第三回 若きエディプスの救済

 1907年の終わりに、ヴァレーズとスザンヌ・ビングはベルリンに到着した。コンセルヴァトワール出身で女優を目指していたスザンヌは、ベルリン行き直前の11月5日、ヴァレーズと結婚している。二人の生活はわずか6年しか続かなかったが、ドイツ語がままならないベルリンでの暮らしにおいて、彼女の存在は――推測ではあるけれども――かなり貴重なものだったはずだ。実際、離婚後ほどなくして、ヴァレーズもまたベルリンを去ることになるのである。
 若き作曲家はちょうど24歳になろうとしていた。
 このベルリンで、彼は様々な大物芸術家たちと交流を深め、そのバックアップもあって、はじめてのオーケストラ作品を発表するに至る。面白いことに彼らは、まだまったく無名といってよいヴァレーズのキャリアを後押しするだけでなく、彼のために弟子や職、そしてパトロンを探し、時には自ら経済援助を買って出た。どうやら若き日のヴァレーズには彼ら成功者の心をくすぐる独特の魅力があったらしい。なんの実績もなく、ゆえに経済的にもおぼつかない作曲家を周囲が競うようにして援助する様子は、まるで「ヴァレーズ救済委員会」とでも名づけたくなるような、一種不思議な様相を呈している。
 おそらく、以下のあれこれを読んでいただければ、読者の多くもこれに賛同してくれることだろう。

■予言の書:最初の出会い
 ベルリンに移る直前、ヴァレーズに強い衝撃を与えた書物があった。
 フェルッチョ・ブゾーニ(1866-1924)が著した『新音楽美学試論(Entwurf einer neuen Aesthetik der Tonkunst)』である*1。当時のヴァレーズにとってドイツ語を理解するのは容易でなかったはずだが、彼はこの書物に深い感銘を受け、一気にブゾーニの思想に共鳴することになる*2

……私は1907年、ベルリンへ向かい、そこで6年あまりを過ごすことになったのだが、大変な幸運はブゾーニの近しい友人になったことだった。(中略)私は、彼の予言的な書物『新音楽美学試論』を既に読んでいた。その中で『音楽は自由なものとして生まれ、そして自由を勝ち取ろうとすることこそ、その使命なのである』という一節に出会ったのだ。私は驚き、私と同じようなことを信じている人、しかも音楽家がいることに興奮したのだった。*3

 考えてみれば、イタリアに生まれ、ライプツィヒ、ヘルシンキ、モスクワなどを渡り歩いた後、ベルリンに君臨していたブゾーニは典型的なコスモポリタンであり、その軌跡はどこかヴァレーズと似たものがある。もっともヴァレーズはこの書物、そしてブゾーニという人物自体に心酔したことは様々な場で語っているけれども、その音楽については、ほとんど何も言及していない。あくまでも彼の興味はブゾーニの音楽思想にあり、その際立った革新性と比べた時に、作品自体は保守的だと考えていた。「ブゾーニは『新古典主義』ということを提唱しているのだが、古典主義というものは、新しかろうが古かろうが、私が必死に避けようとしているものなのだ」*4という述懐からも、それはうかがえよう。
 『新音楽美学試論』は詩人リルケに捧げられた、ごく薄い書物である。ブゾーニという作曲家が紹介される際には必ずその名が挙げられるし、すでに昭和4年に日本語訳(二見孝平訳、共益商社出版)が出ているほどに有名な本ではあるが、、その割に内容自体はあまり知られていないように思われる。
 書物の前半はもっぱら、新しい音楽を希求する大胆で活きのいい文言が続く。そのアフォリスティックな筆致、そして奇妙に攻撃的な口調は明らかに、彼が心酔していたニーチェを思わせるものだ(実際、書物の終盤にはニーチェの『善悪の彼岸』からの引用がある)*5
 同じくニーチェを好んでいたヴァレーズは、先の引用にあった一節や「創作者の使命は法則を作りだすことにあり、法則に従うことにはない。与えられた法則に従う者は,自ら創作者であることをやめるのだ」といった類のアジテーションに、まずは魅かれたのだろう。保守的なパリの音楽環境に嫌気がさし、しかし事実上は「劣等生」として音楽院をとび出したヴァレーズにとって、いずれもが胸のすくような言葉であったに違いない。さらに、書物の全体に通底する標題音楽批判、表現や描写に対する疑義、そしてワーグナーやヴェリズモ・オペラに対する批判も、ヴァレーズの創作姿勢とある程度までは共鳴するものだ。
 しかし、おそらくヴァレーズが何よりも魅かれたのは、書物の後半でやや唐突に披露される、音律に関する提言だった。ここでは12等分平均律の様々な弱点を克服した18等分平均律の理論、そして究極的にはこうした音律を越えて、まったく自由な音程を扱う可能性が論じられているのである。これを見たとき、ヴァレーズは興奮を禁じえなかったはずだ。ブゾーニは説く。

我々はオクターヴを12等分に分けた。そのようにして、なんとか音高を扱わなければならなかったからである。そして我々の楽器を、それよりも大きな音程や小さな音程、あるいはその中間の音程は出せないように作り上げたのだ。とりわけ鍵盤楽器はこうして我々の耳を完全に学習づけているから、もはや我々はこれ以外の音を聞くことができなくなってしまった。まさに、この不純な媒体を通してしか音を聞くことができなくなってしまったのである。ただし、自然は無限の段階にわたる音階を創造した。まさに無限の! 今日、これを知る人がどれだけいるのだろうか?*6

 かくしてブゾーニは、全音を3等分した18等分平均律を提唱し、そこから113の音階を生成して、従来の長短調を越える道を模索する。彼はこのための記譜法(五線ではなく、六線によるもの)までをも考案し、その書物に図を挿入しながら詳しく説明を加えるのである*7
 加えて注目すべきは、ブゾーニがこうした音律を実現するための電子楽器の可能性に言及していることだ。

こうした音をどのようにして、どの楽器によって出すかということは、きわめて重大で深刻な問題だ。幸運にして私は、この文章を書いている途中で、アメリカから、きわめて直截な方法でこれを解決する正当な情報を得た。すなわちサディアス・ケーヒル博士に関する情報である。彼は、電気の流れの正確な振動数への変換を可能にする総合的な機械を考案したという。機械があらゆる振動数を作りだすので、音の高さはこの振動数を反映し、オクターヴの無限の段階はこれによって容易に達成されるのである*8

