第二回 チョンキンマンションのタンザニア人たち


 夜10時ごろ、チョンキンマンションの脇の路地には、毎晩、数人から十数人のタンザニア人たちがたむろしている。この路地では、昼間、中国系の路上商人が観光客向けにスーツケースやリュックサックを販売している。タンザニア人たちが路地に集まり始めるのは、中国系の路上商人が店じまいをした後の夜9時前後で、この時間になると、この細い路地では人通りが途絶え、チョンキンマンション内部から漏れてくる蛍光灯の明かりがわずかに照らすばかりの薄暗い場所になる。彼らがたむろしている場所から数メートルほど奥まった場所では立ち小便をする者がおり、あたりいったいは独特の匂いが立ち込めている。だが、壁沿いに腰掛けるのにちょうどよい高さのコンクリートの突き出しがあり、長時間、たむろするには都合が良いのだ。
 誰かが現れると、先に腰掛けていた者が少しずつ詰めて座り、スペースを空けていく。集まった者たちは、時折、母国の政治談議やゴシップに花を咲かせたりするが、ほとんどの時間、彼らはとくに会話をすることもなく、タバコをふかしながら、スマホでネットサーフィンやSNSをしたり、思い思いの時間を過ごす。彼らは群れてはいるが基本的には、それぞれのやり方でそれぞれの人生を香港で紡いでいる。

 香港で出会ったタンザニア人たちは、香港に留まって主に仲介業をする「長期滞在者」(ブローカー)と、香港および香港を経由して中国本土での商品の買いつけをおこなう「短期滞在者」(交易人)の二つに大きく分けられる。チョンキンマンション脇の路地に集まるタンザニア人のほとんどはだいたい同じ顔ぶれの長期滞在者であり、香港や中国に商品を仕入れにきた交易人がそのつど入れ替わる。
 香港に比較的に長期間滞在しているタンザニア人たちは、さらに「難民」として暮らしている者、「オーバーステイ」(不法滞在)になっている者、ビザなしで滞在できる期間を中国本土やマカオ、あるいはタイなどの近隣アジア諸国と行き来することで更新しつづけている者に分かれる。タンザニア人はビザなしで3ヶ月間香港に居住できるが、意図したかどうかは別として、様々な理由で難民となったり、不法滞在になっている者も多い。
 長期に滞在するタンザニア人たちの主な仕事は、短期滞在型の交易人たちの輸出入のアテンド・仲介業と、インフォーマルな輸出・輸入業である――彼ら自身は、自分たちをスワヒリ語で「仲介業者」「ブローカー」を意味する「ダラーリ(dalali)」と自称することが多いので、以下では便宜的に「ブローカー」と呼ぶ。彼らの中には、中国の大学・専門学校への留学経験をもっていたりして、英語に加えて中国語・広東語も堪能な者がいる。ブローカーたちは、香港および中国本土、特に広州市や義烏市などで商品を仕入れる、あるいはアフリカ諸国から鉱物資源や農産物などを香港・中国へと卸にきたタンザニアの交易人たちの便宜を図ることで、収入を得ている。ブローカーに依頼すれば、空港への出迎えから香港での宿泊施設の予約、レストランや日用雑貨店などの紹介、ビジネスのコンサルティング、香港での商品の仕入先/卸売り先の業者への仲介、通訳、値段交渉、取引締結の書類作成、輸送手続きの代行まで、必要とあれば、24時間付き添ってあらゆる便宜を提供してもらえる。そのため、中国語はおろか英語もあやういタンザニア人がはじめて香港にやってきても何の心配もない。
 ただし、ブローカーを雇えば、それなりに高額のアテンド料や仲介手数料を支払うか、香港/中国で仕入れた商品の売上げの数パーセントを成功報酬として支払うことになる――さらにブローカーのすべてが「善人」とは限らない。また多くの交易人たちは、香港で中国ビザを取得し、広州市や上海市、義烏市などで商品を買いつけることを最終目的としている。香港が経由地となる場合には、中国ビザの取得代行、中国本土へ向かう電車や飛行機、バス、フェリー等のチケットの手配、中国本土にいる仲介業者への取次ぎなどもブローカーに依頼できる。
 また、長期滞在者の多くは、短期滞在型の交易人たちのアテンド・仲介業に加えて、それぞれ個別のビジネスを持っている。中古自動車や中古家電製品、携帯電話、衣類雑貨などの輸出業、アフリカ産の天然石や海産物などの輸入業が主であるが、それ以外にも様々な「裏稼業」が存在する。彼らの暮らしやビジネスについては、回を重ねるなかで徐々に明らかにしていきたいが、まずは本連載の主人公「チョンキンマンションのボス」であるカラマの生活史を紹介したい。

