もう一つの“地味“な正義論
『いまこそハイエクに学べ――「戦略」としての思想史』刊行によせて

仲正昌樹
(PR誌「春秋」No.531 2011年8.9月号より転載)

 二〇一〇年はサンデル・ブームのおかげで、それまでごく少数の専門家が細々とやっていた「政治哲学」という分野が、急にポピュラーになり、書店の人文書コーナーで“政治哲学関係”の本が目立つようになった。そして、翻訳されてあっという間にベストセラーになったサンデル(一九五三― )の著書『これからの「正義」の話をしよう』(早川書房)の影響で、英米の政治哲学のメインテーマである“正義”に対する関心も拡がった。


 しかし、サンデル先生とほぼ同業者である私からすると、昨今の日本の“正義論”ブームは、二つの見当違いに基づいている。第一に、俄かサンデル・ファンのほとんどは、英語の〈justice〉と日本語の「正義」の違いを理解していないし、理解しようと努力さえしていない。日本語で「正義」と言うと、私たちはすぐに、ウルトラマンとか仮面ライダー、月光仮面のような「正義の味方」を連想する。「正義の味方」は、善の化身として悪と闘う。法律やルール、常識などに縛られることなく、苦しんでいる人を救うため、あらゆる手を尽くす。それに対して、〈justice〉は、「司法」や「裁判」と訳されることからも分かるように、「法」との結び付きが強い概念である。語源になったラテン語の〈ius〉には、「法」「正義」「権利」などの意味がある。

 英米の政治哲学で問題にされている〈justice〉というのは基本的には、予め定まっている「ルール」に適っていること、つまり「フェア=公正fair」であることを指す。社会の中には様々な価値観を持っている人たちがいるが、「正義」の基準になる「ルール」は、どの価値観の人でも受け入れることのできるような、価値中立的なものでなければならない。「法の正義」という時の「正義」のイメージに近い。強きを挫き、弱きを助けるため、ちょくちょく細かいルールを破ってしまう、「正義の味方」とは全然違う。

 第二に、コミュニタリアン(共同体主義者)であるサンデル自身は、普遍的「正義」を探求しているわけではなく、むしろ、それぞれの(文化的)共同体の中で培われる「共通善common good」を重視しているが、その肝腎なことがちゃんと理解されていない。「共通善」とは、共同体ごとの歴史、文化、ライフスタイルなどに従って形成されてくる、各個人と共同体にとっての「善(良)きことthe good」とは何かについての共通了解である。日本語の日常語だと、「正義」も「善」も同じようなものであり、強いて言えば、「正義」がヒーローっぽくて、「善」が宗教っぽいという程度の違いしかない。英米の政治哲学では、〈justice〉と〈good〉はしばしば対立する関係にある。

 アメリカのリベラルな政治哲学の集大成者であるロールズ(一九二一―二〇〇二)が、(それぞれが自分なりの幸福を追求する諸個人の相互協力の枠組みとしての)「社会」が採用すべき「正義」の諸原理について人びとの合意を取り付けることが、少なくとも理論的に可能であるという前提で議論を展開した。「自由」と「平等」を中心とする「正義」の原理は、いかなる文化的背景を持った社会でも採用され得る普遍性を持っている。それに対してサンデルは、各人のアイデンティティの基盤になる「共通善」とは独立に、「正義」の原理を採択することは不可能であり、前者を政治哲学の中心に据えるべきだと考えた。サンデルは、価値中立性を志向するリベラルな「正義」論の最も強力な批判者として、一九八〇年代に台頭した。英米の政治哲学で言われている〈justice〉と日本語のズレ、サンデルが拘り続けた「正(しい) right」と「善(い)good」の緊張関係くらいは理解していないと、「サンデル哲学」のファンとは言い難い。

 英米のリベラリズム系の政治哲学で「正義」論というと、通常は、普遍性と価値中立性を志向するロールズ流の「正義」論を指す。ロールズは、「自由」を最も基本的な「正義」の原理であるとしながらも、社会・経済的な平等も一定の範囲で達成しようとした。ただし、(個人の「自由」を犠牲にして)完全な「結果の平等」を目指す社会主義とは、一線を画そうとした。そこで彼は、「最も不遇な人の期待便益を最大化するという条件の下でのみ、社会・経済的不平等は正当化される」という「格差原理」を、正義の第二原理(の一部)として呈示した。かなり平板化した形で言い換えると、格差があることによって、例えば競争が活性化するなどして、社会全体が豊かになり、相対的に最も不遇な人も豊かになるのであれば、その格差は許容される、ということだ。

