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〈モーツァルト生誕250年記念〉加藤浩子モーツァルト・トーク
◆「加藤浩子トーク」読者へ素敵なプレゼントが当たります!◆
第1回 男と女の機微をさりげなく、あざやかに
第2回 プレイボーイに惚れる時―《ドン・ジョヴァンニ》の3人の女たち
第3回 口説きごっこが「自分探し」に―《コジ・ファン・トゥッテ》再考(最終回)
特別編 ―2006年モーツァルト・イヤー総括! 「ドン・ジョヴァンニ」総ざらい―
オペラ演出の「伝統」とは?―インスブルック古楽音楽祭の《ドン・ジョヴァンニ》
第1回 男と女の機微をさりげなく、あざやかに

 今年は、モーツァルトの生誕250年。あまたいるクラシック音楽の作曲家のなかでも、抜群の人気を誇るモーツァルトだが、今年はいっそうヒートアップしているようだ。
 なぜモーツァルトは、そんなに人気があるのだろう。
 多くのひと、とくにふだんはクラシック音楽にあまり接していないひとは、モーツァルトが「聴きやすい」ことを理由にあげる。他のクラシック音楽の作曲家、たとえばベートーヴェンやブラームスのように、構えて聴くというイメージが、モーツァルトにはないらしい。
 たしかにモーツァルトの音楽は、旋律が美しく親しみやすく、バランスが取れていて優美。1曲の長さも、ベートーヴェンほどじゃない。ただ流していても気にならない、いわばBGM的な聴き方が許される作曲家なのだろう。
モーツァルト肖像  そんな音楽のせいだろうか、モーツァルトといえば長い間、「きれいな音楽を作った、昔の作曲家」というイメージがあったような気がする。肖像なども、かつらをつけた当時の服装のものが多いから、昔のひと、という印象がよけい強かったのかもしれない。
 そのモーツァルトのイメージを覆したのが、映画「アマデウス」だった。けたたましい笑い声をあげ、女にふざけかかる素っ頓狂な素顔・・・衝撃的といえば衝撃的だったが、あの映画がなければ、人間モーツァルトは、少なくとも一般のひとにとっては、まだまだ霧のかなたの存在だったかもしれない。
 けれど、モーツァルトの音楽をていねいに聴いてゆくと、「アマデウス」に登場するモーツァルトももっともだ、と思う。とくにオペラの音楽には、モーツァルトの鋭い人間観察の成果が、いかんなく発揮されているのだ。女性と見ればとびつかずにはいられない思春期の少年の衝動も、口説き口説かれるその過程と陥落の瞬間も、自分を捨てた男を憎みつつも忘れられない女の純情も、嫉妬に狂った恋人をなだめる女の媚態も、恋人の貞操を疑い、苦しむ男の葛藤も、夫の浮気に悩む妻の哀しみも、モーツァルトの手にかかればごく自然な、美しい、そして残酷な音楽に変貌する。ひとの心の、とくに男女の間の機微をさりげなく、そしてあざやかに掬い取る腕前にかけて、モーツァルトの右に出る作曲家はいない。
モーツァルト肖像  モーツァルトは、とても「ませた」男性であり、作曲家だった。生まれもった鋭い感受性に加え、幼いころから父に連れられて各国を回り、王侯貴族から従僕、市井のひとびとまで、さまざまな階層の人間に接したことが、彼の人間描写を豊かにしたように思われる。