 ブゾーニはこの部分の脚注において「……ケーヒル博士のダイナフォンは、科学的に完璧な音楽を作るためのとてつもない電気的発明である」と、さらに細かい情報を記している。
 正式名称を「テルハーモニウム」というこの楽器は、1897年にアメリカで特許が取得された、史上初の電子楽器である。百を超えるダイナモを駆使して交流信号を生成し、40Hzから4000Hzまでの音を自由に出すことが可能という触れ込みだったが、全体はビル一階分を占めるほどの巨大な装置であり、残念ながら楽器としての実用化には至らなかった。ブゾーニはアメリカの雑誌「メルキュール・マガジン」1906年7月号の記事を見て、いち早くこの電子楽器を知ったという。
 実際の創作活動においては明らかに後期ロマン派の流れをくんでいたブゾーニが、1907年の時点でここまで斬新なヴィジョンを持ち、情報収集に務めていたことは、今から見ると少々不思議な気がする。コスモポリタンにして並々ならぬ嗅覚と知性を持った作曲家ならではの洞察というべきだろうか。当然ながらヴァレーズは、この「平均律の超越」「電子楽器の可能性」について、夢中でブゾーニと議論することになった。ただし、当のブゾーニ自身はそうした楽器による創作について、あるいは18等分平均律による楽曲創作について、それほど具体的なイメージを持っていなかったようにも見える。既に華々しい活躍を経てベルリンに君臨する大家の、一種の「予言」と考えるのが妥当なところだろう。
 しかし、フランスからやってきた若い作曲家は、この予言を近未来の現実として真に受けた。
 もちろん、やがて彼はそうした楽器を手に入れることにはなるのだが、はるか先まで待たねばならないとは想像していなかったに違いない。「ブゾーニは私に、新しい楽器機械の必要性を支持していること、そしてその機械がやがて重要な役割を示すだろうこと、そしておそらく工業が我々の美学の進化と変容に大きな役割を果たすことを語った」*9と興奮した口調で述懐するヴァレーズは、晩年にいたるまで、愚直なまでにこの夢を一貫して持ち続けることになるのである。
 ちなみにブゾーニの最晩年にあたる1923年、チェコの作曲家アロイス・ハーバが彼のもとを訪ね、自らの微分音音楽(彼はそれを1917年頃から実作品の中で展開していた)について詳細な説明を行っている。ブゾーニはこれにいたく感激したらしい。会談に励まされたハーバは、翌1924年に四分音による作曲講座をプラハ音楽院に開設するとともに、四分音ピアノの製造へと乗り出すことになる。ハーバの作品自体は、民俗音楽的な旋律のゆらぎを微分音によって実現するという側面が強いものではあるが、同じく微分音による作曲を試みるヴィシネグラツキーなども含め、ブゾーニの理論的な射程は1920年代に入ってから実際の音楽作品へと結実することになる。

■「現代音楽演奏会」というアイディア
 『新音楽美学試論』という書物のみならず、この時期にヴァレーズがブゾーニから受けた影響ないし恩恵は多岐にわたる。
 まず、ヴァレーズが彼から受け継いだアイディアのひとつが「現代音楽演奏会」というコンセプトだった。ブゾーニは1902年から1909年にかけて、ベルリンにおいて現代音楽のみによる演奏会シリーズを主催していたが、音楽史的に見ても、これは先駆的な催しといえる。
 エドワード・デントによる研究書には、7年間のあいだに12回開かれた演奏会の詳細なプログラムが記されているが、一瞥して驚くのは、全12回で演奏されている曲のほとんどがドイツ初演あるいは世界初演であることだ*10。さらにいえば、当の作曲者が直接ベルリンを訪れて棒を振るというケースが多いのも目を引く。これはブゾーニの人脈があってこそ可能になったことだろう。
 目立つものを挙げれば、シベリウス「エン・サガ」ドイツ初演、ヴァンサン・ダンディ「エトランジェ」ドイツ初演(いずれも1902年)、ドビュッシー「牧神の午後への前奏曲」ベルリン初演、ハインリヒ・シェンカー「シリアの舞踏(シェーンベルク編)」世界初演、ブゾーニ「ピアノと女声合唱と管弦楽のための協奏曲」世界初演(いずれも1903年)、ドビュッシーの「雲」「祭」(ともに「夜想曲」の一部)ドイツ初演(1904年)、プフィッツナー「スケルツォ」(作曲者自身の指揮)、シベリウスの「交響曲第2番」、ブゾーニの「トゥーランドット組曲」(いずれも1905年)、ヴァンサン・ダンディ「フランスの山人の歌による交響曲」(作曲者自身の指揮)、フォーレの「ペレアスとメリザンド」ドイツ初演(いずれも1906年)、ブゾーニ「コメディ序曲」世界初演(1907年)、リスト「ペトラルカのソネット」(ブゾーニによる管弦楽編曲)初演(1908年)、バルトーク「スケルツォ」(作曲者自身の指揮)ドイツ初演(1909年)など。
 現代に生きる我々はうっかりすると見過ごしてしまいがちだが、20世紀初頭にあっては、これらは間違いなく最先端の「現代音楽」に他ならなかった。このうち最後の2回、すなわち1908年と1909年の演奏会には、ベルリンに住むヴァレーズも顔を出したはずである。
 現代作品ばかりを取り上げる演奏会の先駆としては、1904年から1年の間、シェーンベルクとツェムリンスキーがウィーンで主宰した「創造的芸術家協会」の名がしばしば挙げられるが、ベルリンにおけるブゾーニの演奏会は、それにわずかに先行している。ブゾーニのアイディアは、のちにシェーンベルクの「私的演奏協会」、第一次大戦後の「国際現代音楽協会(ISCM)」、そしてヴァレーズの「ニュー・シンフォニー・オーケストラ」や「国際作曲家組合」に直接的な影響を与えることになるだろう*11
 さらにブゾーニは、ヴァレーズの経済状態を心配し、様々なサポートを申し出ている。まず彼はヴァレーズの弟子として、自らの息子の友人を紹介するとともに、1909年4月10日には、ポール・クシンスキ財団の会長に「パリから来た私の若く親しい友人ヴァレーズ氏に、ぜひ注目していただきたいのです。この芸術家の知性と才能はまさに開花しようとしています。他にも様々な長所がありますが、まさに彼の能力は考慮されねばならず、支援をお願いする次第です」と推薦状をしたためている*12。このおかげで、ヴァレーズは財団の奨学金を得ることができた。
 また、やや時期は後のことになるが、ブゾーニが私的に開催したシェーンベルク「月に憑かれたピエロ」の演奏会に招いてくれたことも、ヴァレーズにとっては忘れがたい経験となった。前年の初演を聞き逃したブゾーニは、1913年6月、シェーンベルクをベルリンに招いて、作曲者自身の指揮による演奏会を行ったのだった*13。完全な無調の響きと精緻な楽器法にヴァレーズはさぞ驚いたことだろう*14。実際、「ピエロ」のアメリカ初演は、のちの1923年に、ヴァレーズが主宰する「国際作曲家組合」によって行われることになるのである。

