第三回 思慮ぶかい「無関心」


 チョンキンマンションは、しばしば「魔窟」であるとか「犯罪の温床」であると表現される。他方で、実際に宿泊した客から寄せられた「なんてことはない安宿だった」という感想もネット記事やブログなどで散見される。少し狭い安宿として快適に利用することは十分に可能であるし、観光や取材で入り込める場所は限られている。無許可のレストラン等は看板を出しておらず、仲間でなければ辿りつくことすら難しい。表の稼業があれば、裏稼業をわざわざ喧伝することもない。誰が合法的な滞在者で誰が違法な滞在者・労働者であるのかを知ることは、いろいろな意味で簡単ではない。犯罪は、知っている人にはいつでも見えているし、知らない人には目の前で展開していても見えないものだ。
 私はここで自分が事情通であると言いたいわけでは決してない。知らなければ見ないで済ませられること、知ってしまえば覚悟が必要なことに「敢えて踏み込まない」という態度、「これより先は、知りたくない」という寸止めの態度は、チョンキンマンションに長く暮らしている人々自身も実践していることである。そのような態度は、平穏に自らの人生を紡ぐ知恵でもあるし、様々な事情を抱えた人々ときちんとつきあうための配慮にもなりうる。
 カラマ曰く、香港の刑務所には400人以上のタンザニア人が収監されているという。不法滞在・不法労働の容疑で拘禁されている者のほかに、麻薬の密輸や窃盗等の犯罪行為で収監されている者もいる。麻薬の末端価格はタンザニアより香港・中国のほうが高いため、これらの囚人は香港・中国に麻薬を持ち込んだ者たちである。もちろん彼らはかつてチョンキンマンションの住人だったし、潜在的な囚人や刑期を終えた元囚人はいまもチョンキンマンションで暮らしている。それらの人々がスーツを着たビジネスマンだったり、家族を愛する良き父親だったり、敬虔なイスラーム教徒の女性だったりすることは珍しくない。
 The East African紙の7月21日の記事によれば、2017年7月の時点で、2,000人以上のタンザニア人が違法薬物の所持・売買で海外の刑務所に収監されており、うちケニアの刑務所が660人、イランが630人、南アフリカが296人、中国が265人、インドが260人であるという。
 タンザニアでは、2015年に麻薬取締りに関する旧法が廃止され、2017年2月に「麻薬に対する戦争(war on drugs)」が宣言された。タンザニア政府は、政治家や音楽家などを含む「大物/元締め(big fish)」麻薬ディーラーの容疑者リストを証拠固めが不十分な段階で公開した。その多くは中国・香港との交易に従事する人々であったことから、中国・香港に頻繁に渡航している交易人たちは不審の目で見られることになった。
 実際に、タンザニアでは「突然に羽振りが良くなった」「堅気の仕事では困難な富裕化を遂げた」という周囲の人物を麻薬売買の疑いがあると当局に密告する「魔女狩り」のような事態が生じた。2017年3月頃、香港のタンザニア人のあいだでは、麻薬関連の話題で持ちきりだった。
 容疑者としてリストに載った一人は、自分はハードウェアの貿易業で成功しただけだと怒り心頭で政府関係者に電話したという。本当のことはわからない。彼は麻薬を扱っているという人もいるし、彼は絶対にしていないという人もいる。私にとっては、冗談好きで親切な若者である。中国の広州市に出かけた際に、私は香港のタンザニア人たちに土産を購入した――ちなみに彼らの子どもたちに渡す玩具や雑貨などだ――。彼は、私が大きな袋を抱えて駅に向かったという仲間からの目撃情報を聞いてわざわざ電話をかけてきた。「誰かから預かった荷物じゃないよな? もしそうなら、俺が中身を確認するから待て」と。
 香港や広州市で出会うタンザニア人たちは仲良くなると、誰もがこっそり忠告してくれる。「どんなに良い人にみえても他人の荷物を運んではならない」「チョンキンマンションの○棟△階×号室には遊びに行ってはならない」「○○たちとおしゃべりするのも、みんなで遊びに行くのも全然かまわない。だが二人きりで出かけてはならない」「誰も信用してはならない」と。しかし、そう忠告する彼らはいつも「俺/私以外は」といった顔をしている。また必ず「みんなに俺/私が教えたって行っちゃダメだよ」と耳打ちし、本人の前では「彼/彼女なら、信頼してもいい。10年以上の知り合いだけど、一度も喧嘩したことがない」と涼しい顔をして話す。
 長く香港で商売をしているタンザニア人たちは、どこで何が取引されているのか、誰がどんな犯罪に関わっているのか、特定の行動がどのような意味を持つものかを知っている、あるいはうすうす気づいている。だが、だからといって彼らとのつきあいをやめるわけではないし、距離を置いた表層的なつきあい方ばかりをしているわけでもない。特定の人びとが友人としてみせている一面においては、それはそれとして真剣につきあっている。