 たとえば。
 〈手に手を取って〉という二重唱がある。チャーミングな旋律がとても有名なので、どこかで耳にしている確率のきわめて高い1曲だ。
 何も知らなければ、そのまま聴き流してしまうだろう。けれどこの曲が置かれた、オペラ《ドン・ジョヴァンニ》の当該の部分をよく眺めてみると、とつぜんスリリングな情景が見えてくる。〈手に手を取って〉という二重唱は、実は口説きと陥落の過程と瞬間を描いた、きわめて雄弁な音楽なのである。
フィガロの結婚第二幕 伯爵夫人、ケルビーノ、スザンナ(提供=コンツェルト・ハウス・ジャパン)  はじめに誘いをかけるのは、もちろん男のほう。「手に手を取って/あそこではいと言うのだ」。ちょっと尊大な感じがするのは、男は貴族で、相手の女は農民の娘だから。出会ったばかりの女は、当然ためらう。「どうしようか/胸が震えるわ」「行こうか、やめようか」惑いながらも、女はだんだん男に惹かれていく。というのもこの男性、なんとこれまで2000人以上の女性をものにした、いわくつきのプレイボーイなのだ。もちろん女はそんなことなど知らないが、男から発散される強烈なフェロモンを、無意識のうちに嗅ぎつけたのだろう。何度か押し問答を繰り返すうちに、次第に抵抗する力を失っていく。「もうだめだわ…」「もう自分が保てない…」。男は女の揺れをしっかり捕らえた。「さあ、行こう!」甘く、だが力強く迫る男。とうとう女は陥落する。「行きましょう!」甘い声が、甘い言葉がこだます。そして2人は、同じ旋律を声を合わせて歌うのだ。これから始まる情事の予感に身を委ねた、甘くやわらかな声で。
 この間、わずか3分21秒。なんともあざやかなお手並みではないか。口説きの場面をこれほどコンパクトに、かつ巧みに、そして美しく描いたオペラの二重唱は、まずない。
 オペラといえば、その多くは「愛」がテーマ。従って、恋人同士の男女による二重唱は、オペラの定番中の定番だ。だがその多くは、愛し合う2人の気持ちをこれでもかと告白しあうもの。口説きの二重唱もあるにはあるが、ほとんどはねっとりもっちり系。とてもこの種のさりげなさ、あざやかさは望めない。それを思うたびに、モーツァルトは何と桁違いの天才だったのだろうと、思わずにはいられなくなる。だって凡人の私たちが経験する感情の大半は、絶叫オペラに出てくるような死ぬか生きるかの世界より、モーツァルトの描く微妙で日常的なものなのだから。これこそ、国境や時代を超えた普遍的なものではないだろうか。《フィガロの結婚》や《ドン・ジョヴァンニ》のようなオペラが、250年の時を超えて未だに世界中で上演され続け、解釈されつづけているのは、そこに描かれている人物たちの感情が、今なお新鮮で、奥の深いものだからではないだろうか。昨今流行の読み替え演出(台本にある舞台の設定を離れ、時代を現代などに置き換える演出)が一番しっくり来るのも、《フィガロの結婚》のようなモーツァルトのオペラ・ブッファ(喜歌劇)なのである。
ドン・ジョヴァンニ第一幕 ドン・ジョヴァンニとツェルリーナ(提供=コンツェルト・ハウス・ジャパン)
 モーツァルト・イヤーの今年、そんなモーツァルトの魅力を、実際の音楽を聴きながら知っていただきたい。その願いがかなって、CDブック『モーツァルト 愛の名曲20選』を上梓した。上にあげたようなオペラの名曲が半分、残りの半分には、多くの方に親しんでいただけるように、おなじみの器楽の名曲を収録した。とはいっても、モーツァルトの名曲はおびただしいので、「愛」をテーマに選曲してみた。「愛」といってもいろいろある。オペラで描かれる男女の愛とは別に、楽器や旅、そして神への信頼も、愛のひとつと言えないだろうか。そのような視点での選曲である。この手のCDブックだと、CDの制作費との関係で、演奏家がおざなりであることもしばしばだが、この本に関しては演奏家にこだわった。カラヤン&ウィーン・フィル、ベーム&ウィーン・フィル、イ・ムジチ合奏団、ウラディミール・アシュケナージ、ディートリッヒ・フィッシャー=ディスカウなど、音楽ファンにはおなじみの名前ばかりだ。
 ふだんあまりクラシック音楽を聴かない方は、「演奏家の違いなんて、どうせ聴いても分からない」と思われるかもしれないが、はじめの一歩だからこそ、いいものに触れるのは大切だと私は思う。後でそれがすばらしいことだったのだと分かる時が、必ず来る。
 楽しみながらモーツァルトに近づける1冊、ぜひご高覧ください。

 
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第2回 プレイボーイに惚れる時―《ドン・ジョヴァンニ》の3人の女たち

 冒頭から私事で恐縮だが、筆者はよく、大学やカルチャーセンターの講座で、オペラの話をする。回を重ねてきて最近気づいたのは、「オペラというものは、たんにきれいな曲をつなげてできているもの」だと思っているひとが意外に多い、ということだ。
 え、だってオペラって、そういうものなんじゃないの?
 と思われた方、要注意。もちろん多くのオペラ作曲家は、耳あたりのよさを考えて音楽を作っている。けれど、オペラというものは、ひとつのストーリーを音楽で語るもの。つまりオペラの音楽は、ドラマのその場面にふさわしいように、あるいはそこで歌う人物(歌手)の心理や感情、性格をちゃんと表現できるように、作曲されているのだ。だからこそ、聴いていて引き込まれるのである。音楽がきれいだというだけで2時間つなげていたら、退屈してしまうだろう。
 前回このコラムでとりあげた、モーツァルトのオペラ《ドン・ジョヴァンニ》の二重唱、〈手に手を取って〉を思い出していただきたい。あれは男が女を口説き、陥落させるまでを描いた音楽だった。作家が文章で描写することを、オペラ作曲家は音楽で描写するのである。
 今回は、件のオペラ《ドン・ジョヴァンニ》(1787年初演)を例に、モーツァルトが描く人物描写の見事さについて、考えてみることにしよう。

