第1回 パリ・シャンゼリゼ劇場 1913/1954

 1913年5月29日。パリ、シャンゼリゼ劇場。
 この日、この場所で、イーゴリ・ストラヴィンスキーのバレエ音楽「春の祭典」の初演が怒号と混乱の内に行われたことは、音楽史の中でもとりわけ有名なエピソードの一つとして知られている。多くの聴衆は何事かを叫び、怒鳴り、床を踏み鳴らしながら作品に対する抗議を表明したという。複数の証言は、劇場の中がことによっては暴動にさえ発展しかねない、危険な状態だったことを知らせている。
 聴衆の拒絶反応は、まずはニジンスキーのあまりにも土俗的で洗練を欠いた振り付けに向けられたようだが、拍節リズムを徹底的に破壊し、さらにはすべての楽器を思い切り「下品」に鳴らしながら極彩色の音響を奏でたストラヴィンスキーの音楽が刺激的であったことも、その大きな理由に違いない。面白いのは、公演の首謀者であるディアギレフが、この騒動を事前に予想していたらしいことだ。その意味で、このスキャンダルは、半ば予定通りに引き起こされたものだったともいえる。当のストラヴィンスキー自身、のちに次のように述懐している。

……音楽はおそるべき喧騒に消され、まったく聞きとれなかった。それでも踊り手たちは踊りつづけ、モントゥーもオーケストラも最後まで演奏をやめなかった。公演が終わると、われわれは興奮し、腹立ち、吐き気さえしたが、それでも逆に幸福感に満ち溢れていた。私はディアギレフやニジンスキーといっしょにレストランにはいった。ディアギレフはまさに思い通りにいったといって満足そうだった。宣伝の価値を理解するのに彼ほどの才人はいないし、彼はこの事件がもたらす利益を即座にはじき出した。おそらくはディアギレフのことだから、私からこのバレエのアイディアを聞いたときから、今夜のようなスキャンダルを心に描いていたのであろう。*1

 来たるべき大衆時代は、スキャンダルこそがもっとも効果的な宣伝になることを、このロシア・バレエ団の総帥は1913年の時点で正確に把握していたというわけである。そして実際に、この事件はストラヴィンスキーという作曲家にとって、むしろ絶好のカタパルトになった。再演を重ねるたびに「春の祭典」は評価を高め、1920年代半ばまでにはイギリス、ロシア(ソ連)、アメリカ、ドイツ、イタリア、スイス、ベルギー、オランダ、オーストリアといった順でヨーロッパの主要国、主要都市を次々に制覇してゆく。そしてもちろんご存知のように、現在においてこのバレエ曲は、20世紀音楽における最高傑作のひとつとして、ゆるぎない古典の座に就いている。
 音楽から19世紀の残滓を暴力的に引き剥がし、輝かしい20世紀をもたらしたという意味において、まさにこの騒動はストラヴィンスキーにとっては春に行われた勝利の祭典だった。

