第二回 Artの三つの「死」


日本にはArtがない!

 「どこにArtがあるの?」「どこにArtistがいるの?」――今なお、衝撃として残る言葉。ドクメンタⅩ(1997年)のアーティスティック・ディレクターを務めたフランス人キュレーター、カトリーヌ・ダヴィッドが、その数年前、日本にアーティストのリサーチに来た時の発言である。私は個人的に彼女に会う機会があり、私も何人かのアーティストの名前を挙げたと思うが(誰を挙げたかは残念ながら記憶していない)、彼女には「Artist」には思えず、作品も「Art」には見えなかったようだ。「Art」の“模造品”(確かそのような表現を使ったように思う)にしか見えなかったようだ註1
 たかが20数年前の話である。時すでに、森村泰昌やダムタイプなど日本のアーティストたちが徐々に欧米でも評価され始めていた時代である。おそらく、だからこそ、彼女もわざわざ「極東」の地にまでリサーチに来たのではなかったか。
 カトリーヌ・ダヴィッドの発言は、確かに「衝撃」だったが、それは彼女の、日本のアートないしアーティストを見る「目」が差別的だったからではない。彼女の「目」に代表される、欧米のArt観がいまだにそれほどまでに「強固」なことに改めて「愕然」としたからである。
 そう、彼女の「目」、そしてArt観は、まさに私が80年代から90年代初頭にかけて、フランス(と西ヨーロッパ)で目撃し、学び、時には自らも心身を病むほどに深く体験したArtのそれ、そのものだったのである。
 人類の創造性の最も豊かな部分は、最近まで、このArtに注がれてきた(とされている)。今なお、そう思い込んでいる人たちも少なからずいるであろう。(はたしてカトリーヌ・ダヴィッドは今どう思っているのだろう。)しかし、現在、そしてこれからに関していえば、私、そして前回言及した「PLAY ON」の仲間たちは、そう思ってはいない。人類の創造性は、今や決定的にArtから全く別な“何か”へと流れこもうとしているように感じている。その“何か”こそ、私たちがとりあえずぎこちなく「藝術2.0」ないし「GEIJUTSU」と名指しているものだ。
 そのArtと袂を分かつであろう創造性、藝術2.0ないしGEIJUTSUのいまだまことに朧な像を少しでもシャープにするために、前回もArtから逆照射してみたが、その照射が甚だ部分的だったと思われるため、今回は、さらにArtに深く踏み込み、その実相―日本ではしばしば非常に曖昧にしか理解されていないか、単に誤解しかされていない―を、自らの体験にも基づきながら、詳らかにしていきたい。そして、次回、そこから藝術2.0へと光を差し返してみたい。

(1)第一の死

西欧近代が作り出したArt

 欧米のArtの世界で真摯に学び、活動する多くの人々にとって、Artは非常に「厳密な」ものである。それは決して人類に普遍的な創造行為ではなく、あくまで「近代」という特定の時代に、「西欧」という特定の地域で作り出された、、、、、、歴史的な概念であり実践である。
 しかし、すぐさま反論が予想されよう。少なくとも「西洋」、そして「美術」に限っても、「西洋美術史」は、古代ギリシャから始まってルネサンスに至るまで、あまたの絵画や彫刻の逸品について、その「Art」としての意義を語っているではないか。確かにその通りである。だが、それら「近代」以前の制作物を「Art」として見、そこに「Art」としての意味や価値を見出してしまうのは、私たちが自分たちの目に知らぬ間に「近代」以降の概念的フレームをかけてしまっているからなのだ。
 「近代」以前には、私たちが現在了解しているような意味でのArtという概念・実践は存在しなかった。私たちにとって「Art」作品、「絵画」「彫刻」などと見えるものは、制作された時代には、例えば宗教的な典礼ないし建築物の一構成要素にすぎなかった。そうでしかないものを私たちが「Art」として見てしまうのは、私たちが(近代以降に成立し私たちにとっては自明と思っている)「Art」という概念を、それらの上に「投影」しているにすぎない。
 では、西欧近代が作り出した歴史的な概念・実践であるArtの本質とは、何だろうか。それは、一言で言えば、創造の「自律性」である。しかし、その自律性は、例えば一部の「フォーマリズム」註2の信奉者が信じているよりも、美学的にも存在論的にも深遠かつ強度に満ちた自律性であり、(後述するように)究極的には自律性の探究が当の自律性を破綻させてしまうような逆説的な探究の性質なのである。