夜のチョンキンマンション
夜のチョンキンマンション

カラマのライフヒストリー

 カラマは、1968年10月11日にタンザニアの首座都市ダルエスサラーム市近郊のチャリンゼ県で生まれた。現在は49歳である。父親は、ザンジバル出身のオマーン系アラブ人、母親はダルエスサラーム出身のアフリカ系のザラモ人であり、カラマはアラブ系とアフリカ系の「ダブル」である。彼自身はどちらかというとアフリカ系の風貌をしているが、アラブ首長国連邦のドバイで暮らす彼の兄弟には「現地のアラブ人に間違われる」風貌の者たちもいる――私は彼から兄弟の写真をみせてもらった時、「腹違いじゃなくて、本当に同じ両親から生まれた兄弟なの?」と何度も聞き返してしまった――。
 タンザニアの教育制度は、初等教育が7年(Standard1~7)、前期中等教育が4年 (Form1~4、後期中等教育2年(Form5~6)であり、カラマの最終学歴は、前期中等教育(Form4)卒業である。彼は折につけ自分は勉強がたいへんよくできたと語る。前期中等教育課程4年の時に、彼は学校の試験で年間を通じて一番をキープしたそうだ。その時に2番だった学友は大学へと進学し、現在ではタンザニアの某省庁の長官になっているという。貿易業や飲食店経営、畜産業など幅広くビジネスを展開していた彼の父親は、彼が前期中等教育を終えると「これ以上勉強して何の役に立つのか」と進学に強く反対し、自身の商売を手伝うようにいった。カラマは、「ザンジバル出身のアラブ系タンザニア人の多くは、商売で成功してこそ一人前だという考えを持っていて、親父はその典型だった」と語り、昔は自分も父親の考え方にそれほど疑問を持たなかったという。しかし、その後に香港や中国など外国で長く暮らし、今では高等教育を受けたかったと語る。
 カラマには、後述するように二人の妻がおり、さらに若いガールフレンドも大勢いるのだが、「もし後一人妻にするとしたら」、経済学の学位に加えて法学の学位を取得しようとしている25歳のガールフレンドを選ぶのだと口癖のように語る。彼が香港に滞在しタンザニアを不在にしても、彼女であれば、「母国でのビジネスを安心して任せられるから」と。