■ヴァレーズ = ジャン・クリストフ?
 もう一人、この時期のヴァレーズに様々な便宜をはかったのが、ロマン・ロランである。
 ロランは、言うまでもなくフランスの大文学者だが、彼は同時に「ベートーヴェンの生涯」などを著し、さらにはソルボンヌ大学で音楽史の講義を担当する音楽学者でもあった。ベルリン時代のヴァレーズの足取りは必ずしも詳細に分かっているわけではないのだが、パリに住むロランと親しい関係を築いているということは、この時代のヴァレーズが定期的にパリに戻っていたことを示している。
 全10巻からなる「ジャン・クリストフ」を執筆しているさなかであったロマン・ロランは、すっかりこの若者の情熱に惹かれてしまったらしい。この長編小説はベートーヴェンをモデルにした音楽家の一代記であるが、後述するように、若く野心に満ちたヴァレーズに出会ったときにロランはジャン・クリストフその人が現実にあらわれたような錯覚を覚えたのだった。
 二人の出会いは1909年初頭。その時にヴァレーズは完成したばかりの交響詩「ブルゴーニュ」のスコアを持参している。同年1月19日のヴァレーズ宛の書簡の中でロマン・ロランは次のように述べる。

 親愛なる友よ。私はあなたの作品を何度も喜びとともに読みました。(中略)あなたは、オーケストラの書法に傑出した才能を持っていると思います。あなたのオーケストラの書き方は、軽やかで、しなやかで、生き生きとしているのに重厚なのです。(中略)リヒャルト・シュトラウスからの大きな影響にもかかわらず(また、冒頭部分のあたりは少しドビュッシー的でもありますね)、私はフランス的な感覚、むしろシュトラウスよりもダンディに近い印象をそこから受けました。これはおそらく、その静かで宗教的な性質のせいでしょうが、しかしまたその明晰さにくわえて、三連符の音型、このとても特徴的な音型が四角張ったフレーズと交替するせいでもあります。楽曲の展開は、意志や精神の中というよりは、オーケストラや音色の中にこそ存在しているように思います。その意味で情熱は常に背景に退き、あるいは脇に置かれています。まるでそれは目的ではないかのように。確かにあなたの眼目は、あなた自身というよりは、ブルゴーニュという土地にあるようです。
 あなたは次に「ガルガンチュア」を書き始めるのですね。でも、描写してはいけませんよ。音楽自体がガルガンチュア的であらねばなりません*15

 スコアを十分に読む力のあったロマン・ロランは、交響詩「ブルゴーニュ」に非凡な才能を認めるとともに、一方ではその描写音楽的なあり方に、やや不満を覚えたらしい。自己を思い切って表出せよということなのだろう。ゆえに構想中の「ガルガンチュア」(この作品については、あとで述べる)については、描写するなという意見を開陳している。また、注意深い読者ならば、ヴァレーズが忌み嫌っていたヴァンサン・ダンディの名が出てきた部分で、少々心配になったはずだ。実際、血気盛んなヴァレーズはこの部分にへそを曲げたらしい。ほんの3日後、1月22日付のヴァレーズ宛の手紙でロランは次のように謝っている。

私はこの前の手紙で、あなたを不愉快にする名前を記してしまったことを(この件に関するあなたの感情を知って)とても後悔しています。そう、ヴァンサン・ダンディのことです。実際、私は少々説明不足でした。私が指摘したかったのは単に、ダンディが相当なワグネリアンであるにもかかわらず、その明晰さや論理などの中にフランス的な感覚をしっかり残しているのと同じようなことが、あなたにも言えるということだったのです……*16

 ヴァレーズにしてみれば、「似ている」とは決して言われたくない人物の名が偶然に出てきたということなのだが、二人のあたふたした様子はなんだか滑稽でもある。
 ロマン・ロランがヴァレーズに入れあげることになったのは、この交響詩に感嘆したというにとどまらず、まずは何よりもこの作曲家が、自らの作りだした架空の人物「ジャン・クリストフ」のイメージそのままだったことに依る。先の手紙の2日後、1909年1月24日に、イタリアの伯爵令嬢ソフィア・ゴンザーガに宛てた手紙には、その驚きが克明に記されているので、少々長くなるが当該部分を引用してみたい。

……まったくふしぎですよ! 最近、第二のジャン・クリストフが私のところにきました(いまにわんさとおしかけてきますよ!)。とてもハンサムな男です。背は高く、見事な黒髪、あかるい眼、そして聡明で精力的な顔立ちは、ジョルジョーネが描いた、イタリア的青年ベートーヴェンといったところです。彼はまだ25歳です。彼の苦しみはデュパンとはちがったふうでしたが、ずっと少ないというわけではありません。というのは、彼は十五歳のときから、ヨーロッパ中を放浪しているからです――イタリア、ドイツ、フランス――そして、オーケストラであらゆる仕事をしています。彼はドイツとイタリアの血がまじったフランス人で、名をエドガー・ヴァレーズといいます。彼はいまベルリンに住んで音楽を教えています。近いうちにプラハでオーケストラの演奏会を指揮することになっています。彼はオーケストラに情熱を燃やしているのです。彼は私に交響詩「ブルゴーニュ」の楽譜を見せてくれました(ブルゴーニュというのは、彼が住んでいた土地の名です)。それはかなり興味深いものでした。なによりも楽器の音色という観点から非凡なものがあります。(中略)独立した若い芸術家たちが私のところへくること、そして彼らが来る理由があると感じることは、私にはよろこびです。というのも、実際、わたしは彼らのために役に立ち得るからです。知的にも、また現実的にも。ジャン・クリストフは、世界で戦っている彼の兄弟たちをひきつけるのです。*17

 しかも、こうした性格や風貌のみならず、下に記すような恐ろしいほどの偶然の一致が、ロランの感情を後押ししたのだった。

それにしても、私がこのヴァレーズと出会ってもっとも驚いたことをお話ししていませんでしたね。なんと彼は交響詩「ガルガンチュア」を書いています。ところが、ちょうどいま、ジャン・クリストフもそれを書いているのです! それでも私の作品を「小説」だと言いますか! ジャン・クリストフは実際に存在しています。私の作品は小説ではなかったようです。ジャン・クリストフは本当に存在したのです……*18

 そう、「ガルガンチュア」は、まさに小説の主人公ジャン・クリストフが、ちょうどこの時期に「作曲している」作品のタイトルだったのだ。
 「ジャン・クリストフ」の中に「ガルガンチュア」があらわれるのは、第7巻「家の中」においてだが、これが出版されたのは1909年の2月。すなわち、彼がヴァレーズと出会った1909年1月という時期は、既にロランが「ガルガンチュア」のエピソードを書き上げており、しかしそれを誰も知る由もないという、絶妙のタイミングなのである。小説での初出は以下の部分だ。