芸術家は創造してはならない

 ところで、少なくとも「近代」以降に育った私たちにとって、Artという営みが「創造」行為である、ということは自明すぎるくらい自明であるように思われる。ところが、近代以前のヨーロッパ、より正確に言えばキリスト教的世界においては、人間は「創造」してはならない存在であった。なぜなら、「神」のみが「創造する(creare)」のであり、人間はただ「制作する(facere)」だけであった。神のみが、無から(ex nihilo)創造し、創造された(人間を含めた)被造物はその限りではなかったのである註3
 では、自身も人間であり、「創造」してはならない芸術家註4の務めとは何か。それは「模倣」、神が「創造した」自然を模倣することだった。西欧近代における「Art」の誕生を最も精緻に理論化している美学者の一人、小田部おたべたねひさは、ドイツの哲学者クリスティアン・ヴォルフの哲学に基づき美学を展開したヴォルフ学派の理論を敷衍しつつ、芸術(家)が模倣すべき「自然の規範性」をこう説明する。

芸術とは、それ自体によって基礎づけられる自立的な営みではない。自然のみが芸術に規則を与え、芸術を正当化する。それゆえに、芸術家の作るものはすべて「自然の内に根拠を持つ」ことが要請され、「自然から逸脱した模像」の制作は否定される。芸術家が自然を「模倣」しなくてはならないのは、この自然の規範性、範列性ゆえである註5

 この「芸術は自然を模倣する」という命題こそ、アリストテレスから近代に至るまでの(特にキリスト教世界での)創造概念を律した命題といえるだろう。

創造性の“転換”:神から芸術家へ

 ではいったい、神が創造した自然を規範と仰ぎ、それを模倣するしか術がなかった芸術家が(ある意味で神に成り代わるような形で)「創造する」ようになるには、どのような“転換”が起きたのだろうか。その“転換”こそ、18世紀から19世紀にかけて西欧で思惟し創作した者たちの中で起こったことだった。
 小田部は例えば、ドイツの美学者A.W.シュレーゲルが『芸術論』(1802-03)で展開した、自然模倣説に対する批判を挙げる。シュレーゲルによれば、芸術家が模倣すべきは、「産出される」「外的自然」ではなく、自然が自ら「産出する」という意味での「創造的自然」である。そして、(芸術家に限らず)人間存在は(他の存在と異なり)自己を反省する能力を備えているがゆえに、宇宙(=自然)が万象を創造する仕組みを、「宇宙の鏡」として自らの存在の内に反映し、かつそれを自らのうちで意識することができる。芸術家は、「この〔宇宙の〕反射が人間精神の内に再度自己を反射させる際の明晰性、エネルギー、充実、全般性」にとりわけ長けた者であり、だからこそ、芸術家は、宇宙の創造性(の反映)を、自己の創造性として「自己自身の内面の内に、自己の存在の中心点の内に、精神的直観を通して見出しうる」のである註6
 この、神の創造性の「反映」を、自らの内奥からの“もう一つの”創造性へと読み換える“転換”こそ、西欧近代の芸術的・思想的俊英に起こった(その後の「芸術史」を大きく変える)歴史的出来事なのである。

Artの霊妙なる自律性

 しかしなぜ、そのような、神の創造性を「反映」した芸術家の創造性が「創造する」芸術作品が「自律的」となりうるのか。その「自律性」は未だ、神の創造性に(「反映」として)依存しているがゆえに「自律的」と言えないのではないか。
 この「近代」「芸術」、いや再びArtと読みかえよう、の創造性の「自律性」をめぐる、矛盾とも見えかねない事態の内にこそ、実は「近代」のArtの霊妙なる秘術が隠されている。例えば、ドイツの詩人ノヴァーリスは、その晩年の『モノローグ』で、その「秘術」―彼にとっては真の言語の働きとしての「詩」のそれであるが―を、数式に喩えてこう述べる。