 2016年のある日、チョンキンマンション脇の路地に見慣れない若者、レナード(仮名)が加わった。レナードは上海の大学を卒業したばかりで、英語教師をしながら、中国で外資系企業をおこす資金を貯めていた。彼は、吸水性がよい薄型で撚れにくい生理用ナプキンなどの衛生用品の貿易業を計画していた。中国の工場を訪ね歩いて商品説明を受けているビデオを見せながら将来の夢を語る彼は、生き生きとしていた。中国の幼稚園児に英語を教える仕事も楽しいようで、「みんな初めて俺の顔を見た時には大泣きしたんだよ」とはにかみながら、子どもたちに抱きつかれている写真を大事そうに持ち歩いていた。
 だが、英語教師の雇用契約を更新する際にトラブルが起き、詳しくは書けないが、グレーな方法でビザを取り直す必要が生まれた。それでレナードは、香港のハスラーたちを頼ることになった。パスポート不所持の状態になった彼は、ある天然石ブローカーの部屋に引きこもり、チョンキンマンション内のレストランや深夜の路地以外は姿をみせなかった。ある日、レストランで会ったレナードは憔悴した顔で、世話になっている天然石ブローカーに突然にブチ切れられて部屋を追い出されてしまったと打ち明けた。何とかしてくれと泣きつかれた私は、仕方なく天然石ブローカーに掛けあってみた。彼は、レナードを追い出した理由を次のように説明した。
 「レナードは、苦労したことがない坊やだ。政府機関で働く金持ちの両親に学費を出してもらい中国の大学に行き、まっとうな仕事にもありつき、はじめて正規の方法ではどうにもならない問題に直面した。俺には資金を援助してくれる両親も親戚もいなかった。自力で生きていくために様々なことをしてきた。俺は、彼の親戚でも友人でもない。偶々〔たまたま〕彼に会って、困っている若者を助けてあげただけだ。それなのに彼は、本来の自分は俺たちとは違うのだと、こんなはずではなかったと不平ばかりで、(俺たちに対して)びくびくしてばかりいるから、むかついたんだ。俺は一度もレナードに何かをして欲しいと頼んだことはないし、これからも坊やに頼み事をすることはない。彼には、頭が冷えたら戻ってこいと言っておけ」。
 実を隠そう私も、宿から食事まで彼らに面倒をみてもらっているのに、会うたびに「○○は××をしているって話だ」「○○は××を隠しているらしい」などと秘密を暴露し、「早く上海に帰りたい」「ママに電話したら、心配だと泣かれた」と泣き言ばかりいう彼に少しばかりいらいらしていた。誰もがする噂話ではあるが、たしかに彼の表現は、自分は彼らとは違う人間であるといったニュアンスが含まれており、仲間への感謝も配慮も皆無だった。無事にビザを更新し上海に戻ることになった日、交通費がないという彼に、私もみんなと一緒に電車賃をカンパした。その後に「みんなは電車で行けと言うけれど、長時間も乗ったら疲れるし飛行機なら直ぐだから、内緒で足してくれないか」と言われた私は、思わずムッとして「ママに頼めば?」と突き放してしまった。
 カラマは、私が怒ったのが面白かったようで、彼を見送った後に「サヤカがレナードに甘ったれるなとブチ切れていた」と嬉々として言いふらした。仲間のタンザニア人たちは、「まあ、レナードは感謝のない臆病な若者だったけれど、彼の人生は彼のものだから、仕方がないさ」と笑っていた。私が「レナードがまた来たら、どうするの?」と聞くと、みんな「困っていたら助けてやるさ。同胞は助けあうものだからな」と当然だという顔でいう。
 香港のタンザニア人たちは、「みなそれぞれのビジネスをしている」「他人の人生は他人のものである」などと言い、あまり他者の生き方に口をださない。だが彼らは、「信用するな」と言いながらも、偶然に出会った得体の知れない若者を気軽に部屋に泊める。「信用するな」と私に忠告する相手と食事をおごりあい、カネを貸しあい、時には別の次元で「彼/彼女は信用できるやつだ」とも「信じていたのに裏切られた」ともいう。表稼業と裏稼業、表の顔と裏の顔、ペルソナと素顔のような二分法的な人間観において「信用」を説明することと、個人的なつきあいにおける他者に対する「信じる」「信じない」は別物であり、彼/彼女の別の顔に踏み込まずとも、別の顔に全面的に信頼が欠如していても、特定の顔において真剣に「信頼」を争うことはできる。「友情」について考えているときの信頼は、本来そういうものかもしれない。それは無関心ではなく、様々な事情を汲んで無関心を決め込むという配慮でもある。
 後述するように、香港のタンザニア人たちは、タンザニア香港組合を結成し、仲間の窮地に助けあう「コミュニティ」を築いている。そこに集まる人々は年齢層もばらばらであり、スーツ姿の人もチンピラ風の格好の人もTシャツとサンダル姿の人もいるし、家族がいる人も独身の人も離婚した人も、月の手取りが300万以上の富豪も日々の食事にも事欠く者もいる。
 次回、既存の市民社会をめぐる議論を批判的に引用しつつ、「善き市民」から零れ落ちてきた人びとが築く市民社会のあり方を「開かれた互酬性」を切り口に考察する。今回はタンザニア人が香港で組合を結成するに至る経緯について説明したい。