 ご存知の方もいらっしゃると思うけれど、《ドン・ジョヴァンニ》は、スペインの伝説的なプレイボーイ、「ドン・ファン」を主人公にしたオペラである(「ドン・ジョヴァンニ」は「ドン・ファン」のイタリア語読み)。モーツァルトのオペラより前の17世紀には、フランスの作家モリエールが、同じ伝説に基づいた戯曲『ドン・ファン』をあらわした。モーツァルトと、オペラの台本を書いたイタリア出身の作家、ロレンツォ・ダ・ポンテは、モリエールの戯曲を大いに参考にしたという。
 モーツァルト+ダ・ポンテの描くプレイボーイ像は強烈だ。もともとの伝説は、悪人が地獄に落ちる式の勧善懲悪物語だったのだが、モリエール、そしてモーツァルト=ダ・ポンテの「ドン・ファン(=ドン・ジョヴァンニ)」は、神も地獄も恐れない。強姦まがいから人殺しまで、さんざん悪事を働いたあげく、自分が殺した相手の亡霊に、「悔い改めなければ地獄に連れて行く」と迫られてもびくともせず、本当に地獄に引きずり込まれてしまうのである。どんなに脅かされても自己の信条を変えない肝の据わり方は、悪人とはいえ痛快で潔い。
これがうちの旦那の手がけた女のカタログでございますよ「カタログの歌」(提供=コンツェルト・ハウス・ジャパン)  このドン・ファン、何よりの生きがいは女を落とすことで、これまでにものにした女性の数は2000人以上。オペラ《ドン・ジョヴァンニ》では、ドン・ジョヴァンニの従者のレポレッロが、主人を追いかけてきた女性に向かって、〈カタログの歌〉というアリアを歌い、主人の放蕩ぶりをばらす。「イタリアでは640人、ドイツでは231人、フランスでは100人、トルコでは91人、スペインではもう1003人」・・・〆て2065人!神か悪魔かという精力ぶりである。