 言葉が数学の公式に似たものであり―これら公式というものは、ひとつのそれ自体の世界をなしていて―ただ自己自身とのみ戯れ、自らの不思議な本性以外の何ものをも表現しないこと、そしてそれゆえにこそあれ程にも表現に満ち――それゆえにこそ事物の不思議な関係がそこに反映されるのだということを、何とか人びとに理解してもらえればいいのだが。数字の公式は、その自由によってのみ自然の肢体なのであり、その自由な動きの中にのみ世界霊は姿を現わし、公式を事物の精妙な尺度、輪郭たらしめる。言葉もまたそうである-言葉の運用、その拍子、その音楽的真髄への繊細な感覚を具えた人、その内なる本性の細やかな働きを知覚し、それに従って自分の舌と手を動かす人は予言者であろう註7

 Artの「自律性」とは、かくの如き「霊妙」なるものである。Artは、自然=宇宙から「自由」でありながら、いやただ「その自由な動きの中にのみ」、その「自己自身とのみ」の「戯れ」の内に、自然=宇宙の「事物の不思議な関係」を、「世界霊」を、その「精妙な尺度」として反映させるのだ。
 教科書的な「芸術史」が紹介する「芸術のための芸術」(l’art pour l’art)註8、あるいは20世紀になりフォーマリズム批評などが唱える「自律性」といったイデオロギー的に偏った理解とは異なり、18世紀そして19世紀の西欧で果敢に精神的探究を推し進めたArtistたちは、こうした霊妙な「自律性」にこそ、その創造を賭した。その、文字通り全身全霊を賭けた冒険は、自らの創作(=「自己自身との戯れ」)の内に、宇宙の秘儀、神の「創造」の秘儀を見てしまうという「罪」を犯すことであり、宇宙の創造者=神と闘うことであり、自らが(神に成り代わって)新たな「創造者」となるためには、神を「殺す」ことすらいとわない、そうした人類史的冒険ですらあったのだ。
 そうした人類史的冒険に最も深く、狂気の淵にまで挑んだ芸術家の一人こそ、私が20歳代にフランスで研究し、追体験していたステファヌ・マラルメに他ならない。彼は、その冒険の最深部から、友人に辛うじて以下の言葉を紡ぎ出している。少し長くなるが、非常に重要な一節なので、あえて引用したい。

 僕は恐ろしい一カ年を過ごしたところだ。僕の〈思想〉は自分自身を思考し、そして、一つの〈純粋概念〉に到達した。この、長きにわたった死に際の苦しみの間に、僕の存在がその跳ね返りとして蒙ったすべてのことについては、これを語り尽すことはできぬが、しかし幸いなことに、僕は完全に死んでしまった。そして僕の〈精神〉が入り込むかもしれぬ最も不純な境域は〈永遠〉である。僕の「精神」、それは自分自身の〈純粋さ〉に慣れている孤独者であって、その〈純粋さ〉を、もはや〈時間〉の反映すら曇らせることがないからだ。
 〔…〕数ヵ月前に、あの、年来つき纏うた性悪な羽毛との激闘に入った初めのうちは、今に較べて、何と僕は自分の心をまぎらしかねていたことだろう。幸いにも、その羽毛は、神は、打倒されたが。しかし、この闘いが、その者の骨張った翼の上でおこなわれたために、その翼は、当然そこで遭遇するものと僕が睨んでいた以上に烈しい苦悩によって、僕を〈暗黒〉の中に連れ去ってしまい、僕は狂おしいまでに、限りなく、勝ち誇りつつ、落下したのだった。――やっと或る日、僕がわが家のヴェネツィアの鏡の前に立って、数ヵ月以前に自分を忘れてしまった時と同じ自分の姿を再び見たときまで。
 それに又、白状すると、いや、君にだけ白状するのだが、僕にはまだ、僕の収めた勝利の損傷がそれほどにも大きかったということなのだが、僕にはまだ、思考するためにはこの鏡に映っている自分を見つめる必要があるのだ。もし鏡が、この手紙を書いている机の前になかったならば、僕は又々〈虚無〉となってしまうかもしれない。これはつまり、今や僕は非個人的である、従って、もはや君の識っていたステファヌではない、――そうではなくて、かつて僕であったものを通して、自己を見、自己を展開させて行く〈精神の宇宙〉が所有する一つの能力である、と君に知らせることでもある註9