 ロールズ流の「正義」は、福祉国家に対応している、と一般的に考えられているが、福祉国家による財の再配分に反対し、財の所有を中心とする個人の自由の保障にのみ照準を合わせる正義論もある。(サンデルもたびたび言及している)リバタリアン(自由至上主義者)のそれである。七〇年代にリバタリアンの代表として「最小国家」論を展開したノージック(一九三八―二〇〇二)は、自然状態で「正義」として通用するのは、財の保有に関わる「取得の正義」、「移転の正義」、「矯正の正義」の三つだけであり、国家はそれを保障するために人びとの合意に基づいて設立されるものである以上、財の配分はその役割ではないはずだと主張した。リバタリアンにとって、本来の役割を超えて再配分を行う福祉国家は、自然状態に起因する「正義」に反している。

 そのリバタリアンの元祖あるいは先駆者とされているのが、オーストリア生まれで、英米圏で活躍した経済学者・社会哲学者ハイエク(一八九九―一九九二)である。ハイエクについては一般的に、反共の戦士として出発し、“新自由主義”のイデオローグになった、というステレオタイプなイメージがあり、そのため、知名度が高い割に、「資本」と「貨幣」の関係をめぐる独自の経済理論や、通常の自由主義とは異なる前提に立った政治哲学を展開していたことは意外と知られてない。彼に「法」理論と「正義」論があり、それが彼流の「市場」観、「個人」観と不可分の関係にあることは、少数のハイエク専門家を除いてほとんど関心がもたれていない。

 ハイエクにとって「市場」とは、異なった価値観を持ち、異なった目的を追求する諸個人が、それぞれが持っている財やサービスの「交換」を通してお互いの利益を増進することを可能にする、(小さな部族社会とは構造的に異なる)「開かれた社会」を支える「自生的秩序」である。「自生的」というのは、特定の誰かの“理性的”なデザインによって意図的に作り出されたのではなく、不特定多数の人びとの諸行為の「意図せざる帰結」として生み出されてきた、ということである。

 目的中立的な「交換」の場である「市場」は、各人に目的や価値観を共有することも、公共的事柄にコミットすることも要求しない。「市場」において必要とされるのは、「小さな社会」から「大きな社会」への集団的な「進化」の過程で、慣習と伝統を介して徐々に形成された各種の――「〜してはならない」ことを定めた――消極的かつ一般的な「振る舞いのルール」に従うことだけである。「正義」とは、各人の個別の行為が、それらの「ルール」に適っているかどうかについての基準である。「正義」に適った行為を指示してくれる「ルール」のおかげで、私たちの一人一人が「合理的経済人」というには程遠く、取引の対象について十分な知識を持っておらず、怠惰で利己的であっても、「自生的秩序」が保たれているのである。

 市場への政府の介入を否定する“市場原理主義”は、“自由放任主義”のと同一視されることが多いが、少なくともハイエクは、「市場」を維持し発展させていく上での「法の支配」の重要性を一貫して主張し続けた。その場合、「法」として主に念頭に置かれているのは、組織の法(テシス)として人為的に制定される「公法」ではなく、個人間の紛争解決のやり方を安定化させるべく、「振る舞いのルール」の一部を明文化した、ノモス(裁判官法)としての「私法」である。「社会的正義」の名の下に、恣意的な財の配分を行い、「自生的秩序」を破壊しつつある現代的な議会制民主主義を、ノモスの整備という本来の役割へと引き戻すことが、後期のハイエクの中心的な課題であった。

 今回春秋社から上梓した『いまこそハイエクに学べ』では、進化論と正義論を結合したハイエクの独特の社会理論を、「思想史」という側面な視点から読解することを試みた。こういう地味な“正義論”もあっていいのではないかと思う。


【書籍紹介】

「いまこそハイエクに学べ「戦略」としての思想史」

いまこそハイエクに学べ 〈戦略〉としての思想史
仲正昌樹
発行日:2011年8月
ISBN:978-4-393-61111-1
税込定価:2,100円

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