……クリストフは以前に数倍した熱心さで、また制作に身を投じた。オリヴィエをもいっしょにそれへ引き込んだ。二人は陰鬱な思想にたいする反動から、ラブレー風の叙事詩をいっしょに制作し始めた。その叙事詩は精神的圧迫の時期の後に来る強健な唯物主義の色を帯びていた。その伝説的な主人公――ガルガンチュア、法師ジャン、パニュルジュ――にオリヴィエは、クリストフの感化で、新しい人物を一人加えた。(中略)そういう詩に基づいて、クリストフは作曲した。合唱付の交響曲的大画幅で、勇壮滑稽こっけいな戦争、放埓ほうらつな祭礼、道化た奇声、大袈裟おおげさな子供じみた喜びをもっているジャヌカン的な恋歌、海上の暴風雨、鳴り響く島とその鐘が含まっていて、最後の牧歌的な交響曲シンフォニーには、牧場の空気がいっぱい満ちていて、朗らかなフルートとオーボエの喜悦や、民謡などを含んでいた。*19

 のちにクリストフとオリヴィエはこの作品を「ガルガンチュア」と名付け、オペラ座の管弦楽団に演奏させようと試みることになるだろう。
 ただし――例によって例のごとく――ヴァレーズ自身の「ガルガンチュア」は完成を見ることはなかった。この作品は交響詩でありながら、後にコントラバス協奏曲としての側面を持つことになったという不思議な作品で(セルゲイ・クーセヴィツキ―が初演するというプランが存在した)、完成すればかなりユニークなものになっただろう*20。もっとも、どの程度の段階までスケッチが完成していたのかは全く不明である。場合によっては、この作品も単なる「次作の構想」程度のものだったのかもしれない。
 ロランはさっそく、この感激をドイツのリヒャルト・シュトラウスにも伝えた。1909年2月21日のシュトラウス宛書簡に、その記述があらわれる。

……けさ、私はあなたのことをたくさん話しました。話相手はバルセロナの「オルフェオ・カタラ」のリーダーの一人と若いフランスの作曲家です。この作曲家は、一、二年前からベルリンに住んでいるのですが、あなたを賛美するあまり、どうしても会いに行けないでいるのです。彼の名はエドガー・ヴァレーズ、才能があります。特に管弦楽の分野に秀でているように思われます。あなたの関心をひく人物だと思います。彼の中には、あなたがきっと何よりも愛しておられる(私と同様に)もの、そして今日ではめったにお目にかかれないもの―――生命力があります。*21

 なるほど、確かに「生命力」こそ、ロマン・ロラン、リヒャルト・シュトラウス、そして若きヴァレーズを結びつけるキーワードだったに違いない。シュトラウスは、おそらくこの手紙で初めて、ヴァレーズという若い作曲家の存在を知ったはずだ。しかし、この程度の紹介では、さして興味を持つこともなかっただろう。ヴァレーズとシュトラウスをつなげるためには、もう一人の人物の協力が必要だった。

1910年頃のヴァレーズ 1910年頃のヴァレーズ
■「エディプスとスフィンクス」
 パリ時代のヴァレーズが民衆大学の合唱団で働いていたことは前回に記したが、このベルリンにおいても、彼は「交響的合唱団」と名付けられた合唱団の音楽監督に就任している(彼は1911年5月までこの合唱団を指揮した)。レパートリーはやはりスコラ・カントゥルム仕込みの古い音楽で、ペロタン、ジョスカン・デ・プレ、ヴィクトリア、シュッツ、モンテヴェルディ等々。この合唱団は同時に、演劇界の寵児マックス・ラインハルトが主宰する「真夏の夜の夢」「ファウスト」のプロダクションにも参加していたのだが、このラインハルトが監督を務めるベルリン・ドイツ劇場において、ヴァレーズはホーフマンスタールの戯曲「オイディプスとスフィンクス」に出会ったのだった。
 強い感銘を受けたヴァレーズは、即座にこれを3幕仕立てのオペラにしようと考えた。1909年初頭にはホーフマンスタール自身に連絡をとり、オペラ化の許諾を得ている。ちょうどこのころのホーフマンスタールといえば、シュトラウスとの共同作業である「エレクトラ」(1909年1月25日、ドレスデン宮廷歌劇場で初演)を完成させたばかりの時期にあたるが、見知らぬ若い作曲家からのオファーに興味をそそられたらしい。5月、ホーフマンスタールはさっそくヴァレーズをウィーン近郊ロダウンに位置する自宅に招き、詳細な計画を練ることになる。果たしてこの時、二人はすっかり意気投合したようだ。この日の帰りにホーフマンスタールは「エディプスとスフィンクス」の戯曲を献辞入りでヴァレーズに渡すとともに、ほどなくしてウィーンに住むマーラーにヴァレーズを紹介することになる*22
 かくしてホーフマンスタールも「救済委員会」のメンバーとなった。
 ホーフマンスタールの「エディプスとスフィンクス」は、ソポクレスによる悲劇をベースにした3幕からなる戯曲だが、その第1幕でエディプスは父のライオス王を殺し、第2幕で母のイオカステと出会い、そして第3幕ではスフィンクスとの対話に到達する。いわば、この「父殺し」はヴァレーズの潜在的な願望を物語化したものだとも言えよう。
 ヴァレーズはこの戯曲のオペラ化を進めるとともに、ベルリオーズのオラトリオ「キリストの幼時」のテクストのドイツ語訳をホーフマンスタールに依頼している。結局はこの企画は実現せずに終わったが*23、こうした付き合いの中で、ホーフマンスタールは深刻な経済危機にあったこの作曲家をかなり真剣に心配するようになった。当時の書簡をたどってみると、ヴァレーズの健康状態をきめ細やかに心配するとともに、パトロンとなるべき人物のリスト、そして彼らをすぐに訪ねなさいという教示が逐一記されており、ホーフマンスタールがいかに親身に接していたかがよく分かる。さらに彼は、1909年6月1日の手紙では次のようにさえ言うのである。

私は自分の出版社のフィッシャーの担当者に、あなたに300マルクを借りていると伝えてあります。そして、あなたの必要に応じて、このお金の全部あるいは一部を払い戻すように頼んでおきました。親愛なるヴァレーズ、あなたの状況が致命的なものになるまえに、このお金を利用してほしいのです。返すのはいつでも構いません。あなたが訪問してくれた時の楽しい記憶を大事にしています。活動を随時知らせてください。敬意をこめて。*24

 続いて、6月16日にヴァレーズが出した礼状も見てみよう。

お手紙、そしてメンデルスゾーン夫人へのお口添え、まことにありがとうございました。(中略)私は身体の調子がどうにも悪く実際にお会いできなかったのですが、彼女は、私がブルゴーニュで養生するために2000マルクをくださるというのです。ありがたく、そうさせていただきたいと思います。向こうに着いたらすぐにお手紙を出します。あなたのしてくださったすべてに感謝します。決して忘れません*25