 これまで宇宙を司っていた「創造主」=神との闘いに、かくも満身創痍で勝利して得た“もう一人の”創造者の“地位”とは、「かつて僕であったものを通して、自己を見、自己を展開させて行く〈精神の宇宙〉が所有する一つの能力」としての地位である。かつて、シュレーゲルやノヴァーリスが敢行した、創造性の、神からArtistへの歴史的「転換」は、今や完遂され、神の創造のプログラムは、Artistの「死」の中へと完全に「ダウンロード」される。そのダウンロードされた神=宇宙のプログラム―マラルメは大文字の〈音楽〉(la Musique)と呼んだ―を、一冊の書物に「要約」する夢こそ、マラルメに生涯つきまとった大文字の〈書物〉(le Livre)の夢である。

この世界において、すべては、一巻の書物に帰着するために存在する註10

マラルメ『骰子一擲』マラルメ『骰子とうし一擲いってき

四つの崩壊、そしてArtの「第一の死」

 こうして、マラルメを筆頭に、「近代」のArtの前衛たちは、唯一絶対の創造主であった神との過酷な闘いに挑み、簒奪した玉座の空位が開く本源的な〈虚無〉へと、精神的に落下しつつ、自らの存在をも崩壊させていった。その「崩壊」は、少なくとも四つの局面に及んだ。まず、社会性の崩壊、すなわち絶対的孤独。二つ目に、身体の崩壊。マラルメを含め、この時代のArtistたちがどれほど深刻な身体的災厄に苛まれたことか。三つ目に、自我の崩壊。「近代」のArtistは、自我の称揚どころか、Artistとして真摯であればあるほど、自己同一性の危機に見舞われた(「僕は完全に死んでしまった」)。そして最後に、記号の崩壊。文学を例にとるならば、それが創造的になればなるほど、言語は、その記号としての表象機能・意味作用に逆行しつつ、脱記号的関係性の戯れへと散開していった。
 結果、創造の「自律性」を求めていたはずのArt作品は、自らを追求すればするほど、これら四つの「崩壊」に見舞われ、作品を創造することそれ自体が、不可能になっていく。20世紀のフランスの評論家、モーリス・ブランショがdésœuvrement(作品の消去=脱作品化)と呼んだ事態である。作品は、自らを創ろうとするほど自らを消去していく。余白が、沈黙が、創造を蝕み、領していく。Artの「第一の死」。19世紀末の西欧では、こうして、Artが「虚無」の「ホワイトホール」とでもいえるものへと限りなく吸い込まれていくのである註11