 カラマが香港にやってくる契機となったのは、母国にいるときに始めた天然石の輸出業である。カラマの一族は本人曰くタンザニアの「オマーン帝国時代のロイヤルファミリー」の末裔で、チャリンゼ県有数の富豪でもあり、いわゆる「名家」である。親族一同が様々なビジネスを展開しており、アラブ諸国をはじめとして海外に居住する者も多い。カラマは卒業後、親族が経営するガソリンスタンドを手伝っていたが、2003年につぶれてしまったので、モロゴロ州の鉱山で天然石の卸売り業に携わっていた親族を頼って、天然石のビジネスを始めた。鉱山のあるモロゴロ州の三つの村から、シトリンなどの天然石を仕入れ、それをタンザニアの首座都市ダルエスサラーム市やアルーシャ市に運び、海外へ輸出する業者に販売する仕事を約6ヶ月間した。ダルエスサラーム市でクラスメートだったムッサ(仮名)が、タイと香港に天然石を輸出しており、カラマがモロゴロ州の村で仕入れた天然石(22トン)を良い値段で買い取ってくれた。資本を獲得したカラマは、エネルギー鉱物省から「鉱物資源の輸出業」の営業許可を取得し、香港へ天然石を輸出するビジネスに乗り出した。2003年12月末、カラマは全財産をはたいて天然石と比較的安価なケニア航空のチケットを購入し、香港へとやってきた。天然石の輸出手続きとチケットの購入を済ませると、ポケットマネーとして50米ドルしか残らなかったという。
 ムッサに香港市場へ乗り出す計画を語ると、彼は「道案内の代わりだ」と小さな紙切れをくれた。その紙切れには、天然石を買い取る香港業者のアドレスと、当時のタンザニア人たちがご用達にしていたチョンキンマンションA棟7階の安宿の名前が書かれていた。カラマはこの二つの情報だけを頼りに一人で香港に渡航した。
 先に述べたとおり、タンザニア人は、3ヶ月間、香港にビザなしで入国できるが、「不法労働目的」ではないことの確認のためか、入国審査では復路の航空チケットや取引相手の中国企業からの招待状、あるいは香港での商品の仕入れに十分な「ショーマネー」を提示するように求められるという。入国審査官に50米ドルしか所持していないことを怪しまれたカラマは、ムッサが渡してくれた香港の天然石業者のオフィスのアドレスをみせて何とか無事に入国した。空港で50米ドルを換金すると、約380香港ドル(当時のレートで日本円に換算すると約5350円)となった。なんとも心もとない金額だったが、33香港ドルを支払ってバスに乗り、チョンキンマンションまでたどり着いた。教えられたとおり、A棟7階の安宿に向かうと、エレベーターでばったりムッサに再会した。
 天然石を積んだコンテナを乗せた船が、タンザニアを出港して香港に到着するまでには通常、23日から26日間ほどかかる。商品の到着を待つ間、カラマは、ムッサや彼の仲間たちから香港での天然石ビジネスを学んだ。そして、およそ2ヶ月かけてタンザニアから輸入した天然石を売り切ることができた。
 その後、ムッサたちはそれぞれの天然石の卸売りを終えてタンザニアへと帰国していったが、カラマは一人香港に残って独自の市場を探すことにした。「天然石の商売は上手くいけば莫大な利益を得られるが、投機性が高すぎる」と考えたそうだ。香港で一旗あげることに決めたカラマは、ビザなしで滞在できる3ヶ月が終わる前に中国本土やマカオに出て香港に再入国することを繰り返すことで、香港に長期滞在するようになった。

 カラマは、天然石を販売して得た利益で、その頃に「ホット」なビジネスであった携帯電話やスマホの輸出業を試みた。しかしなかなか商売を軌道に乗せることができなかった。また今とは異なり、2004年当時は、香港を経由して中国へ向かう交易人は数多くいたものの、香港に長期滞在するタンザニア人はほとんどいなかった。中国に向かう交易人たちは長くても1週間、最短1日で下りる中国ビザを得たら直ぐに中国本土に向かうので、香港での日々を分かち合える仲間はいなかった。彼は当時を振り返り、夕方になると、林立する高層ビルを眺めながら、「ここには無数の人間が住んでいるのに、誰とも話をしないで日々が過ぎていくなんて、自分はなんて遠いところにきてしまったのか」とため息をついていたと語る。かつての香港では今よりもさらにアフリカ系に対する偏見や差別感情が強く、電車に座ると香港人が慌てたように飛びのいて別の座席に移動したり、エレベーターで乗り合わせた若い女性に鼻をつままれたり、落し物を拾ったので声をかけると悲鳴をあげられたりと、現在ではすっかり慣れてしまったことにも当時は深く傷ついた。カラマはたまに道行く見知らぬ香港人を呼び止め、(本当は何もついていないのに)「何かついていますよ」と頬や口の端をつついてみせ、驚いた香港人が袖などで頬をこすると「取れました」とにっこり笑うという「いたずら」をして、香港人と他愛もないおしゃべりを始める。私が「本当にいたずら好きなんだから」とツッコミを入れると、孤独だった日々で「香港人と仲良くなるために編み出したテクニックなんだよ」としんみりとした表情をされた。