 こうした人々の世話になりながら、ベルリン時代のヴァレーズはなんとか生活を維持していた(ちなみに分かっているだけで、翌1910年にもホーフマンスタールはフィッシャー社から250マルクを、さらに翌年も100マルクを送らせている)。こうして彼は、この1909年の夏を祖父クロードの住むヴィラールで過ごすことができたのだった。
 当然というべきか、ホーフマンスタールは同時に、ヴァレーズの作品を盟友シュトラウスに認めてもらおうと試みる。先の6月1日付のヴァレーズ宛の手紙の末尾には、ガルミッシュに住むリヒャルト・シュトラウスへ「例の交響曲の楽譜を書留小包で送る」ようにと指示が記されているのだが、この「交響曲」とは明らかに、翌年に初演される交響詩「ブルゴーニュ」のことを指している。
 かくして、6月のどこかで「ブルゴーニュ」の譜面がシュトラウスの手に渡ったものと思われる。その後のシュトラウスとホーフマンスタールの往復書簡を注意深く見てゆくと、7月11日の追伸に次のような記述があらわれる。「あの若いフランス人の件、およびロラーの件、さらに第一幕への追加部分はもうガルミッシュに届いていることと存じます」*26。前後関係を考えると、これはヴァレーズのことだろう。ちなみに「第1幕」というのは、もちろん彼らがこの時期に取り組んでいた「薔薇の騎士」の第一幕に他ならない。
 これに対して、7月16日付の手紙でシュトラウスは、ロラーの話題に続いて「ヴァレーズの件については、いずれまたお便りすることにします」と答えている。まだ譜面を見ていなかったのか、あるいは判断を留保していたのか。そして7月18日のシュトラウス宛の手紙の追伸で、ホーフマンスタールは再びヴァレーズに言及している。「追伸。原稿をもう一度エドガー・ヴァレーズにご返送ください。住所はベルリン=ヴィルマースドルフ、ナッサウィッシュ街61です」。
 こうした救済計画が着々と進む中、ホーフマンスタールが想定するよりも早く、ふとしたきっかけでヴァレーズとシュトラウスは直接顔を合わせることになった。10月30日のホーフマンスタール宛ての手紙で、ヴァレーズはこう述べている。

そう、言っておかねばならないのはシュトラウスの知己を得たことです。彼は私に興味を持ってくれました。何も言わずに、彼はハンブルクの指揮者ストランスキーに、この冬、ベルリンで私の「ブルゴーニュ」を演奏してくれるようにはからってくれたのです。そして仕事を探してくれるとも。彼は、役に立つのであればいつでも名前を使ってくれてよいとさえ言ってくれました。そして私のキャリアを円滑に進めるために、音楽界で彼が持っている影響力を有益な人々に行使してくれるというのです*27

 シュトラウスにしてみれば、この年の2月にロマン・ロランの手紙をもらい、さらには時を経ずしてホーフマンスタールからも強烈にプッシュのあった若手ヴァレーズに興味津々だったことだろう。そして幸いなことに、ヴァレーズのスコアは、とりあえずは一定の評価を得たようである。
 こうしてシュトラウスもまた「救済委員会」メンバーの一員に加わり、ベルリンの様々な知己に働きかけることになった。それにしても、なんの実績もない無名のフランス人作曲家のために、どうしてこうも巨匠たちが右往左往するのか、まったく不思議というほかない。
 1909年10月29日のヴァレーズ宛の手紙では、「スターン音楽院の対位法の先生でベルリンのロカル・アンツァイガー紙の批評家でもあるW・クレッテ氏が、君に弟子を紹介することを約束してくれた。明日、日曜日の午後に会いにいってほしい、ネットル通り24番、4番街と5番街の間だ。ちなみに君はドイツ語が喋れるか?」*28、さらに11月17日には「私の出版社 [フュルストナー社]と話をしておいた。クレネン通り16番1号だ。職がもらえるように祈っている。さっそく明日顔を出してほしい」という具合。
 また、日付は不明だが、同じく1909年、シュトラウスはドイツの労働者合唱協会Deutsche Arbeiter-Sangerbundの元締めを務めていたポール・クプファーに手紙を送り、「ドイツ語はほとんどできないけれども」という留保付きでヴァレーズを音楽監督として雇ってくれないかと打診している*29。このドイツ労働者協会は、やはり労働組合系の流れをくむ組織だが、まさにヴァレーズがパリで務めていた「民衆大学」の合唱団の仕事を思わせるものだ。
 さらにシュトラウスは、ヴァレーズに語った通り、宛名のない推薦状を持たせてくれてさえいた。そこには「尊敬する音楽家であり、才能ある作曲家であるエドガー・ヴァレーズ氏を私はよく存じております。彼は対位法を教えることに長けており、さらには独唱や合唱を熟知しております」と記してあったのだった*30
 彼らのおかげでヴァレーズは出版社のフュルストナーで筆写者の仕事を得るとともに、少しずつ作曲の弟子を持つことになる*31
 さて、では肝心の「エディプスとスフィンクス」はどうなったのか。少なくとも1912年までは作曲の努力は続けられていたようだが、しかしこの作品も結局、完成には至らなかった*32
 興味深いのは、この戯曲のオペラ化を、パリのロマン・ロランが強く反対していることだ。1909年1月22日付のヴァレーズ宛の手紙でロランは、この戯曲が上演されたのをドイツで観たがオペラに適しているとは思わなかった、もしもギリシャ悲劇に惹かれるというのであれば、その源泉から直接作曲するべきだと主張し、さらにはもしも台本を頼むのであれば、ホーフマンスタールなどではなく、フランスの詩人アンドレ・シュアレスを薦めるとまで長々と述べている。いま読んでみても、このロランの手紙のトーンは、かなり高圧的であり、逆にいえば必死の懇願のようにも見える*33
 もちろん、これらはすべてロランの親切心から発したものなのであろうが、やや想像をたくましくすれば、自らが見出したヴァレーズという若者が、ホーフマンスタールというドイツ人のもとに行ってしまうことを避けたい、という一種の嫉妬に近い感情を読み取ることも可能かもしれない。一方のヴァレーズは――生意気にも――このように押しつけがましい意見を好まなかったはずで、実際、このあたりから二人の関係はぎくしゃくしたものになってゆくのである。