(2)第二の死 

アヴァンギャルド:Artの「第二の死」

 このArtの「第一の死」=désœuvrementを、炯眼にも見てとった次世代のArtistたちがいた。その一人がマルセル・デュシャンである。前回も言及したように、彼は工業的既製品(レディメード)という、人類が作り出した同じ「物」なれど、Artからは最も遠い制作物を、Artの中に投げ込み、それを新たなArtなのだと嘯いた。しかも、便器という、美術館にArt作品同様設置されてはいるが、「美」とはおよそ対蹠的な、それこそ「用」しか足さない「物」を、Artの中に仕込み、Artを完膚なきまでに凌辱し、しかもその凌辱行為自体を、Artとして演出した。Artの「第二の死」。Non-ArtのArt化としてのAnti-Art。以来、(Anti-)Artは、絶えず新たなNon-Artを発見しそれをArtに仕立て上げる、絶えず新たなArtの〈外部〉をArtの〈内部〉へと回収する、Artの「植民地主義」とも言いえるような、〈他者〉の包摂を糧とした自己差異化による領土拡張を繰り返すことになった。それが、20世紀に「コンテンポラリー・アート」などと呼ばれることになる事態の実相である。
 だから、こうも言えるだろう。デュシャン以降の(Anti-)Artは、絶えざるArtの「第二の死」の反復にすぎないのだ、と。Artの「死」としてのArt。この歴史的「逆説」を演出した者こそ、デュシャンに他ならない。
 ところで、Artの「第一の死」を見てとり、Artを粉砕し、新たな創造行為を起動しようとしたのは、何もデュシャンだけではない。むしろ、19世紀末に生まれ育ち、新たな世紀を迎えて、創造する欲望が点火した多くの才能は、同様の「逆説」を、各々のやり方で生きようとした。それが「アヴァンギャルド」と総称される、過激な創造の爆発である。
 彼らは、Artを木っ端微塵にすべく、ありとあらゆるNon-ArtをArtに持ち込んだ。奇矯な叫びや落書きまがいの線描やら、ゴミや雑音やら、トマトや卵などの生ものやら、はてはスキャンダラスな大騒ぎを起こして都市を丸ごと、Artにぶち込むのである。
 ほんの10年20年前に、霊妙な「自律性」に身を捧げ尽くしていたArtを、これほどまでになぶっていいのだろうか。それほどまでに、彼らにとってもArtの呪縛力は強固だったのだろう。こうして、ヨーロッパのあちこちで、Artにありとあらゆる「汚物」が投げつけられ、その神経症ともいうべき凌辱の中から、アヴァンギャルドたちは、自分たちの時代にふさわしいクリエーションを模索した。

ロシア・アヴァンギャルド:政治の革命とArtの革命の共振

 ヨーロッパの「辺境」、ロシアでもそうした歴史的気運は大いに高まった。その「気運」は、ヨーロッパの他の国同様、単にArtの世界のみならず、社会全体、そして生活全体を大変革しようという「革命」的気運でもあった。ただロシアの場合、おそらくは「辺境」であったがゆえに、奇跡的にも、「遅れてきた」政治の革命とArtの革命が完全に同期してしまった。そこに「ロシア・アヴァンギャルド」の特殊性がある。その「同期」の中身を一言で言えば、資本主義社会を超克し共産主義社会を実現しようとする政治の革命註12と、Artを超克し新たな創造活動を実現しようとするArtの革命との歴史的共振と言えるだろう。
 事実、「辺境」であったがゆえに、ロシアにおいて、Artの「自律化」は遅れてやってきた。例えば、ようやく1910年代になって、画家ダヴィッド・ブルリュークがこういう次第である。「昨日、芸術は手段であった。今日、芸術は目的となった。絵画は、絵画的な課題のみを追求するようになった。絵画は自己のために生きはじめた。註13
 現に美術においても、自律化は遅れ、しかもあまりに急速にやってきた。例えば、当時の代表的画家の一人、カジミール・マレーヴィチは、1912年になお、「ネオ・プリミティヴィズム」と呼ばれる、単純な色面構成ながらも明らかに「具象的」な絵画を描いていたが、その翌年からは、突如として『黒の正方形』や『白の上の白』などのモノクローム絵画を立て続けに描き、1915年には早くも「絵画の死」を宣言してしまうのだ。一方、もう一人の代表的美術家、ウラジミール・タトリンは、「絵画的レリーフ」と称し、板切れに金属片などを貼り付け、「絵画」への叛逆を始めたかと思うと、もう翌年には「反レリーフ」と題して、現代でいう「インスタレーション」のミニチュアのような立体造形に取り組む。そして、「絵画の死」宣言の同年には、彼らの造形的実験の集大成ともいうべきグループ展「最後の未来派絵画展0.10」を早々と開催してしまうのだ。
 そして折しも、「ロシア革命」である。まさに、はるか大西洋の彼方、ヨーロッパのもう一つの「辺境」ともいえるニューヨークで、デュシャンがさりげなくもしたたかに『泉』というArtへの時限爆弾を仕掛けている頃、こちらの辺境では、レーニンやトロツキーを始めとした「革命家」たちが大規模な民衆の蜂起を画策し、ついに共産主義社会実現の火蓋を切る。あちこちの街路や広場でこうした政治の革命が断行される中、Artistたちはいかなる行動に出たのか。彼らもまた、アトリエから街路に広場に出るのである。アトリエで画布や板切れに絵具や金属片で造形するのではなく、街路や広場を己の新しいキャンバス、創造の実験場とするのである。詩人ウラジミール・マヤコフスキイは、こう歌う。