 他方、これほどは有名ではないエピソードだが、この41年後の1954年12月2日、同じパリのシャンゼリゼ劇場において、ヤジと怒号、そしてその間にまばらに挟まった支持の拍手といった混乱状態の中で演奏された作品がある。タイトルは「砂漠Deserts」、作曲者はフランス出身で後にアメリカに帰化したエドガー・ヴァレーズ(1883-1965)。
 「砂漠」は、管弦楽の演奏と騒音的なテープ音響が交互に置かれるという、当時としてはきわめて斬新な構成を持っている。楽曲は管弦楽部1→テープ部1→管弦楽部2→テープ部2→管弦楽部3→テープ部3→管弦楽部4という具合に進んでゆくのだが、当然ながら演奏会においては、管弦楽部分は生で演奏され、途中に挟まるテープ音響部分は、あらかじめ録音されたものがスピーカーから流されることになる。
 自分の作品を「組織された音響」という語で表現していたヴァレーズにとって、戦後にフランスであらわれたミュジク・コンクレート、すなわちテープレコーダーに様々な音を録音し、それに変調などを加えて一つの「音楽作品」にするという新しい音楽概念の登場は、願ってもない僥倖であった。この「砂漠」は、彼がそれまで培ってきた管弦楽の手法と、新しいミュジク・コンクレートの概念を融合させようとする試みといえる。苦労してアンペックス社のテープレコーダーを入手したヴァレーズは、さっそく助手とともにさまざまな試行錯誤を経たのち、コンクレートの創始者であるピエール・シェフェールのパリのスタジオで1954年10月、テープ音響の部分を完成させた*2
 初演を担当したのは、現代音楽に造詣の深い指揮者ヘルマン・シェルヘンとフランス国立放送管弦楽団(現・フランス国立管弦楽団)。これは、ほぼ理想的な組み合わせといってよいだろう。しかし彼の生まれ故郷であるパリは、この作品をすんなりとは受け入れてくれなかった。初演の様子を収めた貴重な録音(当日のラジオ放送を録音したもの)は、会場の様子を意外なほど鮮明にとらえている*3
 最初の管弦楽部でこそ神妙に聞き耳をたてていた聴衆は、しかし、「テープ部1」に入るとくすくすと笑い声を立てはじめ、やがて一人の男が何事かを叫んだのを引き金にして、明確な非難と罵りの声を発するに至る。同時に聞えてくるのは、それらと対抗するような、支持とおぼしき拍手や「シーッ」という静止の声。徹底的な拒否と、新しい芸術への支持という両極端の反応の中で、しかし大部分の物言わぬ聴き手の「いったいこれは何なのだ・・・?」という素朴な戸惑いが、録音からは濃厚に漂ってくる。
 このヤジや嘲笑はしばしば静まりもするが、断続的に演奏中に沸き起こり、およそ26分にわたる楽曲が終了した後は、盛大なブーイングと盛大な拍手が会場に満ちることになった。こうした中で平然と(?)指揮を続けたシェルヘンも、たいしたものである。
 かなり面白い偶然といってよいと思うのだが、実はヴァレーズは、1913年5月29日の夜、シャンゼリゼ劇場にいた。まだ30歳であった彼がその時、どういう思いで「春の祭典」初演を聴いたのか、そしてあの騒動を見ていたのか(あるいは騒動に参加していたのか?)はよく分からない*4。しかし、当然ながらそれから41年を経て、自らが同じ場所で新作を発表したとき、彼の脳裏には間違いなくあの日の記憶がよぎったはずだ。
 「砂漠」初演から数年を経た1960年6月24日の手紙の中で、彼は盟友の作曲家カルロス・チャベスに対して騒動の理由を次のように述べている。

シェルヘンによってシャンゼリゼ劇場で行われた1954年の初演は、パリが経験したことのないような騒動になりました。しかし、これはチャイコフスキーとモーツァルトの間で演奏されたのです。つまりまったく「慣れていない」聴衆と、少数の「興味のある」聴衆の中です。後者はブーイングに立ち向かってくれました……。*5

 確かにその通りではある。当夜の演奏会は最初にモーツァルトの「大序曲変ロ長調」K.311a(Anh.C11.05)、続いてヴァレーズの「砂漠」、そして後半にチャイコフスキーの「交響曲第6番《悲愴》」というプログラムだった。モーツァルトの典雅、チャイコフスキーの哀愁を聴きに来た観客にとって、まるで鉄工所のような雑音がスピーカーから放出されるヴァレーズの音楽は、文字通りの騒音としか思えなかっただろう。
 それでも、どこか残酷な話ではないか。
 生涯にわたって新しい音響の創出を、ほとんどそれのみを志していたヴァレーズにとって、この作品の完成は、間違いなくひとつの夢の実現だった。後に詳しく述べるように、すでに何年も、いや何十年も前から心の中に温めて続けたアイディアだったのだから。
 ちなみに、ジャン=マリー・ストローブによる17分ほどの短編映画「おお至高の光 O somma luce」(2009)は、この残酷な「砂漠」初演の録音をそのまま用いた映像作品である。この映画の中ではまず、「砂漠」ライヴ録音の冒頭7分ほどがそのまま流される。これは先の構成表でいえば、「管弦楽部1→テープ部1→管弦楽部2」と進んだ途中までにあたり、それゆえ当然ながら「テープ部1」におけるヤジと怒号はしっかりと収められている。おそらく、ヴァレーズの作品など知らない映画の観客は(普通はまず知らないだろう)、このやけに音質の悪い、雑然とした様相のライヴ録音はいったい何なのか戸惑うに違いない。しかも、この7分間、なんと画面は真っ暗なままなのだ(!)。まるで映写機が故障したかのように、一切、何も映らない。
 しかし「管弦楽部2」の途中で管楽器全体がクレッシェンドする117小節に到達した時。画面は突如として明るくなり、カメラがのどかな野外のベンチに腰掛ける男を映し出す。そして、音楽が途切れるや否や、男(ジョルジョ・パッセローネ)はダンテの「神曲」天国篇、最終第33歌、第67節「おお至高の光」を高らかに朗読し始めるのだ。