 ところで、ここでドン・ジョヴァンニの行動パターンを明かすのが、本人ではなく従者だという点に注目して欲しい。ふつうオペラでは、主人公の行動や気持ちなどは当の本人が明かすもの。けれどドン・ジョヴァンニはそのようなタイプではない。つまりドン・ジョヴァンニという人物は、考え込んだり反省したり、自分の行動を正当化しようと注釈してみせるような男ではないのである。
 そんな彼の性格を絶妙に表現しているのが、ドン・ジョヴァンニの歌うアリア(=独唱曲)〈シャンパンの歌〉。これから盛大なパーティを開こうと意気込むドン・ジョヴァンニが、「酒を用意しろ、女を連れて来い」と威勢良く歌うアリアなのだが、これがオペラのアリアとしては何とも型破り。というのも、オペラのアリアというのは、一般的にはその人物の感情、とくに秘めた恋の想いのような、人に打ち明けにくい気持ちを吐露する場なのである。アリアを通じて、この人物はこんなことを考えているということが聴衆に伝わり、共感してもらえるというわけ。
ドン・ジョヴァンニ第一幕シャンパンの歌(提供=コンツェルト・ハウス・ジャパン)  ところがドン・ジョヴァンニは考えもしなければ悩みもしない。考える暇があったらまず動く、それがドン・ジョヴァンニという男なのだ。そんな彼のあわただしさを示すように、〈シャンパンの歌〉はプレストという急速なテンポで歌われる。これから彼が取ろうとしている行動を、さっそうとスピード感あふれる音楽で歌い上げる〈シャンパンの歌〉は、せりふと音楽の両面で、彼の行動パターンをこれ以上なく雄弁に教えてくれる、何とも雄弁なアリアなのである。
 さて、《ドン・ジョヴァンニ》というオペラは、主人公も型破りだが、彼を取り巻く女性たちも個性豊かに描かれているのがポイント。このオペラには女性が3人登場するのだが、それぞれがそれぞれのレベルでドン・ジョヴァンニに惹かれており、その感情描写が何とも絶妙なのである。
 3人のなかでおそらく一番重要な女性が、ドン・ジョヴァンニと結婚したものの3日間で捨てられて、スペインの北の端から南の端まで彼を追いかけてきたドンナ・エルヴィーラ。ドン・ジョヴァンニの従者レポレッロが主人の行いをばらす相手は、このドンナ・エルヴィーラである。ドン・ジョヴァンニの正体を知り、復讐を誓いながらも彼を諦めきれず、ちょっと優しい言葉などかけられると心を許して皆の前で笑いものにされてしまっても、彼のために神さまのお慈悲を乞う、一途な女性がエルヴィーラ。前回ご紹介したCDつきの拙著『モーツァルト 愛の名曲20選』には、彼女がドン・ジョヴァンニに対する引き裂かれた気持ちを歌うアリア、〈あの恩知らずは私を裏切り〉が収録されている。恋する女の切なさと情熱を凝縮したような、美しいアリアだ。CDに収められたアリアを聴きながら、同時進行でごらんいただけるコンパクトな解説がついているので、ご一読いただければ光栄である。
 このドンナ・エルヴィーラと組んで、ドン・ジョヴァンニに「復讐」しようと彼を追い掛け回す女性が、ドンナ・アンナ。なぜ復讐を思い立ったかというと、ドン・ジョヴァンニに夜這いをかけられ、抵抗して叫んだのに応じて出てきた父の騎士長を、ドン・ジョヴァンニに殺されてしまったから。彼女には婚約者のドン・オッターヴィオがいて、彼と2人で復讐を叫んでドン・ジョヴァンニを追うのだが、どうも今ひとつ不可解な行動を取る。というのも、ドン・オッターヴィオが結婚を迫っても、父の喪に服していることを理由になかなか応じないのである。ドン・ジョヴァンニが地獄へ落ちて復讐が遂げられ、さあそれでは結婚をとオッターヴィオが勇んでも、「気持ちが落ち着くまであと1年待って」などと言い出す始末。人によってはこのドンナ・アンナの発言を、「本当はドン・ジョヴァンニに夜這いをかけられたときに関係してしまい、妊娠の可能性があるから待ってくれといっているのではないか」と勘ぐったりもしている。けれど、筆者はこの意見には組みしない。というのも、オペラの途中で、もうひとりの女性ツェルリーナの口説きに失敗したドン・ジョヴァンニは呟くのだ。「今日はどうも、悪魔がわしの楽しみを邪魔しているようだ」。この時代のオペラは、1日のうちに物語が終始するのが決まりだったから、この発言を聞けば、ドンナ・アンナヘの夜這いが成功したとは思えない。
ドンナ・アンナに言い寄るドン・ジョヴァンニ(提供=コンツェルト・ハウス・ジャパン)  けれど、やはりドンナ・アンナはドン・ジョヴァンニのことが気になっている、と筆者も思う。第一の証拠は、ドンナ・アンナに与えられた音楽。彼女はアリアを2曲歌うのだが、どちらも形式的で規模が大きく、大げさというかやや空虚に聴こえる。2曲ともドン・オッターヴィオに向けられた歌なのだが、内容といえば父の復讐をして欲しいとか、今は結婚する気になれないからちょっと待って欲しいとか、要するにドンナ・エルヴィーラのような真情の吐露ではなく、言い訳めいたことばかりで、あまり真に迫ってこない。本心を歌っているのかどうか疑いたくなる。ドン・ジョヴァンニに惹かれていると解釈すると、この点がすっきりする(肉体関係がなくとも、男性の発散するフェロモンに惹かれてしまうことは十二分に考えられる)。ドン・ジョヴァンニに惹かれているなら、口が裂けても本心は言えない。一方で、父の仇だとジョヴァンニを憎む気持ちも否定できない。つまり彼女の内面もまた引き裂かれており、しかもそれを自分でも整理できていない状態なのではないだろうか。だから、建前めいたことばかり言うのである。ドンナ・アンナのアリアが形式的であることは、アンナのそのような心の反映なのではないだろうか。
幸せいっぱいのツェルリーナとマゼットなのだが・・・(提供=コンツェルト・ハウス・ジャパン)  第三の女性は、村娘のツェルリーナ。前回ご紹介した二重唱〈手に手を取って〉で、ドン・ジョヴァンニに口説かれる女性だ。音楽を見ればもう陥落しているのだが、ドンナ・エルヴィーラの邪魔が入り情事はおあずけとなる。その後もジョヴァンニに口説かれかかるが、一線は越えない、という設定だ。
 実はツェルリーナにも婚約者がいる。素朴な農民のマゼットがそのひと。ドン・ジョヴァンニに口説かれたのは、なんとマゼットとの結婚式の当日だった。結婚式を目前にして別の男になびきかかるだからちょっと危うい。
 奔放な行動が示すように、このツェルリーナ、3人のなかでは小悪魔度が一番高い。彼女もやはりアリアを2曲歌うが、どちらも婚約者のマゼットをなだめる歌。CDブック『モーツァルト 愛の名曲20選』に紹介したツェルリーナのアリア〈ぶってよ、マゼット〉は、ドン・ジョヴァンニとの間を疑ってすねてしまったマゼットを口説き落とす歌なのだが、これがなかなか隅におけない。「髪を引き抜いても、目をくりぬいてもいいわ」、「それでも、あなたの手にキスするわ」・・・にじり寄るようなチェロの伴奏に乗り、ひたすら下手に出るツェルリーナ。そしてマゼットが機嫌を直したと見るや、しなだれかかる。「機嫌を直して、いとしい人」「夜も昼も、楽しく過ごしましょう」・・・ツェルリーナの勝利を反射して、テンポもがぜん生き生きとする。女の手管ここにあり。モーツァルトはその一切を、音楽に乗せて軽やかに語るのである。
モーツァルトの肖像画(1782年頃 ヨーゼフ・ランゲ作)  オペラの音楽は、こんなにも雄弁なもの。ぜひ『モーツァルト 愛の名曲20選』を手に取り、目と耳の両方でお確かめいただきたい。