■他の「委員会」メンバーと「ブルゴーニュ」初演
 救済委員会の名誉会員として、ドビュッシーとカール・ムックを挙げることも可能だろう。
言うまでもなくドビュッシーは、ヴァレーズが青年期から晩年に至るまで一貫して尊敬をささげた作曲家である。一方のドビュッシーも、出会ってすぐにこの若者が気に入ったようだ。
 1908年10月29日、ドビュッシーは自らの「海」(第一稿)スコア初版に「エドガー・ヴァレーズへ。共感とともに、成功を祈って」という献辞を書き込み、進呈している。なんということのないプレゼントのようだが、実はこのスコアはかなり貴重なものだ。というのも、これは「海」の初演が不評に終わった後、ドビュッシーが自らの指揮によって再演を行った際に使用した楽譜であり、彼自身による細かい変更部分が逐一記されたものだからである(実際、現在のドビュッシー全集におけるロルフ・マリーの校訂報告でも、このヴァレーズが保持していた楽譜は、自筆譜、初版譜に次ぐ重要資料として大いに活用されている)*34
 それにしても、知り合って間もない若い作曲家に、貴重な書き込みがなされた総譜を進呈しているというのは、いったいどういうことなのか。やはりヴァレーズには相当に不思議な魅力があったとしか考えられない。一方のヴァレーズも、このお返しというわけではないのだろうが、ベルリンに帰ってすぐ、ドビュッシーにシェーンベルクの「3つのピアノ曲」op.11、「5つの管弦楽曲」op.16の楽譜を送っている。ベルリン発の最先端の音楽ということなのだろう。この楽譜によって、ドビュッシーははじめてシェーンベルクの音楽に本格的に接することになったのだった。
 そしてもう一人、ある意味ではヴァレーズの人生を変えることになった人物に指揮者のカール・ムックがいる。
 彼はドイツのダルムシュタットに生まれ、ライプツィヒ音楽院に学んだ後、チューリヒ、ザルツブルク、グラーツなどの歌劇場指揮者を歴任、その後はバイロイト音楽祭にも登場し、とりわけ「パルジファル」上演で高い評価を得たことで知られる。1906年からはボストン交響楽団の音楽監督を務めたのち、1908年に彼はベルリン国立歌劇場の音楽監督に就任していた。ムックはこのベルリンのポストに4年間とどまり、膨大な数のオペラを上演することになる。当時のベルリンでは、音楽関係の最大の名士のひとりといってよいだろう。
 彼もまたヴァレーズを心配し、なにくれとなく世話をすることになった。1909年にポール・クシンスキ財団による奨学金をヴァレーズが得た際には、ブゾーニと一緒に彼も推薦状を書いている。

ヴァレーズ氏は才能ある音楽家であり、注目すべき教養をもった人物です。私は彼の交響詩を見せてもらいましたが、それは豊かで類例のない創意、活発な想像力、そして技術的な手段を完璧に習得していることを示すものでした。パリの友人から得た情報も、ヴァレーズ氏に好意的なものばかりでした*35

 こうした中で1910年の終わり、交響詩「ブルゴーニュ」が初演されることになる。
 先ほどのヴァレーズの書簡にもあったように、中心となってお膳だてしてくれたのはリヒャルト・シュトラウスである。既に2年前に作曲したものとはいえ、ヴァレーズのオーケストラ作品が演奏されるのは初めてのことだ。いや、そもそも公式な演奏会で作品が演奏されるのは、これが初めてというべきなのかもしれない。指揮者のストランスキーは、チェコ生まれで、当時ベルリンを拠点にして活躍した人物。のちには死去したマーラーの後を継いで、ニューヨーク・フィルの音楽監督を務めることになった実力派である。おそらくは1910年初頭に出された、指揮者ストランスキーからヴァレーズに宛てた手紙には、次のようにある。

リヒャルト・シュトラウス博士からの厚い推薦を得たので、私は3月16日に予定されている第5回管弦楽の夕べで、あなたの作品を指揮するつもりでいます。まだ楽譜は見ていないのですが。これはほぼ決定事項と考えていただいてよいので、どのような形で宣伝していただいても結構です*36

 ところが、ストランスキーはあまりこの作品を気に入らず、演奏をしぶったらしい。結局、3月の演奏会は流れたものの、シュトラウスのとりなしで再度日程を仕切り直し、ようやく12月に初演される手はずになったのだった。リハーサルにいたっても明らかにやる気のないストランスキーに対して、シュトラウスは「慎重にやりたまえ、ストランスキー君。私の友人ヴァレーズを大切に扱わないのであれば、こちらにも考えがあるよ」と叱責したという*37
 かくして1910年12月15日、ベルリンのブリュートナー・ホールにおいて、ジョゼフ・ストランスキー指揮ブリュートナー管弦楽団によるヴァレーズの交響詩「ブルゴーニュ」初演が行われた。プログラムはほかにアレクサンダー・リッターの歌曲、ワーグナーの「マイスタージンガー」序曲、そしてシューベルトの「グレート」というもの。ブリュートナー管弦楽団は、ピアノ会社ブリュートナーが出資した、当時としては新興の楽団だが、若き日のヘルマン・シェルヘン(のちにあの「砂漠」を初演することになるシェルヘンである[連載第一回参照])は当時この楽団のヴィオラ奏者を務めていたから、おそらくこの日の演奏にも参加していたものと思われる。体調を崩していたブゾーニも、この演奏会には駆けつけた。
 初演のプログラムには、作曲者自身による簡単な標題のごときものが記されている。「平野から-そして河に沿って-静かな春のような何かがやってくる……とても素晴らしい-そして人生の様々な騒々しさを通して、私の少年時代の叫び声が響く。未来!……未来だ!」*38。断片的かつマニフェスト的な語句が並ぶところは、のちのヴァレーズの文章そのものではある。具体的な音響がどのようなものだったのかは、いまとなってはまったく分からないが、初演の場に居合わせた、シェーンベルクの弟子でピアニストでもあるエドゥアルト・シュトイアマンは、弦楽器パートがかなり細かく分割されていたことを記憶しているという。これについてヴァレーズは、最晩年の1965年、ガンサー・シュラーによるインタビューの中で「私は、特定の化学反応や光の濾過において見出されるような、内在的で微視的な運動の一種に作品を似せようと思ったのです。私は、そうした細かい弦楽器の動きを、主題を奏するためではなく、金管と打楽器の背景として使いました」と述べている*39。となれば、後年のヴァレーズ作品のように、なかなかにダイナミックな音楽だったのかもしれない。
 しかし、聴衆の反応、そして批評はさんざんなものだった。ある批評家にいたっては「地獄のような騒音。これは猫の音楽だ」と評したという*40。ヴァレーズは生涯にわたって、ほぼ一貫して批評家から酷評を受け続けることになるが、この最初の発表からそれは早くも始まったわけである*41
 ほほえましいことに、この後で「委員会」メンバーはみな、ヴァレーズが落胆しないように暖かい言葉を投げかけている。たとえばホーフマンスタールは早速1月5日の手紙で「批評はほぼ私にも予想できていたものにすぎません。あなたが今なすべきことは、それらをすぐに忘れてしまうことです(そんなに難しいことではないですよ)」と書き、ドビュッシーは2月12日の手紙で「いつかあなたと聴衆はよき友人になる日が来ます」*42と優しく諭す。
 ちなみに伝記作者ウェレットは、このドビュッシーの言葉を紹介した後で「しかしドビュッシーでさえ、ヴァレーズの場合には聴衆が彼を徐々に理解するまでに、このあと50年もかかるとは思っていなかっただろう」と続けている。まったくその通りというほかない。
 この作品は祖父クロード・コレットに捧げられているのだが、実は初演の8日前、最愛の祖父はこの世を去っていた。してみると、この初演によって、ヴァレーズはブルゴーニュの幸せな幼少期と完全に訣別したと言えるのかもしれない。
 初期作品のほとんどは、のちのベルリンの火災において焼失してしまったが、奇しくもこの曲のスコアだけは難を逃れ、ほぼ生涯にわたってヴァレーズはこれを保持し続けた。ただし最晩年の1962年、なぜか彼はこれを突然に破棄してしまう。おそらくは晩年の鬱状態が原因だと思われるのだが、あるいは死の可能性を現実的に考えたヴァレーズが、内容に十分な納得のいかない作品を残したくなかったということなのかもしれない。しかしいずれにしても、彼が最晩年までこのスコアを、このたった一度しか演奏されなかった交響詩のスコアを手もとに置いていたことの意味は大きい。