 生活の糧を探すため、天然石の卸売りで知り合った中国人の張さん(仮名)に相談すると、彼は石を洗う日雇い労働を与えてくれた。カラマは、来る日も来る日も冷たい水で天然石を洗う仕事をした。水仕事で指の皮が剥け、石の角や破片で手が切り傷だらけになった。黙々と石を水で洗い、バケツに入れて運んだり、整理したりする仕事は、重労働かつ退屈だった。1日9時間働いて手取りは150香港ドル。当時は、現在よりもチョンキンマンションの宿泊料は安く1泊50香港ドルでシングルルームを借りることが出来た。残りの50香港ドルで食費や交通費を捻出し、毎日50香港ドルを貯めることにした。休日になると、地下鉄(MTR)で深水埗(Sham Shui Po)駅まで行き、衣料品店の集積地区でタンザニアに輸出できそうな衣類を探した。しだいに売れ筋の衣類の目利きができるようになり、どこに行けば、良い品が安く手に入るのかもわかってきた。
 ある日、たまたまチョンキンマンションで出会ったタンザニア人交易人に頼まれて深水埗の衣料品マーケットを案内した。自身の買付けのついでに連れて行っただけなのに、お礼をはずまれた。そこで、香港・中国本土に商品を仕入れにくるアフリカ人交易人をチョンキンマンションなどで探し、深水埗を案内したり、売れ筋商品を探しだす手伝いをしたり、香港人の店主との交渉を代わってあげることで手数料を稼ぐことを思いついた。この仕事で1日に300香港ドルを稼ぐことができるようになったので、石洗いの仕事をやめてブローカー業に専念することにした。数ヶ月続けていると、カラマの名前は香港に初めて渡航する交易人の間に広まり、スマホのアドレス帳は顧客リストでいっぱいになった。カラマは、「正直、はじめて香港にきたアフリカ人を騙すことは簡単だったが、最初に取り決めた定額の手数料以外をもらおうとしなかったので、多くの人から信頼を得たんだ」と胸を張る。