香港でコミュニティを築くまで

下記の図は、香港観光局のデータをもとに、アフリカ人による香港への入域数を提示したものである。

香港へのアフリカ人の入域数
香港へのアフリカ人の入域数
出典:A Statistical Review of Hong Kong Tourism 2002~2016

 香港へ渡航するアフリカ人たちは、2000年代半ばごろから急速に増え、2007年をピークに減少傾向にあるが、栗田和明によると、これは2008年8月の北京オリンピック後の出入国管理上の規制強化の結果であるという(栗田2016:8)。タンザニア人だけの入域者数に関するデータは公開されていないため、正確な数は不明であるが、栗田は独自の計算に基づき2007年の香港へのタンザニア人の入域者数を14,988人と推計している(栗田2016:7)。ただし、この14,988人のうち、大多数は香港または香港経由で中国南部の都市に電化製品や衣類雑貨などを買付けにいく交易人である。彼らは、買いつけが終われば、数日から数週間で帰国するが、頻繁に香港・中国および他のアジア諸国とアフリカ諸国を行き来していることから、研究者の中には「商業的旅行者(business travelers)」と呼ぶ人びともいる(cf. Müller and Wehrhahn 2013)。栗田は、「Frequent Travelers」と呼称している。本稿が主な対象とするのは、香港に長期に不安定滞在する人びとである。