 
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第3回 口説きごっこが「自分探し」にー《コジ・ファン・トゥッテ》再考

 モーツァルトのオペラのなかで、《コジ・ファン・トゥッテ》(1790年初演)ほど、納得できないストーリーはないらしい。
《コジ・ファン・トゥッテ》 より (提供=コンツェルト・ハウス・ジャパン)  あらすじはいたって簡単。ナポリに暮らすお嬢様姉妹は、互いが親友同士の士官の恋人を持っている。世間知らずの青年士官たちが、自分の恋人ほど貞節な女はいないと浮かれているところへ割り込んだのが、自称老哲学者。本当に女が貞節かどうか試してみろと、変装して互いの恋人を口説きあうゲームを提案、青年たちはつい乗ってしまう。だがなびかないはずの女たちは、意外にもあっさり陥落。絶望し憤慨する男たちに、老哲学者はさとす。「女はみんなこうしたもの(=コジ・ファン・トゥッテ cosi fan tutte)」、許して結婚してやりなさい、と。そして2組は元の鞘に納まりハッピーエンド・・・。
 ンな馬鹿な、ハッピーエンドのわけないじゃないか。・・・《コジ・ファン・トゥッテ》を観たひとの多くは、実はそう思う。ちっとも合点がいかないのだ。「冗談じゃないですよ、ぜったい許せない」と激怒した男性もいたし、のどに何かつかえたような顔をしていたマダムもいた。「女を馬鹿にしている」と憤慨した女性もいたし、「男としても不愉快」としかめ面をしたイケメンもいた。「男女を逆にして、女が変装して男を口説く話にしたらいいかと思うけれど、当たり前すぎて面白くないかも」と、大胆な?提案をしたカルチャーミセスもいましたっけ。シンプルで分かりやすいのに、評判の悪いストーリーなのである。
 ちなみに一番多い反応は、「ばかばかしい、ありえない」というもの。「変装が見破れないなんておかしい」とか、「1日のうちに心変わりしてしまうなんて非現実的」(《コジ・ファン・トゥッテ》は、1日のうちにストーリーが終わる設定になっている)だというのだ。
 もっともな話で、筆者もその点には同感である。ただ知っておいていただきたいのは、当時のオペラは、ストーリーが一昼夜のうちに終わることが前提になっていた、ということ。これはフランスの古典演劇の決まりなのだが、オペラにも適用されていた。また「変装」については、とくに喜劇的な作品には、一度は必ず登場するアイテムだった。モーツァルトの喜劇オペラの名作、《フィガロの結婚》にも《ドン・ジョヴァンニ》にも、「変装」の場面が効果的にはさまれている。機会があったらお確かめいただきたい。
フィガロの結婚第2幕フィナーレ(提供=コンツェルト・ハウス・ジャパン)  というわけで、現代の私たちには奇妙に感じられる設定も、当時としてはいわば暗黙の了解事項だった。そのことを知ると、ありっこないように思えるストーリー運びも、がぜん現実味を帯びてくる。
 たとえば心変わりをするのも、1日のうちだからおかしいと感じるのではないだろうか。これが3ヶ月のスパンだったらどうだろう。恋人が長期出張で、3ヶ月の間音沙汰がなく、一方で好みの男性に連日、電話やメールで口説かれに口説かれ続けたら?陥落しないほうが少数派なのではないだろうか。好きなひとに放っておかれる寂しさは、女性なら理解できるだろう。そしてこのようなことは、程度は違え今でも、そして誰でも日常的に経験していることではないだろうか。男性はいったん関係が安定すると安心してしまうことがままあるが、女性は安定してもかまって欲しい欲求がある。その心のすれ違いをうんと拡大したら、《コジ・ファン・トゥッテ》になりうるのではないだろうか・・・。
 以上のようなあれこれを考える人は、大勢いるらしい。とくに演出を担当するとなれば、当然ながら自分なりの解決法を探そうとする。その結果筆者は、ここ10年来、台本通りのハッピーエンドに演出された《コジ・ファン・トゥッテ》を観たことがない。2組4人が、それぞれてんでんばらばらに勝手な方向を向いてすねてしまったり、姉妹が手を取って出て行ってしまったり、黙りこくって座る4人の上に、冷え冷えとした関係を象徴するように雪が降り注いだりと、まさに百花繚乱。《コジ・ファン・トゥッテ》くらい、結末の演出が楽しみなオペラは近年ない。
《コジ・ファン・トゥッテ》1790年の初演プログラム  最近印象に残っているのは、コルネリア・レープシュレーガーという女流演出家が演出を担当した、新国立劇場のプロダクションである。2組は元の鞘に納まらず、口説き口説かれしたうちの1組が、そのままカップルになる。他の1組は成立しないまま・・・。最初は度肝を抜かれたが、数分後にはたと気づいた。これはひょっとしたら、モーツァルトの音楽に潜在する可能性のひとつを、明らかにしてみせただけではないだろうか、と。
 そう、《コジ・ファン・トゥッテ》の音楽には、この1組を成立させうる要素がひそんでいるのである。