同志諸君!
バリケードへ!
心臓と魂のバリケードへ行け。
退路の橋を焼き払う者こそ
真のコミュニストなのだ。
未来主義者たちよ、ゆっくり行進するのはもうやめろ、
未来に向かって飛躍するのだ。
〔…〕
安物の真理なんかうんざりだ。
心臓から古いものをたたきだせ。
街路はわれらの絵筆。
広場はわれらのパレット。
時代がかった書物では
千ページを費やしたって
革命の日々は歌えない。
街路へ出ろ、未来主義者たちよ、
太鼓を打ち鳴らせ、詩人たちよ!註14
マレーヴィチ『白の上の白』マレーヴィチ『白の上の白』

Artの「コペルニクス的転回」:共産主義的協働へ

 こうして、ヨーロッパの辺境の地においても、Artはいわば「コペルニクス的転回」を迎える。Artistの室内で遅ればせに、それゆえにあまりに急速な「自律化」を遂げたArtは(「絵画の死」)、政治の革命と共振して、一挙に、屋外へと解き放たれ、街路や広場での造形・構築へと「転回」するのである。これが「構築主義(constructivism)註15」である。
 数年前までアトリエで「絵画的レリーフ」やら「反レリーフ」の制作に勤しんでいたタトリンは、今や一挙に、高さ約400メートルにも及ぶ、そして一層目には一年に一回転する立方体の大会議場、二層目には一月に一回転するピラミッド型の行政機関、そして三層目には一日一回転する円筒形の情報センターを擁する『第3インターナショナル記念塔』(1919-20)を設計してしまうのだ。
 政治の革命とArtの革命の共振が実現しようとした新たな創造活動とは何だったのか。それは、一言で言えば、共産主義的協働である。西欧近代が作り上げた資本主義的労働=分業システムと、Artが要請する絶対的孤独の営みを共に止揚して、社会と個々人の生活が共に必要とするものを、共に作り、共有し合う、そうした創造の在り方である
 Artは、そうして、自らを「コペルニクス的転回」によって、共産主義的協働における造形・構築的モメントへと止揚する。『第3インターナショナル記念塔』のようなモニュメントの造形・構築から、数々の革命の祭典における仮設的構築物、はたまた移動する革命の啓蒙・情報センターに仕立てた汽車や汽船のデザイン、さらには革命的生活を彩る日用品の意匠にいたるまで、Artの革命もまたロシア、いやソビエトの津々浦々にまで波及していったのである。
 しかし、である。そんな政治とArtの革命の共振という「奇跡」は、それが奇跡であったからだろうか、ごく短命に終わった。その後には、独裁者による弾圧と粛清が待ち構えていたのである。