 カラマは、「俺は6番目に香港ビジネスに乗り出したタンザニア人だ」と語る。いつものパキスタン料理店前の通路で「それじゃあ、1番目から5番目は誰なのか」と尋ねると、香港に長期滞在するタンザニア人がどのように増加したのかに関する小史を語ってくれた。
 香港のビジネスを最初に切り拓いたタンザニア人は、1992年に香港にやってきたザンジバル島出身の男性チャウ(仮名)だという。彼は、タンザニアで獲れたロブスターやサメなどの魚介類を卸しに香港にやってきた。魚介類のビジネスで一儲けしたチャウは、その後、香港で物流会社W社を設立する。彼は親族関係にある二人のタンザニア人モハメド(仮名)とハミシ(仮名)を呼び寄せ、共にW社を運営する。
 本社は、衣類店や電化製品店が立ち並ぶ香港の深水埗区(Sham Shui poo)に構えた。チャウは衣類や電化製品を買いつけ、タンザニアのダルエスサラーム港とザンジバル港に輸出し、市内の小売店に卸売りするようになった。当時の香港の出入国管理局は現在よりも管理が緩く、チャウは期限が切れそうになると中国・深圳市やマカオに渡航し、期間を更新することで香港に滞在し続けた。やがてチャウが衣類や電化製品を卸していたタンザニアの顧客たちが、香港に直接的に買いつけにやってくるようになる。彼らは、先に始めた親類や友人に交易の仕組み等を教えてもらうことで香港に渡航する。このチェーン・マイグレーションを通じて、1995年ごろから2000年代初頭までタンザニア人交易人の第一陣が到着した。
 2000年代初頭にチャウは引退し、タンザニアに帰国した。残ったモハメドとハミシは、トルマリンやアメジストといった天然石・宝石用原石(gemstone)の輸入業に目をつける。天然石ビジネスは既に西アフリカの商人が先鞭をつけていたが、彼らは、東アフリカ諸国とモザンビークで採掘された天然石に目をつけ、紅磡 (Hung Hom)地域に集積する中国系の天然石業者に卸す仕事を開拓していく。
 天然石ビジネスのブローカーとして成功したのは、その後に到着したマガリ(仮名)であった。そのパートナーが、カラマに天然石ビジネスを指南し、彼が香港に来るきっかけをつくったムッサだったという。天然石ビジネスでも母国の顧客が直接的に香港に卸しに来るようになり、天然石交易人が増加するとともに、ブローカーとして滞在する者も出現した。
 2004年頃になると、香港のアフリカ系商人のあいだでは、携帯電話(コピー携帯、再生携帯、中国企業のブランド携帯など)のビジネスが興隆する。多くのタンザニア人交易人が香港の深水埗または香港経由で広州市に出かけ、携帯電話を買い付けるようになっていく。その中には、香港に留まり、交易人たちのアテンドをして稼ぐ者がでてきた。また天然石ブローカーのなかには、カラマのように中古車や中古家電製品のブローカー業へと商売換えする者が出てきて、中古品の輸出業を担う長期滞在者が増加した。

 ところで、前回記述したとおり、カラマは2007年に香港への再入国を拒否され、中国経由で香港にボートで密入国し、難民認定を受ける。彼は、香港で「アサイラム・ケース」となった最初のタンザニア人であったそうだ。カラマが難民認定を受けた2000年代後半になると、タンザニアから若者たちが交易目的ではなく、労働目的で香港へと渡航してくるようになった。同時に、前述したように香港政府は中国やマカオなどを行き来することでビザを更新し香港に滞在し続けるアフリカ人たちに対する取締りを強化した。
 カラマの難民申請は刑務所に収監されないための苦肉の策だったが、彼はその後、難民認定という長期滞在の道を後続の者たちに教授していく。タンザニア人の難民認定の理由は様々であり、例えば、性質の悪い金融業者から多額の借金をしており帰国したら追い込まれる、厳格なイスラーム教徒の家族に生まれたゲイであり、同性パートナーがいることがばれたら殺されかねない、民族的な小競り合いのある地域の首長の息子であり帰国したら復讐される、妖術師であるとの冤罪をかけられたが晴らす方法がない等々――もちろん認められないことも多々あり、認定にも時間がかかる。
 これらの理由は真っ赤な嘘の場合も、多少の誇張はあっても事実の場合もある。例えば、チディ(仮名)は、父から相続した店が長年税金未払いであったこと等の理由で銀行から毎月2500米ドルの返済を迫られている。滞らせると祖母や親族の不動産が差し押さえられるため、彼は香港でブローカー業のほか、深夜に車の解体業の日雇い労働をして毎月なんとか返済している――香港において難民は「働く権利」が認められていないため、彼の日雇い労働もカラマたちのブローカー業も法制度上は「不法労働」である。だが、給与水準の低い母国では、このような多額の借金を返済していくのは不可能に近い。実際、チディは親戚や友人から「もし普通の若者だったら、とっくに自殺しているだろう」と言われたそうだ。いずれにしてもカラマの難民認定を契機に、難民として香港に滞在するタンザニア人の数が増加したことは間違いない。
 なお、香港に長期滞在するタンザニア人のおよそ40%は女性である。これらの女性のなかには、男性と同様に衣料品や電化製品等の輸出業や天然石のブローカー業をしている者もいるが、多くは香港の中環(Central)と湾仔(Wanchai)のクラブで白人をターゲットに売春をして生計を立てている者たちである。
 彼女たちにも独自のチェーン・マイグレーションのシステムがある。香港のクラブに集まる欧米人相手に売春をして財を築いた女性(「レディ・ボス」と呼ばれる)が、母国の若い女性に航空チケットや当座の宿泊費用、衣装代などを提供して香港に呼び寄せる。そうして呼び寄せられた若い女性たちはまず「レディ・ボス」に渡航費や宿泊費、衣装代などを返し、いわゆる「年季奉公」を済ますと、自前稼ぎの売春婦となり、やがて彼女自身が「レディ・ボス」となって若い女性を呼び寄せるようになる。そうして成功し引退した者の中には、縫製会社や化粧品会社を設立した女性起業家もいる。
 また、売春婦たちの中には、シュガー・ダディ(または「スポンサー」)と呼ばれる年配男性のパトロンをもつ者もいるし、逆に彼女たちが「シュガー・マミー」として香港に居住する若いアフリカ人男性のパトロンになり、財政的な支援をしている場合もある。男性の長期滞在者の中には、ビジネスが軌道に乗るまでの間、あるいはビジネスが不調の間、彼女たちに財政的な支援を受けている者たちが数多くいる。これらの女性に食べさせてもらっている若い男性は「キベンテン(kibenten)」と呼ばれる――アメリカ合衆国のアニメ「Ben 10」に由来するらしい――。
 彼女たちの難民認定の申請理由も、多額の借金、強制的な婚姻、夫や恋人によるDVなど様々である――嘘も本当もある――。チョンキンマンション脇の路地で出会う彼女たちは人懐っこく、親切な人びとにみえる。深夜の路地には、南アジア人、アフリカ人、欧米人など様々な人種の酔っ払いがよく通りかかる。中にはアルコールや薬物の依存症になっていたり、精神を病んでしまった者もいる。彼らはきまってセクシーな格好をしたタンザニア人女性たちに絡んでくる。酔っ払いをあしらうことなど朝飯前な彼女たちだが、時々呂律の回らない酔っ払いの身の上話を聞いたり、部屋まで送り届けたりしている。