 以前この連載で、モーツァルトは人間の心理や性格を音楽で描写する天才だということを書いたが、当然ながら《コジ・ファン・トゥッテ》も例外ではない。
モーツァルト肖像画(作者不詳)  たとえばヒロインの姉妹だが、同じ姉妹でも姉のほうは真面目でお堅く、妹のほうはより浮気っぽい、軽い性格設定になっている。そんな2人の性格は、それぞれのせりふにもだけれど、音楽によりいっそう反映されている。姉の歌うアリアは、スケールが大きく、装飾などもいっぱい散りばめられた、堂々とした、大上段に振りかぶったような真面目なアリア。それに対して妹のアリアは、もっと軽めで規模も小さく、装飾はたくさんあるもののうわついて聴こえる。落ち着きのない性格が伝わってくるような、ざわざわしたアリアなのである。
 口説かれる時の音楽も、2人はかなり違う。先に陥落する妹は、変装した姉の恋人が口説く前から同意モード。というのも、2人が歌う口説きの二重唱では、最初から2人が似たような旋律を歌うのだ。冒頭を聴いただけで、2人とも「その気」なのが分かってしまう、実に分かりやすい曲なのである。
 対して真面目な姉のほうは、最後の最後まで抵抗する。いや心はすでに陥落しているのだが、それでも抵抗を試みるのである。この姉と、変装した妹の恋人が歌う口説きの二重唱は、妹たちのそれよりはるかに大きく、緊迫感をたたえている。2人は最初、まったく違う旋律を歌って曲を始める。調性も違うので、2人の気持ちがまだ遠いことが感じ取れる。だが徐々に気持ちが接近してくると、2人は同じ旋律の断片を交互に歌うようになり、そしてついに合意に達すると、同じ旋律を一緒に歌い始めるのである。すったもんだがあった分、気持ちがひとつになった時の美しさ、充実感はすばらしい。新国立劇場のプロダクションでは、このカップルが最後に成立していたのだが、これだけの葛藤を経たのだから、結びつきが固くとも当然かもしれないのだ。
 もうひとつ。前に姉のほうが妹より真面目と書いたが、姉を口説いた妹の恋人も、実は妹を口説いた姉の恋人より真面目な性分なのである。2人の男性の性格は、各人のアリアにも反映されており、姉の恋人は女性を皮肉るようなシニカルで軽妙なアリアを歌うが、妹の恋人はロマンチストで、恋人を愛する幸せを朗々と歌ったりする。つまり性格的にはもともとのカップルより、口説き口説かれて成立したカップルの方が、近いといえば近いのである。しかも姉と妹の恋人は純粋で、一度好きになったら長続きしそうなカップルなのだ。口説きゲームの結果、この2人は自分にふさわしい人に出会ってしまった。遊び心から始まった出来事が、自分探しの旅に変貌してしまったのである。新国立劇場のプロダクションが暗示したかったことは、おそらくそういうことだったのだろう。それもこれも、モーツァルトの音楽がそれだけ多様な解釈を許してくれるためなのである。これからも当分、《コジ・ファン・トゥッテ》の上演から、目が離せそうにない。
モーツアルト最後のポートレート(1789年D.シュトゥック画)
 この連載でご紹介している拙著、CDブック『モーツァルト 愛の名曲20選』には、姉が陥落する口説きの二重唱、〈私はまもなく恋人の〉が収録されている。第1回でご紹介した口説きの二重唱〈手に手を取って〉は、より軽い男女による、恋愛遊戯を思わせる二重唱だけれど、〈私はまもなく恋人の〉は、シリアスな分美しく、劇的な二重唱。同じ口説きを描いても、男女の性格でここまで変わる。ぜひ『モーツァルト 愛の名曲20選』でお確かめあれ。

 
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特別編 ―2006年モーツァルト・イヤー総括! 「ドン・ジョヴァンニ」総ざらい― オペラ演出の「伝統」とは?ーインスブルック古楽音楽祭の《ドン・ジョヴァンニ》

 モーツァルト・イヤーの今年、筆者が一番多く聴いた(観た)オペラは《ドン・ジョヴァンニ》だった。1月にプラハ国立歌劇場の来日公演に接したのを皮切りに、国内で3回、海外で3回、都合6回の《ドン・ジョヴァンニ》を楽しんだ。歌手やオーケストラがそれぞれ違うのはもちろんだが、今オペラの世界で注目されている「演出」をさまざま体験できたのも、実に興味深かった。
 国内で観た3回のうち、日本人メンバーによる公演は9月の「錦織健 プロデュースオペラ」のみで、あとは前述のプラハと、6月に来日したメトロポリタン歌劇場の公演。いずれも演出、歌唱ともにオーソドックスで、3公演のなかではスター歌手をずらりと並べたメトロポリタン歌劇場の公演が一等頭を抜いていたのは、高額のチケット代も考えれば当然だといえよう。
 しかし面白さで言えば、海外で体験した3回のほうが圧倒的だった。「演出の時代」そのものという公演に接したこともだが、一方でそのような演出至上主義、さらには演出家の解釈至上主義に対し、いわば原点を踏まえたとでもいうべき新鮮な公演に出会うこともできたのである。
 