タトリン『第三インターナショナル記念塔』タトリン『第三インターナショナル記念塔』

(3)第三の死

Artの「復興」、そして「第三の死」

 もちろん、ソビエトだけではなかった。ファシズムという暴力機械は、ドイツでもイタリアでも(そして日本でも)猛威を振るい、ついに第二次世界大戦を勃発させる。
 そうして、ヨーロッパの「近代」が作り出した「大きな」システム、国民国家と資本主義のキマイラの如きシステムは、他の地球上の生命・生活をも蹂躙しつつ、「文明」そのものを破滅の危機へと陥れた。
 「近代」の「大きな」システムの「鬼子」とでもいうべきArtも、さらなる受難を迎える。「鬼子」であるがゆえに、Artistたちは殊の外弾圧・迫害され、場合によっては自殺に追い込まれ、あるいは殺害された。生き延びるためには、「協力」するか、ひたすら忍従するか、亡命するしかなかった。Artは壊滅状態に陥った。
 だから、戦後のArtistたちの喫緊の課題は、壊滅状態にあるArtを、何よりも「復興」、再構築することにあった。Artの本質が再び問い直され、「自律性」が再発見されることになる。そうして、例えば美術では、抽象表現主義の画家たちが、19世紀末の絵画の自律的探究を復活させ反復し再展開するかのように、描く行為そのものの内的強度を探求し、あるいは絵画性それ自体を絵画の中で問う自己言及的な作業に取り組む。また音楽では例えば、ピエール・ブーレーズなどが、マラルメの〈書物〉の理念を継承発展する形で、音楽の「霊妙なる」自律性を極限的に追求していく。
 そして、Artの「復興」は、言説的にもなされた。Artの「自律性」の再意味づけ・価値づけが、批評家たちの最重要課題となった。そうして(象徴的な名前を挙げれば)、美術をクレメント・グリーンバーグが、音楽をテオドール・アドルノが、文学をモーリス・ブランショが「復興」し、各々のジャンルで「自律性」を根拠づけ直し正当化し直す言説を紡ぎ出していく。
 私は(芸術史上語法が分かれる中で)、「モダニズム」という用語を、これら「近代」が作り出したArtの(壊滅後の)復興・反復、さらには再意味化・再正当化の実践・言説の総体を指す用語として使いたい。それは、「イズム」であるがゆえに、近代のArtを反復しながら偏愛するイデオロギー性を宿し、したがって、これを遵奉する者たちは半ば無意識的に「他律的」な創作物を、Artを偽称するキッチュとして、神経症的とも言うほどに嫌悪する。こうして、グリーンバーグの「ポップアート」嫌いが、アドルノの「ジャズ」嫌いが、病的に表明される。
 いずれにしても、こうした「モダニスト」の「復興」作業によって、Artは一時「再興」するようにみえたが、それも束の間、新たなデッドエンドを迎える。
 ジョン・ケージは、全楽章「休止」の指示しかない(通称)『4分33秒』(1952年)と呼ばれる作品を作曲(?)し、演奏と作曲の零度を提示してみせる。イヴ・クラン(イヴ・クラインとよく表記される)は、何も展示していない空っぽのギャラリーで「空虚」を展示してみせる(1958年)。サミュエル・ベケットは、もの語りを終える=沈黙するのをただ回避するためだけに、沈黙に臨む淵で無意味な繰り言を呟き続ける(『名づけえぬもの』1953年)。
 こうして、音楽、美術、文学は、無音、空虚、沈黙へと、すなわちArtは、もはや〈内部〉化することのできない絶対的な〈外部〉、つまり「死」へと自らを葬り去ろうとするのであるArtの「第三の死」。今度こそ、決定的な「死」。最後の「死」。
 なのだろうか?

