春秋社からのお知らせ

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2019年4月5日 『龍樹『根本中頌』を読む』について 

桂紹隆/五島清隆 著『龍樹『根本中頌』を読む』の記載事項について、以下の通り訂正いたします。


[第二刷訂正箇所]
A 誤記の訂正、表記の他との統一
6頁最終行   質因 → 質料因
19頁11行目  色・・香 → 色・声・香 
25頁 6行目   両者が同一なら、 → 両者は、同一でも別異でも、
25頁 7行目   両者が別異でも、共存しない → 特に別異の場合に共存しない理由
56頁 9行目    諸仏の教え → 仏の教え
63頁13行目  業果熟す → 業果の熟す
69頁11行目    戒取 → 戒禁取
73頁11行目    結果を見るにせよ、ないにせよ、 → 結果に会うにせよ、会わないにせよ、
74頁12行目    える → 言える
79頁 4行目   消滅と同時生成はない。 → 消滅と同時に、生成はない。
105頁 3行目    流転 → 流転門 
105頁13行目  還滅 → 還滅門  
156頁 5行目    問いに対して同様 …… 整理しますと → 問いに対して同様 …… 整理すると
198頁最終行    第偈 → 第8偈
202頁 5行目    戒取 → 戒禁取
238頁 9行目  最初に検討しました代の学者たち → 既に検討しました現代の学者たち
250頁 4行目  代の学者たち → 現代の学者たち
272頁14行目   の部分 → 乙の部分
280頁14行目   「論争の排除」→「論難の排除」
361頁 7行目    梵天 → 梵天が
366頁 2行目    コンダンニャ → コンダンニャ
367頁17行目    余白に〈訳文三行目の「生滅する」の原語はflash upで「一瞬輝く」の意。〉を挿入。
380頁 3行目    観世音菩 → 観世音菩薩


B 偈頌の翻訳の改訂
第六章 11頁9-11行
(第5偈)これらを縁として結果が生じるから、これらは「条件(縁)」と伝統的に呼ばれるのである。しかし、結果が生じない限り、どうしてそれらが非条件でないことがあろうか(=それらは条件ではあり得ない。)

第七章 31頁4-5行 
(第15偈)この現に生じつつあるものは、[生起相による]生起[作用]に至らない限り、その生起[作用]を縁として、現に生じつつある、とどうして言われようか。

第七章 31頁8-11行
(第17偈)もし未だ生じていない何かがどこかに得られるとするなら、それはどうしてそこに再び生じる必要があろうか。それが既に存在するなら、どうして生じることがあろうか。
【異読による別訳】もし未だ生じていない何かがどこかに得られるなら、それが生じることもあるだろう。しかし、それが存在しないとき、一体何が生じるのか。

第七章 47頁最終行-48頁 2行
(第2偈)もしも苦が苦自身によって作られる(=自然発生的な)ものであるなら、苦が何かを縁として生じることはないだろう。[しかし、それは不合理である。]なぜなら、現在世の五蘊は過去世の五蘊を縁として生じているからである。

第十五章 57頁14-15行 
(第6偈)固有の性質(自性)と他者の性質(他性)、存在するもの(有)と存在しないもの(無)を見る人々は、仏[あるいは、諸仏]の教えの真実を見る者ではない。

第二十章 75頁12-13行
(第9偈)原因が滅するとき、その原因が転移[したもの]が結果として生じるとするなら、既に生じている原因が再び生じるということになってしまう。

第二十章 75頁16行-76頁2行
(第10偈後半・第11偈)一方、[男女に喩えれば、花婿が花嫁に選ばれる時のように](1)原因が結果に選ばれ、[原因として]存続しているとしても、どうして結果を生じさせる必要があろうか。(2)あるいは原因が結果に選ばれないなら、どんな結果を生じさせることがあろうか。(二句分別)
 実に、[まったく別々の存在である男と女のように、](1)原因が結果に会うにせよ、(2)会わないにせよ、結果を生じさせることはないのである。(二句分別) →「D 第三刷における改訂(予定)」

第二十一章 81頁 3-4頁
(第6偈)二つのものが、互いに一緒にせよ、それぞれ別々にせよ、存立することが知られない場合、一体どうして[生成と消滅の]両者が存立することが知られようか。

第二十二章 85頁2-5行
(第2偈)[[犢子部は、五蘊を因として〈ひと〉(プドガラ)は概念設定(施設)される、と言うが、]もしも仏陀が五蘊を因として存在するなら、彼は本来[固有の性質(自性)を持つものとして]存在していない[ことになる]。しかし、本来[固有の性質(自性)を持つものとして]存在していないものが、どうして[五蘊という他者を因として、]他者の性質(他性)により存在しえようか。