 オペラの演出の分岐点は、作品それ自体、つまり作曲家のメッセージを体現しようと迫るか、演出家が自分の解釈を押し通してしまうかにある。時代を現代に置き換えるのは、とくにドイツ語圏では当たり前のようになっているが、さらに踏み込んで演出家の解釈で作品を読み替えてしまうことも、当然のように行われている。このような場合、時として意味不明の行為が舞台上で繰り広げられることになり、あれは何だったのかと考えているうちに音楽がどこかへ行ってしまい、苦い思いを味わうことになる。
2006年ザルツブルグ音楽祭「ドン・ジョヴァンニ」より(1) Photo Hans Jorg Michel  演出家の解釈を一方的に押し付けられる羽目になったのは、ザルツブルク音楽祭で接した《ドン・ジョヴァンニ》(マルティン・クシェイ演出)である。クシェイの演出では、主人公のドン・ジョヴァンニと従者のレポレッロがならず者仲間のように描かれており、無頼なことはむしろレポレッロの方が上手で、最後にドン・ジョヴァンニが地獄に落ちる場面では、何とレポレッロがドン・ジョヴァンニを殺してしまうのである。
 首を傾げながら観ていたのだが、この地獄落ち=殺人の場面に来てはたと気づいた。ここでは2人がまるで同性愛のように描かれているのだ。レポレッロは、分身のドン・ジョヴァンニが他人の手にかかるのが耐えられず、自分で手にかけてしまう、ということらしい。
2006年ザルツブルグ音楽祭「ドン・ジョヴァンニ」より(2) Photo Hans Jorg Michel  それ以外にも、ドン・ジョヴァンニと関係した女性たちの象徴なのか、下着姿の女性がぞろぞろと現われたり、しかも場面によってはかなり高齢のご婦人たちが登場する(合唱団員だというが、どう考えても本人たちの意志ではなさそうだった)。蛍光灯のような照明を多用したりと、およそ美しいとは思えない光景が繰り広げられる。
 モーツァルトの音楽は、比較的読み替え演出を受け入れやすいと筆者は思うが、それにしても限度というものはある。少なくとも、主人公が同性愛者なのかなどと考えながらオペラを観るのは、楽しいことではない。

 原因はまったく異なるが、10月にミラノのスカラ座で観た《ドン・ジョヴァンニ》も期待外れだった。ミラノのスカラ座といえば、イタリア・オペラの総本山である。《ドン・ジョヴァンニ》の上演に関しても、長い歴史がある。当然のことながら、ほとんどはいわゆるクラシックな(19世紀風の)演出だ。
2006年ザルツブルグ音楽祭「ドン・ジョヴァンニ」より(3) Photo Hans Jorg Michel  ただし今回は、ドイツ人で、ベルリンで活躍しているペーター・ムスバッハが演出することは承知していたので、ドイツ風の《ドン・ジョヴァンニ》になるのだろうと覚悟はしていた。幕があがると、果たしてドイツでよく見る、モノトーンをベースにした無機質な世界が広がっていた。舞台のまんなかに大きな黒いパネルがあり、それが回転したり開閉したりして、場面を転換するのである。演技付けもドイツ式に、舞台俳優よろしく細かくしつこかった。たとえば冒頭では、ドンナ・アンナがドン・ジョヴァンニを逃がすまいとばかりに馬乗り(!)になったり、ドンナ・エルヴィーラがバイクに乗って登場したりと、ベルリンやザルツブルクで見たような場面が続いた。プログラムをよくよく見て、ようやく腑に落ちた。このプロダクションは、ムスバッハが監督をつとめるベルリンの国立歌劇場との共同制作だったのだ。つまりベルリンで上演された舞台を、そのままミラノに持ってきたというわけなのだった。
 劇場の財政事情の厳しさを考えれば、単独で制作するよりも、数箇所の劇場が共同でひとつのプロダクションを作る「共同制作」がさかんになるのも無理はない。だが、ミラノでもベルリンでも同じプロダクションに接しなければならないとしたら、劇場のカラーは失われてしまうだろう。