■ベルリンからの撤退、そして大きな「嘘」……
 1913年、ヴァレーズは妻のスザンヌと離婚。スザンヌはパリに戻り、再度女優の道を目指すことになった。二人の間にはベルリンで生まれた一人娘クロードがいたが(もちろん、この名前は祖父からとられたものである)、この3歳の娘はスザンヌの母親のもとに預けられることになる。幼い娘の写真を、ヴァレーズはいつも財布の中に入れていたというが(くしゃくしゃになった写真が残っている)、ヴァレーズとクロードが再会するのは、なんと52年後の1965年、ヴァレーズが亡くなる2か月前のことになる。
 かくして、再び孤児へと戻ったヴァレーズは、この年からベルリンを離れることを考えるようになる。5月にはシャンゼリゼ劇場で「春の祭典」初演を目撃し(連載第1回参照)、冬には完全にパリへと拠点を移した。スザンヌを追っていったわけではないと思うのだが、それでも異国ドイツで一人暮らしをするのは相当につらかったに違いない。実際、様々な証言によれば、彼は最後までドイツ語が上手くならなかった。
 フランスに帰ってきたヴァレーズに、ロランはさっそく次のような手紙をしたためている。「あなたの情熱を保ち続けてください。あなたは既に自らの音楽言語の巨匠なのです。私の愛する、野生の若さと詩的な才能にあふれているのですから。外に向かって発信することを恐れてはいけません。あなたは決して、フランスの明晰さを失うことはないのです」*43。こうして、ふたたび救済委員会フランス班が動き始めた。
 おそらくはロランとドビュッシーの口利きもあって、ヴァレーズは1914年1月4日、プラハのスメタナ・ホールでチェコ・フィルを振って、指揮者としてのデビューを飾っている。プログラムはガブリエル・デュポン「運命の歌」、デュカス「アリアーヌと青ひげ」、ルーセル「喚起」、そしてドビュッシー「聖セバンスチャンの殉教」管弦楽版初演。フランス現代音楽プログラムといったところだろうか。評判は決して悪くなかったようだが、大戦の勃発によって、チェコ・フィルとの関係はこれで途絶えてしまう。
 また、この1914年にヴァレーズは、マックス・ラインハルトの「真夏の夜の夢」(ベルリンでヴァレーズの合唱団がこの公演にかかわっていたのは先述の通り)をパリで上演する試みにかかわっている。コクトーを中心にして企画は進み、パリのメドラヌ・サーカスで上演のめどがたった。指揮を担当するとともに、音楽面のとりまとめを行ったのはヴァレーズで、フローラン・シュミット、ストラヴィンスキー、ラヴェル、サティ、そしてヴァレーズ自身が新作を提供することが決まった。しかし、この企画も大戦勃発によっていつしかうやむやになってしまう(実はサティのみが生真面目に「五つのしかめっ面」をこのために作曲していた。この一件で彼はヴァレーズにひどく腹を立てることになる)*44
 そして1914年6月28日。サラエボにおいて、フランツ・フェルディナントが「青年ボスニア」の一員ガヴリロ・プリンツィプにより暗殺され、第一次世界大戦が幕をあける。
 当然ながらヨーロッパ音楽界は大きな打撃を受けた。指揮者としても作曲家としても活動が困難になったヴァレーズは、アメリカへの移住を考える。なにより決め手になったのは、あのカール・ムックが1912年から、再びボストン交響楽団の音楽監督に就任していたことだった。アメリカ東海岸にたどり着けば、ムックが何かしら世話をしてくれる――ヴァレーズはそう考えたに違いない。こうして1915年末、31歳のヴァレーズはボルドーの港から、ニューヨークへと向かう船に乗りこんだのだった。
 ……という解釈が、これまでの定説ではある。
 もちろん戦時下のヨーロッパで音楽活動を続けるのが難しいことは明らかであって、これを一概に間違いとはいえない。しかしヴァレーズの生涯を綿密に追っていけばいくほど、このアメリカ行きが急で唐突な印象を与えるのも確かなのだ。おそらく、彼がアメリカに渡ったのは、もう少し直接的な理由が作用していたのではないかと筆者は考えている。
 実は、これをはっきりと確信するに至ったのは、5年前にバーゼルのザッハー財団でヴァレーズ関連の資料をかたっぱしから漁っていた際に、アメリカ時代の彼のパスポートを発見した時だった。古く小さな帳面には若き日の写真が貼り付けられ、さらには「身長:5フィート10インチ/髪:黒茶色/眼:緑-灰色/職業:作曲家」といったデータが記されている。ここまではいい。しかし、次の項目を見たときには眼を疑った。ある意味では犯罪的といってよい嘘が記されていたからだ。
 生年月日の欄に「1885年12月22日」とある……。
 このことはこれまで全く指摘されてこなかった。それもそのはず、この資料は2006年まで弟子のチョウ・ウェンチュンが保持しており、過去の伝記作家は簡単には見ることができなかったはずなのだ。筆者はこの後、ヴァレーズがアメリカに渡航した後のパスポートやIDカードの記載をできる限り調べてみたのだが、なんと公式の書類はそのすべてが1885年生まれになっている。
 しかし、正式名エドガー・ヴィクター・アシル・シャルル・ヴァレーズは、間違いなく1883年12月22日生まれなのだ。
 出生証明もパリの役所にきちんと残っているし、そもそも1885年生まれだとしたら、ヨーロッパ期の年齢のつじつまが全て合わなくなってしまう。雑誌のプロフィール欄ならばともかく、パスポートという、もっともフォーマルな書類にこんな間違いがあってはならないだろう。ヴァレーズ自身もこの記述を承知していたはずだ(というより、そもそも自分がペンで書き込んだのに違いない)。となれば、結論はひとつしかない。
 驚くべきことに、ヴァレーズはアメリカ渡航時に年齢を偽っていたのである。おそらくは、ある理由によって。