 香港に来て1年が過ぎた2005年初頭になると、カラマは中古家電製品の輸出業へと乗り出す。コピー商品が多い中国本土に対して、深水埗の露店やアウトレット店などで本物のブランド品を安価に発掘すると思わぬ利益を得られることもあるが、やはり衣料品は中国本土のほうが圧倒的に安く、それほど大きなビジネスにはならなかった。西鉄線の錦上路(Kam Sheung Road)駅からバスで数十分の地域には、中古の冷蔵庫やテレビ、自転車、自動車などを販売する店舗や解体業者が集積している。高層ビルがひしめく中心部と違い、平屋や低層ビルが残る緑豊かな地域だ。この地域は現在ではチョンキンマンションに次ぐアフリカ系住民の居住地域となっているが、当時はごく普通の郊外の町だった。冷蔵庫やテレビなどの中古家電製品の輸出業はたいへん儲かり、2006年頃になると、月に2000米ドルから3000米ドルを稼ぎ出すようになった。中古家電製品に加えて、中古車自動車の輸出業へとビジネスを拡大した。彼は、一軒一軒、解体業者や中古自動車販売業者を訪ね歩き、地道に人間関係を築いたという。私はふだん怠け者モード全開のカラマが毎日朝早くから晩まで広い地域に点在する業者を歩きまわり、けんもほろろに追い返されたりしながらも、粘り強く取引を開拓していったという話に「本当にそんな営業マンみたいなことをしていたの?」と失礼なツッコミをいれたのだが、カラマは、「そうだよ。歩くのをやめても食事の量が変わらなかったから、丸々と太ったんじゃないか」とチャーミングに切り返された。
 じっさい、カラマと一緒に香港の解体業者や中古自動車販売業者――中国系またはパキスタン系住民が多い――を訪ねると、勝手に店の冷蔵庫を開けてジュースを飲んだり、従業員用の昼食を食べたりと我が家のようにくつろぐカラマを暖かく迎え入れてくれる。
 次第にカラマの名前は、タンザニア以外のアフリカ諸国の中古車ディーラーにも知れ渡るようになった。母国タンザニアに加え、ケニア、ウガンダ、コンゴ(民主主義共和国)、ブルンジ、ルワンダ、マラウィ、ザンビア、モザンビーク、ナイジェリア、ガーナ、ガンビア、ニジェール、コモロ、マダガスカル……15ヶ国以上のアフリカ諸国のディーラーと顧客ネットワークを築くにいたった。
 同年、カラマは香港に出稼ぎにきていたインドネシア人の小柄な女性と恋に落ちた。しばらく逢瀬を重ね、彼女が妊娠したことを契機にチョンキンマンションの小さな部屋で同棲をはじめた。その後、一念発起して2500香港ドルの家賃を払って銅鑼湾(Causeway Bay)でアパートを借り、新婚生活を始めた。
 だが、娘が生まれてまもなくの2007年7月、ついに不法労働がばれてしまった。香港の滞在可能期間を延長するために中国へといったん出た後に香港へ再入国しようと試みたところ、カラマは入国を拒否されてタンザニアに強制送還されてしまったのだ。為す術もなくいったんは母国に帰ったものの、寝ても醒めても、香港に残してきた娘のことが頭から離れず、4ヶ月後の11月には香港への密入国を決意する。中古自動車の輸出業で懇意になったパキスタン人の友人たちに支援してもらい、まず中国に密入国し、さらにそこから難民・亡命者らと一緒に漁船に乗り、香港へと密航した。乗り合わせた他の難民とともにカラマも国境で経済的困窮を訴えて香港政府から難民としての認定を得た。私はカラマと知り合ってすぐに、アフリカ諸国のなかでは比較的に安定したタンザニア出身にもかかわらず、どういう経緯で難民として認定されたのかと不思議に思い、その理由を尋ねたことがある。カラマは「難民になる気なんてまったくなかったんだ。これっぽちもさ」と大げさな身振りで答えた後、次のように説明した。
 「香港に密入国することを決意したのは、ひとえに娘のためだ。俺が戻らないと、気弱な妻と幼い娘は絶対にサバイブできないと確信していた。それで香港に密入国した際に刑務所に収監されずに済む唯一の方法が、嘘をついて難民になることだったんだよ」
 難民として認定されれば、香港に合法的に長期滞在できる。医療等の社会サービスも無料で受けられる。だが、その代わりに香港から一歩も出られなくなる。いったん国外へ出てしまうと難民としての身分は失効し再入国も難しくなる――カラマは「名前を変えてパスポートを取れば余裕」とも言うのだが――。カラマはこの日より現在まで10年近くも母国の地を踏んでいない。それどころか中国やマカオにも出かけることはできなくなった。50歳を前にしてカラマは、最近ではホームシックにかられることが多くなったとこぼす。