第二十五章 103頁5-10行
(第17偈)(1)「世尊の滅後、世尊は存在する」とは主張されないし、(2)「世尊は存在しない」(3)「[存在し、かつ、存在するという]両者である」(4)「そのいずれでもない」とも主張されない。(四句分別)
(第18偈) また、(1)「世尊がこの世におられる時、世尊は存在する」と主張されないし、(2)「世尊は存在しない」(3)「[存在し、かつ、存在するという]両者である」(4)「そのいずれでもない」とも主張されない。(四句分別)

第二十七章 110頁15-16行
(第8偈)かくして、自己は五取蘊と別でもなく、五取蘊と同じでもない。五取蘊なしに自己は存在しない。[しかし、]「自己は存在しない」という決定も[「自己は存在する」という決定も]ない。

第二十七章 111頁15-16行
(第15偈)[この世で人が功徳を積んで、天界に神として生まれる場合、]この人とその神とが同じであるなら、常住(=断滅がないこと)になる。そうすると、神は生まれることのないものになってしまうだろう。なぜなら、常住なものが生まれることはないからだ。(第十五偈)

第二十七章 113頁9-12行
(第28偈)もしその両者、有限であり、かつ無限であるものが成立するなら、「[世間は]有限でも、無限でもない」ということも、確かに成立するであろう。[しかし、それは不合理である。]
(第29偈)一切のものは空であるから、「[世間は]常住である」などの諸々の[悪しき]見解は、どこで、誰に、なぜ、どのような形で生じるだろうか。[決して生じない。]


C 「二句分別」の語や「二句分別」であることを明示する数字の欠落の補充
第一章 11頁5-最終行 
(第4偈)【龍樹】[ものを生起させる作用の観点からいえば](1)作用が条件を必要とすることも、(2)必要としないこともない。(二句分別)
 [条件の観点から言えば](1)作用を伴うにせよ、(2)伴わないにせよ、[以下述べるように]諸条件が存在することはない。(二句分別)
 …………………………………………  
(第6偈)(1)[結果である]ものが未だ存在しないにせよ、(2)既に存在するにせよ、[その生成]条件を想定するのは不合理である。(二句分別)
 (1)未だ存在しない場合、何のための条件であろうか。(2)既に存在する場合、条件が何の役に立とうか。[いずれの場合も、条件は必要ない。](二句分別)
(第7偈)(1)既に存在するにせよ、(2)未だ存在しないにせよ、(3)存在し、かつ存在しないにせよ、法が生じることはない。(三句分別)
 そのような場合、「結果を生ぜしめるもの」である因縁がどうして合理であろうか。

第一章 12頁10-12行
(第11偈)さらに、(1)諸条件のうちの個々別々の条件の中にも、(2)諸条件の総体の中にも、その結果は存在しない。(二句分別)
 諸条件の中に存在しないものが、どうしてその諸条件から生じることがありえようか。

第一章 12頁最終行-13頁3行 
(第14偈)したがって、(1)諸条件からなるものとしても、(2)諸々の非条件からなるものとしても、結果は存在しない。(二句分別)
 結果が存在しないのであるから、どうして諸条件や諸々の非条件があろうか?
 [かくして、諸法は生じることも、滅することもない。]

第二章 16頁16-17行
(第13偈)歩行行為の開始以前には、(1)現に通過しつつある地点も(2)既に通過した地点も存在しない。もし存在すれば、そこで歩きはじめることができるのだが。一方、(3)まだ通過していない地点で、どうして歩きはじめることができようか。(三句分別)

第二章 17頁10-14行
(第17偈)(1)現に通過しつつある地点でも、(2)既に通過した地点でも、(3)まだ通過していない地点でも、人が立ち止まることはない。(三句分別)
 歩行とその開始・停止とが[三時にわたって否定されるの]は、歩行行為と同じである。
(第18偈)(1)「歩行行為と歩行者とがまったく同じ」というのは不合理である。一方、(2)「歩行者が歩行行為とまったく異なる」というのも不合理である。(二句分別)

第五章 24頁5-6行
(第3偈)(1)特徴を持たないものにも、(2)持つものにも、特徴は適用されない。(3)特徴を持つものと持たないものとは違う、何か他のものに特徴が適用されることもない。(三句分別)

第六章 27頁9-11行
(第10偈)かくして、(1)欲望は欲望者と同時に成立することもないし、(2)順次に成立することもない。(二句分別)
 欲望と同様に、(1)一切法は同時に成立することもないし、(2)順次に成立することもない。(二句分別)

第七章 32頁15-16行
(第27偈)(1)まず、既に持続し終え[て滅し]たものが[再び]滅することはあり得ない。(2)一方、まだ持続したことがないものが滅することもあり得ない。(二句分別)