おお至高の光、必滅の者達の理解から
隔絶して昇る方よ、我が知性に
あなたの顕した姿の幾許かを与えたまえ。

そして我が言葉の杖にあふれる力を授け、
あなたの栄光から発する閃光の一筋だけでも
未来の人々に残すことをお許しあれ。*6

 これは意表を突かれると同時に、どこか感動的な瞬間だ。音楽が高揚を迎えた途端に静止し、そこに「O somma luce!おお至高の光」とパッセローネの芝居がかった発話がつながれる部分は、明らかにベートーヴェンの「第九」でバスが「O Freunde!おお友よ」と歌い始める部分が意識されている。*7そして映画は、このままパッセローネがダンテのテクストを「天国篇」の最後まで断続的に朗読するだけで、あっけなく終了してしまう。つまり、ここには映画での一般的な意味における物語はまったく存在しないわけだが、ストローブあるいはストローブ=ユイレの映画にあって、これはむしろ普通のことではある。
 それにしても、ストローブはなぜヴァレーズの「砂漠」を、しかも初演のライヴ録音の冒頭部分を使ったのだろう。朗読されるのがダンテの「天国篇」最終部分であることに鑑みると、「砂漠」の初演はまるで「地獄」と「煉獄」のようであったとでも言いたいのだろうか。それとも、ダンテが長い旅の中でついに天国に到達し、そこで最終的には神との合一を得る場面で描かれる鋭い光や閃光、「必滅の者達の理解から隔絶」した光をヴァレーズの音楽の中に見たのだろうか。真相は分からないけれども、ヴァレーズの音楽を知るものにとっては、不思議なほどに鮮烈な印象を与える映画ではある。
 さて、1954年12月2日のシャンゼリゼ劇場に戻ろう。ここで起こったことは、いったい何だったのか。
 「春の祭典」のスキャンダルの反復?いや、この騒動は、ストラヴィンスキーのそれのような輝かしさや伝説的なオーラをまるで欠いている。そもそも、ストラヴィンスキーとヴァレーズはたった一つしか歳が違わないことに注意しなければならない。すなわち「春の祭典」の作曲家が31歳で受けた試練を、ヴァレーズは71歳で体験したのである。この違いは決定的だ。彼は、このあとほんの数作品を世に残して――その中にはきわめて重要な「ポエム・エレクトロニク」が含まれているが――世を去ることになった。

 生まれ故郷のパリで直面した、この冷やかしと怒号と支持が混ざり合ったシャンゼリゼ劇場の喧騒の中で、71歳のヴァレーズは、いったい何を思っただろうか。本連載は、あれこれと寄り道しながらも、まずはこの想念にたどり着こうとするささやかな旅である。旅は、リヨンから北に50キロほどのぼったヴィラールという小さな村から始まる。

*1 小倉重夫『ディアギレフ ロシアバレエ団の足跡』(音楽之友社、1978年)、204頁。
*2 その後、このテープ部分の音響は数度改訂されている。
*3 CD:Tahra TAH599-600
*4 ただし晩年の彼は、伝記作家のウェレットに対して「あのロシア人作曲家は単に自分の義務を果たしたに過ぎない」と述べている。Ouellette, Fernand. Edgard Varese (1966):40
*5 パウル・ザッハー財団に収められているヴァレーズ書簡のマイクロフィルムによる。
*6 ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(原基晶訳、講談社学術文庫、2014年)、498頁。
*7 あるいはヴァレーズの「エクアトリアル」で独唱が歌い始める部分が意識されているのかもしれない。

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沼野雄司(ぬまの・ゆうじ)

1965年東京生まれ。桐朋学園大学教授。東京藝術大学博士後期課程修了。博士(音楽学)。2008年から2009年にかけてハーヴァード大学客員研究員。おもに20世紀音楽に関する研究・評論を中心に活動。著書に「リゲティ、べリオ、ブーレーズ 前衛の終焉と現代音楽のゆくえ」(音楽之友社)、「光の雅歌 西村朗の音楽」(春秋社、共著)、「日本戦後音楽史 上・下」(平凡社、共著)、「楽譜を読む本」(ヤマハ・ミュージックメディア、共著)、「ファンダメンタルな楽曲分析入門」(音楽之友社、近刊)など。

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