註1:ドクメンタは、ドイツ・カッセルで5年に一度開催される、ヴェネチア・ビエンナーレと並ぶ国際美術展。ドクメンタⅩでは、結局、すでにこの時点で欧米のArt界でArtistとして一定の評価を得ていた河原温のみが、日本人として選ばれた。
註2:形式主義。20世紀初頭のロシアでロマン・ヤコブソンらが展開した言語・文学理論を指すこともあるが、ここでは、のちに言及するアメリカの美術批評家クレメント・グリーンバーグらが主張した、絵画の形式的諸要素を重視し、メディウムおよびジャンルの純化を唱えた批評的言説のことを指す。
註3:小田部胤久『芸術の逆説 近代美学の成立』、東京大学出版会、2001年、19頁。
註4:これまで説いてきたように、「近代」以前には私たちが了解しているような意味での「芸術(家)」は存在しないのであるが、以下の行論では、煩瑣を避けるために、そして私たちが参照する美学者小田部もまた近代的「芸術」概念が18世紀に彫琢される過程を論ずるにあたり一貫して「芸術(家)」という呼称を使用していることから、ここでは便宜的に、未だ十全に近代的「芸術(家)」へと変容を遂げていない実践(者)をも「芸術(家)」と称すことにしたい。
註5:小田部、前掲書、22頁。
註6:同書、40-43頁。
註7:ノヴァーリス「モノローグ」、薗田宗人訳、『ドイツ・ロマン派全集 第九巻』、前川道介編、国書刊行会、1984年、145頁。
註8:「芸術至上主義」とも言われる。テオフィル・ゴーチエら19世紀中葉にフランスで活躍した芸術家たちが唱え始め、ArtがArtの〈外部〉(神話、風俗、有用性など)に依拠することなく、Art自体、作品創造自体を目的とするという思潮。
註9:ステファヌ・マラルメ「アンリ・カザリス宛書簡、1867年5月14日」、松室三郎訳、『マラルメ全集Ⅳ 書簡Ⅰ』、筑摩書房、1991年、326-327頁。
註10:ステファヌ・マラルメ「書物、精神の楽器」、松室三郎訳、『マラルメ全集Ⅱ ディヴァガシオン他』、筑摩書房、1989年、263頁。
註11:こうしたArtの「自律性」の極限的な探究の傍らで、「他律的」とも言いうる創作がなされていたことも事実である。「写実主義・現実主義(realism)」、「自然主義(naturalism)」と、芸術史的に呼ばれる一連の作品群である。しかし、かくも深奥まで「自律性」を探究していたArtistたちにとっては、それらの作品は(「自律性」以外の点ではそれなりの評価を与えつつも)到底「Art」には見えなかった。例えば、マラルメが、自然主義の代表的な作家エミール・ゾラの小説について意見を求められ、発した両義的なコメントに伺える。「私はゾラに対して深い感嘆の念を抱いております。掛け値ないところを言えば、彼は文学的な要素は可能なかぎりすこししか用いず、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、そうやって彼がつくりあげたのは、真の文学というよりは、、、、、、、、、、、むしろ喚起力のつよい芸術なのです。なるほど彼は言葉を使っている、だがそれ以上ではない、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、。それ以外は彼の驚異的な構成から発して、ただちに群衆の動き、私たちのすべてがその肌理を愛撫した、あのナナの肌、――そうしたすべてが非凡な淡彩画として描かれている、これこそまさしく感嘆すべき構成力の作品であります! だが文学には、これよりも知的な何かがある、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、。言いかえれば、事物はすでに存在しており、私たちは事物を創造するまでもない。私たちはその事物間の関係を捉えさえすればいい。そして、これらの関係の糸こそ、詩句と管弦楽とをかたちづくるのです。」(傍点筆者)(「文学の進展について――ジュール・ユレのアンケート」、『マラルメ全集Ⅲ 言語・書物・最新流行』、筑摩書房、1998年、495頁。)
註12:より正確に言えば、ロシアは、ヨーロッパの「辺境」であったがゆえに、社会がほとんど資本主義化されることなく、帝政から一挙に共産主義化へと向かった。したがって、ここでいう「資本主義社会の超克から共産主義社会の実現へ」とは、マルクス主義的唯物史観が抱懐した人類史的次序としてのそれを意味する。
註13:ダヴィッド・ブルリューク「キュビズム」(水野忠夫『ロシア・アヴァンギャルド』、パルコ出版、1985年、50頁参照。)
註14:ウラジミール・マヤコフスキイ「芸術軍への指令」、『コミューンの芸術』、1918年12月7日号(水野、同書、107-108頁参照)。
註15:constructivismは、通常芸術史において「構成主義」と訳されるが、以上の文脈からすれば、誤訳と言わないまでも、社会・公共の場における「造形」「構築」さらには「建築」までをも含意するがゆえに、「構築主義」とでも訳す方が妥当と思われる。

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熊倉敬聡(くまくら・たかあき)

1959年生まれ。慶應義塾大学経済学部卒、パリ第7大学博士課程修了(文学博士)。Ours lab. 共同代表。元慶應義塾大学教授、元京都造形芸術大学教授。フランス文学 ・思想、特にステファヌ・マラルメの貨幣思想を研究後、コンテンポラリー・アートやダンスに関する研究・批評・実践等を行う。大学を地域・社会へと開く新しい学び場「三田の家」、社会変革の“道場”こと「Impact Hub Kyoto」などの 立ち上げ・運営に携わる。主な著作に『瞑想とギフトエコノミー』(サンガ)、『汎瞑想』、『美学特殊C』、『脱芸術/脱資本主義論』(以上、慶應義塾大学出版会)などがある。http://ourslab.wixsite.com/ours
タイトル絵:熊倉百香

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