タンザニア香港組合(Tanzania Hong Kong Union)の結成

 以上で説明したように、香港には一定数の長期滞在者が存在するようになった。難民や亡命者、不法滞在者、売春婦らの集合体である彼らは、何か起きたときでも正規のルートを頼ることは難しい。
 タンザニア香港組合が結成される契機となった事件は、2009年に遡る。2009年のある日、香港に滞在していたタンザニア人の一人モリ(仮名)が病に倒れた。彼の仲間たちは、難民に無料で医療を提供する公立クイーン・エリザベス病院に彼を運んだが、それから25日後にモリは亡くなった。カラマたちは、モリの家族に連絡したが、彼の家族には彼の遺体を母国に輸送する財政的な力がなかった。
 カラマたちは、モリの遺体を母国に輸送するというミッションを遂行するために、一時的なグループを結成した。カラマが代表者を務め、書記官と5人の委員(majumbe)を選出した。彼らは、当時、香港と中国に滞在していたタンザニア人たちに寄付金を募り、1万1000米ドルを集めることに成功した。モリの遺体を輸送した後、彼らは定期的に集まりをもつようになった。
 2013年、そのような集まりを基盤としてタンザニア香港組合は発足し、中国の北京市にあるタンザニア領事館にも正式に通知された。香港組合の活動内容は、以下の3つである。第一に、病気や事故での入院、死亡時における母国への遺体搬送、強制送還等の不測の事態における相互扶助、第二に、香港・中国およびアフリカ諸国の政策転換等の情報交換、第三に、他の香港在住の移民やホスト社会とのコンフリクトの解決・仲裁である。組合は26人で発足したが、その後、組合員は徐々に増加していった。組合員どうしの互選で組合長と副組合長を選出した。集会は、毎週土曜日または日曜日に、チョンキンマンション脇の路上、チョンキンマンションから近い尖東(East Tsim Sha Tsui)駅の庭園、あるいは中古車業者・解体業者の集積地である錦田地区に住むタンザニア人のアパートを開くこととなった。

