建築探検家はこうして誕生した!

『TOKYO 一坪遺産』で、路上に存在する極小空間の魅力をつたえてくれた、坂口恭平さん。
およそチャーミングとはいいがたい雑然とした東京も、若き「建築探検家」にかかれば、宝島と化す。
あたらしい世界への扉をみつけだすこの嗅覚は、一体どのようにして養われたのか? その意外なルーツとは?
『TOKYO 一坪遺産』ファンにおくる、ウェブでしか読めないとっておきエピソード!

書籍情報

TOKYO 一坪遺産

TOKYO 一坪遺産

坂口恭平 著

四六判 200頁 発行日:2009年6月 ISBN:978-4-393-33296-2 税込定価:1,680円

猫の額ほどの家に高い家賃を払う私達。一方、ビルや公共建築は今日も建ち続ける…これって何だか変じゃないか?
けれど、そんなことはどこ吹く風、狭い日本で自分の理想宮をつくりあげる達人たちが路上にいた!
宝くじ売場。駅前の靴磨き屋。アングラ蚤の市…。コンパクトながらも芸術的な空間を建築探検家が体当たり取材。見慣れた景色ががらっと変わって見えるユニークな探訪記。

詳細はこちら買い物かごに入れるKinokuniya BookWeb

祖父の車庫、またの名は僕の遊び場 文・絵 坂口恭平

祖父の家 1988年頃 熊本市河内

 祖父の家は、熊本県の河内というところにある。蜜柑の生産地で、家の庭にもネーブルや八朔(はっさく)などの木が植わっていた。特に変わったところも無い平凡な平家であった。

 しかし、この家には変な形の五段ぐらいの階段があり、階段を登った先にはドアがあり、開けると小さな小部屋があった。いわゆる中二階というものであろう。それは母の二人の弟である、アキちゃんとノリちゃんが学生時代使っていた子供部屋で、特別に大工さんに言って改築してもらったのだそうだ。部屋の天井には、ビートルズや『アニー・ホール』のポスターやモハメド・アリの新聞切り抜きなどが貼られており、叔父さん二人が使っていた当時の雰囲気がまだ充満していた。

 子供ながらにそこへ行くとなんだか楽しいわけである。秘密の隠れ家のような雰囲気で、こんな空間を自分も手にしてみたいなと憧れていた。改築して作られた簡易な部屋であったからこそ、窓も変則的で小さい形をしていたり、部屋がまわりの形状に合わせて少し曲がっていたりしており、まるでどこかから部屋が飛んできて、平屋の家に偶然突き刺さってしまったような空間だったが、逆にそれが僕にとってはお気に入りだった。

 さらに、居間とその秘密基地的な部屋を繋ぐ、ほんの数段しかない手作りの階段が、またこちらの創作意欲をくすぐるものであった。当時僕が住んでいたのは二階などない社宅。この祖父の家も本来は平屋なので階段がないはずなのに、不思議なことに階段が存在している。異空間に憧れていた僕はとても興奮したのである。ちょうど雛壇のようになっていた。そこを登ると秘密基地。基地に向かう途中、その階段に座ることもできる。そうやって少し上から眺めた居間は、ただの「おじいちゃんの家」ではなく未知の風景に見えるのであった。

 この唐突な中二階は、何とも形容ができない中途半端な部屋であったからこそ、僕にはとても広がりのある空間に感じられた。居間にいるときは退屈なのだが、階段を登り、中二階に入るとそこは一瞬にして近未来の世界にいるような感覚になれた。退屈な現実の世界とSF世界。この二つの相反する性質が、同居している家だった。

 さらに祖父の家には、もう一つ変な空間があった。それは車庫だ。家の横に屋根付きの車庫があったのだが、それが異常に大きかった。

 なぜならば、祖父は昔、蜜柑を運ぶ運送会社を立ち上げ大成功を収め、大きなトラックを所有していたからである。僕が産まれた時にはもうその仕事はやめており、トラックも無かったのだが、その車庫だけは自家用車のために現役で使われていたのだ。