携帯電話で商談中(?)のカラマ
携帯電話で商談中(?)のカラマ

 さて、カラマがほうほうの体でチョンキンマンションに帰り着くと、追い討ちをかけるような事態が待っていた。かつて親切にビジネスを教えてあげた仲間たちが、「もうカラマは二度と香港に戻ってこられないので、中古自動車ビジネスは俺たちのものだぜ」と祝杯をあげている現場を目撃してしまったのだ。カラマは自身の不幸を肴に祝杯を挙げる仲間の姿を目の当たりにして愕然とし、しばらく人間不信に陥った――今ではとっくの昔に水に流したというが、「嫉妬は、最大の敵だ」が口癖だ。
 それでも香港に戻って数年間の商売は、おおむね好調で香港の暮らしには楽しいこともたくさんあった。香港に戻った彼は、毎日、錦上路の中古車解体業者や販売業者を回り、これぞという中古自動車をみつけてはアフリカ諸国にいる顧客たちに電話やメールで営業をかけ、月に7000米ドル、多いときには1万米ドルを稼いだ。香港・中国に買いつけにやってきた若い交易人や新参のブローカーたちからは「アニキ」として慕われ、若者たちをつれて夜な夜な中環(Central)や湾仔(Wanchai)のバーやクラブに繰り出した。香港のクラブに集まる欧米人をターゲットにしたアフリカ系の売春婦たちからも頼りにされ、若い女性から年上の女性まで「とにかくモテて困った」という。
 カラマは、2009年頃から香港に衣料品や化粧品を仕入れに定期的に訪れるようになった、タンザニア人女性フィパ(仮名)と新しい恋に落ちる。フィパは、タンザニア北西部のビクトリア湖岸沿いの都市ムワンザ出身のインド系タンザニア人とアフリカ系との「ダブル」であり、「元ミス・ビクトリア湖岸地域」に選ばれこともある、すらりとした長身の美女だ。フィパとも息子をもうけ、約8年間、内縁関係を続けた後に正式に結婚した。イスラーム教徒の彼は、妻を四人まで娶ることができるというが、もちろんインドネシア人の妻とは大喧嘩になった。それまで大人しくて気の弱い性格だと信じていたインドネシア人の妻は、突如「ジャガーに変貌した」。また、彼女とのあいだに生まれた娘のハディジャは愛らしく賢い少女に育ち、仕事場から会合までカラマの行く先々ならどこにでも着いてきたのだが、フィパと密会する時だけは、「パパなんて嫌い」「行っちゃダメ」と怖い顔をされたと困ったようにいう。
 中古車輸出業で稼いだ利益の大部分は、家族や母国の親族への支援と、母国の様々な事業(project)に投資した。まず400へクタールの農地を購入した。さらに農産物加工工場を設立した。解体現場で安価に建材を仕入れ、親族経営のガソリンスタンドを再建し、現在も併設するスーパーマーケットを建設中である。フィパと息子のためにダルエスサラーム市シンザ地区に豪奢な家も建てた。余裕がある時には、深水埗で子ども服を大量に購入したり、中国へ交易に向かうタンザニア人に依頼して靴やカバンを安く購入し、地元チャリンゼの子どもたちに贈った。そのような慈善活動について彼は、「地元の名士」であり、チョンキンマンションのボスとしての「大事な役目」だと語る。
 すくすくと育っていく娘を見ながら、カラマは「このまま香港で暮らしたら、娘は両親のいずれの文化も言語も十分に知らずに成長するのではないか」と思い悩むようになった。そして娘と妻をインドネシアに帰す苦渋の決断をする。タンザニアの親族に娘を預けるよりは、母親と一緒にインドネシアのコミュニティで暮らすほうがよいだろうと考えた。だが、いざ妻と娘を見送りに空港にいくと、どうしても娘と離れがたくなり、「やっぱり離れ離れになりたくない」と大泣きして暴れ、仲間のタンザニア人たちに羽交い絞めされて、ようやく妻と娘を送り出した。妻の故郷の村に家を建て、その後も毎月、生活費として3000米ドル、必要に応じて学費や医療費などを送金している。

 2012年頃になると、香港で中古家電や中古自動車を仕入れて輸出するタンザニア人の数は激増した。競争相手が増えて彼のビジネスはかつてのようには儲からなくなっていった。時には生活費にも困窮するようになり、様々な工夫を凝らした。
 旧正月の少し前、1月下旬ごろから5月頃までは香港・中国のビジネスは全般的に不調になる。そこで余裕がある月に中古自動車を購入して取り置いてもらい、ビジネスが低調のシーズンにそれを販売して生活費を捻出したり、香港と中国を行き来する交易人たちに親切にする見返りに、コツコツと買いためておいたスマホを彼らの荷物と一緒に輸出し、いくらかの小遣いを稼いだりするようになった。また、2014年ごろから香港タンザニア組合の設立に向けて奔走するようになり、SNS上でビジネスの安定化を図る独自のプラットフォームも構築した――この香港タンザニア組合とSNS上のプラットフォームについては、もう少し後の回で詳しく紹介したい。
 カラマはいま「キングサイズのベットに子どもたちを寝かせて、その真ん中に王様のように寝るのが夢なのだ」と語る。だがその一方で、私に聞く。「サヤカ、日本ではどんな商売が儲かるのか」と。

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小川さやか(おがわ・さやか)

1978年愛知県生まれ。専門は文化人類学、アフリカ研究。京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士課程単位取得退学。博士(地域研究)。日本学術振興会特別研究員、国立民族学博物館研究戦略センター機関研究員、同センター助教を経て、2013年より立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授。著書に、『都市を生きぬくための狡知』(サントリー学芸賞受賞)、『「その日暮らし」の人類学』がある。

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