第十二章 47頁10-13行 
(第1偈)[苦が存在するから、苦が所属する〈ひと〉も存在する、という犢子部の反論に答える。](1)「苦は苦自身によって作られるものである」(2)「他者によって作られるものである」(3)「自他の両者によって作られるものである」(4)「無因である」などと主張する人々がいるが、苦が結果(=作られるもの)であることは不合理である。(四句分別)

第十六章 59頁13行-60頁2行
(第1偈)[何かがある生存から他の生存へと移行する輪廻がある以上、諸々のものには固有の性質(自性)がある、と対論者が主張するとき、]もしも「因果関係に制約される諸々のもの(諸行)が輪廻する」というなら、因果関係に制約されるものが、(1)常住な場合は輪廻しないし、(2)無常な場合も輪廻しない。(二句分別)

第十六章 60頁15-18行
(第6偈)もしも執着(取)とは煩悩の束縛であるなら、(1)すでに執着(取)を持つ者が煩悩によってさらに束縛されることはない。(2)執着(取)を持たない者が束縛されることもない。(二句分別) では、[有執着でも無執着でもない]いかなる状態の者が煩悩によって束縛されるのであろうか。[そんな者はあり得ない。]

第二十章 77頁最終行-78頁2行
(第24偈)結果は、(1)因と諸縁の集まりによって作られることもないし、(2)因と諸縁の集まりではないものによって作られることもない。(二句分別)
 結果なしに、どうして因と諸縁の集まりがあろうか。

第二十一章 80頁6-11行
(第1偈)[「諸々のものは特定の時間に生じたり、滅したりするので、時間は生成と消滅の条件である。ものが生じたり、滅したりする限り、時間は固有の性質(自性)を持って必ず存在する」という反論に対して、答える。](1)生じることなしに、あるいは(2)生じることと同時に、何かが滅することは、あり得ない。(二句分別)
 (1)滅することなしに、あるいは(2)滅することと同時に、何かが生じることも、あり得ない。(二句分別)

第二十一章 81頁10-11行
(第8偈)(1)存在するものは、生じることと滅することと別には、知られない。
 (2)生じることと滅することも、存在するものがなければ、知られない。(二句分別)

第二十三章 92頁2-6行
(第20偈・第21偈)(1)もし自己・清浄なもの・常住なもの・楽が[固有の性質を持って]存在するなら、「自己である」「清浄である」「常住である」「楽である」は顛倒(=謬見)ではない。
 (2)もし自己・清浄なもの・常住なもの・楽が[固有の性質を持って]存在しないなら、[その逆(顛倒)である]自己でないもの・清浄でないもの・無常なもの・苦も[固有の性質を持って]存在しない。(二句分別)

第二十三章 92頁9-12行
(第23偈・第24偈)(1)もしある人になんらかの煩悩が固有の性質(自性)を持って存在するなら、それらの煩悩をどうして捨て去ることができようか。誰が自分に固有の性質を捨て去ることがあろうか。
 (2)もしある人になんらかの煩悩が固有の性質を持って存在しないなら、それらの煩悩をどうして捨て去る必要があろうか。誰が存在しないものを捨て去ったりするだろうか。(二句分別)

第二十五章 104頁1行-3行
(第23偈)(1)何が同じであり、(2)何が異なるのか。(二句分別)
 (1)何が常住であり、(2)何が無常であろうか。(3)何が常住でも無常でもあり、(4)何がそのいずれでもないのか。(四句分別)

【解説編】
158頁3-7行
「如来が滅後存在する」、「世界は有限である」、「世界は常住である」などの見解は、それぞれ涅槃と未来世と過去世とに関わっている。一切法が空であるとき、(1)何が無限であり、(2)何が有限であろうか。(3)何が有限でも無限でもあり、(4)何が有限でも無限でもないのか。 (1)何が同じであり、(2)何が異なるのか。 (1)何が常住であり、(2)何が無常であろうか。(3)何が常住でも無常でもあり、(4)何がそのいずれでもないのか。(二五・21—23)


D 第三刷における改訂(予定)
第二十章 73頁11-12行 
20.5 原因が存続するとき、結果に選ばれても、選ばれなくても、結果に会っても、会わなくても、不合
理が生じる(第10偈後半、11偈)

第二十章 75頁16-76頁2行
(第10偈後半、第11偈)原因が存続していても、(1)[婿選びにおいて花婿が花嫁に選ばれるように]結果に選ばれた原因が、どうして結果を生じさせることがあろうか。(2)あるいは原因が結果に選ばれないなら、どんな結果を生じさせることがあろうか。(二句分別)
 実に、(1)[まったく別々の存在である男と女のように、]原因が結果に会うにせよ、(2)会わないにせよ、結果を生じさせることはないのである。(二句分別)