 しかし、それは普通の家にあるような車庫とは全く違う代物で、とにかく古く黒ずんでいて、大きな丸太を使って建てられており、なにしろ大きかった。天井高は二階建ての建物ぐらいあったと思う。僕は後日、飛行機の格納庫みたいなものを映画で見た時に、
「ああ、あのおじいちゃんの車庫みたいだな」
 と思ったぐらいである。地面はアスファルトではなく、土の三和土(たたき)であった。手作り感満載の木造の建物は薄暗く、ひんやりとしていて、土と埃の臭いがして、僕にとっては不思議と落ち着く場所だった。壁には工具や、大工道具、釣り具などがたくさん陳列されていて、ガレージのような雰囲気も醸し出していた。祖父の持っているものはどれも年季が入っていて、それが子供である僕には古臭く感じるのではなく、新品のオモチャなんかよりもずっと興味深いものだった。僕はとにかく大人が車で外出するのを心待ちにしていた。なぜなら車がいなくなると、そこは自分にとっての自家用ジェット用格納庫付きアジトと化すからである。その秘密を友人に伝えたいし、一緒に遊びたいのだけど、祖父の家だから僕と弟だけしか味わえない。そのことがさらに自分が特別な空間を体験しているのだという高揚感をもたらした。

 高い天井にある梁から二本のロープが垂れ下がっていて、それを下ろすと、なんと車庫は一瞬にしてブランコができる空間へと早変わりする。このブランコも完全に手作りだった。そこにはハンモックすらあった。僕はそこが車庫だとは、その当時は思っていなかった。逆に車が、大事なアジトを邪魔しているような感覚であった。

 祖父の家は、僕よりも一歩先を行っていた。僕は、かつて弟妹とつかっていた狭い子ども部屋に、自分だけの「家」を作るために、学習机を利用した「コクピット」を作った(『TOKYO 一坪遺産』3頁参照)。だが、祖父の家では実際に中二階を作っているし、車庫のスケールはデカイし、さらにはブランコやハンモックまで完備されている。完敗である。祖父をそういう意味で尊敬していた。彼は自分が欲しいと思うものを、必要な空間を自分で作る。型になんかはまらず、どこかの既製品に頼るのでもなく、自分で作っていた。それは憧れの大人の姿であった。

 他の大人は、駐車場は駐車場としか思わないが、祖父は違うのである。僕は祖父からそのことを身を以て教わったような気がする。駐車場にもなればブランコにもなり、道具置き場にもなるし、子供も遊べる。大人が「車を止める時はどっかへ行きなさい」と言えば、僕は車に占領されていない隙間で隠れて遊んでいた。この空間ではどうやっても遊べるのである。それは祖父の性格、生き方をそのまま立体化、空間化したような場所だったのだ。何も気にすることはない。その場に合わせて自分なりに工夫して遊ぶのが一番楽しい。それを僕は車庫で自然と学んでいた。

 何も新しく作らなくていいのだ。今、目の前にある空間を何も変えずに、どうやって自分が満足できるかを工夫を凝らして探求する。よく考えると、あらゆる時に僕はそういうふうにして空間と接してきたような気がする。大きな子供部屋が欲しいなんて欲望は全く無いくせに、より大きい空間を感じたいという欲求は人一倍強いのである。小さくて色んな遊び方ができる空間を求めていた。そして、この祖父の家はまさにその横綱だったのだ。

机の家(近未来コックピット妄想バージョン)

 他にも興味深い空間がこの家にはあった。

 たとえば、勝手口に行くためには洞窟のような通路を通る必要があった。この洞窟がまた雰囲気抜群なのである。この洞窟は、前述した中二階のおかげでできたものであった。つまり、その中二階は唐突に作られたものなので、家から飛び出したように、家の裏に迫っている岩石にまで到達しており、それらに囲まれて一つの洞窟のような路地ができあがっていた。