*1 1907年に第1版が出版された。のちにヴァレーズは1911年刊の英訳版を手に入れている。
*2 後にヴァレーズは1911年刊の英訳版を手に入れているが、この時期はまだドイツ語版しか出版されていなかった。
*3 Louise Varese. Varese: A Looking Grass Diary Volume 1:1883-1928 (Eulenburg, 1973), p.49.
*4 Fernand Ouellette. Edgard Varese (English translation, DaCapo Press,1981), p. 23.
*5 ブゾーニの伝記作家ボーモントもニーチェからの強い影響を指摘している。Anthony Beaumont. Busoni, the composer (Indiana University Press, 1985), p.31参照。
*6 Ferruccio Busoni. Entwurf einer neuen Aesthetik der Tonkunst. (Trieste: Insel verlag,1954),p. 35.なお、この書物の訳出にあたっては、この版と以下の英訳版復刻を主に参照した。Ferruccio Busoni. Sketch of A New Esthetic of Music (trans. by Dr. The. Baker, G. Shirmer, 1911).
*7 ただしブゾーニは1916年の第2版においては、この六線譜表のアイディアを削除した。実用性に疑義を持ったのだろうか。長木誠司『フェルッチョ・ブゾーニ オペラの未来』(みすず書房、1995年)、67頁注1参照。
*8 Busoni, p.41.
*9 Ibid., p.24.
*10 Edward Dent. Ferruccio Busoni: A Biography (Clarendon Press, 1933), pp.332-336.
*11 こうした情報をめぐるやりとりを、ブゾーニとシェーンベルクは1903年から往復書簡で行っている。以下の文献を参照。Schoenberg,Busoni,Kandinsky. Correspondances et textes.(Contrechanps, 1995)
*12 Ouellette, p.32.
*13 ちょうど無調へと歩みを進めていたシェーンベルクもまた、ブゾーニの書物に勇気づけられた一人だった。彼は1909年8月24日に次のような手紙を送っている。「あなたの『新音楽美学試論』は、私に大きな喜びを与えました。とりわけ、大胆不敵な説明が気に入りました。(中略)私はあなたと違ったやり方ですが、三分音のアイディアについていろいろと考えてから、四分音とその記譜を考えました」(柴辻純子「ブゾーニの《新音楽美学試論》」『桐朋学園大学研究紀要第17集』1991年、125頁)。
*14 ヴァレーズがシェーンベルクから受けた影響については以下を参照のこと。Dieter Nanz. Edgard Varese: Die Orchestrawerke (Lucas Verlag, 2003), pp.196-225.
*15 Louise, p.58.
*16 Ibid., p.59.
*17 ロマン・ロラン全集第34巻『したしいソフィーア』(宮本正晴・山上千枝子訳、みすず書房、1963年)、343-344頁。ただし、やや訳が古いこともあり、意味の変わらない範囲で語句の選択や漢字を若干変更している。
*18 同344頁。
*19 ロマン・ロラン『ジャン・クリストフ 第七巻 家の中』(島与志雄訳、みすず書房、1959年)、75頁。
*20 Ouellette, p.30.
*21 ロマン・ロラン全集第40巻『書簡Ⅷ』(片山昇、片山寿昭訳、みすず書房、1983年)、91頁。
*22 ヴァレーズとマーラーはこの1909年5月に会っているが、お互いに特に惹かれることなく会合は終わった。
*23 ホーフマンスタールからヴァレーズに宛てた1909年6月1日の手紙は次のように述べる。「『幼時』のためのテクストは、ドイツ語でうまくいかないようです。私はいろいろ試みてみましたが、翻訳してみるとどうにも堅苦しく、失敗に終わりました。この二つの言語の間には深い深淵があるようです。しかし、ここ[ベルリン]では誰もがフランス語を解しますから、もとのテクストをそのまま使用しても大丈夫のはずです」“Catalogue 1-33” in Edgard Varese: composer, sound sculptor, visionaly (The Boydell Press, 2006), p.62.
*24 “Catalogue 1-33” in Edgard Varese: composer, sound sculptor, visionaly (The Boydell Press, 2006), p.62.
*25 Louise, pp.82-83.
*26 ヴィリー・シュー『リヒャルト・シュトラウス ホーフマンスタール往復書簡全集』(中島悠爾訳、音楽之友社、2000年)、63頁。
*27 Louise, pp.84-85.
*28 Ibid., p.85.
*29 Helga de la Motte-Haber. “Blurred Traces: Vareses Years in Berlin” in Edgard Varese: composer, sound sculptor, visionaly (The Boydell Press, 2006), p.35.
*30 “Catalogue 1-33”, p.64.
*31 ちなみに、父親を早くに亡くした弟子には無料でレッスンを行っている。自分が貧乏であるだけに、人の痛みが分かったということなのだろうか。Louise, p.88.
*32 晩年の1957年になって、ヴァレーズは、この作品は1914年に完成していたとリストに記しているが、初期作品を研究しているツィンマーマンと同じく、筆者もこれを素直に信じることはできない。Heidy Zimmermann “The Lost early works: Facts and Suppositions” in Edgard Varese: composer, sound sculptor, visionaly (The Boydell Press, 2006), p.48参照。
*33 “Catalogue 1-33”, p.63.
*34 Marie Rolf. “Critical notes” in ?uvres completes de Debusy serieV (Durand, 1997).
*35 Louise, p.87.
*36 Helga de la Motte-Haber, p.38.
*37 Louise, p.92. ただし、もちろんこれはヴァレーズがのちに妻に述懐したエピソードであるから、なにがしかの誇張が含まれている可能性は十分にあろう。
*38 Helga de la Motte-Haber, p.39.
Gunther Schuller “Conversation with Varese” Perspectives of new music vol.3, no.2 (spring-summer, 1965), pp.34-35.
*39 Luise, p.93.
*40 しかし一方で「ベルリン新聞」のアルフレッド・ケラーのように激賞する人物もいた。Ibid., p.93.
*41 Ibid., p.94.
*42 Ouelette, p.41.
*43 オルネラ・ヴォルタ編『書簡からみるサティ』(田村安佐子、有田英也訳、中央公論社、1993年)、146頁。

  第二回へ

ページトップに戻る

沼野雄司(ぬまの・ゆうじ)

1965年東京生まれ。桐朋学園大学教授。東京藝術大学博士後期課程修了。博士(音楽学)。2008年から2009年にかけてハーヴァード大学客員研究員。おもに20世紀音楽に関する研究・評論を中心に活動。著書に「リゲティ、べリオ、ブーレーズ 前衛の終焉と現代音楽のゆくえ」(音楽之友社)、「光の雅歌 西村朗の音楽」(春秋社、共著)、「日本戦後音楽史 上・下」(平凡社、共著)、「楽譜を読む本」(ヤマハ・ミュージックメディア、共著)、「ファンダメンタルな楽曲分析入門」(音楽之友社、近刊)など。

Web春秋トップに戻る