タンザニア香港組合のメンバー。後列右端にカラマ、著者、著者の友人。
タンザニア香港組合のメンバー。後列右端にカラマ、著者、著者の友人。
集会の様子
集会の様子

 その後、タンザニア香港組合は、さらに中国の広州市で結成された組合との連携を築く。2015年ごろになると、香港に滞在するタンザニア人はおよそ70人、広州市に滞在するタンザニア人は80人に膨れ上がっていた。さらにマカオ、マレーシア、タイに居住するタンザニア人コミュニティとのネットワークが築かれ、不測の事態には、アジア諸国に点在するタンザニア人コミュニティから寄付が集められるようになった。そしてさらに組合は、ナショナリティの枠も超えて拡大していく。
 2016年1月、香港に滞在していたウガンダ人の女性が亡くなった。香港における東アフリカ諸国の出身者のなかで最大規模を誇っていたタンザニア香港組合にも、彼女の遺体を母国へと輸送するための協力要請がきた。当時、ケニア人組合の人数は25人程度、ウガンダ人組合の人数は40人程度であったという。
 この出来事を契機として、カラマは、ウガンダ人組合およびケニア人組合の代表者と連絡を取ることとなった。香港のタンザニア人組合、ケニア人組合、ウガンダ人組合から2名ずつの代表者が集まり、6人による東アフリカ委員会(kamari ya watu sita)が開かれた。この委員会で、東アフリカ共同体香港組合Union of East African Community of Hong Kong(以下、東アフリカ連合組合と記す)の結成が決定した。
 そこでは、次の4つが取り決められた。第一に、3か国のいずれかの国の組合長が東アフリカ連合組合の代表を毎年交代で担っていくこと、第二に、その年の組合長を担っている国以外の2か国の組合長が副組合長を担うこと、第三に、連合組合の組合員になるためは、1人あたり100香港ドルの入会金を支払うこと。第四に、会合は2か月に1回開かれ、東アフリカ人出身者全体に関わる問題などを話し合うこと、である。
 2017年2月には、チョンキンマンション内または付近にコミュニティ活動のためのオフィスを構えることを目指すことで合意された。現在は、非営利団体(NGO)として東アフリカ出身者に対する経済的便宜を図っていくことが検討されている。

 以上、香港のタンザニア人たちが組合を形成していることを説明した。ところで、一般的に組合活動とは、組合員どうしの相互貢献・相互扶助、すなわち「互酬性」を基盤として動くものと想定される。だが、主として難民や亡命者、不法滞在者、売春婦たち、少なからず脛に傷のある者たちで構成される組合で、「なぜ彼/彼女は助けられるべきか」を「困ったときはお互い様」という互酬的な論理で考えていくことは可能だろうか。病気になって死亡することと、違法な労働の結果抱えることとなった問題とのあいだの違い――「自己責任」とはどこまでをいうのか――を問うことが非常に難しい人びとにとっての互酬性とは何か。さらにこの組合は、流動的に香港とアフリカ諸国を行き来する人びともその潜在的・周縁的なメンバーとして抱えている。死は誰にも訪れる不幸である。だが、継続的な組合への貢献の期待が持てない人、偶々出会ったばかりの人びとの不幸に応答することは、どのような論理で了解されるのか。
 次回は、具体的な組合活動の事例を紹介しながら、「善き市民」「善き友人」「善き隣人」ではない人びと、互いに互いを「信頼できない」と言い切る人々による助けあいの仕組みと論理について考えてみたい。

栗田和明2016「移動する者から見た移民コミュニティ――広州へのタンザニア人交易人に注目して」『流動する移民社会――環太平洋地域を巡る人びと』昭和堂、pp.1-31。
Müller, A. and R. Wehrhahn 2013 Transnational Business Networks of African intermediaries in China: Practices of Networking and the Role of Experiential Knowledge. Journal of Geographical Society of Berlin Vol.144. No.1: 82-97.

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小川さやか(おがわ・さやか)

1978年愛知県生まれ。専門は文化人類学、アフリカ研究。京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士課程単位取得退学。博士(地域研究)。日本学術振興会特別研究員、国立民族学博物館研究戦略センター機関研究員、同センター助教を経て、2013年より立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授。著書に、『都市を生きぬくための狡知』(サントリー学芸賞受賞)、『「その日暮らし」の人類学』がある。

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