2019年4月5日 『大法輪』2019年5月号 小社広告 価格訂正とお詫び 


4月8日発売の雑誌『大法輪』(大法輪閣)掲載の小社広告にて『原文対照現代語訳 道元禅師全集 全17巻』の全巻セット価格が100000円(税別)のところ、10000円(税別)の表記となっております。
『大法輪』読者のみなさまには大変ご迷惑をお掛けいたしました。
訂正してお詫び申し上げます。

2019年4月5日

2018年6月6日 「春秋」休刊のお知らせ 


平素は格別のご高配を賜り、厚く御礼申し上げます。

さて、紙面にてお伝えしております通り、PR誌「春秋」は6月号(通巻599号)をもって休刊とさせていただきます。
昭和34(1959)年6月の創刊から半世紀余、長きにわたるご愛読、ご支援を賜りまして、まことにありがとうございました。
心より感謝申し上げます。

「春秋」にて掲載しておりましたPR情報および連載等の記事は、このたびリニューアルいたしました「web春秋 はるとあき」に移行することになりました。
皆様のよき読書生活の支えとなるべく、小社の新刊・既刊情報、ならびに読み応えのある論考・エッセイ等、魅力的な読み物をご提供してゆく所存です。

今後、ますますのご愛読、ご鞭撻を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。

2018年6月6日

2017年7月20日 『日本天台教学論』について 


水上文義著『日本天台教学論』の記載事項について、以下、訂正いたします。

……目次鬟據璽弧椶よび帯裏面……
(誤) 伝・民部法眼筆『元山大師画像』について
 ↓
(正) 伝・民部法眼筆『元三大師画像』について

2017年7月20日

2017年6月29日 『祈りと現世利益の仏たち』について 


2017年4月刊行『祈りと現世利益の仏たち ――別尊曼荼羅の世界』は諸般の事情により絶版となりました。

2017年6月29日

2016年5月19日 『モーツァルト 最後の四年』について 


C.ヴォルフ著(礒山 雅訳)『モーツァルト 最後の四年』の記載事項について、以下、訂正いたします。

……193頁17行目……
(誤) 《デッティンゲン・テ・デウム》(1743年)
 ↓
(正) 《デッティンゲン・アンセム》HWV265(1743年)


※第2刷では修正済です。

2016年5月19日

2016年4月27日 『君よ観るや南の島』について 


川村湊著『君よ観るや南の島――沖縄映画論』の記載事項について、以下、訂正いたします。

本文中に、原一男監督が大島渚監督作『東京战争戦後秘話』を共同監督として製作したという記載は、事実誤認でした。

深くお詫びいたします。

2016年4月27日

2013年10月18日 市原悦子著『やまんば』初版(2013年9月20日・第一刷) お買い上げのみなさま  


上記書籍に本文中、人名に3カ所の誤記がありました。訂正版(第2刷以降)とお取り替えいたしますので、お手数でも下記宛てに着払いにてお送り下さい。

なお、小社からの発送、到着には5日間ほどかかりますのでご了承下さい。


<送り先>
〒101−0021
東京都千代田区外神田2−18−6
春秋社営業部商品管理 小嶋宛
TEL(03)−3255−9611


*第二刷以降はすでに訂正済みです。

2010年4月15日 『原文対照現代語訳 道元禅師全集 〈全17巻〉』に関するお知らせ 

『原文対照現代語訳 道元禅師全集』の訳者として活躍された水野弥穂子先生が、2010年1月26日(火)に逝去されました。
つつしんでお悔やみ申しあげます。

今後水野先生が訳業を継続される予定になっておりました同全集8、9巻は、石井修道先生(同14巻「真字正法眼蔵」訳者)が先生のご遺志を引き継ぎ刊行する予定です。

今後とも変わらぬご愛顧のほど、お願い申しあげます。

2009年8月27日 「近刊案内」について 

8月11日「近刊案内」に掲載いたしました『パーリ仏教辞典 仏のことば註―パラマッタ・ジョーティカー―付篇パーリ聖典スッタ・ニパータ註索引・辞典』の記載事項について、以下のような誤りがございました。

 誤 → 正

・すっぱにぱーたちゅう → すった・にぱーたちゅう
・訳注 → 著
・サンユッタ・ニカーヤ → スッタ・ニパータ

著者ならびにホームページをご利用のみなさまには、大変ご迷惑をおかけいたしました。
深くお詫び申し上げます。

2009年8月1日 著作権者の皆様へ−「Googleブック検索」に関するご連絡 

詳細は上記タイトルリンク先をご参照下さい。
(5月29日付分を再掲載)