか霧に包まれています。私はゆっくりと立ち上がりました。
そして彼に別れを告げ、歩き出しました。ライトの照らす仄かな灯りのなかを彷徨うように…。
「なんという一日だったのだろう。疲れた。眠りたい」
登頂とNさんの死。
それらのことが整理できないままに頭のなかを巡っていました…。
昨年、Nさんの奥さんからお手紙をいただきました。当時一歳だった娘さんが二十歳になり無事、成人式を迎えられたとのこと。Nさんから託された大きな仕事をやり終えた気がすること、旧姓に戻られたことが書かれてありました。あれからもう二十年になるんだなと感じます。私の方はナンガ後、内から溢れてくる高所への熱情とともにさらにヒマラヤへと登り続けていきました。Nさんの分もという思いを胸に。
振り返れば、すべては必然。
あらためてよみがえってくる場面があります。青々と晴れた空の下、六千メートルの雪稜でふたりで休んでいる時に彼がつぶやきました。
「とだか、自由を感じないか」
残念ながらそのときの私は登ることに必死でそのような精神の高揚を感じる余裕はありませんでした。
二十一年たった今、こころからの共感をこめてNさんに言葉を返したいと思います。
「ああ、最高だね」
5:意識の制約を超えて ブロードピーク峰 トラバース
ヒマラヤに登り続けて十一年。毎年のように登り続けることでいつのまにか、ヒマラヤの高所があたかも慣れ親しんだ郷里の山のような感覚になっていました。
「好きな山に自らの感覚で自由に登ってみたい!」
1995年、自らチームを組みヒマラヤに向かいました。
目指すは広い頂を意味するブロードピーク峰。この山は写真左から北峰(7550m)、中央峰(8016m)、主峰(8047m)からなっており、三名の仲間でこれら三つの峰の縦走を目指しました。結婚したばかりの私のパートナー、優美も同行。ふもとのベースキャンプ(5000m)でサポートしてくれます。
ブロードピーク峰まずは一か月かけて高所への順応登山を行いました。そして天候が安定するのを待ち、北峰からのアタックに出発。急峻な氷壁を登ってゆきます。一日半登ったとき、もう簡単には引き返せない領域に入り込んだことを自覚しました(下降には道具が必要ですが持てる数には限りがあります)。生きて還るには、中央峰を越え主峰との鞍部までいかなければ降りやすいルートはありません。
そのとき、不思議なことですが意識のなかから過去や未来のこと一切が消えました。いま、目の前の瞬間がすべて。
何かに打ち込んでいる時、ひとはそういう状態になります。すべてが流れるように進んでゆくことから「フロー状態」、あるいは現代スポーツの世界では「ゾーン体験」と表現されますが、このときは残りの五日半ずっとその状態が続きました。
右か左かではなく、すっと適したルートがわかります。自分のすべてのエネルギーが少しのロスもなく、いま、この瞬間に注がれるのを感じます。ナンガパルバット峰の頂上台座への登攀中に訪れた感覚も同じものでした。
三日目に北峰、五日目に中央峰を越え、ついに六日目、主峰に到達。翌日、一週間ぶりに優美の待つベースキャンプに降りてくることができました。
大きなブロードピーク峰という山全体にふれた充実感。登頂に成功した達成感というよりも、山との一体感。そのよろこびに、満たされていました。
七日間を通して貫いていた「いまとともにある感覚」とともに。
ブロードピーク中央峰7,800mにて 最近、この登山でよく思い出す場面があります。
主峰への登頂を終えての下降中、先頭で下っていた私は雪面に足を踏み入れた瞬間に跳びました。同時に跳んだ部分の雪が落ち、不気味な穴が開きました。
氷河の裂け目に雪が積もって隠れた落とし穴、ヒドンクレバスです。
おそらく意識でとらえ、判断し、行動していては間に合わなかったでしょう。足裏で違和感を感じた瞬間に跳んでいました。
意識の制約を超えたとき、身体[しんたい]そのものが持つ力が「生きる」ために全開となります。私たちはそういう能力を持つ存在なのです。
ブロードピーク峰での体験は、自分自身がいかに意識が作り出す過去や未来の制約を受け、「いま」から切り離されているかということを教えてくれました。
無限の可能性に満ち、生の本質ともいえる「いま」。そこに立つことはヒマラヤ登山のみならず、実は私たちの日常をもまるで三歳の頃のように新鮮で生き生きとしたものにしてくれるに違いありません。
縦走中、ずっと後ろに聳えている大きな山がありました。
世界第2の高峰K2。標高8611m。
「ひとり、あること」
それをつきつめてみたい。私の中にその思いが強くなっていました。
あたかもK2峰が呼んでいるかのように……。
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