 一つ不安定な空間が生まれると、その外側にもまた予想外の空間ができあがる。そういったところは大人には収納場所に見えるようで、その洞窟には色んなものが置かれていた。すると、また空間が蠢き出す。そうやって、生活の中から凸凹が湧き水のごとく終わりなく生まれ、また次の空間を生み出すのである。それは大人にとっては収納場所。でも、子供にとっては捻れの空間に見える。そこから冒険が始まりそうな予感がするのだ。

 また、車庫に停まっていた車もよかった。フォルクス・ワーゲン。蜜柑色である。外国のオレンジ色じゃなかった。濃いが風合いのある日本の蜜柑の色をしていた。ノリちゃんに聞いたら祖父が「蜜柑の色にして」と近所の塗装屋にお願いしたらしい。一工夫されたものというのは、やはり記憶に残る。

 蜜柑ワーゲンは内装も抜群だった。皮のハンドルに、むき出しのカセットプレイヤー。どう考えても、「自分でどうにか付けてみました」的な無理矢理な接続。赤や緑の配線が無数に飛び出していて、その荒々しいローテクのカセットプレイヤーが特に僕は好きだった。

 そこに入れるカセットテープは、もちろん都はるみだった。田んぼ仕事もしていた祖父は農家コスチュームに身を包み、車内でも麦わら帽をかぶり、サングラスをかけ、演歌をガンガンかけながら、ワーゲンに乗っていたのである。ワーゲンにさっそうと乗る姿は僕が大人になってからも記憶が薄れることがなかった。

 彼は、常に相反するものを同時に存在させる手法が得意だった。カッコイイワーゲンと、蜜柑色。革のハンドルに、農家ルック。むき出しのカセットプレイヤーからは演歌。なんだか祖父が運転していると、車ですら手作りの発明品のように僕には感じられた。面白くて仕方がなかった。

 今は亡き祖父は非常に変わった人だったようで、終戦直後、映画俳優を目指し、上京し、早稲田の学生寮に忍び込んで、俳優養成学校みたいなものに通っていたらしい。少し斜めを向いた笑顔のプロマイド写真のようなものも見せてもらったことがある。

 他にも米兵と一緒に、ハーレーダビットソンに股がっていたり、草むらの中でギターを抱えていたりと、どう考えても終戦直後には見えない現代性を持っていた。六年生の僕にギターをくれたのも祖父だった。

 教えてくれた弾き方が今でも忘れられない。ギターの弦六本全てを使わない。というか、弦が四本切れていたので、のこりの六弦と五弦だけでチューニングする方法を教えてくれたのだ。「その二本だけでドレミファソラシドが弾けるから、それで何とかやってみろ」と自ら弾いて教えてくれた。何をやるにも独自の方法なのである。弦なんか切れてしまっても何の問題も無いのだ、と始めから教わってしまったのだ。

 そのおかげ(?)か、僕はその後もずっとギターを弾くことになるのだが、本当に二本の弦だけで演奏するようになってしまった。なんと二十代の頃はそれでライブなどもやっていました。もちろんその独創性はほとんど理解はされませんでしたが。

 祖父は二〇〇一年に亡くなってしまったのだが、彼の思考は今でも僕に可能性を感じさせ続けている。格納庫風車庫に停まっている都はるみの鳴る蜜柑色のフォルクスワーゲンに、農家ルックの祖父と一緒に乗った体験は、今でも立体的に肌で感じられるように記憶しているのである。あれは全てが充足していた空間だった。

 僕はあの場所を求めているのではないか、そう思うことがたまにある。

著者紹介

坂口 恭平

坂口 恭平  さかぐち きょうへい

1978年、熊本県生まれ。2001年、早稲田大学理工学部建築学科卒業。大学在学中から、大規模な現代建築を設計する建築家に疑問を持ち、人が本来生きるための建築は何かを模索し続けている。主な肩書は、建築探検家、アーティストだが、ほかにも絵描き、コラムニスト、ミュージシャンの顔をもつ。著書に、隅田川の路上生活者の家を取材した『Tokyo 0円ハウス 0円生活』(大和書房)、小説『隅田川のエジソン』 (青山出版社)がある。

著者ウェブサイト:http://www.0yenhouse.com/