 さまざま考えさせられたなかで、とびきり新鮮でそして納得がいったのは、インスブルック古楽音楽祭で接した《ドン・ジョヴァンニ》だった。古楽の大家として知られるルネ・ヤーコプス(カウンターテノール歌手兼指揮者)が音楽監督をつとめる音楽祭で、古楽オーケストラを起用して例年はバロック時代のオペラを上演しているのだが、モーツァルト・イヤーとあって、初めてモーツァルト作品に取り組んだのである。そのアプローチは、まず音楽的には初演当時の姿を再現すること。《ドン・ジョヴァンニ》というオペラは、プラハで初演(1787年)され、その1年後にウィーンで初めて上演されたが、このウィーン初演版はプラハで上演された版と多少違う。というのは、これは当時としては当たり前のことなのだが、作曲家は上演される劇場の出演者、とくに歌手に応じて、曲を削ったり付け加えたりしていたからである。だからプラハ版にはないアリアがウィーン版にあったり、その逆もある。ふだん私たちが接している《ドン・ジョヴァンニ》は、双方のいいところを取った混合版なのである。
インスブルック古楽音楽祭会場全景  ヤーコプスは今回、プラハ初演版とウィーン初演版をそれぞれ3回ずつ上演した。筆者はウィーン初演版による上演を観たが、混合版ではふつう省かれる、第2幕にあるレポレッロとツェルリーナのコミカルな二重唱を、初めて生で聴くことができたのは収穫だった。また今回の上演では、歌手も演奏者も即興を多用していたが、これもヤーコプスによれば当時の劇場では当たり前のことで、だから同じ演目でも毎回音楽が少しずつ異なり、観客はそれを了解した上で同じ演目に何度も足を運んでいたという。だから今回も、6回すべての公演を観ることができたら、6通りの《ドン・ジョヴァンニ》が味わえたかもしれなかった。オーケストラはオリジナル楽器のオーケストラ(フライブルク・バロックオーケストラ)だったが、通奏低音楽器として、通常用いられるチェンバロではなく、ハンマークラヴィーアが用いられていたのも新鮮だった(本来はおそらくこちらの方が適切だろう)。
インスブルック古楽音楽祭会場  注目すべきは歌手の配役で、主役のドン・ジョヴァンニには、北欧出身の26歳の新人歌手が抜擢されていたが、これにももっともな理由があり、ヤーコプスによればドン・ジョヴァンニという役は、スコアにわざわざ「若い騎士」と指定されており、モーツァルトのオペラの台本で、わざわざ「若い」と断った役柄はほかにないという。また従者のレポレッロ役には、ちょうどドン・ジョヴァンニの父親のような年配の歌手が配されていたが、これもヤーコプスによれば、レポレッロは現実を顧みないドン・ジョヴァンニを現実世界に引き戻す、つまりは父親のような役割だから。作品を生かす姿勢から考えられたとても納得のいくキャスティングで、名前の通ったスターを並べて目を引くメトロポリタンやザルツブルクの配役より、はるかに説得力に富んでいた。「伝統的」とは、実はこういうことなのではないだろうか。演出にしても、私たちが思い込んでいる「伝統的」な演出というものは、実は19世紀の産物なのである。18世紀までは、オペラの舞台は台本に指定された通りではなく、上演される時代にそれこそ置き換え=読み替えて、作られていたのだ。
 ちなみに、インスブルックで演出を担当したのは、ヴァンサン・ブッサールというフランス出身の若い演出家。現代風でありながらちょっと伝統めいた香りも加えたしゃれた演出だった。はっとさせられたのは、開幕前にドン・ジョヴァンニと本当は関係していたのではないかといつも取りざたされ、ザルツブルクやスカラ座でもそのように演出されていたドンナ・アンナについて、ブッサールは、「ドンナ・アンナが婚約者に結婚を1年延ばして欲しいというのは妊娠しているからだ、などと主張するひとは、当時の習慣を知らない」「当時は、両親のどちらかが亡くなれば、1年くらい喪に服するのは当然だった」と説明している。ブッサールの創造したドンナ・アンナは、箱入り娘で自己主張のないお嬢さんだったが、18世紀のブルジョワの娘と考えればそのほうがはるかに自然。少なくとも筆者には、馬乗りになってドン・ジョヴァンニを逃がすまいとするドイツ流の強引なアンナより、はるかにエレガントで説得力があったのである。

 
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著者プロフィール

加藤浩子(かとう ひろこ)
東京都出身。慶応義塾大学大学院修了(音楽学専攻)。在学中、オーストリア政府給費留学生としてオーストリア、インスブルック大学に留学。大学講師、音楽物書き。オペラ、とくにモーツァルトとヴェルディのオペラ、そしてバッハをはじめとする古楽をこよなく愛し、執筆活動のほか音楽ツアーの企画同行も行う。著書に『今夜はオペラ!』(春秋社)、『バッハへの旅』『黄金の翼 ジュゼッペ・ヴェルディ』(以上、東京書籍)、『さわりで覚えるオペラの名曲20選』『さわりで覚えるバッハの名曲25選』『人生の午後に生きがいを奏でる家』(以上中経出版)。共著に鈴木雅明氏との『バッハからの贈りもの』(春秋社)他、多数。
ホームページアドレス:http://www.casa-hiroko.com
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2006-09-08T14:35:00+09:00